【戦い・事件編】石橋山の戦い――20年耐えた源頼朝、最初の挙兵はなぜ大敗したのか?

戦い・事件

第108回

治承4年(1180年)8月23日、相模国石橋山。

山の斜面に陣を取った源頼朝の軍勢は、『吾妻鏡』によれば300余騎だった。

谷を一つ隔てた向こうには大庭景親の3000余騎。

さらに伊豆から追ってきた伊東祐親300余騎が後方の山へ回っている。

頼朝が山木兼隆を討ち、伊豆で兵を挙げてから6日しかたっていない。

頼みとしていた三浦一族は相模西部まで来ていたものの、豪雨で増水した丸子川――一般に酒匂川にあたるとされる――を渡れず、まだ合流できていなかった。

日が暮れるころ、雨脚はさらに強くなった。

大庭景親は翌朝を待たず、頼朝の陣へ兵を進めた。

20年前、平治の乱に敗れた父・義朝を失い、13歳で伊豆へ流された頼朝は、この年34歳。

長い流人生活を終えてようやく立ち上がったものの、最初の野戦でいきなり10倍ほどの兵力差に直面したことになる。

この夜、頼朝軍は石橋山の急斜面で崩れ、山中へ追い込まれていく。

13歳で伊豆へ流された源義朝の三男

平治元年(1159年)12月、藤原信頼と源義朝が京都で兵を挙げた。

熊野参詣から戻った平清盛は六波羅を拠点に反撃し、戦いは義朝方の敗北に終わる。

義朝は東国へ逃れる途中、尾張で殺害された。長男・義平も捕らえられ、京都で処刑される。

三男の頼朝は数え13歳。逃走中に捕まりながら命を助けられ、翌永暦元年(1160年)に伊豆へ送られた。

清盛の継母・池禅尼の嘆願によって助命されたという話は『平治物語』などにも伝わる。

細かな経緯には後世の物語が重なるが、頼朝が処刑を免れ、伊豆で流人生活に入ったことは確かである。

配流先として有名なのが現在の伊豆の国市にある蛭ヶ小島周辺である。

そこで20年間、世間から完全に切り離されて暮らしたわけではない。

頼朝の周囲には安達盛長らがおり、伊豆や相模の武士とも関係を持った。

北条時政の娘・政子と結ばれたことで、伊豆に足場もできていく。

それでも1180年春の頼朝に大勢の家臣がいたわけではない。

北条氏も後世の執権北条氏から想像するほど大きな勢力ではなく、伊豆には伊東氏をはじめ平氏方につく武士もいた。

その頼朝のもとへ、京都から平氏追討の呼びかけが届いた。

以仁王の呼びかけから、挙兵まで3か月半

治承4年春、後白河法皇の皇子・以仁王が平氏追討を呼びかけた。

『吾妻鏡』は4月27日、源行家が伊豆を訪れ、頼朝へ以仁王の令旨を伝えたと記す。

現在伝わる4月9日付令旨には文書形式や発給時期をめぐる議論があり、日付をそのまま確定的に扱うことはできない。

以仁王の名による平氏追討の呼びかけが頼朝にも届いたという流れを押さえておけばよい。

頼朝はすぐには動かなかった。

5月26日には以仁王と源頼政が宇治で敗れ、ともに命を落としている。京都の反乱は鎮圧された。

一方、『吾妻鏡』には三善康信から、平氏が諸国の源氏を追討する動きがあるとの知らせが届いたとも記される。頼朝にとって、伊豆で何事もなく暮らし続けられる保証は次第に薄くなっていた。

