第99回
安元3年(1177)6月1日。
京都には、すでに武装した兵が集められていた。
標的は比叡山延暦寺。
後白河法皇が山門への武力攻撃を決め、平重盛・宗盛ら平氏の兵をはじめ、近江・美濃などの武士まで動員されようとしていた。
ところが、その軍勢は比叡山へ向かわなかった。
平清盛が突然、矛先を変えたのである。
後白河の側近・西光が捕らえられた。続いて権大納言藤原成親。
数日後には俊寛、平康頼、藤原成経らにも追及が及ぶ。
西光は激しい取り調べを受けた末に処刑。
成親は備前へ流され、のちに死亡した。
俊寛らは遠く南方の鬼界ヶ島へ送られる。
後世、この一連の事件は「鹿ケ谷の陰謀」として知られるようになる。
京都東山の鹿ケ谷に近臣たちが集まり、平氏を滅ぼす相談をしていた。
その席には後白河法皇もいた。
多田行綱が密議を清盛へ密告し、計画が露見した――。
『平家物語』は、そこへさらに印象的な場面を加えた。
宴席で藤原成親が瓶子を倒す。
「平氏が倒れました」
俊寛が、その平氏をどうするのかと尋ねる。
すると西光が瓶子の首を折る。平氏の首を取る。
よくできた場面である。あまりによくできている。
実は、1177年6月に清盛が西光や成親を捕らえたことは同時代史料から確認できる一方、その発端となった「鹿ケ谷での平氏打倒の密議」が本当に行われたのかについては、現在も議論がある。
2021年、川合康は当時の史料を改めて検討し、清盛の軍事行動は「平氏打倒の陰謀」を知ったためではなく、後白河側が進めようとしていた延暦寺攻撃を止めるための軍事介入だったと論じた。鹿ケ谷の密議や多田行綱の密告そのものを、後世に形成された話と見る見解である。
だとすれば、私たちが「鹿ケ谷の陰謀」と呼んでいる事件は、見え方がかなり変わってくる。
清盛は密かに自分を殺そうとした者たちへ復讐したのか。
それとも後白河法皇が比叡山との全面戦争へ突き進むのを止め、その中心にいた院近臣を排除したのか。
答えを探すには、平治の乱から17年間の流れ、そして1177年春に京都で何が起きていたのかを順番に追う必要がある。
平治の乱後、清盛と後白河は敵ではなかった
平治元年(1159)、藤原信頼・源義朝らが敗れ、義朝は尾張で殺された。
長男・義平も処刑。13歳の頼朝は伊豆へ流される。
京都で清盛に対抗できるほどの武力を持っていた義朝系の河内源氏は、中央政界からほぼ姿を消した。
ここから平氏が急速に伸びていく。
ただし、清盛が後白河上皇を押さえつけて一人で権力を握ったわけではない。
むしろ両者は、かなり長い間協力している。
その関係を支えた一人が平滋子だった。
滋子は清盛の妻・時子の異母妹で、後白河の寵愛を受けた女性である。
応保元年(1161)、滋子は後白河との間に憲仁親王を産んだ。
後の高倉天皇である。
後白河にとっては自分の皇子。平氏から見れば、清盛の妻の妹が産んだ皇子。
憲仁親王の存在によって、後白河と平氏の利害は強く結びついた。
1167年、清盛は太政大臣まで上った
仁安元年(1166)、憲仁親王が皇太子となった。
清盛は内大臣へ進み、翌仁安2年(1167)には太政大臣に任じられる。
50歳。
父・忠盛が正四位上・刑部卿まで上りながら届かなかった公卿のさらに上へ、息子は駆け上がった。
もっとも清盛は太政大臣に長く居座ったわけではなく、数か月で辞任している。
自分の官位だけを上げ続けるより、一門全体を朝廷の中へ送り込む方向へ進んだ。
翌1168年、憲仁親王が即位する。
数え8歳の高倉天皇だった。
さらに承安元年(1171)、清盛の娘・徳子が高倉天皇へ入内する。
翌年には中宮となった。
この入内にも後白河は関わっている。徳子は後白河の猶子という形をとり、法皇の御所・法住寺殿から内裏へ入った。
清盛が勝手に娘を天皇へ押し込んだという構図ではなかった。
