平安時代

平安時代

平安時代は、794年の平安京遷都に始まり、藤原氏を中心とする貴族政治が展開された時代です。皇位継承や政権抗争をめぐる薬子の変(810年)、承和の変・応天門の変、昌泰の変(901年、菅原道真の左遷)などの政変が相次ぐ一方、地方では武士が台頭していきます。特に10世紀には、関東で平将門が、瀬戸内海で藤原純友がほぼ同時に反乱を起こし(承平・天慶の乱)、武士という新たな勢力が歴史の表舞台に現れていきました。

  1. 人物編【人物編 Vol.15】桓武天皇――長岡京・平安京遷都と蝦夷征討、805年の徳政相論

    延暦24年(805)12月。 桓武天皇は、二人の参議に天下の政治について議論させた。 藤原緒嗣と菅野真道である。 緒嗣が問題として挙げたのは、「軍事」と「造作」だった。 東北で続けられてきた蝦夷征討。

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  2. 戦い・事件編【戦い・事件編】藤原種継暗殺事件――長岡京を揺るがした785年の政変と早良親王

    延暦4年(785)9月23日夜。 新都・長岡京の造営を担っていた藤原種継が、何者かに矢で射られた。 種継は桓武天皇の信任を受け、遷都後も続く宮都建設を指揮していた朝廷の中心人物だった。

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  3. 戦い・事件編【戦い・事件編】蝦夷征伐②――阿弖流為と坂上田村麻呂、774年から811年の三十八年戦争

    774年、海道蝦夷が桃生城を襲撃した。 伊治公呰麻呂の乱、阿弖流為が朝廷軍を破った巣伏の戦い、坂上田村麻呂の遠征、胆沢城造営、811年の文室綿麻呂による征討まで、38年間に及んだ朝廷と蝦夷の戦いを追う…

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  4. 人物編【人物編 Vol.13】坂上田村麻呂――阿弖流為の降伏と胆沢城、征夷大将軍から薬子の変まで

    【人物編 Vol.13】坂上田村麻呂――阿弖流為の降伏と胆沢城、征夷大将軍から薬子の変まで 延暦21年(802)4月。

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  5. 人物編【人物編 vol.14】阿弖流為とは何者か――巣伏の戦いで朝廷軍を破った蝦夷の首長

    奈良時代の終わりから平安時代の初めにかけて、朝廷は東北地方へと支配を広げていた。 その前に立ちはだかった人物の一人が、阿弖流為である。

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  6. 戦い・事件編【戦い・事件編】薬子の変――平城上皇と嵯峨天皇、兄弟が争った810年の政変

    大同5年(810年)9月6日、平城上皇は平安京から平城京へ都を戻すよう命じた。 桓武天皇が平安京へ遷都してから16年。 皇位にはすでに弟の嵯峨天皇がつき、平安京で政務を行っていた。

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  7. 人物編【人物編 vol.17】嵯峨天皇とは何をした天皇か――薬子の変と平安朝廷を変えた政治改革

    延暦13年(794)、桓武天皇は都を平安京へ移した。 平安京への遷都後も、朝廷の政治は揺れ動いた。 桓武天皇の死後、皇位を継いだ平城天皇は約3年で譲位する。

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  8. 人物編【人物編 vol.16】藤原薬子とは何者か――平城上皇を支え、薬子の変で命を絶った尚侍

    平安時代が始まって間もない9世紀初頭。 朝廷の政治に大きな影響力を持った一人の女性がいた。 藤原薬子である。 父は、長岡京造営の中心人物となった藤原種継。 夫は藤原縄主。

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  9. 戦い・事件編【戦い・事件編】承和の変から応天門の変へ――平安朝廷を変えた二つの政変

    ――嵯峨天皇の死後、藤原良房はどうやって権力を握ったのか 810年、嵯峨天皇は兄・平城上皇との対立を制し、薬子の変を終結させた。

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  10. 人物編【人物編Vol.18】藤原良房――臣下初の摂政、藤原北家の権力を築いた男

