【戦い・事件編】賤ヶ岳の戦い(前編)――勝敗を分けたのは「冬」だった。秀吉が先に動いた理由

戦い・事件

第41回

――清須会議から、佐久間盛政が大岩山を狙うまで

天正10年(1582)6月2日。

京都・本能寺。

織田信長が明智光秀の軍勢に襲われた。

信長は自害。

嫡男・織田信忠も二条御所で命を絶った。

天下統一を目前にしていた織田家は、わずか一日の間に当主と後継者を失った。

ここから始まるのが、信長の死後、織田家の主導権を誰が握るのかという争いである。

その中心に立ったのが、羽柴秀吉と柴田勝家だった。

そして翌年。

二人は近江の山々を挟んで数万の軍勢を向かい合わせる。

その戦いが、賤ヶ岳の戦いである。


1.本能寺の変――信長が消えた

本能寺の変が起きたとき、羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と戦っていた。

信長の死を知った秀吉は、毛利氏と講和を成立させ、軍を東へ向ける。

そして6月13日、山崎で明智光秀を破った。

秀吉は信長の仇を討った武将として、一気に織田家中で存在感を高める。

一方、北陸方面で上杉景勝と戦っていた柴田勝家は、山崎の戦いに間に合わなかった。

信長の死後、二人の置かれた状況には大きな差が生まれた。

秀吉は京都周辺で勢力を伸ばす。

勝家は越前を中心とする北陸にいる。

そして、信長の後継者を決める必要が生じた。


2.清須会議――三法師が後継者となる

天正10年6月27日。

尾張の清須城で、織田家の有力者たちが集まった。

柴田勝家。羽柴秀吉。丹羽長秀。池田恒興。

ここで信長亡き後の織田家の後継者と、領地の再配分が決められた。

後継者として立てられたのは、信長の嫡男・信忠の遺児である三法師だった。

まだ幼い三法師に代わり、実際に政治と軍事を動かすのは織田家の有力者たちである。

信長の三男・信孝は美濃。

信長の次男・信雄は伊勢。

秀吉は畿内を中心とする重要地域。

勝家は越前を中心とする北陸方面に加え、北近江の長浜などを得た。

さらに信長の妹・お市は勝家に嫁いだ。

こうして新しい織田家の体制が作られた。

しかし、実権を誰が握るのかという問題は残った。

三法師は幼い。

織田家の実際の政治を動かすのは、秀吉、勝家、信雄、信孝らである。

信長の後継者を立てる問題は、そのまま織田家の主導権を誰が握るのかという問題へ変わっていった。


3.清須会議の結果、織田家は二つの勢力へ傾いていく

清須会議の後、秀吉は畿内を基盤に勢力を広げていった。

一方、勝家は越前を本拠として北陸方面の支配を固める。

そして北近江には、勝家の甥で養子の柴田勝豊が入った。

その居城となったのが長浜城だった。

長浜城には、秀吉の旧領である。

秀吉は浅井氏を滅ぼした後、北近江を与えられ、長浜城を築いてここを居城としていた。

つまり信長が死んだ後、秀吉がかつて築いた城に、勝家側の勝豊が入った。

長浜は北陸と近江を結ぶ重要地点だった。

勝家にとっては南へ進むための足場になる。

秀吉にとっては、自分の旧拠点を勝家側に押さえられた状態だった。


4.冬の長浜城――秀吉が最初に狙ったもの

天正10年11月。

秀吉は長浜城の勝豊を攻撃した。

長浜城は勝家側の重要拠点だった。

そして、この時期の北陸には大きな問題があった。

雪である。

越前から近江へ大軍を動かすには、冬の積雪が大きな障害になる。

実際、天正10年12月20日の称名寺文書には、雪が深く通路が完全に閉ざされている状況が記されている。

国立国会図書館のレファレンスでも、この記述から勝家側が越前から近江へ救援軍を動かすことが難しい状況だったと整理されている。

秀吉は、この冬という時間を利用した。

勝家が北陸から大軍を動かしにくい間に、勝家側の拠点を先に奪う。

長浜城はその最初の標的になった。

12月9日、勝豊は秀吉に降伏。

長浜城は秀吉の手に戻った。長浜城歴史博物館も、勝豊が秀吉に降伏し、長浜城が再び秀吉の拠点となったことを伝えている。

秀吉は、勝家の大軍と正面からぶつかる前に、重要な拠点を一つ奪った。

ここが後の賤ヶ岳へつながる最初の大きな動きだった。