高倉天皇を中心に、
父・後白河。母・滋子。
母の姉の夫・清盛。
中宮・徳子。
この関係が組み上がっていた。
1174年には後白河と滋子が、平氏と縁の深い厳島神社へ参詣している。
平清盛と後白河法皇。
後に激しく争う二人だが、1170年代半ばまでは互いを必要としていた。
1176年、二人の間にいた滋子が死ぬ
安元2年(1176)3月。
後白河法皇の50歳を祝う賀宴が盛大に行われた。
高倉天皇。中宮徳子。建春門院滋子。平氏一門。
後白河院政と平氏の結びつきが、華やかな形で現れた行事だった。
ところが同年7月8日、滋子が死去する。
数え35歳。
滋子の死によって翌日から清盛と後白河が喧嘩を始めた、というほど単純な話ではない。
それでも彼女が特別な位置にいたことは間違いない。
後白河が愛した女性であり、高倉天皇の母。
清盛の妻・時子の妹でもある。
院・天皇・平氏を一つの家族関係として結んでいた人物が、35歳で消えた。
その翌年から、これまで調整できていた利害の衝突が急に目立ち始める。
1177年正月、左右の近衛大将を平氏兄弟が占める
安元3年(1177)正月24日。
平氏一門に大きな人事があった。
平重盛が左近衛大将。平宗盛が右近衛大将。
左右の近衛大将を、清盛の息子二人が同時に占めた。
宮中の武官として最高級の官職である。
『愚管抄』では、この人事と関連して強い不満を抱いた人物として藤原成親が登場する。
成親も近衛大将を望んでいたという。
しかも成親は、もともと平氏と遠い人間ではない。
妹の経子は重盛の妻。
成親の子・成経も平教盛の娘を妻としている。
縁戚でありながら、後白河法皇の有力な近臣でもあった。
後世の史料は、成親が大将になれなかった恨みから反平氏へ傾いたと語る。鹿ケ谷事件の背景として、この人事問題を挙げる辞典類も多い。
ただ、1177年に起こったことを成親個人の嫉妬へ縮めると、もっと大きな問題を見落とす。
同じ春、京都の政治を揺るがす騒動が始まっていた。
舞台は加賀国。相手は比叡山延暦寺だった。
加賀国の争いが、比叡山まで動かした
当時の加賀守は藤原師高。
後白河法皇の側近・西光の子である。
弟の師経は加賀国の目代として現地へ入っていた。
その師経ら国衙側と、白山信仰の拠点に属する涌泉寺の勢力が衝突する。
後世の『平家物語』や『源平盛衰記』では、師経が涌泉寺の温泉で馬を洗い、僧徒と争いになった末に寺を焼いたという派手な話になる。
確かに、師経側と白山系寺院との衝突が起こり、寺が焼かれたこと、そこから白山側が本寺にあたる延暦寺へ訴えた流れは確認できる。
問題は一地方の寺院から、日本最大級の寺院勢力へ移った。
延暦寺が動く。
要求は師高・師経の処分だった。
4月13日、神輿を押し立てて京都へ
安元3年4月13日。
延暦寺の大衆が神輿を奉じ、京都へ押し寄せた。
いわゆる安元の強訴である。
僧徒側は日吉社などの神輿を前へ立てて進む。
これは武士にとって非常に厄介だった。
人だけなら弓を射てばいい。
ところが神輿には神が宿る。
そこへ矢を放てば、宗教的な大問題になる。
警備には平重盛、源頼政らの軍勢が配置された。
そして衝突が起きる。
武士側から矢が飛び、僧徒に死傷者が出た。
さらに十禅師宮の神輿に矢が刺さった。
九条兼実は『玉葉』で、この出来事に強い驚きを示している。
神輿が傷ついた衝撃は大きく、京都は騒然となった。
翌14日にも僧徒の動きは続き、『玉葉』はその状態を「訴訟」というより謀反に近いほどの騒ぎとして記す。高倉天皇と徳子も法住寺殿へ移り、宮廷は火事のときのような混乱に陥った。
朝廷は折れる。
師経は備後へ流され、師高も官職を解かれて尾張へ配流された。
西光にとっては、自分の息子たちが延暦寺の圧力によって政治の表舞台から排除されたことになる。
