第63回
「将門を討った男」の前半生は、意外なほど謎に包まれている
平安時代の東国を語るとき、藤原秀郷の名前は外せない。
平将門を討った武将。
後世には「俵藤太」の名前で知られ、三上山の大百足を退治した英雄。
さらに、その子孫から小山氏、佐野氏、長沼氏など、東国を代表する武士団が生まれた。
これだけ聞けば、若い頃から勇名を轟かせた武将を想像する。
ところが、史料を追っていくと、秀郷の若い頃はかなり違った姿を見せる。
生年は分からない。没年も確定していない。幼少期の記録も残っていない。
父は藤原村雄とされ、秀郷は藤原北家魚名流につながる家系に属する。
本拠は下野国。現在の栃木県である。
ここで秀郷は、京都の貴族社会から離れた場所で、土地と人脈、そして武力を背景に勢力を築いていった。
秀郷の人生が史料の上で姿を現すのは、延喜16年(916)である。
しかも、その最初の姿は英雄ではない。
朝廷から配流を命じられた罪人である。
延喜16年(916)――藤原秀郷、18人とともに配流を命じられる
延喜16年8月12日。
下野国から朝廷へ報告が上がった。
そこに名前がある。
藤原秀郷。そして、藤原兼有。高郷。興貞。
ほか一族とみられる人物を合わせて、18人。
朝廷は下野国司に対し、それぞれの罪科に応じて配流するよう改めて命じた。
ここで重要なのは、秀郷が何をしたのかという具体的な罪状が残っていないことである。
後世の説明ではさまざまな説が語られている。
しかし、同時代の史料から確実に言えるのは、
秀郷が一族とともに罪人として配流を命じられたという事実までである。
この事件は、秀郷という人物を理解するうえで非常に重要である。
秀郷は最初から朝廷に忠実な英雄だったわけではない。
むしろ、朝廷から見れば処罰の対象となるほどの存在だった。
つまり10世紀の下野では、中央政府の命令だけで動く地方社会が出来上がっていたわけではない。
土地を持つ。人を従える。力を持つ。
そうした在地勢力が存在していた。
秀郷は、その中心にいた人物だったのである。
配流の後も、秀郷は下野から消えなかった
ここから秀郷の人生はさらに面白くなる。
流罪になった男が、その後も下野で活動を続ける。
そして、後に秀郷は下野掾として史料に現れる。
さらに、平将門の乱の時点では下野掾兼押領使として活動している。
押領使は、地方の凶賊や反乱などを追捕するための軍事的な職である。
つまり、朝廷はかつて罪に問うた秀郷のような地方有力者を、今度は治安維持のために利用する。
ここに平安時代の地方支配の現実がある。
京都の朝廷が全国の隅々まで直接軍隊を派遣する時代ではない。
地方で兵を集められる人間。
土地の事情を知っている人間。
在地の有力者とつながっている人間。
そうした人物の力を借りなければ、地方の秩序を維持できなかった。
秀郷はまさに、その条件を満たす人物だった。
延長7年(929)――再び「乱行」を問われる
秀郷について、もう一つ重要な記録がある。
延長7年(929)、下野国衙から秀郷の「乱行」を問題視する動きが起きる。
秀郷は再び、朝廷側から見れば扱いの難しい人物として姿を現す。
ただし、ここでも具体的な乱行の内容は残っていない。
何をしたのか。誰と争ったのか。どの程度の武力を使ったのか。
そこまで詳しく伝える史料はない。
だからこそ、秀郷の前半生は想像だけで埋めてはいけない。
確実なのは、916年に配流を命じられ、929年にも乱行を問題視された。
それでも秀郷は下野で勢力を保ち続けた。
この事実だけで、彼が並の地方官人ではなかったことが分かる。
平将門、東国で立ち上がる
承平5年(935)。
関東で平将門と平国香・平良正・平貞盛らの対立が始まる。
将門は常陸国の伯父・平国香らと戦い、国香を討つ。

その後も東国では戦いが続き、将門は勢力を拡大していく。
しかし、秀郷は最初から将門討伐の中心にいたわけではない。
ここは大切である。
秀郷と将門の関係を、最初から「宿命のライバル」とするのは後世の物語である。
秀郷が歴史の表舞台に大きく登場するのは、天慶3年(940)の最終局面である。
