【人物編Vol.77】平維盛――富士川・倶利伽羅で敗れた清盛の孫、妻子を残して那智の海へ

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人物

第151回

寿永2年(1183年)7月25日、京都。

平維盛は鎧を着け、馬に乗ろうとしていた。

木曾義仲の軍勢が都へ迫り、平氏一門は安徳天皇を奉じて西国へ向かうことになった。

維盛も出発しなければならない。

ところが、数え10歳の息子・六代と8歳の娘が父のもとへ駆け寄り、鎧の袖や草摺にしがみついた。

自分たちも連れていってほしい。

幼い二人は泣いて離れようとしない。

『平家物語』巻第七「維盛都落」は、この日の父子の別れを詳しく伝えている。

維盛は子供たちをなだめ、妻にも別れを告げた。安全な場所が見つかれば必ず迎えを送るという。

そこへ弟の平資盛らがやって来た。

安徳天皇の行列はすでに遠くまで進んでいる。早く出発しなければならない。

維盛はようやく馬に乗った。

しかし、門を出る直前、もう一度馬を縁側へ寄せた。

弓の筈で御簾を持ち上げ、妻子の姿を見つめたという。

このとき維盛は数え26歳。

平清盛の孫であり、内大臣・平重盛の嫡男だった。

かつて宮廷では光源氏にもなぞらえられ、将来は大臣や大将になると期待された。

しかし東国の富士川では源頼朝に対する追討軍が崩れ、北陸の倶利伽羅峠でも木曾義仲に大敗していた。

平氏一門は京都を追われ、維盛も家族を残して西へ向かう。

それから八か月。

維盛は一門の軍勢から姿を消した。

『平家物語』によれば、高野山で出家し、熊野三山へ参詣した後、寿永3年(1184年)3月28日に那智の沖で入水したという。

享年27歳。

しかし、その最期には異説が残る。

かつて清盛の後継者と目された重盛の嫡男は、なぜ一門を離れたのか。

平重盛の嫡男――清盛の孫として育つ

平維盛は保元3年(1158年)ごろ、平重盛の嫡男として生まれた。

生年には諸説があり、『平家物語』では寿永3年の最期を数え27歳としている。

祖父は平清盛。

父の重盛は清盛の長男で、保元の乱、平治の乱に従い、朝廷では内大臣まで昇った人物だった。

維盛の母については系譜によって記述が異なり、確定していない。

弟には資盛、清経、有盛、師盛、忠房らがいた。

重盛は父の清盛とともに戦場へ出る一方、朝廷でも官位を上げていた。

仁安2年(1167年)には権大納言、安元3年(1177年)には内大臣に昇る。

清盛の後継者と目され、独自の家人や知行国を持っていた。

維盛はその重盛の長男として、幼いころから宮廷に出仕した。

仁安2年には叙位を受け、美濃権守となる。

嘉応2年(1170年)には右近衛権少将、承安2年(1172年)には中宮権亮を兼ねた。

中宮は清盛の娘・平徳子。

維盛は徳子に仕える役職を得て、宮廷の行事にも参加するようになった。

父の重盛が清盛の後継者とされたように、その長男である維盛にも将来が期待されていた。

そして安元2年(1176年)、維盛は宮廷の人々の記憶に残る舞を披露する。

桜梅少将――後白河法皇の御賀で舞った青海波

安元2年3月。

後白河法皇の五十歳を祝う御賀が、法住寺殿で行われた。

高倉天皇が父の法皇の長寿を祝い、公卿や殿上人が集まった盛大な行事だった。

舞楽も披露された。

このとき維盛が舞ったと伝わるのが、青海波である。

青海波は二人で舞う優雅な舞楽で、『源氏物語』の「紅葉賀」にも登場する。

光源氏が頭中将とともに舞い、その美しさを称賛されたことで知られていた。