    ――「藤原氏の時代」は、この男から始まった 平安時代の政治史を語るとき、藤原道長の名前はあまりにも有名だ。 しかし、道長が権力の頂点に立つ約150年前。

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  11. 戦い・事件編【戦い・事件編】元慶の乱―蝦夷征討から約70年、なぜ秋田城は再び炎上したのか

    ――坂上田村麻呂の時代に終わったはずの戦いが、なぜ再び始まったのか 坂上田村麻呂が蝦夷征討を進め、胆沢城が築かれ、阿弖流為が降伏した。

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  12. 人物編【人物編vol.23】藤原保則――「反乱者の言い分は正しい」朝廷にそう言い切った男

    ―地方を治め、元慶の乱を鎮め、最後は公卿まで上り詰めた官人の生涯 平安時代の政治家と聞くと、藤原北家の権力者や天皇、あるいは菅原道真のような学者を思い浮かべる。

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  13. 戦い・事件編【戦い・事件編】阿衡の紛議――藤原基経はなぜ宇多天皇の政務を止めたのか?

    ――陽成天皇の退位から、宇多天皇と藤原基経の対立まで 元慶の乱が終わった。 出羽で起きた大規模な反乱を朝廷が鎮めたのは、元慶2年(878)。 そこからわずか9年。

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  14. 人物編【人物編vol.24】藤原基経――「天皇より強い?」朝廷の政務を止めた男、その驚異の権力

    平安時代の権力者といえば、藤原道長を思い浮かべる人が多い。 しかし、藤原氏が朝廷の政治を主導する仕組みを理解するなら、道長より100年以上前に目を向ける必要がある。 その人物が、藤原基経である。

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  15. 戦い・事件編【戦い・事件編】昌泰の変―右大臣・菅原道真は、なぜ一夜で大宰府へ送られたのか

    ――宇多天皇の側近から「謀反人」へ。平安朝廷を揺るがした菅原道真失脚の真相 平安時代の人物で、現代の日本人にも最も名前が知られている政治家の一人がいる。 菅原道真。

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  16. 人物編【人物編vol.25】菅原道真――右大臣から突然「大宰府送り」へ! 学問の神様の人生を一変させた「昌泰の変」

    ――学者として頂点へ。そして政治の頂点から、一気に転落した男 「学問の神様」と聞けば、菅原道真を思い浮かべる人は多い。 受験前に天満宮へ参拝する。梅の花を思い浮かべる。

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  17. 人物編【人物編vol.26】藤原時平――道真を追放した平安朝廷の権力者。39歳で迎えた突然の最期

    ――「道真を陥れた悪人」の正体は、平安時代を動かした政治家だった 菅原道真が大宰府へ左遷された901年。 その中心にいた人物が、藤原時平である。

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  18. 人物編【人物編vol.27】藤原忠平――兄の死で人生が激変。朝廷の頂点に立った男と、反乱者・平将門の因縁

    ――兄・時平が死んだ。その後、朝廷の頂点に立ったのは弟だった 909年、平安朝廷を揺るがした一人の政治家が死んだ。 藤原時平。

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  19. 人物編【人物編 vol.28】平国香――平将門の叔父、なぜ一族は殺し合ったのか。常陸に勢力を築いた平氏の男、その最期

    ――平将門の乱は、935年の一族抗争から始まった 平将門の乱というと、940年に平将門が「新皇」を名乗り、坂東諸国を制圧した場面が注目される。

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  20. 戦い・事件編【戦い・事件編】平将門の乱(前編)――反乱の原因とは? 935年の一族争いから常陸国府襲撃へ

    天慶2年(939)11月21日。 平将門は千余の兵を率い、常陸国府へ進んだ。 迎え撃った常陸国府側の兵は、『将門記』によれば3,000人。兵数では国府側が上回っていた。 戦いは将門軍の勝利に終わる。

