【戦い・事件編】富士川の戦い――石橋山で大敗した頼朝、平家追討軍と本格的な初戦

戦い・事件

第109回

治承4年(1180年)10月20日の夜、駿河国を流れる富士川の西岸に平氏の追討軍がいた。

大将は平維盛。前年に亡くなった平重盛の嫡男で、数え23歳になる。

平忠度、平知度ら一門の武将が従い、軍勢の実務を伊藤忠清が担っていた。

東には源頼朝が迫っている。さらに富士川周辺には、武田信義をはじめとする甲斐源氏が兵を展開していた。

夜半、武田信義の軍勢が動き始めた。

平氏軍の背後へ回ろうとしたところ、富士沼にいた水鳥が一斉に飛び立つ。

静かな夜に無数の羽音が広がり、平氏の陣が騒ぎ始めた。

やがて追討軍は陣を捨て、西へ退いていった。

『平家物語』で名高い富士川の戦いである。

平氏軍はここまで、京都からおよそ3週間かけて東海道を進んできた。

その軍勢が大規模な決戦を迎える前に撤退した背景には、富士川へ着くまでの東国の変化があった。

始まりは、約2か月前の石橋山にある。

石橋山から安房へ――頼朝が東国を北上する

8月23日、源頼朝は石橋山で大庭景親の軍に敗れた。

『吾妻鏡』が記す頼朝方は300余騎。大庭方は3000余騎に達した。

敗れた頼朝は土肥実平らと箱根山中へ入り、8月28日に真鶴から船を出す。相模湾を渡って向かった先が安房国だった。

ここから頼朝は房総半島を北へ進んだ。

安房では三浦義澄らと合流し、下総の千葉常胤、上総の上総広常も兵を率いて加わる。

武蔵へ入るころには、石橋山で敵方にいた畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも頼朝に従った。