維盛の姿も、人々に光源氏を思い起こさせたという。

その様子を後年まで覚えていた女性がいる。

建礼門院右京大夫である。

右京大夫は清盛の娘・徳子に仕え、維盛の弟・資盛とも親しく交わった。

彼女が残した『建礼門院右京大夫集』には、維盛の容姿を称賛する一節がある。

「きはことにありがたかりしかたち用意、まことにむかし今みる中に、ためしもなかりしぞかし」

維盛の容姿と立ち居振る舞いは、昔から今まで見てきた人々の中でも、比べるものがないほどだったという。

法住寺殿の御賀で青海波を舞ったときには、人々が光源氏の姿を思い出したとも記している。

『平家物語』にも維盛の美しさを伝える場面が残る。

桜の枝を烏帽子に挿して舞う姿は、露を帯びた花のようだったという。

維盛は「桜梅少将」と呼ばれた。

当時はまだ少将だったが、のちに大臣や大将へ昇る人物と期待されていた。

父の重盛は武士として朝廷の高官まで進み、維盛もまた宮廷の中で育っていた。

ところが、その華やかな生活の背後で、平氏と後白河院の対立が深まっていく。

維盛の妻の実家も、その争いに巻き込まれた。

妻の父・藤原成親――鹿ケ谷事件で失った親族

維盛の妻は、藤原成親の娘だった。

成親は後白河法皇の近臣として重用され、権大納言まで昇った公卿である。

維盛の父・重盛とも親族関係が深かった。

治承元年(1177年)、成親は平氏打倒の謀議に関わったとして、清盛に捕らえられる。

鹿ケ谷事件である。

清盛は後白河院の近臣たちを処罰し、西光を処刑した。

俊寛らは鬼界ヶ島へ流され、成親も備前国へ配流された。

成親はその年、配流先で命を落とした。

『平家物語』は成親が殺害される経緯を詳しく描いているが、処刑に至る細部には史料の違いがある。

維盛の妻は、この成親の娘だった。

祖父・清盛によって父を失った女性を、維盛は妻としていたのである。

『平家物語』では、のちに維盛が妻と別れる場面で、彼女が父母を失った身であることが繰り返し語られる。

一方、重盛は後白河法皇との関係を保とうとしていた。

『平家物語』では、清盛に捕らえられた成親の命を救うため、重盛が奔走したと伝える。

しかし、清盛と後白河院の対立は収まらなかった。

そのさなか、重盛が病に倒れる。

治承3年(1179年)7月29日。

平重盛は亡くなった。

享年42歳。

維盛は数え22歳ほどだった。

父・重盛の死――叔父の宗盛が後継者となる

重盛の死は、平氏一門の後継者の位置関係を変えた。

重盛には維盛をはじめ、多くの息子がいた。

維盛は嫡男として父の家を継ぐ立場にあった。

しかし、清盛の後継者として一門の中心となったのは、維盛の叔父・平宗盛だった。

宗盛は清盛の三男で、母は清盛の正室・平時子。

時子の妹・平滋子は後白河法皇の寵妃となり、高倉天皇を産んでいた。

宗盛は母方を通じて皇室と深く結びつき、すでに権大納言まで昇っていた。

維盛はまだ近衛少将から昇進を重ねている途中だった。

叔父と甥の間には、年齢にも官位にも大きな差があった。

また、重盛の死後には越前国が後白河院の分国となり、重盛家を取り巻く状況も変化している。

この年、清盛と後白河法皇の関係は決定的に悪化した。

6月には清盛の娘・平盛子が亡くなり、彼女が管理していた摂関家領の扱いが争いとなった。

さらに摂関家内部の人事をめぐる対立が続く。

11月、清盛は福原から軍勢を率いて京都へ入った。

関白・松殿基房を退け、近衛基通を新たな関白とし、後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉する。