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  21. 戦い・事件編【戦い・事件編】平将門の乱(後編)――「新皇」平将門はなぜ敗れたのか? 藤原秀郷・平貞盛との最後の戦い

    天慶3年(940)2月14日。 下総国幸島郡の北山で、平将門は最後の戦いに臨んだ。 将門のもとに集まった兵は400余人。 迎え撃つのは、藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲らの軍勢だった。

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  22. 人物編【人物編 vol.28】平将門――なぜ平氏は関東で力を持ったのか?「新皇」となった男、その血筋と東国の秘密

    平将門。 「新皇」を名乗り、坂東を揺るがし、最後は940年2月14日に討ち取られた男だ。 「関東で力を持った平将門が、朝廷に反旗を翻した」という姿が浮かぶ。

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  23. 人物編【人物編 vol.29】平貞盛――父を殺され、将門に追われた男。その血筋は180年後、平清盛へつながる

    ――「将門討伐の英雄」になるまで、貞盛は何度も敗れていた 平将門の乱を語るとき、どうしても平将門の強烈な人物像に目が向く。 「新皇」を名乗り、坂東を席巻した男。

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  24. 人物編【人物編Vol.33】藤原秀郷――朝廷に追われた男が、最後は平将門の首を取った

    「将門を討った男」の前半生は、意外なほど謎に包まれている 平安時代の東国を語るとき、藤原秀郷の名前は外せない。 平将門を討った武将。 後世には「俵藤太」の名前で知られ、三上山の大百足を退治した英雄。

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  25. 人物編【人物編Vol.32】源経基――「将門謀反」を朝廷に知らせた男。清和源氏の祖、その波乱の生涯

    皇族の血を引く「六孫王」 平安時代中期。 京都の朝廷で生きる男の中に、一人の皇族の子孫がいた。 源経基。 父は清和天皇の第六皇子、貞純親王。 そのため経基は、後世に「六孫王」と呼ばれる。

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  26. 戦い・事件編【戦い・事件編】藤原純友の乱(前編)――なぜ藤原純友は朝廷に反乱したのか? 海賊追捕から939年の蜂起へ

    天慶2年(939)12月26日。 摂津国須岐駅付近で、備前介・藤原子高の一行が襲撃された。 襲ったのは、藤原純友と結んだ藤原文元らだった。 子高は捕らえられ、その子も殺害されたと伝えられる。

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  27. 戦い・事件編【戦い・事件編】藤原純友の乱(後編)――大宰府を襲った藤原純友はなぜ敗れたのか? 博多津の決戦と最期

    天慶4年(941)5月。 藤原純友の軍勢が、九州の政治・外交・防衛を担う大宰府へ攻め込んだ。 政庁や周辺の役所は火災に見舞われ、財物が奪われる。

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  28. 人物編【人物編Vol.30】藤原純友――「海賊を討て」と命じられた男が、海賊を率いて朝廷に反旗! 最後に待っていた悲惨な結末

    ――藤原氏に生まれた男が、瀬戸内海を支配するまで 平安時代の日本で、朝廷を本気で震え上がらせた男がいる。 藤原純友。 藤原氏の一族に生まれた。朝廷の官人として伊予国へ赴任した。

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  29. 人物編【人物編Vol.31】小野好古――大宰府を奪った藤原純友を追撃!「海賊の大反乱」を終わらせた男の正体

    ――「純友を討った武将」は、その後どうなったのか 天慶4年(941)5月20日。 筑前国博多津。 瀬戸内海を荒らし、大宰府まで攻め落とした藤原純友の軍勢が、朝廷軍と激突した。

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  30. 戦い・事件編【戦い・事件編】安和の変――源満仲の密告で、左大臣・源高明はなぜ失脚したのか

    一通の密告が、朝廷の勢力図を変えた 平将門の乱からおよそ30年。 東国で武士たちが勢力を伸ばしていた頃、京都の朝廷では別の戦いが起きていた。 武器を手にした戦ではない。