5.織田信孝も降伏――秀吉は美濃も押さえる

長浜だけではない。

美濃では織田信孝が秀吉に対抗していた。

信孝は柴田勝家と結び、秀吉に対抗する勢力となっていた。

秀吉は美濃へ軍を進める。

信孝の本拠・岐阜城は圧迫され、信孝は降伏する。

天正10年12月。

信孝は秀吉・織田信雄側に屈した。

三法師も秀吉側へ渡った。

ここで秀吉は重要な成果を得る。

長浜城を奪い、美濃の信孝も一度降伏させた。

勝家と連携する勢力を、冬の間に一つずつ崩していったのである。


6.秀吉の冬戦略――勝家が動きにくい間に周囲を削る

ここまでの動きを一本につなげると、秀吉の戦略が見えてくる。

北陸の勝家は冬の間、大軍を南へ動かしにくい。

その間に秀吉は、

長浜の勝豊を降伏させる。

美濃の信孝を降伏させる。

そして翌年になると、今度は伊勢へ目を向ける。

そこにいたのが、滝川一益だった。

もちろん、当時の秀吉が「冬だからこの計画を立てた」と明記した作戦書が残っているわけではない。

しかし、長浜攻略の時期、北陸の積雪、勝家の出陣時期を並べると、勝家が動きにくい冬から春先にかけて、秀吉が周辺の反対勢力を削っていたことが見えてくる。

そして、この動きは天正11年の伊勢戦線へつながっていく。


7.伊勢の滝川一益――秀吉はさらに背後を固める

天正11年(1583)になる。

秀吉の次の標的は伊勢だった。

伊勢北部を支配していたのが、織田家の重臣・滝川一益である。

一益も勝家と連携して秀吉に対抗した。

秀吉は伊勢へ軍を進める。

2月。

秀吉は自ら滝川方の亀山城を囲み、さらに峰城や桑名方面も攻撃した。

このことは、秀吉自身が出した禁制などの同時代史料から確認できる。四日市市も、2月の北伊勢への出兵と亀山・峰・桑名方面への攻撃を確認している。

ただし、ここは慎重に見なければならない。

天正11年初頭の北伊勢戦線については、現存史料が少ない。

四日市市も、「実態が十分解明されていない」と明記している。

したがって、後世の軍記にある戦闘の細かな場面を、そのまま確定した史実として描くことは避ける。

確実に確認できるのは、秀吉が北伊勢へ大軍を送り、滝川方の城を攻撃していたことだ。


8.亀山城が落ちる――しかし一益は終わっていない

北伊勢では激しい戦いが続いた。滝川方も抵抗した。

特に峰城では滝川益重が守備し、秀吉軍の攻撃を受けながら抵抗したことが記録されている。

そして3月3日、亀山城が秀吉方に降伏した。

秀吉は北伊勢で優位を広げた。

しかし、ここで「滝川一益が完全に敗北した」と書くのは正確ではない。

一益の勢力はなお伊勢に残っていた。

秀吉は一益を完全に片付けてから勝家と戦ったわけではない。

むしろ、伊勢戦線を抱えたまま、勝家との本格的な対陣へ移っていく。

そして3月。

北陸から勝家が動き始める。


9.雪解け――柴田勝家が南へ

冬の間、越前から近江へ大軍を動かすことは難しかった。

しかし春になる。雪解けが進む。

勝家はついに南へ動いた。

天正11年3月3日。

柴田勝家は北庄を出発し、近江伊香郡の柳ヶ瀬方面へ進んだとされる。国立国会図書館のレファレンスでも、越前から近江への出兵として、この日付が確認されている。

勝家の軍には、

佐久間盛政。前田利家。不破勝光。金森長近。

などの武将がいた。

北陸の大軍が南へ進み始めた。

秀吉も、これを迎え撃たなければならない。

伊勢に主力を置き続けることはできない。

そこで秀吉は近江へ戻る。


10.伊勢から近江へ――秀吉、勝家との直接対決へ

秀吉は伊勢戦線を織田信雄らに任せ、主力を近江へ移す。

3月17日ごろには木之本・賤ヶ岳方面へ進み、勝家軍と対峙した。

長浜城歴史博物館も、秀吉が長浜を再び拠点とし、秀長が田上山に布陣して柴田軍と対峙したことを紹介している。

ここで戦場の中心が変わった。

それまで秀吉は、美濃 伊勢と複数の地域で勝家側と戦っていた。

しかし、勝家が南下したことで、ついに二人の主力軍が近江で向き合う。

舞台は余呉湖周辺。山々が連なる場所だった。


11.余呉湖周辺――両軍、山に砦を築く

秀吉と勝家は、すぐに大軍同士の正面決戦を始めなかった。

両軍は山を押さえた。

