第91回
1087年――兄のため、官職を捨てて奥州へ
寛治元年(1087)、源義光は京都にいた。
このとき、陸奥では兄・源義家が清原家衡・武衡らと戦っている。
後世「後三年合戦」と呼ばれる戦争である。
前年、義家は沼柵を攻めて敗れていた。冬の出羽で雪と兵糧不足に苦しみ、兵の中には馬を殺して肉を食べた者までいたと伝わる。
その話が京都へ届いた。
義光は朝廷に願い出た。
奥州へ行き、兄を助けたい。
当時、義光は左兵衛尉を務めていた。
ところが願いは認められなかった。
義光は、それでも奥州へ向かった。
義光は義家救援のため陸奥へ下向し、その結果、左兵衛尉を解官されたとされる史料と、朝廷に救援を願い出たものの認められず、官を辞して兄のもとへ向かったと説明されている史料がある。
義光は42歳ほど。
若者が血気にはやって飛び出した話ではない。
すでに朝廷の官職を持つ軍事貴族が、京都での立場を危うくしてまで奥州へ向かったのである。
そして同年11月14日、金沢柵が落ちる。
義家は家衡・武衡を倒し、後三年合戦を終わらせた。
この一件によって義光は、後世まで、
「兄を救うため官職を捨てた新羅三郎」として語られるようになった。
ただし、源義光の生涯をここだけで終わらせると、人物像の半分しか見えない。
義光はその後、常陸を中心に東国へ勢力を伸ばす。
その血筋から武田氏、佐竹氏、小笠原氏などが生まれる。
さらに晩年に近い1109年、甥の源義忠が暗殺されると、後世の史料では義光自身が黒幕だったという話まで現れる。
兄のもとへ駆けつけた男。
一方で、源氏一族の暗殺事件に名前が残る男。
その両方の顔を持つ人物が、新羅三郎義光である。
1045年――源頼義の三男として生まれる
源義光は寛徳2年(1045)に生まれた。
父は源頼義。
前九年合戦で安倍氏と戦い、1062年に厨川柵を落とした河内源氏の武将である。
母は上野介・平直方の娘。
兄の源義家、源義綱と同母だったとされる。
義光は三男である。
長男・義家は後に「八幡太郎」。次男・義綱は「賀茂次郎」。
そして三男の義光が、「新羅三郎」と呼ばれた。
三兄弟はいずれも武門として名を残したが、その後の歩みはかなり違う。
義家の系統からは源為義、義朝、頼朝へと河内源氏の嫡流が続く。
義光の系統は、常陸や甲斐、信濃へ広がっていった。
後世の武家社会を見ると、この三男の血筋が驚くほど広い地域へ伸びている。
なぜ「新羅三郎」なのか
義光が元服した場所は近江国の園城寺。
現在の滋賀県大津市にある三井寺である。
園城寺には、新羅明神を祀る新羅善神堂がある。
義光はその新羅明神の社前で元服したため、
新羅三郎義光と呼ばれるようになった。
大津市も、新羅善神堂の神前で義光が元服し、新羅三郎と称したことを紹介している。現在も新羅善神堂の南西には義光の墓と伝わる場所がある。
この名前は、その後の義光流源氏にとって大きな意味を持った。
特に甲斐源氏は義光を自らの始祖として強く意識した。
義光が生きた11世紀から何百年も後、武田氏の時代になっても「新羅三郎」の名が家の祖先として残り続ける。
前九年合戦では、兄のような活躍は確認できない
義光が生まれた1045年。
その6年後の1051年、前九年合戦が始まった。
安倍氏と戦った父・頼義に従い、兄・義家は奥州の戦場へ出ている。
1057年の黄海では、義家は数え19歳。
頼義軍が安倍貞任に大敗し、父の周囲にわずか7騎ほどしか残らなくなる戦いを経験した。
義光はこのとき数え13歳。
1062年の厨川柵陥落でも18歳である。
義光が前九年合戦の主要な戦場で兄と同じように戦ったことを示す確かな記録は乏しい。
つまり義光は、父・頼義と兄・義家が奥州で名を上げていく時期を、やや後ろから見ていたことになる。
その義光が自分の名を大きく歴史に刻むのは、それから25年後だった。
武人でありながら、笙を吹いた
義光には、源氏の武将としては意外に見える一面がある。
笙の名手だった。
笙は雅楽で用いられる管楽器である。
現在の感覚では、弓馬に優れた武将が宮廷音楽の名手でもあるという組み合わせに違和感があるかもしれない。