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  31. 人物編【人物編Vol.34】源満仲――「謀反」を密告し左大臣を消した男。なぜ清和源氏はここから強くなったのか

    父は源経基。満仲が生まれた時代 源満仲は、延喜12年(912)4月10日に生まれたとされる。 父は源経基。 清和天皇の皇子・貞純親王の子にあたる人物で、臣籍に下って源氏となった清和源氏の一人である。

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  32. 戦い・事件編【戦い・事件編】尾張国郡司百姓等解文――31か条の告発が追い詰めた国司・藤原元命

    ――988年、尾張の人々は朝廷に「この国司を裁け」と訴えた 永延2年(988)11月8日。 尾張国から、朝廷へ一通の文書が提出された。 差出人は、尾張国の郡司・百姓ら。

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  33. 戦い・事件編【戦い・事件編】花山法皇襲撃事件――元天皇を襲撃。中関白家を転落させた「長徳の変」の発火点

    長徳2年(996)正月16日。 平安京で、朝廷を揺るがす事件が起きた。 狙われたのは、花山法皇。10年前まで天皇だった人物である。

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  34. 人物編【人物編 Vol.35】藤原隆家――花山法皇襲撃で失脚し、刀伊の入寇で九州を守った「闘う貴族」

    平安貴族と聞いて、どんな姿を思い浮かべるだろう。 華やかな装束をまとい、和歌を詠み、宮中で出世を競う男たち。 藤原隆家も、その世界の頂点に近い家に生まれた男である。 父は関白・藤原道隆。

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  35. 戦い・事件編【戦い・事件編】平維衡・平致頼の争い――「武士の時代」はここから始まったのか? 平清盛へつながる平氏の内紛

    998年、伊勢で平氏同士が激突した 長徳4年(998)。 伊勢国で、二人の武人が兵を率いて衝突した。 平維衡(たいらのこれひら)と平致頼(たいらのむねより)である。

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  36. 戦い・事件編【戦い・事件編】刀伊の入寇――1019年、日本が襲われた。対馬・壱岐を蹂躙した50余隻の船団

    元寇より254年前、日本はすでに海の向こうから大規模な襲撃を受けていた 寛仁3年(1019)。 京都では藤原道長が絶頂期を迎えていた。

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  37. 戦い・事件編【戦い・事件編】平忠常の乱――朝廷軍が3年苦戦した房総の大反乱と、源頼信の台頭

    長元元年(1028)。 東国で、朝廷を震撼させる大規模な反乱が始まった。 中心人物は、平忠常(たいらのただつね)。 上総・下総を中心に広大な勢力を築き、武蔵国の押領使も務めた坂東屈指の武人である。

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  38. 人物編【人物編 Vol.36】平忠常――房総を動かし、朝廷軍に3年抗った坂東の大武者

    長元元年(1028)、房総で一人の武士が朝廷の追討対象となった。 平忠常(たいらのただつね)である。 忠常は上総・下総に広大な勢力を築き、国司の命令さえ簡単には通らないほどの力を持っていた。

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  39. 人物編【人物編 Vol.37】平直方――平忠常を倒せなかった追討使と、河内源氏へ渡った「鎌倉」

    長元元年(1028)。 房総で平忠常の乱が起こると、朝廷は追討使の人選に入った。 候補には源頼信、平正輔、平直方、中原成通らが並ぶ。右大臣・藤原実資は源頼信を推した。

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  40. 人物編【人物編 Vol.39】源頼光――酒呑童子、四天王、金太郎――すべてが集まった「鬼退治の総大将」

    平安時代の武将、源頼光(みなもとのよりみつ)。 後世では「らいこう」の名でも知られる。 大江山で酒呑童子を討ち、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武という「頼光四天王」を従える。

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  41. 人物編【人物編 Vol.38】源頼信――3年続いた反乱を戦わず終わらせた、河内源氏最初の大物