天慶2年(939)――将門、「新皇」を称する
天慶2年(939)末。
将門は常陸国府を攻撃した。
さらに下野・上野へ進出する。

上野国府に入った将門は、ここで大きな一線を越える。
自らを「新皇」と称した。
将門は関東を事実上の独立勢力として支配する構想を進める。
朝廷にとって、これは単なる地方豪族同士の争いではない。
国家秩序への挑戦である。
朝廷は将門を追討するための軍事体制を整える。
そして東国でも、将門と戦う勢力が動き出す。
平貞盛と、藤原秀郷である。

秀郷と貞盛――二人の武将が手を組む
貞盛にとって、将門は父・平国香の仇である。
国香は将門に討たれている。
貞盛自身も将門との戦いに巻き込まれ、何度も追われた。
一方、秀郷は下野を基盤とする有力者である。
二人が手を組む。そこへ藤原為憲も加わる。
ここで面白いのは、朝廷軍が到着する前から、東国の在地勢力が自ら将門と戦う体制を作ったことである。
秀郷にとって、これは単なる「朝廷への忠誠心」だけで説明できる戦いではない。
自分たちが暮らす東国の秩序を、将門の勢力拡大が大きく揺さぶっていた。
その現実が、秀郷を戦場へ向かわせた。
940年2月――4000余人の軍勢
天慶3年(940)2月1日。
秀郷と平貞盛らが将門軍と戦う。
『扶桑略記』系の記録には、秀郷・貞盛らが4000余人を率いたと記される。
別系統の記録には、さらに大きな数字を記すものもある。
この数字には史料上の違いがあるため、ここでは「4000余人」という記録が残ると押さえるのが安全である。
いずれにしても、秀郷が数人の郎党を連れて戦ったわけではない。
東国の有力者として、かなりの規模の兵力を動かしていた。
ここに秀郷の本当の強さがある。
人を集め、軍勢として動かす力を持っていた。
それこそが、地方武将にとって最大の武器だった。
将門の本拠へ迫る
2月13日。
秀郷・貞盛らは将門の本拠へ迫る。
将門は下総国の島広山に陣を構えた。
秀郷らは将門の館や従者の居宅を焼き払う。
戦場は一気に緊迫する。
翌14日。
ついに最後の戦いが始まる。
2月14日――平将門、討たれる
天慶3年2月14日。
下総国北部。
将門は自ら馬に乗り、戦場へ出る。

ここからの場面は、史料の中でも非常に有名である。
将門は強かった。
弓を引き、敵へ向かう。しかし、戦況は将門に傾かなかった。
そして決定的な瞬間が来る。
平貞盛の矢が将門に命中する。
将門は馬から落ちる。そこへ、藤原秀郷が駆け寄る。
秀郷は将門の首を斬った。
平将門。
東国を制圧し、「新皇」を称した男の最期である。
そして、その首を取った人物として歴史に名前を刻んだのが藤原秀郷だった。
この場面は後世の軍記で何度も描かれる。
ただし、史実として押さえるべきなのは、
貞盛の矢が将門に命中し、秀郷が首を取ったという点である。
将門の首が京都へ届く
将門の首は京都へ送られた。
朝廷にとって、将門討伐は国家的な大事件である。
その功績を誰に与えるのか。
当然、秀郷の名前が最上位に挙がる。
そして約1か月後、秀郷の人生を大きく変える恩賞が決まる。
天慶3年3月9日――従四位下
天慶3年(940)3月9日。
朝廷は将門討伐の功績に対して恩賞を与える。
秀郷は、従四位下に叙せられた。
平貞盛は、従五位下に叙せられた。
さらに秀郷には功田が与えられ、その田を永く子孫へ伝えることが認められた。
後世の史料には、秀郷に下野・武蔵両国守を兼任させたことも記されている。
ここは秀郷の人生で最大の転換点である。
916年、流罪を命じられた男。
929年、乱行を問題視された男。
940年、将門を討った功臣。
そして、従四位下。
この出世は、当時の地方豪族にとって破格である。
秀郷は一気に中央の軍事貴族として存在感を高めた。
11月――下野守に任じられる
さらに同年11月、秀郷は下野守に任じられた。
『日本紀略』には、将門討伐の軍功による任官であることが明記されている。
自分が勢力を持っていた下野国。
その国司に自ら就任する。これは大きい。
京都から派遣される国司として下野を統治する立場と、下野の在地勢力として築いてきた人脈。