治承三年の政変である。

翌治承4年(1180年)2月には安徳天皇が即位した。

清盛の孫であり、維盛の従兄弟にあたる幼い天皇だった。

平氏一門は朝廷でさらに高い地位を占める。

しかし同年5月、以仁王と源頼政が挙兵した。

続いて8月には源頼朝が伊豆で兵を挙げる。

平氏一門は各地の追討へ軍勢を送ることになった。

東国の頼朝を討つために選ばれた大将が、維盛だった。

二十三歳の追討大将――東海道を進む平氏軍

治承4年8月23日。

源頼朝は石橋山で大庭景親らに敗れた。

しかし安房国へ逃れ、房総半島で再起する。

千葉常胤、上総広常らが味方につき、武蔵国でも有力武士たちが頼朝に従った。

10月6日、頼朝は鎌倉へ入る。

清盛は東国の反乱を鎮圧するため、追討軍を派遣した。

総大将は平維盛。

数え23歳だった。

軍勢には平忠度、平知度ら一門の武将が従った。

その実務を支えたのは、伊藤忠清である。

忠清は平氏の有力家人で、維盛の乳母父にあたる人物だった。

清盛や重盛の時代から軍事活動に関わり、戦場での経験を重ねていた。

『平家物語』は、東国へ向かう維盛の武者姿を華やかに描いている。

宮廷で舞楽を舞った公達が、今度は鎧を着け、軍勢を率いて東海道を進んだ。

しかし、行軍は順調に進まなかった。

東国では頼朝に従う武士が増え続けていた。

駿河国でも甲斐源氏の武田信義らが軍勢を動かし、平氏に従う在地武士を攻撃している。

維盛たちが駿河へ到着したころ、周辺の情勢はすでに平氏方に不利となっていた。

10月20日。

維盛の軍勢は富士川の西岸に陣を構えた。

東からは頼朝が迫り、甲斐源氏も周囲に兵を展開していた。

富士川の敗走――『玉葉』に残る維盛と伊藤忠清の判断

富士川の戦いは、水鳥の羽音に驚いた平氏軍が逃げ出したことで知られている。

『平家物語』では平氏軍を七万余騎と記す。

しかし、九条兼実の日記『玉葉』に伝えられた兵数は大きく異なる。

富士川へ到着した平氏軍は四千余騎。

しかも陣中から逃げ出す兵が相次ぎ、残ったのは千騎か二千騎ほどだったという。

維盛たちは、甲斐源氏の軍勢が非常に多いという情報も聞いていた。

『玉葉』に伝わる話では、伊藤忠清が撤退を進言した。

しかし、維盛は当初、戦うつもりでいた。

忠清は軍勢の状態を説明し、退却を勧め続けた。

ほかの武士たちも忠清の意見に従い、維盛もやがて撤退を受け入れたという。

その夜、富士川付近の水鳥が一斉に飛び立った。

『平家物語』は、羽音を敵襲と勘違いした平氏軍が大混乱に陥り、先を争って逃げ出す様子を描いている。

『吾妻鏡』にも水鳥の羽音に関する話が残る。

実際には、富士川へ到着するまでに兵力が減少し、甲斐源氏の進出もあって、追討軍は苦しい状態に置かれていた。

『玉葉』に伝わる維盛は、忠清らの進言を受けて撤退を決めている。

平氏軍は大規模な決戦を行わず、西へ退いた。

維盛は敗軍を率いて京都へ戻ることになった。

清盛の怒り――鬼界ヶ島へ流せという命令

富士川から戻った維盛を、清盛は厳しく責めたという。

『平家物語』巻第五「五節沙汰」には、清盛が維盛を鬼界ヶ島へ流し、伊藤忠清を死罪にするよう命じた話が残る。

鬼界ヶ島は、鹿ケ谷事件で俊寛らが流された場所として知られていた。

清盛は十分に戦わず帰ってきた維盛たちを許さなかったと物語は語る。

ところが、忠清の処刑には平氏の家人たちから反対の声が上がった。

忠清は長年にわたり清盛や重盛に仕え、一門の軍事活動を支えてきた。

その人物を一度の敗戦で処刑することに、家人たちは納得しなかったという。

結局、忠清は処刑されず、維盛も配流されなかった。

維盛は同年11月、右近衛権中将へ進んでいる。

『平家物語』では、敗走した直後に昇進したことを人々が不審に思ったと語られる。

清盛が実際に鬼界ヶ島への配流を命じたかどうかは、同時代の記録から確認できない。

一方、朝廷では維盛の昇進が続いた。

富士川で追討軍を率いた経験は、維盛にとって初めての大規模な遠征だった。

そして翌年、維盛は再び源氏方の軍勢と戦うことになる。

墨俣川の勝利――公卿となった維盛

治承5年(1181年)閏2月4日。