    長元4年(1031)。 房総で約3年にわたって朝廷の追討軍に抗していた平忠常が、一人の武将のもとへ自らやって来た。 その男が、源頼信(みなもとのよりのぶ)である。 忠常はすでに出家していた。

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  42. 戦い・事件編【戦い・事件編】前九年の役・前編――なぜ安倍頼時は源頼義と戦ったのか? 奥六郡の支配者、その最期

    1057年――奥六郡の支配者、鳥海柵で死す 天喜5年(1057)7月。 傷ついた一人の男が、鳥海柵へ運び込まれた。 安倍頼時。

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  43. 戦い・事件編【戦い・事件編】前九年の役・後編――源頼義はなぜ壊滅寸前から安倍氏を滅ぼせたのか? 黄海から厨川柵へ

    1057年11月――頼時を失った安倍氏へ、頼義が迫る 前編はこちら。 天喜5年(1057)7月、奥六郡を率いた安倍頼時が死んだ。

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  44. 人物編【人物編Vol.40】安倍頼時――息子を差し出すことを拒んだ奥六郡の支配者

    1056年――頼時は、息子を渡さなかった 天喜4年(1056)。 源頼義は安倍頼時に、一つの要求を突きつけた。

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  45. 人物編【人物編Vol.41】源頼義――7騎まで追い詰められても戦いをやめなかった河内源氏の武将

    1057年――源頼義、残ったのは7騎 天喜5年(1057)11月。雪の奥州で、源頼義は死の瀬戸際にいた。 安倍貞任を討つために北上した頼義軍は、黄海で崩壊した。

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  46. 人物編【人物編Vol.42】清原武則――1万余の兵を率い、前九年の役を終わらせた出羽の実力者

    1062年――源頼義の前に、1万余の軍勢が現れた 康平5年(1062)。 前九年の役が始まってから12年目。 源頼義は、まだ安倍氏を倒せずにいた。

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  47. 戦い・事件編【戦い・事件編】延久蝦夷合戦――源頼俊と清原氏はなぜ北奥州へ進軍したのか?

    1070年――前九年の役から8年、さらに北で軍が動く 延久2年(1070)。 前九年の役が終わってから8年。陸奥国で、再び大規模な軍事行動が始まった。

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  48. 戦い・事件編【戦い・事件編】後三年合戦――前九年の役の勝者・清原氏は、なぜ内側から滅びたのか

    1087年11月14日――金沢柵、陥落 寛治元年(1087)11月14日。 出羽国の金沢柵が落ちた。現在の秋田県横手市金沢周辺である。

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  49. 人物編【人物編Vol.43】藤原清衡――父を殺され、妻子を失った男が「黄金の平泉」を築くまで

    1056年――戦乱の中に生まれた少年 天喜4年(1056)。 のちに奥州藤原氏の初代となる藤原清衡が生まれた。 父は藤原経清。 母は安倍頼時の娘である。

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  50. 人物編【人物編Vol.44】源義家――なぜ東国武士は、朝廷より「八幡太郎」を選んだのか

    1039年――河内源氏の長男として生まれる 長暦3年(1039)、源義家は生まれた。 父は源頼義、祖父は源頼信。母は平直方の娘である。

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  51. 戦い・事件編【戦い・事件編】源義親の乱――英雄・源義家の息子が朝敵へ転落した日

    1108年正月――源義家の後継者が、出雲で追い詰められる 嘉承3年(1108)正月。 山陰道を西へ進んできた軍勢が、出雲国へ入った。 大将は平正盛。 平清盛の祖父として知られる男である。

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  52. 人物編【人物編Vol.45】源義親――父は源義家、息子は為義――源氏の名門に生まれた「問題児」

    1108年1月――父の名声とは正反対の最期 天仁元年(1108)1月。 出雲で一人の武将が討たれた。 源義親。 父は「八幡太郎」源義家。

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  53. 人物編【人物編Vol.46】平正盛――源義家の息子を討ち、平氏台頭の道を開いた男