その両方を秀郷が持つことになる。ここに、秀郷の強さがある。
秀郷は「将門を討っただけ」の男ではない
秀郷の本当の姿を知るなら、将門討伐の前を見る必要がある。
916年に配流。
929年に乱行を問題視される。
そして940年、将門を討つ。
この経歴を見ると、秀郷が最初から朝廷の忠臣だったとは考えにくい。
むしろ、朝廷の支配から完全には離れない。
しかし、地方では自分自身の勢力を持つ。
必要になれば、朝廷の軍事政策に協力する。
その功績によって、朝廷から高い地位を得る。
この関係こそ、10世紀の地方有力者と朝廷の関係をよく表している。
秀郷は、朝廷に仕えるだけの貴族ではない。
かといって、朝廷に反抗し続ける地方豪族でもない。
自分の武力と在地基盤を持ち、その力を朝廷の秩序の中で使う人物である。
後の武士社会につながる重要な姿が、ここにある。
将門との対面――有名な「髪をとかす将門」の話
秀郷について、非常に有名なエピソードがある。
将門がまだ勢力を広げていた頃。
秀郷が将門のもとを訪れた。
将門は秀郷が味方につくことを喜び、髪をとかしている途中にもかかわらず、秀郷を迎えた。
秀郷はその姿を見て、将門の人物を見抜いた。
そんな話である。非常に面白い。
しかし、これは同時代史料の記録ではない。
『吾妻鏡』治承4年(1180)9月19日条など、将門の時代から約240年後の記録に伝えられる話である。
したがって、記事では、「秀郷が将門を観察して戦う決意をした」という史実としてではなく、
「後世に伝えられた秀郷と将門の逸話」として扱うべきである。
こうした伝承が残ったこと自体、秀郷と将門の戦いが後世の人々に強烈な印象を残した証拠である。
秀郷の晩年――記録が急に少なくなる
将門を討った後の秀郷について、史料は驚くほど少なくなる。
華々しい軍功を挙げた。従四位下になった。下野守になった。
そこから先の人生を詳しく伝える記録は乏しい。
ここは、歴史上の英雄によくある現象である。
最大の功績だけが鮮明に残り、その後の生活が霧の中へ消えていく。
秀郷の生年も没年も確定していない。
後世の系図には、正暦2年(991)に101歳で死去したという伝承がある。
一方、別の系図には、天徳2年(958)を没年とする記録がある。
これだけ年代が大きく食い違う。
したがって、秀郷が991年に101歳で死去したという説を確定した史実として書くことはできない。
確実に言えるのは、将門討伐後に下野・武蔵の国司などを務め、その後の活動記録が少なくなるというところまでである。
秀郷の子孫――「秀郷流」という巨大な武士団へ
秀郷本人の晩年が分からなくなった一方、秀郷の名前はその後も消えなかった。
むしろ、死後にどんどん大きくなる。
秀郷の子孫を称する武士団が、東国各地に広がっていく。
下野では、
小山氏。長沼氏。佐野氏。小野寺氏。
などが秀郷流藤原氏の系譜を称した。
さらに奥州藤原氏にも秀郷流につながる系譜が伝わる。
多摩市史では、秀郷の子・千晴の流れから経清が出て、その子清衡が奥州藤原氏を興した系図が紹介されている。
ただし、ここは「系図があるから全員が秀郷の実際の血縁者だった」と単純に考えてはいけない。
中世には、名門の祖先につながることで家の由緒を高めるため、系譜が整えられることも多い。
それでも重要なのは、
後世の武士たちが自分たちの祖先として秀郷を選んだという事実である。
秀郷の名前には、それだけの価値があった。
息子・千晴は「安和の変」に巻き込まれる
秀郷の子孫を追ううえで重要な事件がある。
安和2年(969)の安和の変である。
源満仲らの密告によって、源高明が失脚した事件だ。
秀郷の子とされる藤原千晴も、この事件に連座して流罪となった。
秀郷が将門討伐で中央政界への足場を築いた後、その子の世代で中央政界から後退することになる。
しかし、秀郷流藤原氏の力そのものは消えなかった。
千常の流れなどは下野に根を張り、国衙の実務を担う在庁勢力として成長していく。
そして、その後の東国で秀郷流藤原氏は長く存在感を持ち続ける。
「俵藤太」はどこから生まれたのか