8月、頼朝は北条時政、土肥実平らと兵を挙げる準備に入る。

最初に狙ったのは伊豆国目代・山木兼隆だった。

8月17日夜、山木兼隆を襲う

山木兼隆は伊豆国の目代で、国司の代理として現地の政務にあたる立場にあった。

8月17日は三嶋社の祭礼の日である。

頼朝方はその夜、兼隆の館と後見役・堤信遠の館へ兵を向けた。

北条時政、宗時、義時、佐々木定綱・経高・盛綱・高綱、加藤景廉らが動き、堤信遠を討ったのち山木館へ攻め込む。

戦闘は夜まで続き、館には火が上がった。兼隆も討ち取られる。

頼朝は最初の軍事行動に成功した。

この勝利を受けて、頼朝は相模へ進む。

山木襲撃から3日後の8月20日には伊豆を出て、土肥実平の勢力圏へ入った。

頼朝の進軍に呼応して、三浦半島からは三浦義澄らも動き始める。

同じころ、相模では大庭景親が兵を集めていた。

大庭景親のもとには、後の頼朝家臣もいた

大庭景親は相模の有力武士で、平氏方として頼朝追討に動いた。

その陣には俣野景久、河村義秀、海老名季貞、山内首藤経俊、熊谷直実、梶原景時らの名が見える。

この顔ぶれには、のちに頼朝の御家人として知られる者も多い。

1180年8月の東国では、「源氏の武士」と「平氏の武士」が初めからきれいに分かれていたわけではなかった。

各地の武士は、これまで結んできた主従関係や所領、周囲との争いを抱えながら、それぞれの判断で陣営を選んでいる。

『吾妻鏡』は大庭勢を3000余騎とする。

中世史料に出てくる兵数には誇張を含む可能性があるため、3000という数字を厳密な実数とみなす必要はない。ただ、頼朝軍を大きく上回っていたことは、その後の戦闘経過からもうかがえる。

頼朝が期待していたのは三浦氏との合流だった。

三浦勢が酒匂川で止まる

三浦義澄らは8月22日ごろ三浦半島を出発し、相模西部へ向かった。

ところが23日は天候が荒れた。

『吾妻鏡』は、丸子川が増水して三浦勢が渡れなかったと記す。

この丸子川は一般に酒匂川にあたるとされる。

現在でも足柄平野を流れて相模湾へ注ぐ大きな川で、橋が整っていない時代に豪雨で増水すれば、騎馬を含む軍勢の渡河は難しい。

三浦勢は川の東に止まったまま、大庭方の一族の家々へ火を放った。

その火が遠くから見えた。

石橋山で頼朝と向き合っていた大庭景親は、三浦勢が近くまで来ていることを知る。

川の水が引けば、頼朝軍と合流する。

景親はその前に攻めることを選んだ。

8月23日、石橋山に並んだ300余騎と3000余騎

23日、頼朝は石橋山に陣を置いた。

『吾妻鏡』では兵300余騎。北条時政父子、安達盛長、土肥実平、工藤茂光らがその中にいた。

石橋山は現在の小田原市南西部にあたり、相模湾のすぐ近くまで山が迫っている。

海岸から少し入れば急な斜面が続き、広い平地は少ない。頼朝軍はその山地に入り、大庭勢と谷一つを挟んで向かい合った。

大庭方は『吾妻鏡』で3000余騎。

さらに頼朝の後方には、伊豆から北上してきた伊東祐親が300余騎を率いて入ったと記される。

頼朝は前と後ろに敵を抱えた。

三浦勢は増水した川の向こうにいる。

日が暮れ、雨が強くなる。

大庭景親は夜のうちに攻撃を始めた。

豪雨の石橋山――大庭勢が谷を越える

戦闘が始まったのは夜だった。

『吾妻鏡』はこの夜を暴風雨として描く。

石橋山は山と海が近く、斜面と谷が続く。

3000余騎が広い平野を横一列に並んで突進したという戦場ではない。

暗闇と雨の中、限られた道や斜面を使って大庭勢が次々に頼朝側へ押し寄せたと考えた方が地形には合う。

兵の数で劣る頼朝方は、狭い場所で敵を受け止めるしかなかった。

その前面に出た武士として名を残すのが佐奈田与一義忠である。

小田原に残る伝承では、義忠は15騎ほどを率いて戦い、大庭景親の弟・俣野景久は75騎を率いたとされる。人数の細部には後世の伝承が重なるが、義忠がこの戦いで俣野景久と激しく戦い、討死したことは広く伝わっている。