平安時代の義光は、地方だけで暮らす武士ではない。
京都の朝廷社会で官職を持つ軍事貴族だった。
宮廷文化の中で生きる以上、音楽や和歌などの教養も人間関係や評価に関わってくる。
義光は笙を豊原氏から学んだ。
『日本大百科全書』では豊原時忠を師とし、「交丸」と呼ばれる名器を与えられたことが紹介されている。
後世、義光の武勇以上に知られる文化的な逸話も、この笙から生まれた。
足柄山――戦場へ向かう途中、秘曲を伝える
義光が後三年合戦へ向かった1087年。
この旅にまつわる有名な話が『古今著聞集』に残っている。
義光のあとを、雅楽家の豊原時秋が追ってきた。
義光は何度も帰るように言った。
それでも時秋は離れない。
一行が足柄山まで来たところで、義光は時秋の思いを察したという。
義光が知っている笙の秘曲を、時秋はまだ受け継いでいなかった。
義光はこれから奥州の戦場へ向かう。
もし死ねば、その曲が途絶える。
そこで義光は足柄山で笙の秘曲を時秋へ伝え、京都へ帰したという話である。
ここは義光と同時代の日記に記された事実ではなく、後世の説話である。
それでも義光という人物のイメージを考えるうえでは非常に面白い。
兄を助けるため戦場へ向かう。途中で自分が死ぬ可能性を考える。
そして失われるかもしれない音楽を、次の世代へ渡す。
源義光は後世、弓を引く武将であり、笙を吹く文化人として記憶された。
1087年――金沢柵へ
義光が奥州へ着いたころ、後三年合戦は最後の局面に入っていた。
義家側には藤原清衡、吉彦秀武、東国武士たちがいる。
対するのは、金沢柵に籠もる清原家衡と武衡。
現在の秋田県横手市金沢周辺である。
義光は兄の軍に加わった。
ただし、戦争を最初から指揮していたのは義家であり、清衡や吉彦秀武らも重要な役割を果たしている。
義光が加わったのは最終段階である。
金沢柵では正面攻撃が難航した。義家側は兵糧攻めへ移る。
籠城側は飢え、最後には柵が陥落。
武衡は捕らえられて斬首され、家衡も逃亡の末に討たれた。
義光が官職を投げ打つようにして向かった戦争は、同年11月14日に終わった。
後三年合戦の勝利――しかし朝廷は恩賞を出さなかった
後三年合戦は、前九年合戦とは性格が違った。
朝廷が正式に清原家衡・武衡討伐を命じた国家的な戦争ではない。
清原氏の内紛に、陸奥守の義家が介入した形である。
そのため、戦後に義家が求めた恩賞は朝廷から認められなかった。
義光も、兄を助けに行ったことで直ちに大きな官位を得たわけではない。
それでも義光の名は残った。
理由は単純である。
朝廷の命令で動いたのではなく、兄が苦戦しているから奥州へ行った。
この行動が、源氏一門の結びつきを象徴する逸話になったからである。
後世の武士が新羅三郎を語るとき、ここが義光の「光」の部分になった。
京都へ戻った義光――その後は東国へ
後三年合戦のあと、義光は京都へ戻った。
その後、
刑部丞
左衛門尉
常陸介
甲斐守
などを歴任した。
義光の後半生で重要なのが、この常陸との関係である。
兄・義家の系統が河内源氏の嫡流として東国武士との結びつきを強めていく一方、義光は常陸を中心として独自の勢力を伸ばした。
山梨県立博物館は、義光が常陸国から陸奥南部にかけて領地を持っていたと説明している。
この東国進出こそ、義光の子孫が後世の武田氏や佐竹氏へつながっていく土台となった。
常陸――義光の子たちを配置する
義光には複数の男子がいた。
そのうち後世の武家史で特に重要なのが、
義業 義清である。
義光は常陸で得た地盤を、子どもたちへつないでいった。
長男・義業は佐竹郷と結びつく。
次男・義清は武田郷へ入った。
現在の茨城県である。
ここが面白い。
「武田氏」と聞けば、多くの人が最初に思い浮かべるのは甲斐、現在の山梨県だろう。
しかし武田氏の名につながる最初の「武田」は、常陸国にあった。
山梨県立博物館も、武田家のルーツが現在の茨城県にあったことを明確に紹介している。
武田氏へ――義光自身は甲斐へ土着していない
源義光を、「武田氏の祖」と呼ぶことは多い。
系譜上はその通りである。
ただし、義光本人が甲斐へ移住して武田氏を名乗ったわけではない。