ところが、ここで後白河側は引かなかった。
今度は延暦寺へ反撃を始める。
後白河が狙ったのは天台座主・明雲
延暦寺の頂点にいたのが天台座主明雲だった。
後白河側は、強訴の責任を明雲へ負わせる。
5月、明雲は天台座主を解任され、所領を没収され、伊豆への配流が決まった。
当時の仏教界でも屈指の地位にある僧を、法皇が強引に処分した形になる。
5月22日ごろ、明雲は護送されて京都を出た。
しかし翌23日、延暦寺の大衆が動く。
多数の僧徒が護送隊を取り囲み、明雲を奪い返した。
配流を命じた朝廷から、実力で罪人を取り返したのである。
明雲はそのまま比叡山へ連れ戻された。
後白河法皇は激怒する。
比叡山そのものを武力で攻める方針へ進んだ。
後白河「比叡山を攻めよ」――重盛と宗盛が困った
延暦寺を攻撃するなら、大量の武士が必要になる。
そこで後白河は、左右の近衛大将となっていた平重盛・宗盛らへ軍事行動を求めた。
しかし、これは簡単な命令ではない。
延暦寺は京都の一寺院という規模ではなかった。
山内には多数の堂塔があり、僧徒は武装し、近江坂本などにも巨大な影響力を持つ。
神輿へ矢が当たっただけであれほどの騒ぎになった。
今度は山へ兵を入れる。
平氏からすれば、一歩間違えれば自分たちが「仏敵」とされかねない。
重盛と宗盛は、福原にいた父・清盛へ判断を仰いだ。
5月27日、清盛が福原から京都へ戻る。
翌28日には後白河と会談した。
清盛は延暦寺攻撃に消極的だったとみられる。
それでも後白河の意向は強かった。29日には武士の動員が進められた。
近江・美濃・越前などの武士まで集められ、比叡山攻撃は目前まで来た。
ここまでが、同時代の日記からかなり具体的に追える1177年5月末の状況である。
そして6月1日、清盛が動く。
6月1日、西光が捕らえられた
清盛は延暦寺攻撃を止める。
代わりに平氏の兵が向かったのは、後白河法皇の近臣たちだった。
まず西光が捕らえられる。西光は俗名を藤原師光という。
平治の乱で信西が死んだあと出家し、後白河法皇の近臣として頭角を現した。
家柄の高い公卿ではない。
それでも法皇の信任を受け、息子の師高を国司にするほどの力を持つようになっていた。
西光は清盛のもとへ連行され、厳しい取り調べを受けた。
『玉葉』によれば、拷問を受けた西光は清盛を滅ぼす相談があったことを認めたと伝えられる。
ただし重要なのは、これが拷問後の供述として伝わっていることである。
しかも九条兼実自身が現場に立ち会って聞いた供述ではなく、京都で流れた情報を書き留めたものだった。
それでも当時すでに、
「西光らが平氏を倒そうとしていたらしい」という話が貴族社会に広まったことは分かる。
西光はほどなく処刑された。
成親は清盛の親族でもあった
次に呼び出されたのが藤原成親。
権大納言まで上っていた後白河院近臣の大物である。
清盛の館へ呼ばれ、そのまま拘束された。
ここには平氏内部の人間関係も絡んでくる。
成親の妹は重盛の妻。
成親自身は重盛にとって義兄にあたる。
『愚管抄』では、拘束された成親に重盛が会い、命は助かるようにすると励ましたという。
清盛もその場では成親を斬らなかった。
備前国へ流す。
ところが同年夏、成親は配流先で死亡する。
殺害された可能性が高く、後世の史料には食事を与えられなかった、崖から突き落とされたなど、いくつもの話が生まれた。
西光とは違い、一度助命されたはずの成親も京都へ帰ることはなかった。
その後も院近臣の摘発は続く。
俊寛。平康頼。藤原成経。
後白河の周囲にいた人々が次々と政治の場から消えていった。
そこで登場する「多田行綱の密告」
私たちがよく知る鹿ケ谷事件では、清盛が突然西光を捕らえた理由がきれいに説明される。
多田行綱が密告したから。
『愚管抄』によれば、後白河法皇が鹿ケ谷の山荘へ出かけた際、成親、西光、俊寛らが集まった。
