第84回
1583年4月24日――柴田勝家、北庄城で最期を迎える
天正11年(1583)4月24日。
越前・北庄城。
現在の福井市中心部で、柴田勝家の最後の戦いが始まっていた。
城の外を埋めているのは羽柴秀吉の軍勢。
城の内側に残ったのは、賤ヶ岳から敗走してきた勝家と、その妻・お市、そして最後まで主君に従った家臣たちである。
前日23日、秀吉軍は北庄城への攻撃を開始した。
その日のうちに外側の防御線である総構を突破し、24日を迎えた時点で残っていたのは本丸を中心とする最後の一角だった。
後世の『太閤記』などは、この日、勝家が七度も城門を開いて秀吉軍へ打って出たと伝える。
そして午後5時ごろ。
勝家は天守へ上がり、城外の敵へ、自分の腹の切り方をよく見ておけ、という趣旨の言葉を投げたと『毛利家文書』に伝わる。
その傍らには、お市がいた。
わずか3日前まで、勝家は織田家中で秀吉と天下の主導権を争う大大名だった。
なぜ、その勝家がわずか3日で自分の城に追い詰められたのか。
話は賤ヶ岳の敗戦直後へ戻る。
北庄城――勝家が8年をかけて育てた越前の中心
北庄城は、敗走した勝家がたまたま逃げ込んだ城ではない。
柴田勝家が越前支配のために築き上げた、自分自身の本拠である。
天正3年(1575)、織田信長は越前一向一揆を平定し、越前の支配を柴田勝家に任せた。
勝家は北庄へ入り、城を築くと同時に城下町の整備を進めた。
1575年以降、寺院の移転・建立が進み、翌1576年には北庄に楽市令も出されている。
戦うためだけの城ではない。
越前を治め、商業を育て、人を集める政治都市として北庄を作り替えたのである。
城の建設も大規模だった。
天正8年(1580)5月18日、宣教師ルイス・フロイスが北庄を訪れている。
このときフロイスは、北庄城が立派な城でありながら、なお大規模な工事の最中だったことを記した。
さらに強い印象を受けたのが屋根である。
城や周辺の建物の屋根には、美しく加工された石が使われていた。
越前で産出する笏谷石を利用した石瓦と考えられている。
勝家の死後、フロイスはその石が非常になめらかで、美しく形を整えられていたことまで書き残した。
北庄城は、当時のヨーロッパ人の目にも強烈な印象を残す城だった。
「九重」の天守――どれほど巨大な城だったのか
北庄城を語るとき、必ず出てくるのが「九重の天守」である。
秀吉が北庄城を落としたあと、小早川隆景らへ送った戦勝報告には、勝家が数年をかけて城を築き、高い石蔵の上へ「九重」の天守を上げていたという内容が記されている。
これをそのまま現代の「9階建て」と考えるかには議論がある。
ただ、同時代の人間が北庄城をきわめて高く壮大な城として認識していたことは分かる。
城下町全体も堀や土居で囲まれていたと考えられ、南側には足羽川という天然の防御線がある。
現在の福井市柴田神社付近が、勝家の北庄城の中心部に比定されている。
この城を勝家は、自分の人生最後の場所に選ぶことになる。
4月21日――賤ヶ岳で柴田軍が崩れる
天正11年(1583)4月21日。
賤ヶ岳の戦い。

柴田方の佐久間盛政は、大岩山の中川清秀を攻撃して討ち取った。
一時は柴田方が大きな戦果を挙げたのである。
ところが盛政は前線に残り続けた。
その間に秀吉が大垣方面から急速に引き返し、柴田軍へ襲いかかる。
前田利家も戦線から離れた。
柴田軍は総崩れとなった。

勝家の周囲に残る兵も減り、もはや秀吉軍へ正面決戦を挑める状況ではなかった。
ここで家臣の毛受勝照が動く。
勝照は勝家の馬標である金の御幣を受け取った。
大将・柴田勝家がそこにいるように見せ、自分が身代わりになって秀吉軍を引きつける。
その間に勝家は戦場を離れた。
毛受勝照は主君を逃がすために戦い続ける。
勝家は北へ向かった。目指したのは北庄城だった。
勝家には「立て直す時間」がなかった
賤ヶ岳で負けても、北庄城は残っていた。
越前という領国もある。
城へ戻って兵を集め直し、長期籠城に持ち込めば、再起の可能性があったようにも見える。
しかし秀吉は、それを許さなかった。
ここが北庄城の戦いを理解するうえで最も重要である。
4月21日、賤ヶ岳。
4月22日、秀吉は越前へ進む。
4月23日、北庄城攻撃開始。
