第55回
平将門。
「新皇」を名乗り、坂東を揺るがし、最後は940年2月14日に討ち取られた男だ。
平将門の乱を知ると、
平将門の乱そのものの経過は、こちらの記事で詳しく解説しています。
「関東で力を持った平将門が、朝廷に反旗を翻した」という姿が浮かぶ。

しかし、それだけでは将門の本当の姿は見えてこない。
そもそも、なぜ平将門は関東にいたのか。
なぜ将門の一族は、常陸・下総・上総をまたぐほどの勢力を持っていたのか。
そして、なぜ10世紀の関東では、これほど多くの有力者が武力を持っていたのか。
答えは、将門が生まれる前から始まっている。
1.平将門は「関東生まれの地方豪族」から始まっていない
平将門は桓武天皇につながる家系に生まれた。
祖父とされる人物が、高望王である。
高望王は桓武天皇の曾孫にあたり、皇族の身分を離れて平姓を称した人物として伝えられている。
そして高望は東国へ下る。
ここから、後に「桓武平氏」と呼ばれる一族と関東の深い関係が始まった。
高望の子には、
平国香 平良兼 平良将(良持) 平良文らがいる。
将門はこの一族の中で、平良将の子として生まれた。
父の名は史料によって「良将」「良持」の表記が分かれる。
つまり将門は、朝廷につながる家系を背景に、東国で勢力を築いていた一族の一員だった。
2.なぜ平氏は関東へ来たのか
ここが将門を理解する最初のポイントだ。
平氏の一族が関東で力を持つようになった背景には、
地方官として東国へ下ったことがある。
高望は上総介として東国へ赴任したと伝えられている。
上総国は現在の千葉県中部を中心とする地域。
当時の上総では、親王が名目上の国守となり、実際の国政を担う上総介の役割が大きかった。
高望は東国へ入り、現地で基盤を築いた。
その後、子どもたちも常陸・下総・上総などに進出していく。
平国香は常陸で大掾の地位を持ち、良兼は上総・下総方面、良将も東国の軍事・行政に関わった。
こうして、平氏一族が東国の国司・郡司層や在地有力者と結びついていく。
平氏が関東で強かった理由は、単純に「武士だから」ではない。
中央の朝廷につながる家柄を持ち、地方官として東国に入り、そこで土地・人・軍事力を蓄積した。
これが重要だ。
3.関東は「平氏の領地」ではなかった
ここは特に重要だ。
将門の時代の関東を、「平氏が関東全体を支配していた」と考えるのは正確ではない。
東国には平氏以外にも多くの有力者がいた。
源氏もいた。藤原氏もいた。橘氏などの有力氏族もいた。
国司や郡司、在地豪族、牧を経営する勢力なども存在した。
つまり10世紀の関東は、複数の有力者が土地・人・利権をめぐって競い合う社会だった。
その中で桓武平氏は、常陸・下総・上総を中心に強力な勢力を形成していた。
だから将門の戦いは、「朝廷軍 対 平将門」だけで理解できない。
実際には、
平氏一族同士の対立、在地豪族との争い、国司との衝突、朝廷の地方支配が複雑に絡んでいた。
4.将門が育った下総・豊田・猿島
将門の本拠地となったのが、下総国豊田・猿島地方だ。
現在の茨城県西部から坂東市周辺にあたる地域である。
当時のこの地域には、現在とはまったく違う景観が広がっていた。
鬼怒川などの河川が流れ、湿地や沼沢地も多かった。
こうした土地では、水運や土地開発、農業、牧などが重要になる。
そして、こうした地域を実際に支配するには、土地だけでは足りない。
土地を耕す人々。輸送を担う人々。馬を扱う人々。戦いになれば兵として動く人々。
そうした人間関係を握る必要があった。
将門は、この東国社会の中で力を蓄えていく。
5.東国では、武力が政治力になった
京都から遠く離れた関東では、朝廷の命令がそのまま現地を動かすわけではなかった。
国司は京都から赴任する。
しかし、現地の土地や人々を知り尽くしているのは在地の有力者だ。
そこで重要になるのが、軍事力だった。
土地をめぐる争いが起きれば戦う。
一族同士で対立すれば兵を集める。
国司と衝突すれば武力を背景に交渉する。
つまり、土地を持つことと、兵を動かせることが強く結びついていた。
将門が後に大軍を率いることができた背景には、こうした東国社会の構造があった。
6.将門は若いころ京都へ上った
将門自身も、最初から東国だけで生きていたわけではない。
若いころ、京都へ上った。
そして藤原忠平に仕えたと伝えられている。

