第54回
天慶3年(940)2月14日。
下総国幸島郡の北山で、平将門は最後の戦いに臨んだ。
将門のもとに集まった兵は400余人。
激しい風が吹き荒れるなか、将門軍は騎馬で攻め込み、追討軍を崩した。
『将門記』によれば、秀郷・貞盛側では2,900人が逃走し、戦場に残った精兵は300余人だったという。
将門軍は逃げる敵を追った。
ところが、戦場の風向きが変わる。
今度は秀郷・貞盛側が風を受け、300余人の精兵が反撃した。
将門も甲冑をまとい、馬を駆って戦った。
その最中、一本の矢が将門に命中する。
前年12月19日に「新皇」を称してから、2か月にも満たなかった。
坂東の国府を次々と掌握した将門の勢力は、なぜこれほど短期間で崩れたのか。
その経過は、「新皇」となった直後から始まっていた。
1.939年12月――「新皇」となった平将門
天慶2年(939)11月21日、将門は常陸国府を制圧した。
12月11日には下野国府、15日には上野国府へ進み、各国の印鎰を掌握する。
そして12月19日。
上野国府で、一人の巫女が八幡大菩薩の使者として将門に皇位を授けると告げた。
『将門記』は、これ以後の将門を「新皇」と記している。京都の朱雀天皇については「本皇」「本天皇」と記され、将門が新たな皇位を掲げたことが分かる。
将門は坂東諸国に新たな国司を任命した。
下野守・平将頼。
上野守・多治経明。
常陸介・藤原玄茂。
上総介・興世王。
安房守・文屋好立。
相模介・平将文。
伊豆守・平将武。
下総守・平将為。
さらに下総国に王城を築き、大臣や納言、参議などを置く構想も描かれている。
坂東諸国の国府を押さえた将門は、独自の統治体制を形にし始めた。
2.弟・将平の諫言
将門の方針を、一族全員が支持していたわけではなかった。
『将門記』などによれば、弟の平将平は兄を諫めた。
帝王の位は天から与えられるものであり、慎重に考えるべきだと訴えたのである。
将門はその言葉を受け入れなかった。
わずか半年ほど前、武蔵国で謀反を疑われた将門は、5か国の文書を集めて京都へ弁明していた。
その将門が939年末には国府を掌握し、「新皇」を称するまでになった。
坂東で起きた急激な変化は、京都にも伝わっていく。
3.京都へ届いた将門謀反の報
12月27日。
下総国から、将門と興世王が謀反を起こし、東国を攻略しているとの報告が京都へ届いた。
29日には、将門の兵によって上野介・藤原尚範、下野守・藤原弘雅らが追われたとの続報も届く。
天慶3年(940)に入ると、朝廷は将門追討を本格化させた。
1月11日、東海道・東山道の諸国に官符が下され、将門追討で大きな功績を挙げた者には特別な恩賞を与える方針が示された。
1月19日には参議・藤原忠文が征東大将軍に任命され、2月8日に節刀を与えられて京都を出発した。
中央からも将門を討つ軍勢が坂東へ向かい始めた。
一方、坂東では藤原忠文の到着を待たず、将門との決着へ向かう者たちが動いていた。
4.平貞盛と藤原秀郷
その中心にいたのが平貞盛だった。
貞盛の父・平国香は、935年に始まった一連の戦いのなかで死亡している。
その後も貞盛は将門と戦い、938年には京都へ向かう途中で信濃国まで追撃された。
将門との抗争を長く続けてきた人物である。
貞盛と手を結んだのが藤原秀郷だった。
秀郷は下野国を基盤とする有力な武装勢力で、押領使として活動していた。それ以前には朝廷から追討の対象とされたこともある。
さらに、常陸介・藤原維幾の子である藤原為憲も加わった。
平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲。
将門とそれぞれ因縁を持つ者たちが、追討へ動き始める。
5.将門、5,000人を率いて常陸へ
天慶3年(940)1月中旬。
将門は5,000人の兵を率いて常陸国へ向かった。
目的は、平貞盛と藤原為憲を捜し出すことだった。
将門軍は那珂郡や久慈郡周辺へ進んだが、二人の居場所をつかめなかった。
『将門記』では、10日ほど捜索を続けた末、吉田郡蒜間の江付近で貞盛と源扶の妻を捕らえたと記している。
将門は女性たちをもとの場所へ帰した。
肝心の貞盛と為憲を発見することはできなかった。
将門は各国から集めていた兵を帰す。
その結果、手元に残った兵は1,000人にも満たなくなった。
この情報を知った貞盛と秀郷は4,000余人を集めたと『将門記』は記している。
坂東を席巻した将門の軍勢は、決戦を前に大きく減っていた。
6.940年2月1日――将門軍と4,000余の追討軍
2月1日。
貞盛・秀郷軍が4,000余の兵を集めたとの報を受け、将門は下野方面へ向かった。
将門軍は1,000人に満たなかった。
前方では藤原玄茂、多治経明、坂上遂高らが敵軍の位置を探っていた。
高所から北方を見ると、そこに約4,000人の軍勢がいた。
玄茂や経明らは将門への報告を待たず、そのまま秀郷軍へ攻撃を仕掛けた。
藤原秀郷はこれを迎え撃つ。
将門軍の先陣は崩れ、多くの兵が四方へ逃走した。
将門も退却する。
貞盛・秀郷軍は追撃を続け、同日の午後には将門側の陣所だった川口村まで迫った。