4月24日、落城。
3日である。
秀吉は勝家へ、軍勢を集め直す時間をほとんど与えなかった。
22日には府中方面を押さえた。
ここには前田利家の勢力がある。
利家も秀吉側へ入った。
勝家にとって痛かったのは、賤ヶ岳で一度負けたこと以上に、帰国しても味方を再編成できる状況が急速に消えていったことだった。
巨大な城は残っている。しかし、城を守る軍が既に崩れている。
これでは、北庄城そのものがどれほど堅くても長期戦にはできない。
4月23日――秀吉、足羽山へ
秀吉は北庄城の南西に位置する愛宕山、現在の足羽山付近へ陣を置いた。
北庄の南には足羽川が流れる。
本来ならば城を守る天然の防壁となる川である。
秀吉軍はその川を越え、北庄城へ攻め込んだ。
4月23日、攻撃開始。
そして、この日のうちに総構が突破された。
残されたのは本丸だけである。
北庄城は巨大だった。城下町を含む防御線もあった。
それなのに一日で外周を失った。
勝家が築いた城が弱かったわけではない。
賤ヶ岳から戻った直後で兵が少なく、防衛体制を整える時間もなかったのである。
この日の時点で、勝家自身も翌日の落城を覚悟したとみてよい。
最後の夜――勝家と家臣たちの宴
4月23日の夜。
後世の『太閤記』などには、勝家が重臣たちと最後の宴を開いたという話が残る。
中村聞下斎宗教。小島若狭守。
最後まで城に残った者たちが集まり、酒を酌み交わしたと伝わる。
宴の細部は後世の記録であり、そのまますべてを同時代史実として扱うことはできない。
ただ、その日のうちに総構が落ち、本丸だけになったことは確認できる。
つまり宴が語られる背景そのものは現実的である。
23日の夜。
勝家に残された選択肢はほとんどなかった。
降伏する。逃亡する。あるいは城と運命をともにする。
勝家は最後の道を選んだ。
お市――二度目の落城
勝家とともに北庄城へ残ったのがお市である。
織田信長の妹。
最初の夫は浅井長政。
お市はすでに一度、落城を経験していた。
天正元年(1573)、小谷城が織田軍に攻められた。
浅井長政は自害。
お市は三人の娘を連れて城を出た。
それから10年、今度は北庄城が包囲された。
1582年の清洲会議後、お市は勝家へ嫁ぎ、同年10月ごろには茶々・初・江の三人を連れて北庄へ移ったとみられている。
小谷城では生きて城を出た。
しかし北庄城では、勝家とともに残った。
なぜ今回は死を選んだのか。
お市自身の言葉を直接伝える同時代史料はない。
だから心情を作り上げることはできない。
確実なのは、三人の娘を生かし、自分は勝家とともに死んだことである。
茶々・初・江――三姉妹は秀吉へ引き渡された
お市の三人の娘は城外へ出された。
長女・茶々。
次女・初。
三女・江。
三姉妹は秀吉側へ引き渡された。
この三人のその後を考えると、北庄城の落城が日本史に残した影響の大きさが分かる。
茶々は、のちの淀殿。
秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産む。
初は京極高次の妻となる。
江は徳川秀忠の正室となり、三代将軍・徳川家光を産む。
北庄城から生きて出た三人が、その後、
豊臣家。
京極家。
徳川将軍家。へ入った。
お市と勝家が死を迎える直前に娘たちを城外へ出したことは、その後の日本史にまでつながっていく。
4月24日――勝家、七度打って出る
翌24日。
秀吉軍は本丸へ迫った。
ここから勝家の最後の戦闘が始まる。
『太閤記』などは、勝家がこの日七度まで門を開き、城外へ打って出たと伝える。
敗戦直後。
兵も少ない。外には秀吉の大軍。
それでも勝家は城の奥で待つだけではなかった。
敵へ向かって出撃した。
一度。二度。そして七度。
この「七度」が厳密な回数として確認できる同時代記録ではないことは押さえておきたい。
それでも、勝家側が24日まで抵抗を続け、最後まで戦闘が行われたことは確かである。
織田信長のもとで「かかれ柴田」と呼ばれるほどの猛将として戦場を駆けた勝家。
その最後の戦場も、自分から敵へ向かっていく戦いだった。
午後5時ごろ――勝家は天守へ上がった
戦いは夕方まで続いた。
福井県史は、勝家の最期を午後5時ごろとしている。
勝家はお市を死なせ、自らも天守へ上がった。