『吾妻鏡』の兵数には誇張が含まれると考えられているものの、9月29日条には2万7000余騎、10月2日条には3万余騎と記される。

各地の有力武士が、それぞれ一族や従者を連れて頼朝の陣営へ入っていた。

10月6日、頼朝は鎌倉へ到着する。

石橋山の敗戦から44日が過ぎていた。

京都から平維盛が東国へ向かう

頼朝の挙兵を受け、平氏も追討軍を編成した。

大将に選ばれた平維盛は、平清盛の嫡孫にあたる。

父の重盛は清盛の嫡男として平氏政権を支えた人物であり、その重盛亡きあと、維盛は一門の若い世代を代表する立場にいた。

『平家物語』では、維盛軍は出発時に3万余騎、東海道を進むうちに7万余騎へ膨らんだと描かれる。

同時代の日記から見える軍勢はかなり違う。

九条兼実の『玉葉』に届いた情報では、富士川まで来た平氏軍は4000余騎だった。

正確な実数は決められないものの、軍記物語に登場する「7万騎」をそのまま実兵力として扱うことはできない。

追討軍が京都を出たのは9月29日。

東海道を東へ進み、10月16日には駿河国高橋宿付近まで来た。

そこで維盛たちは、先に駿河で起きていた戦いの結果を知ることになる。

10月14日、甲斐源氏が駿河へ入る

富士川合戦を語るうえで欠かせないのが武田信義である。

信義は源義光の系統を引く甲斐源氏の武将で、一条忠頼、板垣兼信、安田義定ら一族とともに甲斐を地盤としていた。

頼朝が伊豆で挙兵したころ、甲斐源氏も兵を動かしている。

10月になると武田信義らは甲斐から駿河へ進んだ。

これを迎え撃ったのが駿河目代・橘遠茂である。遠茂は駿河、遠江の兵を集め、甲斐源氏の進出を食い止めようとした。

10月14日、両軍は鉢田で衝突した。

武田信義、安田義定ら甲斐源氏が遠茂の軍を破り、遠茂自身も捕らえられた。

この戦いによって、京都から進んできた維盛軍は厳しい状況に置かれた。

追討軍が駿河へ到着したとき、その土地で平氏側に立って兵を集めていた勢力がすでに敗れていたのである。

それでも10月18日、維盛軍は富士川西岸へ進んだ。

富士川西岸、平氏軍4000余騎

『玉葉』に伝わったところでは、富士川へ到着した平氏軍は4000余騎。

翌日の攻撃を予定し、軍勢を整えた。

ところが陣中から兵が抜け始める。

数百騎が離脱し、その中には敵方へ走る者までいたという。

残った兵について『玉葉』は、1000騎、2000騎にも満たなかったと伝えている。

一方、平氏軍には武田方が4万余騎に達するという情報が入っていた。

この4万という数字も実数とは考えにくい。

中世の合戦記録に登場する兵数は、敵軍を実際より大きく伝えることが珍しくない。

陣中にいた兵たちが聞いたのは、自分たちを大きく上回る敵が近くにいるという話だった。

伊藤忠清は撤退を考え始めた。

維盛は戦う意向を示した。

『玉葉』には、忠清が退却を勧めても、維盛には退く気がなかったと伝えられている。

忠清は軍勢の状態を挙げて説得を続けた。

周囲の武士たちも忠清の意見に同調し、維盛も最後には退却を受け入れたという。

そのころ、東から頼朝の軍勢も近づいていた。

10月20日、頼朝が賀島へ入る

10月20日、頼朝は駿河国賀島へ進んだ。

現在の静岡県富士市、富士川東岸にあたる地域である。

富士川を挟んだ西側には維盛、忠度、知度らの軍勢がいる。

そして駿河には、すでに武田信義ら甲斐源氏が入っていた。

頼朝と甲斐源氏の関係は、この時点では後世の「鎌倉殿と御家人」の形に固まっていない。

武田信義は甲斐に独自の地盤と軍勢を持ち、自ら兵を率いて駿河へ進出していた。

鉢田で橘遠茂を破ったのも甲斐源氏である。

富士川では、頼朝勢と甲斐源氏が東側から平氏軍へ圧力をかける形になった。

その夜、武田信義が動く。

水鳥が飛び立った夜

『吾妻鏡』治承4年10月20日条によると、夜半、武田信義は兵を動かし、平氏軍の背後を襲おうとした。

軍勢が富士沼付近へ入ったところ、そこに集まっていた水鳥が一斉に飛び立った。

富士沼は、現在の富士市東部から沼津市西部にかけて広がっていた湿地帯と考えられている。

『吾妻鏡』は、その羽音を軍勢が動く音のようだったと記す。

水鳥の話は『平家物語』でさらに劇的になった。

平氏の兵たちは東国武士を恐れ、夜になると水鳥の羽音を源氏軍の襲来と思い込む。

「すわや、源氏の大勢の寄するは」

兵たちは慌てて馬に乗り、弓や甲冑を置いたまま逃げていく。

この場面が広く知られるようになり、富士川の戦いは「平家が水鳥の羽音に驚いて逃げた戦い」として語られてきた。

水鳥の話そのものは、鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』や『平家物語』より早い記録にも現れる。

権中納言・中山忠親の日記『山槐記』である。

富士川合戦から半月ほど後の11月6日、忠親は京都へ届いた話を書き留めた。

平氏軍の宿営地近くにいた多数の鳥が夜中に突然飛び立ち、その音が雷のように響いた。兵たちは敵が来たと思い、夜のうちに退いたという。

忠親は京都におり、現地にいた人物ではない。

それでも合戦から間もない時期に、水鳥と夜間撤退を結びつける話が都まで届いていた。

伊藤忠清が退却を決める

水鳥が飛び立ち、平氏陣が騒然となった。

『吾妻鏡』では、このあと伊藤忠清らが相談している。

東国の武士たちは頼朝に従い始めている。このまま進めば、途中で包囲されて帰路を失う恐れがある。

京都へ戻り、改めて態勢を整える。

維盛らは忠清の意見を受け入れた。

平氏軍は夜明けを待たず、富士川から西へ向かった。

富士川では、石橋山のように両軍が正面からぶつかり、長時間にわたって斬り合う戦闘は起きていない。

それでも撤退が始まったあとには追撃戦が発生した。

退却する平氏軍を追う

平氏軍が西へ動き始めると、源氏方の兵が追った。

『吾妻鏡』には飯田五郎家義とその子・飯田太郎が富士川を渡り、平氏軍を追撃したことが記されている。

これを見た伊勢国の武士・伊藤武者次郎が引き返した。

両者がぶつかり、飯田太郎が討たれる。

息子を失った家義は伊藤武者次郎を討ち取った。

平氏方の印東次郎常義も鮫島で討たれたと記録される。

主力同士の会戦が起きなかった富士川で、史料から確認できる数少ない実戦の一つである。

10月22日、家義は討ち取った伊藤武者次郎の首を頼朝のもとへ持参し、戦いの経過を報告した。

維盛の追討軍はそのまま東海道を西へ戻っていった。

頼朝は平氏軍を追おうとした

平氏軍が退いた翌10月21日。

頼朝は西へ進み、維盛軍を追おうとした。

そのまま京都へ向かう構想もあった。

千葉常胤、三浦義澄、上総広常らが進言した。

東国には、まだ頼朝に従わない有力武士が残っている。

とくに常陸国の佐竹氏は大きな勢力を持っていた。佐竹隆義は京都にいて平氏に仕え、その子の義政、秀義らが常陸にいる。

背後に佐竹氏を残したまま東海道を西へ進めば、関東の支配は安定しない。

頼朝は追撃を取りやめた。

武田信義には駿河、安田義定には遠江での軍事行動を任せ、自身は関東へ戻る。

10月27日、頼朝は常陸へ向かった。

次の相手は佐竹氏だった。

富士川から変わった東国の戦い

8月23日の石橋山では、大庭景親が頼朝を破った。

10月20日の富士川では、京都から派遣された平氏の追討軍が西へ退いた。

わずか58日の間に、東国の戦況は大きく動いた。

安房へ渡った頼朝のもとには房総、武蔵、相模の武士が集まった。甲斐では武田信義らが兵を動かし、駿河へ進んで橘遠茂を破った。

維盛軍が富士川へ着いたころ、駿河の平氏方はすでに敗れ、頼朝も東から近づいていた。

平氏軍が退いたあと、頼朝は京都へ向かわなかった。

関東には、まだ従わない勢力が残っている。

頼朝は軍勢を東へ返し、常陸へ向かう。

富士川から一週間後、佐竹氏との戦いが始まる。

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