これは将門の人物像を考えるうえで重要だ。
将門は朝廷の存在を知らない地方の武装勢力ではなかった。
都に行き、中央の政治を見た。貴族社会を知った。朝廷の仕組みも知った。
しかし、中央で大きな地位を得ることはできなかった。
やがて将門は東国へ戻る。
そしてここから、彼の人生は大きく変わっていく。
7.東国へ戻った将門を待っていた「一族の争い」
将門が戻った東国には、平氏一族の有力者たちがいた。
その中でも重要なのが、
平国香
平良兼
平良正 らである。
そして国香の子が、平貞盛だ。
将門と彼らは同じ一族だった。
ところが、同族だからこそ土地や勢力をめぐって激しく争う。
将門の人生は、ここから戦いの連続になる。
8.935年――平国香を討つ
承平5年(935)、将門は常陸国で源護の一族と衝突する。
この争いには、平国香・良正らも関わっていた。
そして戦闘が起きる。
将門は国香の拠点を攻撃し、平国香を討った。

将門の人生を大きく変えた事件だった。
しかも国香には息子がいた。
その一人が、平貞盛。
後に将門を討つ人物である。
つまり、将門と貞盛の対立は、平氏一族内部の争いから始まった。
ここに後の平将門の乱につながる大きな因縁が生まれる。
9.将門は一度、朝廷に呼び出されている
将門の戦いが続くと、朝廷も動く。
承平6年(936)、将門は源護の訴えによって京都へ召喚された。
将門は京都へ向かう。
ここで将門の人生は終わらなかった。
朱雀天皇の元服に伴う大赦などによって帰郷する。
東国へ戻った将門は、再び一族との戦いに入る。
935年から939年までの数年間、将門は平氏一族や周辺勢力との戦闘を繰り返した。
この時点では、まだ「新皇」ではない。
将門の戦いは、東国の一族抗争として始まった。
10.937年――子飼渡の戦い
将門の戦歴の中でも、面白い戦いがある。
子飼渡の戦いだ。
承平7年(937)。
平良兼が将門を攻撃した。
将門は迎え撃つ。
しかし、この戦いでは将門側が敗れる。
良兼軍は将門の勢力圏へ入り込み、将門の拠点を焼いた。
ところが、将門はここで終わらない。
その後も筑波山周辺や石井の営所などで戦い、再び勢力を立て直していく。
将門は一度負けても、すぐに消える武将ではなかった。
敗北しても軍を再編し、再び戦場へ戻ってくる。
これが将門の強さだった。
11.938年――将門と平貞盛が直接ぶつかる
承平8年(938)。
将門と平貞盛の関係も悪化する。
貞盛は京都へ向かおうとした。
将門は貞盛を追う。
その舞台となったのが、信濃国千曲川周辺だった。
東国の一族争いが、信濃まで広がった。
この頃になると、将門と貞盛の対立は単なる身内の揉め事ではなくなっていた。
そして貞盛は、将門を討つための重要人物になっていく。
12.939年――将門の人生が一変する
天慶2年(939)将門は武蔵国の問題に関わる。
武蔵国では、権守の興世王、介の源経基、足立郡司判官代の武蔵武芝らの間で対立が起きていた。
将門は仲裁に入る。ところが、事態は逆に悪化する。
源経基は将門らの動きを謀反として朝廷に訴えた。