ここは分けておきたい。
義光の子・義清が常陸国武田郷を受け継ぎ、「武田冠者」と呼ばれる。
その後、義清とその子・清光は常陸の在地勢力と対立した。
大治5年(1130)ごろ、義清・清光父子は甲斐国市河荘へ移され、そこから甲斐へ勢力を伸ばしていく。
山梨県の資料でも、甲斐へ実際に土着した最初の世代を義清と清光としている。
さらに清光の子どもたちから、
武田、加賀美、安田、小笠原、南部などの諸氏が広がっていった。
その武田氏のずっと後の子孫に、武田信玄が現れる。
つまり義光は甲斐源氏全体の源流となった人物である。
佐竹氏へ――こちらも始まりは孫の昌義
もう一つの大きな系統が佐竹氏である。
義光の長男・義業は常陸国久慈郡佐竹郷を受け継いだ。
その子が昌義。義光の孫である。
昌義が常陸へ土着し、「佐竹」を名乗ったことから佐竹氏が始まったとされる。
常陸太田市の系図でも、
源頼義
↓
源義光
↓
義業
↓
昌義
という流れを示し、昌義を佐竹氏初代としている。
佐竹氏はその後、常陸の大勢力となる。
戦国時代には佐竹義重、佐竹義宣が登場。
関ヶ原の戦い後には秋田へ移り、江戸時代を通じて久保田藩を支配した。
義光から数えれば、何百年も後の話である。
しかし「新羅三郎の子孫」という意識は、武田氏だけでなく佐竹氏にもつながっていった。
義光の子孫が東国へ広がった理由
義光の重要性は、自分自身が巨大な国を支配したことではない。
東国へ自分の一族を根づかせたことにある。
常陸介などの官職を通して東国へ入る。
在地勢力と婚姻関係を結ぶ。子どもたちへ土地をつなぐ。
その子や孫が現地の地名を名字にする。
こうして義光流の源氏は、京都から離れた各地で武士団へ変わっていった。
義光の子孫が、武田氏。佐竹氏。小笠原氏。南部氏。
などへ広がった。
兄・義家の血筋からは頼朝が出る。
弟・義光の血筋からは、武田や佐竹が出る。
源頼義の家から分かれた兄弟の系統が、鎌倉時代以降の東国を別々の形で支えることになる。
1106年――兄・義家が死ぬ
嘉承元年(1106)兄・源義家が死去した。
数え68歳。
後三年合戦で義光が官職を捨ててまで助けに行った兄である。
義家の死後、河内源氏では短期間に大事件が続いた。
1108年、義家の子・源義親が、平正盛によって討たれたと報告される。
1109年、今度は義家の後継者である源義忠が暗殺された。
そして、その犯人として疑われたのが、義光の兄・源義綱の一族である。
義綱の子・義明が討たれ、義綱一族は近江へ逃亡。
追討を受け、息子たちは死に、義綱自身は佐渡へ流された。
わずか数年間で、河内源氏の有力者が次々と消えた。
そして後世になると、この1109年の暗殺事件に義光の名前まで登場する。
源義忠暗殺――義光は本当に黒幕だったのか
後世の系図史料などには、
「源義光が義忠暗殺を仕組んだ」という話が残る。
義忠は義光にとって甥である。
後世の伝承では、義光側の人物が義忠を襲い、さらに兄・義綱の子である義明へ嫌疑が向くよう工作したという筋書きが作られている。
結果だけを見ると、確かに異様である。
義忠が死ぬ。義明が討たれる。義綱の息子たちも死ぬ。義綱本人は流罪となる。
河内源氏の有力者たちが、一つの事件をきっかけにまとめて消えている。
だから後世、「誰がこの事件で得をしたのか」という視点から義光黒幕説が強く語られるようになった。
義光についての人名辞典にも、「義忠暗殺の黒幕とも伝えられる」と明記されている。
同時代史料は、義光を「犯人」と確定していない
義忠暗殺事件について重要なのは、事件当時の記録と、後世の伝承を分けることである。
1109年当時に近い史料からは、
義忠が殺害されたこと。義綱一族に嫌疑が向いたこと。義綱一族が追討されたこと。
といった事件の流れを追える。
一方、「すべてを義光が裏で操った」という詳細な筋書きは、後世の史料によって強く形作られたものである。
そのため、義光を真犯人として決めてしまうことはできない。
現代でもこの問題は研究対象であり、佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」という論文が一本の研究テーマとして成立しているほど、単純には決着していない。