    1108年――源義家の息子を討った男 天仁元年(1108)正月。 出雲国で、一つの戦いが終わった。 討たれたのは源義親。

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  54. 戦い・事件編【戦い・事件編】源義忠暗殺事件――源氏の棟梁を殺したのは誰だったのか? 河内源氏を崩壊させた1109年の暗殺

    1109年2月――河内源氏の棟梁が、京都で斬られた 天仁2年(1109)2月。 京都で、河内源氏の棟梁が何者かに襲われた。 源義忠。 父は「八幡太郎」源義家。

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  55. 人物編【人物編Vol.48】源義光――武田氏・佐竹氏へつながった「新羅三郎」の光と影

    1087年――兄のため、官職を捨てて奥州へ 寛治元年(1087)、源義光は京都にいた。 このとき、陸奥では兄・源義家が清原家衡・武衡らと戦っている。 後世「後三年合戦」と呼ばれる戦争である。

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  56. 戦い・事件編【戦い・事件編】大蔵合戦――15歳の「悪源太」義平、叔父・義賢を討つ

    久寿2年(1155)8月16日、武蔵国で、河内源氏の叔父と甥が戦った。 叔父は、源為義の子・源義賢。 甥は、義賢の兄・源義朝の長男、源義平である。 義平は1141年生まれで、このとき数え15歳だった。

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  57. 戦い・事件編【戦い・事件編】保元の乱――勝者となった義朝と清盛 父子・兄弟・叔父甥が殺し合った、京都の四時間

    保元元年(1156)7月11日未明。 夜明け前の京都を、三つの武士団が東へ進んでいた。 二条大路を進む平清盛、300余騎。 大炊御門大路を進む源義朝、200余騎。 近衛大路を進む源義康、100余騎。

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  58. 人物編【人物編Vol.49】源為義――息子・義朝に処刑された「八幡太郎」の孫

    保元元年(1156)7月30日。 京都北郊の船岡山で、源氏の武者たちが処刑された。 中心にいたのは源為義。 祖父は「八幡太郎」の名で知られた源義家。父は朝廷から追討された源義親。

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  59. 人物編【人物編Vol.50】平忠盛――源為義と同い年、なぜ平氏だけが出世できたのか?

    仁平3年(1153)1月15日。 平忠盛が58歳で死んだ。 死の直前まで、官位は正四位上。官職は刑部卿。公卿の一歩手前まで来ていた。

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  60. 戦い・事件編【戦い・事件編】平治の乱――源義朝はなぜ平清盛に敗れたのか?

    平治元年(1159)12月9日、夜。 京都の三条殿を、武装した兵が包囲した。 ここは後白河上皇の御所である。院近臣の藤原信頼と、その軍事力を支える源義朝が兵を動かした。

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  61. 人物編【人物編Vol.51】源義朝――平治の乱で平清盛に敗れた、頼朝の父

    平治2年(1160)正月3日。 尾張国知多郡野間で、一人の武将が殺された。 源義朝。 数え38歳だった。 ほんの数日前まで、義朝は京都で軍勢を率いていた。

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  62. 人物編【人物編Vol.52】源義平――15歳で叔父を討ち、20歳で平清盛を狙った「悪源太」

    永暦元年(1160)正月。 京都・六条河原に、一人の若い武者が引き出された。 源義平。 源義朝の長男で、源頼朝の異母兄にあたる。 前年12月の平治の乱では、父・義朝とともに平清盛方と戦った。

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  63. 戦い・事件編【戦い・事件編】鹿ケ谷の陰謀――密議、裏切り、処刑――平清盛への反乱計画

    安元3年(1177)6月1日。 京都には、すでに武装した兵が集められていた。 標的は比叡山延暦寺。

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  64. 人物編【人物編Vol.53】平重盛――「忠か、孝か」父・清盛に逆らった平氏の嫡男

    平清盛の死後、平氏一門を率いたのは三男の宗盛だった。 そのため宗盛が初めから清盛の後継者だったように見えるが、本来その位置にいたのは長男の平重盛である。

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  65. 戦い・事件編【戦い・事件編】治承三年の政変――平清盛と後白河法皇、20年の協力関係が崩壊