平清盛が死去した。

享年64歳。

清盛の死後、宗盛が平氏一門の棟梁となった。

その翌月、尾張国の墨俣川付近で平氏軍と源行家の軍勢が衝突する。

源行家は頼朝の叔父にあたり、以仁王の令旨を各地の源氏へ伝えた人物だった。

源氏方には源義朝の子・義円も加わっていた。

平氏方の中心となったのは、清盛の子・平重衡である。

維盛も軍勢に参加した。

戦いは平氏の勝利に終わり、行家の軍勢は敗走した。

義円は討ち死にする。

富士川の敗走からおよそ五か月。

維盛は今度は勝利した軍勢の一員として京都へ戻った。

同年6月10日、維盛は右近衛権中将となり、蔵人頭を兼ねる。

蔵人頭は天皇の側近として、宮中の文書や命令を扱う重要な官職だった。

さらに養和元年(1181年)12月、従三位に昇った。

維盛は公卿の列に加わる。

「小松三位中将」と呼ばれるようになったのは、このためである。

父の重盛は内大臣まで昇り、その嫡男である維盛も三位中将という高い官位を得た。

しかし東国では頼朝が勢力を固め、北陸では木曾義仲が反平氏の武士たちを集めていた。

宗盛は北陸への大規模な追討軍を編成する。

その大将の一人に、再び維盛が選ばれた。

北陸追討軍――火打城を攻略して砺波山へ

寿永2年(1183年)4月。

平氏は木曾義仲を討つため、北陸へ大軍を送った。

維盛のほか、平通盛、平知度、平経正、平行盛ら一門の武将たちが加わる。

『平家物語』は十万余騎という大軍を記すが、実際の兵数はわからない。

平氏は一門の武将を多数送り、北陸の反乱を一挙に鎮圧しようとしていた。

軍勢は近江から越前へ進んだ。

越前では平泉寺の僧兵や在地武士たちが義仲方に加わっていた。

その拠点の一つが火打城だった。

『平家物語』によれば、城兵は川をせき止め、水をためて平氏軍が近づけないようにしていた。

ところが平泉寺長吏の斎明が平氏方へ内通し、水を抜く方法を知らせたという。

平氏軍は火打城を攻略し、加賀へ進んだ。

4月下旬のことだった。

しかし越中へ入ると、木曾義仲の軍勢が待ち構えていた。

5月11日。

加賀国と越中国の境に連なる砺波山で、平氏軍と義仲軍が対峙した。

倶利伽羅峠の戦いである。

倶利伽羅峠の大敗――二度目の追討軍崩壊

倶利伽羅峠は、現在の石川県津幡町と富山県小矢部市の境にあたる。

山の尾根には北陸道が通り、周囲には急な斜面と谷が続いていた。

『平家物語』によれば、義仲は軍勢を分けて平氏軍を包囲した。

正面から攻撃しながら、別の部隊を山道から迂回させる。

日が暮れるころには平氏軍の背後からも鬨の声が上がった。

狭い道へ兵と馬が押し寄せ、谷へ落ちる者が続出したという。

後世「倶利伽羅落とし」と呼ばれる戦いだった。

『源平盛衰記』には、牛の角に松明を結びつけて敵陣へ突入させた「火牛の計」も描かれる。

しかし火牛の逸話は後世の軍記に見えるもので、実際に使われた確証はない。

維盛らは戦場から脱出したものの、平氏軍は大きな損害を受けた。

続く加賀国篠原でも敗れ、義仲の軍勢は越前から近江へ進んだ。

『玉葉』にも北陸追討軍の敗報が記されている。

この戦いでは、維盛に従っていた斎藤別当実盛も討ち死にした。

実盛は武蔵国長井荘を本拠とした老武者で、平氏に従って北陸へ出陣していた。

『平家物語』には、白髪を黒く染めて戦い、討ち死にしたという話が残る。

維盛は富士川に続き、倶利伽羅峠でも追討軍の敗北を経験した。

そして今度は、京都そのものが危険にさらされた。

義仲の軍勢は近江へ迫り、延暦寺も平氏への協力を拒むようになる。

平氏は都を守るための兵力を失っていた。

寿永2年7月25日――妻子を京都に残す

寿永2年7月24日夜から25日未明にかけて、後白河法皇は京都を抜け出し、比叡山へ移った。

宗盛は都での抵抗を断念する。

7月25日。

平氏一門は安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ向かった。

維盛も一門に従うことになった。

しかし京都には、藤原成親の娘である妻と二人の子供がいた。

『平家物語』巻第七「維盛都落」では、六代は数え10歳、妹の姫君は8歳と記されている。