義光の記事で重要なのは、
「兄を救った忠義の武将だったのに、後世には甥を殺した黒幕としても語られた」
という人物像の大きな落差である。
なぜ、これほど人物像が変わったのか
後三年合戦の義光を見ると、非常に分かりやすい。
兄の苦戦を聞く。奥州行きを願う。朝廷が認めない。
それでも行く。
後世の人々から見れば、これほど「兄弟愛」を描きやすい材料はない。
一方、1109年以後の源氏を見ると、義光は東国に独自の地盤を持つ一門の実力者である。
兄・義綱にも勢力がある。
甥・義忠は河内源氏の嫡流を継いでいる。
源氏一門の内部には、土地、官職、家格をめぐる競争があった。
義光は、単純に「義家の弟」という立場で生涯を終えた人物ではなかった。
自分の子や孫へ残す勢力を持つ、一家の祖になっていたのである。
だからこそ後世、義忠暗殺の裏側を説明しようとした人々が義光へ目を向けた。
「新羅三郎」は、兄思いの弟であると同時に、源氏一門の激しい競争を生きた軍事貴族でもあった。
「武田信玄の祖先」だけでは見えない義光
源義光の記事では、武田氏とのつながりだけを強調しすぎても人物像が薄くなる。
義光本人が武田信玄のような戦国大名だったわけではない。
常陸一国を完全に支配したわけでもない。
鎌倉幕府のような政権を作ったわけでもない。
彼が行ったのは、その前段階である。
京都で官職を得る。東国の国司や介として赴く。現地勢力と結びつく。
子どもたちに土地や人脈を渡す。
その子孫が現地へ根を張る。
11世紀の義光と16世紀の武田信玄との間には、約500年ある。
その500年の最初にいるのが新羅三郎義光だった。
晩年――義光は長命だった
義光は後三年合戦のあとも、約40年生きた。
その間に、
刑部丞。左衛門尉。常陸介。甲斐守。刑部少輔などを歴任したと伝わる。
兄・義家は1106年に死んだ。
義綱は1109年の事件によって失脚。
甥・義忠も同年に死亡する。
河内源氏の中心人物が次々と消えていくなか、義光は長寿を保った。
そして大治2年(1127)10月20日。
源義光は死去した。
1045年生まれ。
数え年で83歳である。
平安時代の武将としては、非常に長い生涯だった。
義光が死んだころ、子孫はすでに東国へ広がっていた
義光が1127年に死んだ時点で、彼の一族はすでに常陸へ根を張っていた。
長男・義業の系統は佐竹郷へ。
義清の系統は武田郷から甲斐へ向かう。
義光本人の死によって、その勢力が消える状態ではなくなっていた。
ここが、義光の大きな功績である。
一代の武勇で名を残した武将は多い。
義光の場合、その名前が何百年も残った理由は、子孫が各地で生き残り続けたことにある。
甲斐では武田氏。常陸では佐竹氏。信濃では小笠原氏。
さらに南部氏などにも義光流の系譜がつながっていく。
山梨県立博物館も、甲斐源氏が義光を始祖として仰いでいたことを紹介している。
兄のために奥州へ走り、子孫は戦国時代まで残った
1087年。
42歳ほどの義光は、朝廷の許可が得られないまま奥州へ向かった。
兄・義家を助けるためだった。
それから40年。
義光は常陸を中心に東国へ勢力を広げ、子どもたちへその地盤を渡した。
一方、晩年には甥・義忠の暗殺をめぐり、後世に黒幕として名前まで残される。
武勇。兄弟愛。笙の教養。東国経営。一族内の競争。
そして暗殺疑惑。
義光の人生には、平安時代後期の武士が持っていたいくつもの顔が重なっている。
後世の武田氏や佐竹氏が義光を祖先として仰いだのも、単に有名な源氏だったからではない。
朝廷に仕える軍事貴族から、東国に根を張る武士の一族へ。
その境目を生き、次の時代へ血筋を残した人物だったからである。
源義光が死んでから400年以上後。
甲斐では武田信玄が現れ、常陸では佐竹義重が戦国大名として勢力を広げる。
系譜をさかのぼれば、たどり着く名前は同じだった。
新羅三郎――源義光。


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