この時点では、将門の立場はまだ決定的ではなかった。
しかし、同じ年の11月。
決定的な事件が起こる。
常陸国の藤原玄明をめぐる問題から、将門は常陸国府へ向かう。
そして、常陸国府を攻撃する。
ここで将門の人生は完全に変わった。
13.国府を攻撃した意味
国府は、その国の行政の中心だ。
国司が政務を行い、税を扱い、国の支配を担う。
そこを将門が攻撃した。
さらに、国印と鎰を奪った。
国印は国府の公的な権限を示す重要な道具。
鎰は倉庫などの管理に関わる鍵だ。
つまり将門は、地方行政の中枢そのものを武力で掌握した。
ここから、将門の行動は一族争いの範囲を超える。
朝廷から見れば、国家の地方支配に対する明確な挑戦になった。
14.将門、「新皇」となる
将門はさらに進む。
下野。上野。そして上野国府。
ここで将門は、「新皇」を称したと『将門記』は伝える。
さらに坂東諸国の国司を任命し、朝廷の制度を意識した支配体制を作ろうとした。
ここが将門という人物の最大の転換点だ。
935年。一族の争いから始まった戦い。
939年。国府を攻撃する。
そして「新皇」。
わずか数年で、一族の武将から、朝廷に対抗する東国の支配者へ変わった。
15.将門はなぜ、そこまで進んだのか
将門の行動には、東国社会の現実がある。
土地。一族。国司。在地勢力。軍事力。
これらが複雑に絡み合っていた。
将門はその中で勝ち続けた。
常陸。下野。上野。坂東各地へ勢力を伸ばす。
そして、国府を押さえたことで、
「自分が東国を支配できる」という現実が見えてきた。
「新皇」は、この延長線上にある。
16.しかし、将門には強敵がいた
将門の前に立ちはだかったのが、
平貞盛と藤原秀郷だった。