『平家物語』や後世の伝承では、義忠と景久は暗い斜面で互いに名乗り、馬上から組み合った。

二人は馬から落ちてもつれながら斜面を転がり、義忠が景久を押さえ込む。

ところが太刀を抜くのに手間取り、その間に長尾定景が加勢して義忠を討ったという。

義忠の刀に血がこびりついて抜けなかったという話、痰が絡んで味方へ声を出せなかったという話も、この組み討ちから生まれた伝承である。

現在の古戦場周辺には佐奈田霊社、与一塚、文三堂などが残っている。小田原市も佐奈田義忠と俣野景久の戦いを石橋山合戦の代表的な場面として紹介している。

前線で佐奈田勢が戦う間にも、大庭方の兵は山へ上がってきた。

頼朝も弓を取り、退きながら戦った

兵力差は埋まらない。

三浦勢も来ない。

頼朝方はしだいに高い方へ押し込まれた。

『吾妻鏡』には、頼朝が後方へ退く途中、自ら馬を返して弓を射ち、何度も敵と戦ったとある。

加藤景廉、大見実政らは頼朝の後方に残り、大庭勢を防いだ。

雨で視界が悪く、地面はぬかるむ。斜面では馬の動きも限られる。先頭で敵を受け止めていた者が倒れ、後方からまた敵が上がってくる。

頼朝方は一つの陣として踏みとどまれなくなり、隊列がほどけていった。

工藤茂光も戦死したと伝わる。

佐奈田義忠をはじめ前線の武士が倒れ、頼朝を守っていた兵も次々に散った。

頼朝は土肥実平らとともに、さらに山深くへ退いた。

同じ夜、北条一族も戦場を離れる。

北条時政の嫡男・宗時は伊豆方面へ抜けようとしたが、途中で平氏方に見つかり討たれた。

政子の兄であり、義時の兄にあたる人物である。

山木兼隆を倒してから、まだ1週間もたっていなかった。

山中の頼朝を、梶原景時が見つける

頼朝は土肥実平ら少数の者と山中へ入った。

石橋山から箱根外輪山へ続く一帯は谷が深く、尾根も入り組んでいる。地

元に本拠を持つ実平の案内は、頼朝にとって大きかった。

大庭景親は兵を山へ入れ、頼朝を捜させる。

その一人が梶原景時だった。

この時点の景時は大庭方に属している。

翌年には頼朝のもとへ参じ、のちに鎌倉政権の中枢で働く人物だが、石橋山では追う側にいた。

『吾妻鏡』には、景時が頼朝の居場所を知ったうえで「人情の思い」を抱き、大庭景親にこの山には人跡がないと告げ、別の峰へ連れていったと記されている。

後世の『源平盛衰記』では、さらに印象的な場面へ広がった。

景時が伏木の中へ入り、潜んでいた頼朝と正面から顔を合わせる。二人はしばらく互いを見たのち、景時が外へ出て追手を別方向へ導く。

頼朝が「しとどの窟」に隠れていたという伝承も、この逃走譚と結びついて各地に残った。

『吾妻鏡』は鎌倉幕府成立後に編纂された史書であり、景時が後に頼朝の側近となったことを知る時代に書かれている。景時が頼朝を救ったという話は、『吾妻鏡』が伝える石橋山の有名な逸話として読んでおきたい。