維盛は妻子を連れていこうとはしなかった。

西国へ向かう道には敵が待ち構えている。

幼い子供たちを連れて無事に通り抜けられる保証はなかった。

維盛は妻へ、もし自分が討たれたと聞いても出家せず、子供たちを育ててほしいと告げたという。

しかし妻は、その言葉を受け入れられなかった。

自分にはすでに父も母もいない。

これまで夫とともに生き、死ぬときも離れまいと約束してきた。

それなのに今になって、別の人を頼って生きろというのか。

妻はそう訴えたと『平家物語』は語る。

維盛は、落ち着ける場所が見つかれば必ず迎えを送ると答えた。

そして鎧を着け、出発しようとする。

すると六代と姫君が父のもとへ駆け寄り、鎧の袖や草摺に取りついた。

自分たちも連れていってほしい。

二人は泣きながら離れようとしなかった。

そこへ弟の資盛、清経、有盛、忠房、師盛らがやって来た。

安徳天皇の行列はすでに遠くまで進んでいる。

いつまでここにいるのか。

弟たちに促され、維盛はようやく馬に乗った。

しかし門を出る前、もう一度縁側へ馬を寄せた。

弓の筈で御簾を持ち上げ、妻子の姿を見つめたという。

『平家物語』は、維盛が涙を流したと記している。

庭にいた弟たちも、その様子を見て泣いたと伝わる。

維盛は馬を進めた。

妻と二人の子供を京都に残し、西国へ向かった。

斎藤実盛の息子たち――六代を託された兄弟

都落ちのとき、維盛には二人の若い家人が付き従おうとしていた。

斎藤五と斎藤六という兄弟である。

『平家物語』によれば、兄は数え19歳、弟は17歳だった。

二人の父は長井斎藤別当実盛。

その年の5月、加賀国篠原の戦いで討ち死にした老武者だった。

兄弟は維盛の馬の左右に取りつき、どこまでもお供すると願い出た。

しかし維盛は二人を引き留めた。

父の実盛も、北陸へ出陣するとき息子たちを連れていかなかった。

兄弟が従いたいと願っても、実盛は考えるところがあると言って京都に残したという。

実盛はその後、篠原で討ち死にした。

維盛は兄弟へ、父はこうなることを予感していたのかもしれないと語った。

そして京都に六代がいることを告げる。

まだ幼い六代を残していく以上、安心して世話を任せられる者が必要だった。

頼むから都にとどまり、六代を守ってほしい。

兄弟は涙をこらえ、維盛の願いを受け入れたという。

二人は維盛を見送った。

父を北陸で失ったばかりの兄弟に、維盛は自分の息子を託したのである。

西国へ下った平氏――維盛と宗盛の間に生じた疑い

京都を離れた平氏は、福原を経て九州へ向かった。

しかし豊後国の緒方惟栄らが抵抗し、大宰府周辺で安定した拠点を築くことは難しかった。

一門は瀬戸内海へ戻り、讃岐国屋島を中心に軍勢を整える。

寿永2年閏10月、平氏は備中国水島で木曾義仲方の軍勢を破った。

続く11月には播磨国室山で源行家の軍勢にも勝利する。

平氏は西国で勢力を回復し、翌寿永3年(1184年)正月には福原周辺まで進出した。

水島や室山で中心的な役割を担ったのは、平知盛や平重衡らだった。

維盛がこれらの戦場でどのような行動を取ったのか、詳しい記録は残っていない。

このころ平氏一門の内部でも、各家の立場には違いが生じていた。

清盛の異母弟・平頼盛は一門から離れ、京都にとどまる道を選んでいた。

頼盛の母・池禅尼は、平治の乱の後、幼い頼朝の助命を清盛へ願い出た人物として知られる。

頼盛はのちに頼朝との関係を深めていく。

維盛の妻も、清盛によって処分された藤原成親の娘だった。

『平家物語』巻第十「高野巻」では、維盛が京都の妻子を恋しがる様子を見た宗盛と平時子が、維盛を疑うようになったと描かれている。

池大納言頼盛のように、源氏方へ通じるつもりではないか。

そのように思われたことを、維盛自身が後に語ったという。

実際に宗盛や時子が維盛を疑ったかどうかは確認できない。

ただ『平家物語』は、維盛が一門を離れた事情として、この疑念を詳しく伝えている。

維盛は西国へ下ってからも、京都に残した妻子のことを忘れられなかったと物語は語る。

そして寿永3年2月、福原で平氏軍が大敗する。