砦を築いた。兵を配置した。

秀吉方は、

賤ヶ岳 大岩山 岩崎山 田上山。

などの要地に兵を置いた。

勝家方も柳ヶ瀬方面から南へ向けて陣を構えた。

長浜城歴史博物館も、秀吉・勝家両軍が余呉湖周辺に砦を築いて対峙したことを説明している。

ここから戦場は膠着する。

しかし、その静けさの裏では情報戦が続いていた。

敵陣の配置を探る。相手の武将に働きかける。

賤ヶ岳の戦いは、こうした駆け引きの中で少しずつ決戦へ近づいていった。


12.山路正国が勝家方へ――前線の情報が流れる

4月。

秀吉方の前線で重要な動きが起きる。

山路正国の寝返りである。

山路正国は柴田勝豊の家臣として堂木山方面の守備に関わっていた人物だった。

そして勝家方へ移る。

この動きによって、勝家側は秀吉軍の前線について情報を得ることになった。

後世の軍記や戦記では、この情報が佐久間盛政の攻撃計画に利用されたと描かれる。

具体的にどこまでの情報が実際に伝わったかは、同時代史料だけでは細部まで確定できない。

しかし、ここから盛政の作戦が動き始める。


13.4月16日――織田信孝、再び挙兵

そして、美濃で大事件が起きる。

織田信孝が再び立ち上がった。

前年12月、信孝は一度、秀吉に降伏した。

しかし天正11年4月16日。

信孝は再び挙兵する。

一度降伏した後、再び秀吉に対して兵を挙げた。

秀吉にとって、これは非常に厄介な事態だった。

近江には勝家。伊勢には一益。

そして美濃では信孝。

複数の戦線が同時に動いた。秀吉は決断する。

美濃へ向かう。


14.秀吉、大垣へ――ここで戦場に隙が生まれる

4月16日。

秀吉は美濃へ向かい、大垣へ入った。

近江の前線には、羽柴秀長、中川清秀、高山右近らが残った。

秀吉自身が前線から離れた。

ここで勝家側に、一つの好機が生まれる。

秀吉がいない。

しかも秀吉軍の前線には、大岩山や岩崎山などの砦が並んでいる。

この状況を見たのが、佐久間盛政だった。

盛政は柴田家中でも屈指の武将だった。

彼の目の前に、秀吉軍の防衛線を崩す機会が現れた。


15.佐久間盛政――大岩山を狙う

盛政が狙ったのは、大岩山砦だった。

守っていたのは中川清秀。

大岩山は、秀吉方の防衛線を構成する重要な砦の一つだった。

ここを奪えば、秀吉軍の前線に大きな穴が開く。

そして何より、秀吉本人が美濃へ移動している。

盛政は攻撃を進言する。

勝家はこれを認めた。

ただし、後世の軍記などでは、勝家が「攻撃後は速やかに撤退する」ことを条件にしたと伝える。

この話は賤ヶ岳の戦いを理解するうえで非常に重要だ。

勝家の意図は、秀吉の不在を利用して前線の砦を奪い、すぐに本陣へ戻ること。

盛政は、そこからさらに戦果を広げようとする。

この違いが、やがて柴田軍の運命を左右する。


まとめ

――秀吉は、勝家が動けない冬に先手を打った

信長が本能寺で倒れた。

清須会議で三法師が後継者となった。

しかし、織田家の実権を誰が握るのかという問題は残った。

秀吉は冬の間に動いた。

北陸の勝家が雪で大軍を動かしにくい時期に、長浜城を攻めた。

勝家側の勝豊を降伏させ、北近江の重要拠点を奪った。

さらに美濃の織田信孝も降伏させた。

そして天正11年。

秀吉は伊勢へ軍を進め、滝川一益と戦った。

亀山城を攻略するなど北伊勢で勢力を広げる。

その間に北陸の雪が解けた。

柴田勝家が南へ動く。

秀吉も伊勢から近江へ戻る。

両軍は余呉湖周辺で砦を築き、長い対陣に入った。

そして4月、山路正国が勝家方へ移る。

さらに4月16日。

一度降伏した織田信孝が再び挙兵する。

秀吉は美濃へ向かう。

ここで近江の秀吉軍から主力が離れた。

その隙を佐久間盛政が狙った。

目標は大岩山。

4月20日未明、盛政が動く。

しかし、秀吉は大垣にいる。

ここから賤ヶ岳の戦いは、静かな対陣から一気に決戦へ変わる。

次回はいよいよ、

大岩山の襲撃――秀吉の大返し――賤ヶ岳本戦――前田利家の動き――柴田勝家の敗走

までを、一気に描く。

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