『将門記』に登場する川口村は、現在の茨城県八千代町水口付近に比定する説がある。
7.将門の本拠へ迫る追討軍
2月1日の敗戦後も、貞盛と秀郷は攻撃を止めなかった。
兵を集め直し、将門の勢力圏へ進んでいく。
将門は幸島郡の広江付近に身を置き、再び兵を集めようとした。
普段であれば、将門のもとには8,000余人が集まったと『将門記』は記している。
この時、集まった兵は400余人だった。
2月13日。
貞盛・秀郷軍は将門の本拠へ入った。
石井の館をはじめ、将門側の家々が焼かれていく。
将門が兵を集めている間に、本拠地は追討軍の攻撃を受けたのである。
将門は幸島郡の北山へ移った。
北山の場所は確定しておらず、現在の坂東市域には複数の比定地が残っている。
翌日、貞盛・秀郷軍が迫った。
8.2月14日――400余人で迎えた最後の戦い
天慶3年(940)2月14日。
『将門記』によれば、将門が率いていた兵は400余人だった。
平貞盛・藤原秀郷・藤原為憲らの軍勢と、幸島郡北山で戦闘が始まる。
この日の戦場では激しい風が吹いていた。
序盤、その風は将門軍に有利な方向から吹いた。
『将門記』は、暴風によって楯が倒れるほどだったと伝える。
将門軍は騎馬で攻め込んだ。
追討軍は崩れ、80余人が討たれた。
さらに2,900人が戦場から逃走する。
貞盛・秀郷・為憲らとともに残った精兵は300余人だった。
400余人の将門軍が追討軍を押し返した。
将門は敗走する敵を追った。
戦いは、ここから大きく動く。
9.風向きが変わった
将門軍の背を押していた風向きが変わった。
今度は追討軍側が風を得た。
戦場に残った300余人の兵が反撃する。
追撃していた将門軍は押し返された。
将門自身も甲冑をまとい、馬を駆って戦った。
『将門記』は、将門が自ら戦場を駆けた姿を記している。
935年2月、源護の子たちとの戦いでも、将門は順風を得て勝利した。
その5年後。
最後の戦場でも風が戦況を大きく左右した。
追討軍が反撃するなか、将門は馬上で戦い続けた。
10.将門に命中した「神鏑」
その将門に矢が命中した。
『将門記』は「神鏑」を受けた将門が戦死したと記している。
矢を放った人物や命中した場所までは記されていない。
後世の『扶桑略記』では、平貞盛が将門を射て落馬させ、藤原秀郷が首を取ったとする別の描写が残る。
史料によって最期の場面は異なっている。
『将門記』が記す将門の戦死日は天慶3年(940)2月14日であり、現在もこの日が一般に将門の没日として扱われている。
一方、『日本紀略』2月25日条には、信濃国から「今月13日」に将門が貞盛・秀郷らに討たれたとの報告が届いたと記されている。
将門の最期の日付についても、史料には1日の違いが残っている。
935年2月に始まった一連の戦いは、約5年後に終わった。
「新皇」を称してからは、2か月にも満たなかった。
11.征東大将軍・藤原忠文は間に合わなかった
京都からは征東大将軍・藤原忠文が坂東へ向かっていた。
忠文が節刀を受けて出発したのは2月8日。
将門はその数日後に討たれた。
朝廷が派遣した征東軍と将門が直接戦うことはなかった。
藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲らが、征東軍の関東到着より早く将門を倒したのである。
将門の死後、その勢力は急速に崩れた。
平将頼や藤原玄茂、興世王、藤原玄明ら将門側の人物も各地で討たれていった。
12.秀郷と貞盛への恩賞
3月9日。
将門追討の功績に対する叙位が行われた。
『日本紀略』では、藤原秀郷が従四位下、平貞盛が従五位下に叙されたと記している。
貞盛の位階については史料によって違いがある。
『扶桑略記』では従五位上。
『将門記』では正五位上と記される。
秀郷については『将門記』でも従四位下としている。
将門追討によって、秀郷と貞盛は朝廷から大きな功績を認められた。
特に藤原秀郷の子孫は、その後東国各地へ広がり、武士の歴史に大きな足跡を残していく。
13.京都へ送られた平将門の首
討ち取られた将門の首は京都へ送られた。
『日本紀略』天慶3年(940)4月25日条には、藤原秀郷が使者を送り、平将門の首が京都へ届けられたことが記されている。
『将門記』にも同じ4月25日に将門の首が朝廷へ言上されたとある。
やがて、その首が京都で晒されたと伝えられる。
935年。
常陸国で源護の子たちとの戦いが始まった。
平氏一族との抗争を重ね、939年11月には常陸国府を制圧する。
12月には下野・上野へ進み、「新皇」を称した。
そして940年2月、藤原秀郷・平貞盛らとの戦いで命を落とした。
平将門の戦いは終わった。
その後、将門の首をめぐる数々の伝承が生まれ、東国各地には将門を祀る神社や伝説が残っていく。
朝廷に反旗を翻し、「新皇」を称した平将門。
その名は、1,000年以上を経た現在まで坂東の歴史とともに語り継がれている。
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