そこへ摂津源氏の多田行綱も呼ばれる。
平氏を攻めるため兵を集めてほしい。
その旗に使うためとして、白旗用の宇治布30反まで渡されたという。
かなり具体的である。
行綱は計画に加わったものの、平氏の力を見て不安になった。
そこで清盛へ駆け込み、すべてを話した。
だから清盛は延暦寺攻撃を中止し、西光らを捕らえた――。
この筋書きなら話は非常に分かりやすい。
しかし、『愚管抄』が成立したのは事件から数十年後。
しかも著者の慈円自身が、この事件については真相を確実に知っているわけではない旨を書いている。
さらに同時代の『玉葉』には、西光らの謀反についての噂や供述は出てくるものの、鹿ケ谷の山荘での密議や、多田行綱が清盛へ密告したという一連の物語は確認できない。
ここが、近年改めて問題になっている。
「鹿ケ谷の陰謀」は、本当にあったのか
2021年、川合康は「鹿ケ谷事件」そのものを再検討した。
注目したのは、6月1日の逮捕だけではない。
その直前まで何が起きていたかである。
後白河は明雲を配流した。延暦寺大衆が明雲を奪還。
後白河は比叡山攻撃を命じる。重盛・宗盛が清盛へ相談。
清盛が5月27日に京都へ戻る。
28日に後白河と会談。29日に武士が動員される。
そして6月1日、西光と成親が捕らえられる。
この時間の流れで見ると、清盛の軍事介入には別の理由が浮かぶ。
比叡山攻撃を止めること。
川合は、新たに研究へ取り入れられた延暦寺側の文書なども用い、清盛の行動が後白河・西光らによる延暦寺攻撃を阻止するものだったと論じている。
鹿ケ谷で平氏打倒の作戦会議があり、多田行綱が密告したという従来の筋書きについては、史実として確認できないとした。
これはかなり大きな違いである。
従来の理解なら、平氏を殺そうとした院近臣 → 清盛が反撃。
新しい見方なら、
延暦寺を攻撃しようとした後白河・院近臣 → 清盛が軍事介入して止める。
同じ1177年6月1日でも、事件の性格が変わる。
もちろん、これで「鹿ケ谷の密議は絶対になかった」と決着したわけでもない。
成親・西光らが平氏の巨大化を警戒していた可能性は十分にあり、当時すでに清盛を害する相談があったという噂も流れていた。
一方で、後世の軍記に描かれたほど具体的なクーデター計画が進んでいたかは、慎重に扱う必要がある。
史実として確実に見えるのは、1177年6月、清盛が武力を使って後白河院政の有力近臣を一斉に排除したことである。
『平家物語』が作った、あまりにも見事な「瓶子」
そこへ『平家物語』は、人々が忘れない場面を加えた。
鹿ケ谷の宴席。
酒が進む。
成親が立ち上がった拍子に瓶子が倒れる。
後白河法皇が尋ねる。
「あれはどうした」
「平氏が倒れました」
俊寛が続ける。
「倒れた平氏をどうする」
西光が瓶子をつかみ、その首を折る。平氏の首を取る。
「瓶子」と「平氏」を掛けた言葉遊びである。
こんな会話が1177年の鹿ケ谷で実際に交わされたことを示す同時代史料はない。
しかし物語としては強烈だった。
清盛の権力に不満を抱く後白河と近臣たち。
酒宴の陰で進む平氏打倒計画。
仲間の裏切り。突然踏み込んでくる平氏。
処刑と流罪。
政治史の複雑な事件が、「平氏を倒そうとした宴」という一夜の物語へ凝縮された。
だから800年以上たった現在も、事件名には「鹿ケ谷の陰謀」が残っている。
鬼界ヶ島――三人のうち、俊寛だけが残された
事件に連座した藤原成経、平康頼、俊寛は、遠く南方へ流された。
『平家物語』では流刑地を鬼界ヶ島と呼ぶ。
場所については薩摩硫黄島など複数の説があり、完全には決まっていない。
翌治承2年(1178)、高倉天皇の中宮・徳子が懐妊した。
平氏が待ち望んでいた皇子誕生の可能性が高まり、安産祈願も兼ねて恩赦が行われる。