頼朝はこの捜索を切り抜け、数日間山中を移動した。

石橋山に届かなかった三浦氏は衣笠城へ戻る

頼朝敗北の知らせを受けた三浦勢は、石橋山への進軍を断念して東へ引き返した。

その途中では畠山重忠ら武蔵の武士と衝突し、やがて三浦半島へ戻る。

8月26日には三浦氏の本拠・衣笠城が攻められた。

攻撃側には畠山重忠、河越重頼、江戸重長らがいる。後に頼朝の有力御家人となる者たちが、この時点では三浦氏を攻める側に立っていた。

『吾妻鏡』では、三浦義明は89歳。一族を逃がしたのち城に残り、翌朝討ち取られたと記す。

石橋山で頼朝軍は崩れ、三浦氏も本拠を失った。

8月下旬の戦況は、大庭景親ら平氏方が押していた。

8月28日、真鶴から安房へ

頼朝は山中を抜け、土肥実平らの助けを受けながら海岸へ向かった。

『吾妻鏡』は8月28日、土肥の真名鶴崎から船を出し、安房国へ向かったと記す。現在の真鶴周辺である。

8月17日に山木兼隆を襲ってから11日。

伊豆で始めた挙兵は、頼朝が相模湾を渡って逃れるところまで追い込まれた。

ところが安房へ着くと、頼朝の周囲に武士が集まり始める。

衣笠城を脱出した三浦義澄らも海を渡り、頼朝と合流した。さらに頼朝は房総の有力武士へ働きかける。

下総の千葉常胤。

上総の上総広常。

この二人が加わったことで、頼朝軍の規模は石橋山のころから大きく膨らんだ。

石橋山の敵まで頼朝へ加わった

房総で兵を増やした頼朝は、北上して武蔵へ向かった。

そこで畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも頼朝に従う。

わずか数週間前、彼らは三浦氏と戦っていた。

東国の武士にとって、1180年の戦いは単純な源氏対平氏ではなかった。

所領を守るため、近隣の敵と争うため、これまでの主従関係を保つため、それぞれの事情で動いている。その中で頼朝が房総の大勢力を従えて戻ってくると、東国の力関係も変わっていった。

10月6日、頼朝は鎌倉へ入る。

石橋山から44日ほどしかたっていない。

8月23日には300余騎で山へ追い込まれた頼朝が、今度は千葉氏、上総氏、三浦氏、武蔵の武士らを従えて相模へ戻ってきた。

その後、平氏は平維盛らを大将とする追討軍を東国へ送る。

両軍が富士川で向かい合うのは10月。

石橋山からまだ2か月ほどである。

石橋山で頼朝が大敗した理由

石橋山では、頼朝の兵がまだ集まり切っていなかった。

山木兼隆を討ったのが8月17日。石橋山に陣を置いたのが23日で、挙兵から6日しかない。

頼朝軍は『吾妻鏡』で300余騎。大庭景親は3000余騎。後方には伊東祐親300余騎が迫った。

そこへ加わるはずの三浦勢は、豪雨で増水した酒匂川を渡れずにいる。

大庭景親は三浦勢の放った火を見て、その接近を知った。翌日まで待てば、頼朝の兵は増える。そこで23日夜、雨の中で攻撃へ出た。

兵数の数字には史料上の誇張を考える必要がある。それでも、頼朝が兵力で大きく劣り、援軍との合流前に攻め込まれたことは戦いの流れから読み取れる。

大庭景親はその機会を逃さなかった。

頼朝方は佐奈田義忠らが前線で戦い、頼朝自身も退きながら弓を射たが、長く持ちこたえるだけの兵がいなかった。夜の山中で陣は崩れ、頼朝は土肥実平らと山へ逃げ込んだ。

石橋山は、頼朝が東国をまとめてから始めた戦いではない。

兵を挙げ、味方を集め始めたばかりの段階で迎えた戦いだった。

その早さが、300余騎と3000余騎という大きな差となって表れた。

大敗から44日後、頼朝は鎌倉へ入った

8月23日の石橋山では、大庭景親が勝った。

頼朝軍を山へ追い込み、佐奈田義忠らを討ち、三浦氏との合流も許さなかった。

頼朝は山中に潜み、5日後には真鶴から船で安房へ逃れた。

その安房で千葉氏、上総氏らが加わる。

武蔵へ入るころには、石橋山の直後まで平氏方にいた武士たちも頼朝へ従った。

10月6日、頼朝は鎌倉に入る。

石橋山から44日。

最初の野戦で大敗した事実は変わらない。

頼朝自身が捕らえられず、海を渡ってもう一度兵を集める時間が残ったことで、その後の戦況が動いた。

石橋山で頼朝を追い詰めた大庭景親は、やがて勢力を増した頼朝に捕らえられる。

1180年8月23日の夜、石橋山で勝ったのは大庭景親だった。

その44日後、鎌倉に入ったのは源頼朝である。

源頼朝の挙兵や石橋山の戦いを、もう少し物語として楽しみたい方には『読んで旅する鎌倉時代』もおすすめです。蛭ヶ小島や三嶋大社、伊豆山神社、石橋山古戦場など、頼朝ゆかりの土地を舞台にした13編を収録。石橋山の戦いを扱った一編もあり、歴史の舞台を現在の土地と重ねながら楽しめる一冊です。

 
読んで旅する鎌倉時代 (講談社文庫) [ 高田 崇史 ]

石橋山の戦いの舞台は、現在の神奈川県小田原市。記事を読んで小田原に興味を持った方には、名物のかまぼこもおすすめです。小田原の老舗「鈴廣」のかまぼこは、普段の食卓にもおつまみにも合わせやすく、石橋山古戦場や箱根を訪れた気分で楽しめます。

 
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