そして城外の秀吉軍へ声をかけた。
『毛利家文書』に残る内容では、
自分が腹を切るところを、後学のためによく見ておけという趣旨だった。
最後まで勝家らしい。
助命を乞う言葉ではない。秀吉を罵倒するだけでもない。
自分の死に方そのものを敵へ見せようとした。
戦国武将にとって切腹は単なる自殺ではない。
自分の武名と誇りを保ったまま最期を迎える行為でもある。
勝家は自分の死を、最後の見せ場にしたのである。
柴田勝家とお市、死す
勝家は自害した。
お市も北庄城で命を落とした。
戦後の秀吉側の報告では、勝家が妻子を殺したうえで自害したと伝えられる。
一方、後世の物語では夫婦が最期をともにする悲劇として描かれた。
史実として確実なのは、1583年4月24日、柴田勝家とお市が北庄城で死亡した。
お市の人生を考えると強烈である。
最初の夫・浅井長政は小谷城で死んだ。二番目の夫・柴田勝家は北庄城で死んだ。
一度目の落城では娘たちと生き延びた。二度目の落城では、娘たちだけを生かした。
北庄城、炎上
勝家の自害とともに北庄城は炎に包まれた。
数年をかけて築いた城。高い石蔵。「九重」と記された天守。フロイスを驚かせた石葺きの屋根。
それらが焼け落ちる。
天正3年(1575)に勝家が越前へ入ってから、わずか8年。
北庄城は柴田勝家の越前支配とともに生まれ、勝家の死とともに大きく姿を変えた。
現在残る福井城跡は、勝家の北庄城そのものではない。
慶長6年(1601)に越前へ入った結城秀康が、場所を移して新しい城を築いたものである。
勝家時代の北庄城は、現在の柴田神社周辺にあったと考えられている。
秀吉の恐ろしさは「勝ったあと」にあった
賤ヶ岳の戦いだけを見ると、秀吉の勝因として「美濃大返し」の速さが注目される。
しかし本当に恐ろしいのは、その後である。
秀吉は勝って止まらなかった。
21日、柴田軍を破る。
22日、越前へ。
23日、北庄攻撃。
24日、勝家を死に追い込む。
勝利を得た瞬間から、敵が立ち直る可能性を潰すまで攻撃を続けた。
戦場で一度勝つだけなら、勝家は北庄で再起できる。
だから秀吉は北庄まで追った。
勝家の軍を破るだけではなく、勝家という政治勢力そのものを消したのである。
ここに、後の天下人・秀吉の戦い方がはっきり出ている。
勝家が死んだことで、織田家中の最大の壁が消えた
北庄城の炎とともに消えたのは、一人の武将だけではない。
柴田勝家は織田家臣団でも最古参級の重臣。
北陸方面を任され、越前を支配し、信長亡き後には秀吉と織田家中の主導権を争った人物である。
清洲会議では、勝家と秀吉が信長の後継問題をめぐって対立した。
勝家は信長三男・織田信孝を推し、秀吉は信忠の嫡男・三法師を推した。
最終的には三法師を立てる形で決着したが、その後も両者の対立は収まらなかった。
その最大の対抗者が1583年4月24日に死んだ。
秀吉の天下がこの日完成したわけではない。
翌1584年には、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いが待っている。
それでも、織田家臣団の内部で秀吉と互角に主導権を争える存在は大きく減った。
賤ヶ岳で柴田軍が敗れ、北庄で柴田勝家が死んだ。
この二つがそろって初めて、秀吉の勝利は決定的なものになった。
北庄城から生きて出た少女は、のちに秀吉の子を産む
北庄城の戦いには、奇妙なその後がある。
勝家とお市は死んだ。
秀吉は勝った。
そして城から救い出された茶々は、やがてその秀吉の側室となった。
秀吉との間に生まれたのが豊臣秀頼である。
1583年、北庄城で母と義父を失った少女が、その後、北庄城を攻め落とした男の子を産む。
そして33年後の1615年。
今度は茶々自身が、大坂城の落城とともに最期を迎える。
小谷城。北庄城。そして大坂城。
戦国の城の落城に翻弄されたお市の家族の物語は、北庄城では終わらなかった。
柴田勝家の時代は、1583年4月24日に終わった。
しかし北庄城から生きて出た三姉妹を通じて、その日の出来事は豊臣と徳川の時代まで続いていくのである。
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