    治承3年(1179年)11月14日、平清盛が福原から京都へ入った。 『山槐記』は、その軍勢を数千と記している。

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  66. 戦い・事件編【戦い・事件編】以仁王の挙兵――77歳の源頼政、宇治橋で平氏に挑む

    治承4年(1180年)5月26日、源頼政は宇治の平等院で最期を迎えた。 数え77歳。2年前には従三位に昇り、「源三位」と呼ばれた老将である。

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  67. 人物編【人物編Vol.54】源頼政――平清盛の時代を生き抜いた77歳の老将は、なぜ最後に平氏を裏切ったのか?

    治承4年(1180年)5月、京都では園城寺を攻める軍勢の編成が進んでいた。 後白河法皇の皇子・以仁王が寺へ逃げ込み、平氏追討を掲げたのである。

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  68. 人物編【人物編Vol.55】以仁王――親王になれなかった皇子が、平氏追討の火をつけるまで

    治承4年(1180年)5月26日、以仁王は奈良へ向かって南山城を走っていた。 前夜に園城寺を出て、宇治では追ってきた平氏軍と戦っている。源頼政は平等院に残り、一族とともに最期を迎えた。

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  69. 戦い・事件編【戦い・事件編】福原遷都――わずか半年で終わった、平清盛「海の都」の計画

    治承4年(1180年)5月26日、宇治で平氏軍が勝利した。 源頼政は平等院で自害し、以仁王も奈良へ向かう途中の南山城で命を落とす。園城寺を巻き込んだ反乱は、ひとまず鎮圧された。

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  70. 人物編【人物編Vol.56】平清盛――武士で初めて太政大臣となった男が築いた「平氏の時代」

    治承4年(1180年)11月11日、数え3歳の安徳天皇が福原の新しい内裏へ入った。 京都を出てから、すでに5か月が過ぎている。天皇が最初に身を寄せたのは平頼盛の邸で、新しい御所はまだ影も形もなかった。

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  71. 戦い・事件編【戦い・事件編】石橋山の戦い――20年耐えた源頼朝、最初の挙兵はなぜ大敗したのか?

    治承4年(1180年)8月23日、相模国石橋山。 山の斜面に陣を取った源頼朝の軍勢は、『吾妻鏡』によれば300余騎だった。 谷を一つ隔てた向こうには大庭景親の3000余騎。

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  72. 戦い・事件編【戦い・事件編】富士川の戦い――石橋山で大敗した頼朝、平家追討軍と本格的な初戦

    治承4年(1180年)10月20日の夜、駿河国を流れる富士川の西岸に平氏の追討軍がいた。 大将は平維盛。前年に亡くなった平重盛の嫡男で、数え23歳になる。

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  73. 戦い・事件編【戦い・事件編】金砂城の戦い――平氏を追わず「坂東平定」へ、源頼朝が佐竹氏を攻める

    治承4年(1180)10月20日、駿河国の富士川から平維盛の追討軍が退いていった。 源頼朝はそのまま西へ進み、京都を目指そうとした。

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  74. 戦い・事件編【戦い・事件編】南都焼討――平重衡、東大寺と興福寺を焼く

    治承4年(1180年)12月28日。 奈良の北側、奈良坂と般若寺の周辺では朝から戦いが続いていた。 京都から南下してきた平氏の軍勢を率いるのは、平清盛の五男・平重衡。数え24歳である。

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  75. 戦い・事件編【戦い・事件編】墨俣川の戦い――源行家の大敗と義円の死

    治承5年(1181年)3月10日、美濃と尾張の境を流れる墨俣川を挟み、源平両軍が向かい合った。 西から進んできたのは、平重衡を中心とする平氏軍である。

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  76. 戦い・事件編【戦い・事件編】横田河原の戦い――木曾義仲、越後の大軍を破る