一ノ谷の敗戦――屋島から消えた三位中将

寿永3年2月7日。

源範頼・義経の軍勢が、摂津国福原周辺の平氏軍へ攻め込んだ。

一ノ谷の戦いである。

平氏は大敗し、平忠度、平敦盛、平通盛ら一門の武将が討ち死にした。

平重衡は生け捕りとなり、宗盛らは安徳天皇を奉じて屋島へ退いた。

維盛がこの戦いに参加したのか、具体的にどのような行動を取ったのかは明らかでない。

一門を離れた時期についても、一ノ谷の前後と考えられるものの、正確な日付はわかっていない。

『平家物語』では、一ノ谷の敗戦後、維盛が屋島の陣を人知れず離れたと語られている。

維盛は紀伊国へ向かい、高野山を訪ねたという。

そこには、かつて重盛に仕えた滝口入道がいた。

もとの名は斎藤時頼。

横笛という女性との恋を断ち切り、出家して高野山へ入った人物として『平家物語』に登場する。

維盛はその滝口入道を訪ねた。

かつて宮廷で人々に称賛された維盛は、潮風にさらされ、やつれた姿となっていたという。

滝口入道は驚いた。

なぜ屋島を離れてきたのか。

維盛は京都に残した妻子を忘れられず、宗盛や時子からも疑われるようになったと語った。

妻子にもう一度会いたい。

しかし、京都へ戻れば源氏方に捕らえられるおそれがある。

一ノ谷で捕らえられた重衡のことも、維盛の心を重くしていた。

維盛は高野山で出家し、熊野三山へ参詣することを決めたという。

与三兵衛重景――父の代から続く恩義

屋島から維盛に付き従ってきた家人がいた。

与三兵衛重景と石童丸である。

『平家物語』巻第十「維盛出家」には、重景の家と小松家との関係が詳しく記されている。

重景の父は与三左衛門景康。

平治の乱で重盛に従い、源義平の軍勢と戦って討ち死にした人物だった。

このとき重景はまだ数え2歳。

父の顔を覚えていなかった。

さらに数え7歳のときには母も亡くしている。

重盛は、幼い重景を自分のもとへ引き取った。

景康は自分のために命を落とした武士だった。

その息子を大切に育て、元服の世話もしたという。

重景の幼名は松王。

小松殿と呼ばれた重盛が、その名を付けたと伝わる。

さらに元服の際には、重盛が自分の名から「重」の字を与え、重景と名乗らせたという。

重盛は死の間際にも重景を呼び寄せ、維盛に仕えるよう言い残したと『平家物語』は記している。

その重景が、維盛とともに高野山へ来ていた。

維盛は出家に先立ち、重景と石童丸を呼び寄せた。

自分は出家する。

二人は京都へ戻り、残した妻子を助け、自分の菩提を弔ってほしい。

しかし重景は受け入れなかった。

父は重盛のために命を落とし、自分もその恩を受けて育てられた。

今さら維盛を置いて帰ることはできない。

重景はそう語り、自ら髻を切ったという。

石童丸も続いた。

石童丸は数え8歳のころから維盛に仕え、当時は18歳だったとされる。

二人は滝口入道に髪を剃ってもらった。

維盛はそれを見届け、自分も髪を下ろした。

法名は浄円。

『平家物語』によれば、維盛と重景はともに数え27歳だった。

「唐皮」と「小烏」――六代へ託した平氏の重宝

出家した維盛は、舎人の武里を呼び寄せた。

『平家物語』によれば、維盛は武里に屋島へ戻り、一門の人々へ伝言を届けるよう命じた。

その中に、平氏の重宝についての言葉があった。

「唐皮」という鎧。

「小烏」という太刀。

これらは平貞盛以来、一門の嫡流に伝えられてきた宝物だという。

維盛は、自分の代まで九代にわたって受け継いできたと語った。

そして、もし一門の運が開けて再び京都へ戻ることができたなら、この鎧と太刀を六代に与えてほしいと頼んだ。

六代は京都に残した嫡男だった。

都落ちのときには斎藤五と斎藤六の兄弟へ、その身を託している。

高野山で出家した維盛は、今度は家に伝わる重宝を六代へ残そうとした。

唐皮や小烏をめぐる伝承は『源平盛衰記』にも詳しく描かれている。

ただし、平貞盛以来九代にわたって同じ品が伝えられたという話を、史実として確認することは難しい。

『平家物語』では、維盛が高野山で武士としての生涯を終えるにあたり、平氏嫡流の重宝を息子へ伝えようとした姿が描かれた。

