飛鳥時代

飛鳥時代

飛鳥時代は、仏教の受容や政治の主導権をめぐって対立した蘇我氏と物部氏の争い(丁未の乱、587年)に始まり、蘇我氏が権勢をふるった時代です。崇峻天皇暗殺、聖徳太子の登場を経て、645年には中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討った乙巳の変が起こり、政治体制は大きく転換します。さらに663年の白村江の戦いでの敗北、672年の皇位継承をめぐる壬申の乱など、対外戦争と内乱を通じて律令国家への道が形づくられていきました。

  1. 戦い・事件編【戦い・事件編】丁未の乱――蘇我馬子と物部守屋、最後の決戦

    用明天皇2年(587年)7月。 大和から河内へ、蘇我馬子を中心とする軍勢が進んだ。 軍には泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子ら皇族が加わり、大伴・阿倍・平群・坂本・春日などの豪族も兵を率いて従った。

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  2. 人物編【人物編 Vol.3】蘇我馬子――なぜ崇峻天皇を暗殺できたのか? 聖徳太子と飛鳥時代を動かした男

    592年11月3日。 第32代・崇峻天皇が殺された。 実行したのは、東漢直駒。 そして『日本書紀』は、その背後にいた人物の名を明確に記している。 蘇我馬子である。

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  3. 戦い・事件編【戦い・事件編】崇峻天皇暗殺――蘇我馬子、天皇を殺す

    崇峻天皇5年(592年)11月3日。 蘇我馬子は群臣にこう告げた。 「今日は東国からの調を天皇に献上する日である」 群臣が集まった。 そこで馬子は東漢直駒に命じ、崇峻天皇を殺害させた。

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  4. 人物編【人物編 Vol.4】崇峻天皇――なぜ蘇我馬子に暗殺されたのか? 臣下に殺された第32代天皇

    592年11月3日、大臣・蘇我馬子は群臣に「今日は東国からの調を献上する日である」と告げた。人々が集まるなか、馬子の命令を受けた東漢直駒が崇峻天皇を殺害した。

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  5. 人物編【人物編 Vol.5】聖徳太子(厩戸皇子)――推古天皇・蘇我馬子と築いた飛鳥時代の政治

    冠位十二階、十七条憲法、遣隋使。 日本史では、これらの政策とともに「聖徳太子」の名が語られてきた。 一度に多くの人の話を聞き分けた。幼いころから並外れた知恵を持っていた。

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  6. 戦い・事件編【戦い・事件編】山背大兄王襲撃――蘇我入鹿はなぜ聖徳太子の一族を滅ぼしたのか?

    皇極天皇2年(643年)11月。 大和国斑鳩に、蘇我入鹿が差し向けた軍勢が押し寄せた。 狙われたのは山背大兄王。

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  7. 人物編【人物編 Vol.6】山背大兄王――なぜ蘇我入鹿に滅ぼされたのか? 聖徳太子の一族、最後の日

    643年11月1日。 蘇我入鹿の命を受けた軍勢が、斑鳩の山背大兄王を襲撃した。 王に仕える三成は数十人の舎人を率いて迎え撃ち、攻撃側の将・土師娑婆連を戦死させる。

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  8. 戦い・事件編【戦い・事件編】乙巳の変――中大兄皇子はなぜ蘇我入鹿を殺したのか?

    皇極4年(645年)6月12日。 飛鳥の板蓋宮で、皇極天皇が出御する儀式が始まろうとしていた。 『日本書紀』は、この日を「三韓進調の日」と記す。

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  9. 人物編【人物編 Vol.7】蘇我蝦夷――蘇我馬子の権力を継いだ男、乙巳の変で自害

    645年6月。 飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿が殺された。 中大兄皇子、中臣鎌足らによる乙巳の変である。 入鹿の遺体は父・蘇我蝦夷のもとへ送られた。 蝦夷の周囲には、まだ武装した東漢氏らが集まっていた。

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  10. 人物編【人物編 Vol.8】蘇我入鹿――山背大兄王を滅ぼした男は、なぜ乙巳の変で殺されたのか

    645年6月12日。 飛鳥板蓋宮に、蘇我入鹿の姿があった。 『日本書紀』は入鹿を疑い深い人物とし、昼夜を問わず剣を身につけていたと記している。 中臣鎌足は、そのことを知っていた。

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  11. 人物編【人物編 Vol.9】蘇我倉山田石川麻呂――蘇我入鹿を乙巳の変で倒した右大臣は、なぜ4年後に自害したのか

    649年3月25日。 蘇我倉山田石川麻呂は、自ら造営を進めてきた山田寺にいた。 4年前の乙巳の変では、中大兄皇子や中臣鎌足とともに蘇我入鹿を倒し、孝徳天皇の即位後には右大臣となった人物である。

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  12. 人物編【人物編 Vol.10】中臣鎌足(藤原鎌足)――中大兄皇子と乙巳の変を起こし、藤原氏の祖となった男

    645年6月12日。 飛鳥板蓋宮で、中大兄皇子が長槍を握り、中臣鎌足が弓矢を手にして蘇我入鹿を待っていた。 宮門は閉じられ、入鹿は剣を外して宮中へ入っている。

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  13. 人物編【人物編 Vol.11】中大兄皇子(天智天皇)――蘇我入鹿を討った皇子は、なぜ23年後に即位したのか

    645年6月12日。 飛鳥板蓋宮で、中大兄皇子は長槍を手にして蘇我入鹿を待っていた。 皇極天皇が見守る宮中で入鹿が殺され、翌日には父・蘇我蝦夷も死んだ。 中大兄皇子は、この乙巳の変の中心人物だった。

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  14. 戦い・事件編【戦い・事件編】古人大兄皇子――乙巳の変後、なぜ中大兄皇子に討たれたのか

    645年6月12日。 飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿が殺された。 乙巳の変である。 入鹿の死を目の当たりにした一人の皇子が、自らの宮へ走って戻った。 舒明天皇の皇子・古人大兄皇子である。

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  15. 戦い・事件編【戦い・事件編】阿倍比羅夫の蝦夷遠征――658年、180艘の船団はなぜ北へ向かったのか

    meta_description:658年、阿倍比羅夫は180艘の船団を率いて北へ向かった。

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  16. 戦い・事件編【戦い・事件編】白村江の戦い――なぜ日本は戦ったのか?

    天智2年(663年)8月27日、朝鮮半島西南部の河口へ、倭国から渡ってきた水軍が近づいた。 そこには唐の水軍が待っていた。『日本書紀』が記す船数は170艘。

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  17. 戦い・事件編【戦い・事件編】白村江の敗戦後――天智天皇の防衛網と、壬申の乱への道

    天智2年(663年)8月。 倭国・百済復興軍は、朝鮮半島の白村江で唐・新羅軍に敗れた。 百済王として復興軍に迎えられていた豊璋は高句麗へ逃れ、百済再興の試みも終わりを迎える。

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  18. 戦い・事件編【戦い・事件編】壬申の乱(前編)――大海人皇子はなぜ吉野を脱出し、不破を押さえたのか?

    天智天皇10年(671年)10月、大海人皇子は近江大津宮を離れ、吉野へ向かった。 大海人皇子は天智天皇の同母弟である。

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  19. 戦い・事件編【戦い・事件編】壬申の乱(後編)――大和・近江の激戦、最後の瀬田橋へ

    672年7月22日、大海人皇子の軍が瀬田川へ到達した。 川の西側には、大友皇子と近江朝廷の群臣がいた。 『日本書紀』は、軍勢の後方が見えないほど兵が並び、旗が野を覆い、鉦や鼓の音が響いたと記している。

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