    治承5年(1181年)6月。 越後から信濃へ、大軍が南下してきた。 率いるのは城四郎資職。 越後で勢力を広げてきた城氏の棟梁で、平氏政権に属する有力武士だった。

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  77. 戦い・事件編【戦い・事件編】火打城の戦い――内通で崩れた、木曾義仲の北陸防衛線

    寿永2年(1183年)4月、平氏は北陸道へ追討軍を送った。 前年まで飢饉の影響もあり、大規模な軍事行動は思うように進んでいなかった。

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  78. 戦い・事件編【戦い・事件編】倶利伽羅峠の戦い――木曾義仲、平氏の大軍を砺波山で破る

    寿永2年(1183年)5月11日、加賀と越中の国境に連なる砺波山で、木曾義仲と平氏の北陸道追討軍が激突した。

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  79. 戦い・事件編【戦い・事件編】篠原の戦い――平氏軍、北陸で崩壊 斎藤実盛の最期

    寿永2年(1183年)5月、倶利伽羅峠で敗れた平氏軍は加賀へ退いた。 木曾義仲はその後を追う。 平氏の北陸追討軍は4月に京都を出発し、越前の火打城を攻略して加賀、さらに越中へ進んでいた。

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  80. 戦い・事件編【戦い・事件編】平氏の都落ち――安徳天皇と三種の神器を連れ、京都を去った平家一門

    寿永2年(1183年)7月25日。 平氏一門は京都を去った。 一門が奉じたのは、数え6歳の安徳天皇である。 内侍所(神鏡)・宝剣・神璽の三種の神器も、ともに京都を離れた。 平清盛が亡くなってから2年。

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  81. 戦い・事件編【戦い・事件編】水島の戦い――日食で空が暗転、都落ちした平氏が木曾義仲軍を破った海戦

    寿永2年(1183年)閏10月1日、備中国水島。 現在の岡山県倉敷市玉島付近の海上に、木曾義仲方と平氏の船団が向かい合った。 『平家物語』では、義仲方の船は500余艘。

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  82. 戦い・事件編【戦い・事件編】室山の戦い――源行家はなぜ大敗した?平氏2万騎「五段構え」の包囲戦

    寿永2年(1183年)11月、播磨国の室山。 源行家は数百騎を率い、西国で勢力を盛り返していた平氏軍と対峙した。 平氏が京都を離れてから、まだ4か月ほどしか経っていない。

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  83. 戦い・事件編【戦い・事件編】法住寺合戦――木曾義仲はなぜ後白河法皇を襲ったのか? 1183年、院御所を焼いた京都決戦

    1183年11月、木曾義仲は後白河法皇の院御所・法住寺殿を攻撃した。 平家を京都から退かせた義仲は、なぜ朝廷へ武力を向けたのか。

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  84. 戦い・事件編【戦い・事件編】宇治川の戦い――源義経・範頼VS木曾義仲、京都をめぐる源氏同士の決戦

    寿永3年(1184)1月20日。 京都へ続く二つの重要な道で、木曾義仲の運命を大きく変える戦いが始まった。 山城国・宇治。 近江国・瀬田。 東国から迫ってきたのは、源頼朝が送り込んだ軍勢である。

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  85. 戦い・事件編【戦い・事件編】粟津の戦い――木曾義仲VS頼朝方、今井兼平・巴御前と迎えた最期

    寿永3年(1184)1月20日。 宇治と瀬田の防衛線を突破された木曾義仲は、京都を離れた。 前年7月。 平家を都から退かせる形で京都へ入った義仲は、わずか半年ほどでその支配を失ったのである。

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  86. 人物編【人物編Vol.60】木曾義仲(源義仲)――倶利伽羅峠で平家を破り、31歳で粟津に散った源氏の武将

    寿永3年(1184)1月20日。 近江国粟津。 京都から退いた一人の武将が、頼朝方の追撃を受けて討たれた。 木曾義仲。 数え31歳だった。 そのわずか半年前。

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