武里は維盛の言葉を聞き、涙を流したという。

そして、最後まで維盛に付き従うことを願い出た。

維盛はこれを許した。

一行は高野山を離れ、熊野へ向かった。

熊野三山への参詣――父・重盛の祈りを思い出す

高野山を離れた維盛たちは、熊野三山を目指した。

『平家物語』巻第十「熊野参詣」では、熊野本宮、新宮、那智の順に巡ったとされている。

熊野は古くから上皇や貴族の信仰を集めた霊場だった。

後白河法皇もたびたび参詣している。

維盛の父・重盛にも、熊野に関わる逸話が残る。

『平家物語』によれば、重盛はかつて熊野権現へ参詣し、父・清盛が悪心を起こさないよう祈ったという。

清盛の行いが正されるなら、自分の命を縮めてもかまわない。

そう願ったと物語は伝える。

維盛は熊野本宮へ参詣したとき、父の祈りを思い出したという。

重盛はすでに亡くなっていた。

清盛もこの世にいない。

維盛は熊野の神前で自らの往生を願い、京都に残した妻子の無事も祈ったとされる。

一行は新宮を経て那智へ向かった。

すると、那智で維盛を見かけた僧の一人が、その姿に気づいたという。

かつて法住寺殿の御賀で、桜の枝を挿して青海波を舞った公達ではないか。

僧は往年の維盛を思い出した。

あのころは平氏一門の公卿や殿上人が並び、維盛は人々の称賛を集めていた。

将来は大臣や大将になると期待された人物だった。

ところが今、目の前にいる維盛は髪を下ろし、粗末な姿で熊野の山中を歩いていた。

僧は涙を流したと『平家物語』は語る。

寿永3年3月28日――那智の沖へ

熊野三山への参詣を終えた維盛は、浜の宮から舟を出した。

『平家物語』では寿永3年(1184年)3月28日のこととされる。

舟は沖合の山成島へ向かった。

維盛は岸へ上がると、大きな松の木の皮を削り、そこへ名前を書き残したという。

祖父・平清盛。

父・平重盛。

そして自分の名。

「三位中将維盛法名浄円、年二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す」

そのように記したと『平家物語』は伝える。

維盛は再び舟に乗り、沖へ漕ぎ出した。

季節は春の終わりだった。

海上には霞がかかり、遠くには漁船が見えた。

北へ帰る雁の群れも空を渡っていたという。

維盛はその姿を見ながら、京都に残した妻子を思い出した。

自分が死んだと聞けば、妻はどれほど悲しむだろうか。

六代と娘は、今も父の知らせを待っているかもしれない。

維盛は念仏を唱えようとしたが、家族のことが頭から離れなかった。

そして滝口入道へ打ち明けた。

「あはれ人の身に、妻子といふものをば持つまじかりけるものかな」

出家しても妻子への思いを断ち切れない。

仏道へ入ったはずの心が、なお家族への愛情に引き戻される。

維盛はその苦しさを語ったという。

滝口入道は維盛を諭した。

生きる者は必ず死に、出会った者もいつか別れる。

今は念仏を唱え、極楽往生を願うべきである。

仏となれば、残してきた妻子を導くこともできる。

維盛はようやく心を定めた。

西へ向かって手を合わせ、念仏を唱える。

そして「南無」と唱える声とともに、海へ身を投げたと『平家物語』は結んでいる。

与三兵衛重景と石童丸も後を追ったという。

享年27歳。

平氏一門が壇ノ浦で滅びる、およそ一年前の出来事として描かれている。

『建礼門院右京大夫集』――入水の知らせを聞いた女性

維盛の入水は『平家物語』に詳しく描かれている。

その一方、熊野の海へ身を投げたという話は、平氏一門と親しく交わった建礼門院右京大夫も書き留めていた。

右京大夫は、維盛の弟・資盛と深い関係を持っていた女性だった。

平氏の滅亡後、彼女は一門の人々を思い出し、その死を悼む歌を数多く残している。

維盛についても、熊野で身を投げたという知らせを聞いたことを記している。

その知らせに接し、彼女は法住寺殿の御賀で青海波を舞った維盛を思い出した。

人々から光源氏になぞらえられた姿。

花の美しささえ色あせるほどだと称賛された容貌。

そして、親しく言葉を交わしたころの維盛の面影だった。

右京大夫は次の歌を詠んだ。