貞盛は平国香の子。
つまり将門に父を討たれた人物だ。
秀郷は下野を基盤とする有力者。
ここが将門にとって致命的だった。
将門と同じ東国社会を知る有力者が、朝廷側についた。
朝廷は追討の命令を出す。
東国では貞盛・秀郷らが兵を集める。
将門の勢力を削る条件がそろっていった。
17.940年2月14日――将門の最期
天慶3年(940)。
将門討伐の戦いが始まる。
将門側は兵を集めて迎え撃った。
しかし、兵力を維持するのは難しかった。
当時の軍事力は、後世のような常備軍ではない。
農業や交易などを行う人々が、必要に応じて軍事行動に参加する。
戦いが長引けば、彼らは帰らなければならない。
実際、将門が兵を解散させた後、残った兵が1,000人に満たないところを貞盛・秀郷側が攻撃したという記述が『将門記』にある。
そして、天慶3年(940)2月14日。
下総国猿島郡北山周辺で最後の戦いが行われた。
将門は戦場に立った。
そして流れ矢に当たり、討ち取られた。
将門の生涯はここで終わる。
18.将門の死後、関東はどうなったのか
将門が死んでも、関東から平氏が消えたわけではない。
むしろ、その後も東国では平氏・藤原氏・源氏などの在地勢力が成長していく。
将門の乱で戦った人物たちの子孫も、後の東国社会で大きな存在となった。
平貞盛の子孫からは、後の伊勢平氏につながる流れが生まれる。
藤原秀郷の子孫からは、足利・小山・結城など、後世の東国武士につながる諸氏が出る。
そして将門の一族からも、後世の千葉氏などにつながる系統が形成されていく。。
19.10世紀後半、関東では新しい武士団が育っていく
将門の死後も、東国の在地勢力は土地を基盤に成長した。
国司が交代しても、現地の土地事情や人間関係を熟知しているのは在地の有力者だった。
彼らは、
土地を管理する。
人を従える。
武力を持つ。
争いが起きれば戦う。
こうした力を積み重ねていった。
やがて11世紀になると、東国には多くの武士団が形成される。
その中から、源氏と平氏が大きな勢力として台頭していく。
そして12世紀。
源頼朝が登場する。
20.鎌倉が政治の中心になった理由
頼朝が鎌倉を本拠地にしたとき、そこには突然武士社会が生まれたわけではない。
東国には、長い時間をかけて、
土地を持つ在地有力者と武力を持つ武士団が成長していた。
その歴史は、将門の時代よりさらに前から始まっている。
将門はその流れの中で、
東国の在地勢力が持つ軍事力を、広域的な政治権力へ変えようとした人物だった。
その試みは940年に終わった。
しかし、東国の武士社会そのものは残った。
21.将門の死後、彼は「反逆者」から別の存在になった
将門の首は京都へ送られ、東市で梟首された。
朝廷にとって将門は反乱者だった。
ところが、その後、将門をめぐる伝説が次々に生まれる。
首が笑った。首が東国へ飛んだ。死後も怨霊として都を脅かした。
こうした伝説が広がり、やがて将門は神として祀られるようになる。
現在の東京・大手町にある将門塚は、その長い信仰の象徴だ。
940年に討たれた東国の武将が、1000年以上後の東京で今も祀られている。
この事実だけでも、平将門という人物が日本史の中でどれほど強烈な存在だったかが分かる。
平将門――関東で生まれた「新皇」の正体
平将門は、突然関東に現れた反逆者ではない。
桓武天皇につながる平氏の一族が東国へ下り、地方官として現地社会に入り、土地・人・軍事力を蓄積した。
その一族から生まれたのが将門だった。
将門は京都へ上り、中央の世界を知った。
東国へ戻ると、一族や在地勢力との争いに巻き込まれ、935年には平国香を討った。
937年には子飼渡で平良兼と戦い、938年には平貞盛を追って信濃まで進んだ。
そして939年。
常陸国府を攻撃し、国印と鎰を奪う。
上野国府では「新皇」を称し、坂東諸国の支配へ乗り出した。
その直後、朝廷と東国の有力者たちが将門討伐へ動く。
平貞盛。藤原秀郷。
そして940年2月14日。
将門は討ち取られた。
しかし、将門が死んでも東国の武士社会は終わらなかった。
平氏や藤原氏、源氏などの在地勢力はその後も力を伸ばし、11世紀から12世紀にかけて東国武士団が成長していく。
そして鎌倉へつながる。
だから平将門という人物を見るとき、重要なのは「朝廷に反逆した男」という一言だけではない。
中央の貴族社会から東国へ移った一族。
土地を基盤に力を蓄えた在地勢力。
武力を背景に成長した東国社会。
その中から現れた平将門。
将門は、その世界の頂点まで駆け上がった。
そして、「新皇」を名乗った。
わずか数か月後、その命は一本の矢によって絶たれた。

しかし将門の死後も、東国では武士たちが力を伸ばし続けた。
その先に、鎌倉がある。
平将門の人生は、940年2月14日に終わった。
しかし、将門が生きた東国の歴史は、そこからさらに大きく動いていく。
東国では、平将門が朝廷に反旗を翻し、「新皇」を名乗った。
しかし、この時代に朝廷を揺るがしていたのは将門だけではない。
ほぼ同じ頃、西日本の瀬戸内海でも異変が起きていた。
その中心にいたのが、藤原純友である。
将門が東国を駆け抜けた一方、純友は瀬戸内海を舞台に勢力を拡大した。
そして、その行き着く先は大宰府への攻撃だった。
東の平将門、西の藤原純友。
なぜ同じ時代に、これほど大きな反乱が東西で起きたのか。
次は、瀬戸内海を舞台に朝廷を震撼させた、藤原純友の乱を追っていく。

平将門の乱をもっと深く知りたい方へ。
「なぜ将門は戦ったのか?」を、『将門記』と歴史学の両面から読み解ける一冊です。

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