成経と康頼には赦免が届いた。
俊寛には届かなかった。
迎えの船には二人だけが乗る。俊寛は島に残る。
『平家物語』は、船へすがろうとし、浜を走り、沖へ遠ざかる二人を見送る俊寛を描いた。
この場面も史実の細部というより軍記文学として読むところが大きい。
平氏政権の強さを語る場面として、俊寛の物語は後世の能や浄瑠璃にも受け継がれていった。
清盛は、後白河本人には手を出さなかった
西光を殺した。成親を流した。俊寛たちも遠島へ送った。
しかし清盛は後白河法皇を処罰していない。
ここは重要である。
後白河が本当に鹿ケ谷の平氏討伐計画を主導していたとしても、清盛はその最高責任者を放置したことになる。
後白河は高倉天皇の父であり、長年院政を行ってきた治天の君。
平氏もその政治秩序の中で出世してきた。
清盛の娘・徳子は高倉の中宮である。
法皇へ直接手をかければ、平氏自身の政治基盤まで揺れる。
1177年の清盛は後白河を残し、その周囲の人間を切った。
結果として、西光・成親を中心とする院近臣層は大きな打撃を受ける。鹿ケ谷事件が平氏と後白河の関係を急速に悪化させたことは、従来の研究でも共通して重視されている。
それでも二人の争いは、まだ決着していなかった。
1177年6月――「陰謀」より確かなもの
鹿ケ谷事件には、今も分からない部分が残る。
鹿ケ谷で本当に平氏打倒の軍議が行われたのか。
後白河はどこまで関与したのか。多田行綱は本当に密告したのか。
祇園会に乗じて六波羅を襲うほど具体的な計画があったのか。
後世の史料には詳しく書かれている。
同時代史料へ近づくほど、輪郭は薄くなる。
逆に、かなりはっきり見えるものもある。
1177年春、後白河院政と延暦寺が激突した。
その中心には西光父子がいた。
神輿に矢が刺さり、明雲が配流され、僧徒が明雲を奪還した。
後白河は比叡山への武力攻撃を決める。
清盛は福原から京都へ戻った。
そして攻撃開始直前、平氏の軍勢が院近臣へ向かった。
西光は死んだ。成親も政治生命を絶たれた。
この流れそのものは、「瓶子」の話がなくても十分に激しい。
しかも清盛と後白河の対立は、ここからさらに深くなる。
2年後、清盛はついに後白河本人を止める
治承3年(1179)。
清盛の長男・平重盛が42歳で死去する。
平氏と後白河の間で独特の位置を占めていた重盛が消えたあと、知行国や所領をめぐる処置などで両者の対立はさらに深まった。
11月、清盛は福原から大軍を率いて京都へ入る。
関白・松殿基房を解任。多数の院近臣を解官。
朝廷の人事を一気に入れ替えた。
そして1177年には手をつけなかった人物へ、とうとう手を伸ばす。
後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉した。
治承三年の政変である。
鹿ケ谷事件から2年。
清盛は院近臣を取り除くだけでは足りなくなり、院政そのものを止めた。
さらに翌1180年には、以仁王と源頼政が挙兵。
その令旨は各地へ運ばれ、伊豆に流されていた源頼朝のもとにも届く。
平治の乱から20年間続いた「清盛が勝者である時代」は、ここから急速に揺れ始める。
その手前にあったのが1177年だった。
鹿ケ谷の山荘で瓶子が倒されたという話が事実だったかは分からない。
だが京都では実際に、後白河法皇の側近が捕らえられ、殺され、流されている。
そして清盛と後白河が、それまでのように同じ政治秩序の中で折り合っていく時間も、このころから終わりへ向かっていた。
「鹿ケ谷の陰謀」という名前の裏にあった本当の大事件は、平氏打倒の酒宴よりも、1177年春から続いた後白河・延暦寺・平清盛の三者の衝突だったのかもしれない。


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