「春の花の色によそへしおもかげのむなしき波のしたにくちゐる」

春の花の美しさになぞらえられた維盛の姿が、今は波の下に沈んでしまった。

さらに、熊野の海へ身を沈めたことを悲しむ歌も残している。

『建礼門院右京大夫集』の記述からは、維盛が熊野で入水したという知らせが、当時の人々にも伝わっていたことがわかる。

ただし、右京大夫自身が維盛の最期を目撃したわけではなかった。

松の木に名前を書き残したことや、滝口入道に諭されて入水したことまで、彼女の記録から確認できるわけではない。

そして維盛の最期には、別の伝承も残っている。

那智での入水か、相模での病死か

『源平盛衰記』には、維盛が那智で入水せず、熊野参詣の後に京都へ戻ったという異説が収められている。

その話では、維盛は後白河法皇へ助命を願い出た。

法皇は維盛の処遇について源頼朝と交渉する。

頼朝は維盛を鎌倉へ送るよう求めたという。

しかし維盛は東国へ向かう途中、相模国の湯下宿で病死したと伝えられる。

『源平盛衰記』は、この異説を藤原長方の日記『禅中記』に基づくものとして紹介している。

ただし、該当する『禅中記』の本文は現在確認できない。

入水説と病死説では、維盛の行動も最期の場所も大きく異なる。

また、維盛が一門を離れた正確な時期についても、現存する史料から明確に定めることは難しい。

『平家物語』が伝えるのは、高野山で出家した維盛が熊野三山を巡り、念仏を唱えて入水するという生涯の終わりである。

『建礼門院右京大夫集』にも、熊野の海へ身を投げたという知らせが残された。

その一方で、『源平盛衰記』は京都へ戻った後の病死説を伝えている。

維盛が那智の沖で実際に入水したかどうか、結論は出ていない。

ただ、平氏一門と都落ちした維盛が、やがて一門を離れ、その後まもなく消息を絶ったことは確かである。

そして京都には、帰りを待つ妻と二人の子供がいた。

六代――平氏嫡流に残された男子

維盛が一門から姿を消した後も、京都には妻子が残されていた。

嫡男の六代は、平正盛から忠盛、清盛、重盛、維盛と続く家系の六代目にあたることから、その名で呼ばれたとされる。

元暦2年(1185年)3月24日。

平氏は壇ノ浦で敗れた。

安徳天皇は海に沈み、宗盛は捕らわれ、知盛ら一門の武将も命を落とした。

その後、源氏方は京都に残る平氏一門の生き残りを捜索した。

『平家物語』巻第十二「六代」では、北条時政の手によって六代が捕らえられたと語られている。

六代は清盛の曾孫であり、重盛の嫡孫だった。

平氏嫡流につながる男子として、源氏方から警戒されたのである。

六代は処刑されるところだったが、高雄の文覚上人が助命を願い出たという。

文覚は頼朝との関係が深く、六代の身柄を引き取り、出家させることを申し出た。

『平家物語』によれば、文覚の働きかけによって六代は命を救われた。

しかし、その後も六代の立場は安定しなかった。

頼朝の死後、文覚が失脚すると、六代も再び捕らえられ、処刑されたと物語は伝える。

六代の処刑には年代や場所について異説があり、『吾妻鏡』にもその最期を直接伝える記事は見えない。

『平家物語』は、六代の死をもって清盛の嫡流が絶えたと結んでいる。

寿永2年7月25日、維盛が京都を離れたとき、六代は数え10歳だった。

父の鎧にしがみつき、連れていってほしいと泣いたと伝わる。

維盛はその子を京都に残し、斎藤五と斎藤六の兄弟に世話を託した。

翌年、高野山で出家した際にも、六代への伝言を残している。

平氏に伝わる鎧「唐皮」と太刀「小烏」。

もし一門が京都へ戻ることができたなら、その二つを六代へ与えてほしいという願いだった。

『平家物語』によれば、維盛はその後、熊野三山を巡り、那智の沖で海へ身を投げた。

出発前に松の木へ書き残したのは、祖父・清盛、父・重盛、そして自分の名だった。

六代の名は、そこにはなかった。

京都に残された妻と六代が、維盛の入水の知らせをいつ聞いたのかはわからない。

維盛は都落ちの日、妻に迎えを送ると約束した。

その約束が果たされることはなかった。

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