そして、秀郷の名前を日本人の記憶に残した最大の理由が、もう一つある。
俵藤太。
三上山の大百足退治である。
舞台は近江国。現在の滋賀県。
瀬田の唐橋に、一匹の巨大な蛇が横たわっている。
人々は恐れて近づかない。
そこへ一人の武士が現れる。
武士は蛇を踏み越えて、そのまま歩き去る。
すると夜になって、蛇が人間の姿を現す。
その正体は龍宮の一族。
三上山に巨大な百足が棲みつき、龍宮を苦しめているという。
そこで武士に頼む。
「あの百足を退治してほしい」
武士は弓を取る。
そして三上山へ向かう。
山を覆うほどの巨大な百足。
矢を放つ。
一本目。
効かない。
二本目。
効かない。
そこで武士は矢に唾をつけ、最後の一矢を放つ。
矢が百足を貫く。
こうして大百足は倒される。
武士の名前は、俵藤太。
その正体が、藤原秀郷。
これが、現在まで語り継がれる伝説である。
大百足退治は史実ではない
ここは明確に分ける。
平将門を討った藤原秀郷は実在する。
天慶3年(940)の将門討伐も史実である。
従四位下への叙位も史実である。
下野守への任官も史料で確認できる。
しかし、三上山の大百足退治は伝説である。
この伝説の原型は少なくとも南北朝時代までさかのぼるとされ、室町時代の『俵藤太物語』などで物語として大きく展開した。
つまり、秀郷が亡くなった何百年も後に、彼の武勇が巨大な物語へ成長したのである。
なぜ秀郷は「百足退治の英雄」になったのか
理由は、秀郷の人生そのものにある。
秀郷は、反乱者として朝廷に追われた経験を持つ。
そして、平将門という巨大な反乱者を討った。
朝廷から高い恩賞を受けた。東国で武力を持った。
後世には、その子孫が各地で武士として活躍した。
こうした現実の武勇が、時間とともに伝説へ変わっていった。
将門という「朝廷に背いた巨大な敵」を討った男。
その男が、今度は伝説の中で巨大な怪物を退治する。
将門討伐と大百足退治が、一人の英雄の武勇として重なっていった。
栃木県立博物館も、秀郷の歴史的功績と後世の俵藤太伝説を分けて紹介している。
秀郷は「武士の祖」になった
藤原秀郷の人生で最も重要なのは、将門を討ったことだけではない。
秀郷が築いた家の名前が、後世の武士社会で大きな意味を持ったことにある。
秀郷流藤原氏からは、下野を中心に多くの武士団が生まれた。
小山氏。長沼氏。佐野氏。小野寺氏。さらに奥州へ進んだ系統もある。
後世の鎌倉武士たちは、秀郷を武芸の祖として仰いだ。
つまり秀郷は、一人の武将として歴史を動かしただけではない。
その名前そのものが、武士の家の「祖先」として受け継がれた。
平氏や源氏と並んで、秀郷流藤原氏が大きな武士団を形成していく。
ここに秀郷の最大の影響力がある。
流罪人から「将門を討った男」へ
藤原秀郷の人生を追うと、一本の線が見えてくる。
916年。
一族18人とともに配流を命じられる。
↓
929年。
下野国衙から「乱行」を問題視される。
↓
940年2月。
下野掾・押領使として将門討伐に参加。
↓
2月14日。
平貞盛の矢が将門を射抜く。
秀郷が将門の首を斬る。
↓
3月9日。
従四位下。
功田を与えられる。
↓
同年11月。
下野守に任じられる。
↓
その後、秀郷流藤原氏が東国各地へ広がる。
↓
南北朝期以降。
「俵藤太」として大百足退治の英雄になる。
これが、史実として確認できる藤原秀郷の人生と、その後に膨らんだ伝説の流れである。
秀郷の人生は、最初から英雄だったわけではない。
朝廷から処罰された地方有力者が、自らの武力を背景に生き残り、最後には平将門を討つことで朝廷から最高級の恩賞を受け、その名前が数百年後には伝説の英雄へ変わった。
その変化こそが、藤原秀郷という人物の最大の面白さである。
もっと藤原秀郷を深く知りたい方へ。
平将門を討った武将・藤原秀郷の実像から、後世に生まれた「俵藤太」の伝説まで詳しく知ることができる一冊です。
藤原秀郷ゆかりの地・栃木の味を楽しむならこちら。


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