戦い・事件

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【戦い・事件編】墨俣川の戦い――源行家の大敗と義円の死

治承5年(1181年)3月10日、美濃と尾張の境を流れる墨俣川を挟み、源平両軍が向かい合った。西から進んできたのは、平重衡を中心とする平氏軍である。平維盛、平通盛、平忠度、平知度ら一門の武将も加わっていた。これを迎え撃ったのが源行家だった。...
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【戦い・事件編】小牧・長久手の戦い(後編)――家康の追撃、森長可・池田恒興を討つ

天正12年(1584年)4月9日。夜明けを迎えた尾張東部では、羽柴秀吉が送り出した岡崎侵攻軍が東へ進んでいた。総勢は約2万4000。池田恒興・元助父子、森長可、堀秀政、長谷川秀一、そして秀吉の甥・三好信吉らが参加する大軍である。目指している...
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【戦い・事件編】小牧・長久手の戦い(前編)――秀吉と家康、天下をめぐり小牧山で対峙する

天正12年(1584年)3月28日。尾張国小牧山に徳川家康が入った。標高約86メートル。濃尾平野の中に独立してそびえるこの山は、21年前、織田信長が清須から本拠を移して城を築いた場所である。その北、およそ5キロの楽田には羽柴秀吉が本陣を置い...
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【戦い・事件編】南都焼討――平重衡、東大寺と興福寺を焼く

治承4年(1180年)12月28日。奈良の北側、奈良坂と般若寺の周辺では朝から戦いが続いていた。京都から南下してきた平氏の軍勢を率いるのは、平清盛の五男・平重衡。数え24歳である。迎え撃つ南都側は、興福寺を中心とする大衆だった。奈良へ通じる...
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【戦い・事件編】金砂城の戦い――平氏を追わず「坂東平定」へ、源頼朝が佐竹氏を攻める

治承4年(1180)10月20日、駿河国の富士川から平維盛の追討軍が退いていった。源頼朝はそのまま西へ進み、京都を目指そうとした。ところが、千葉常胤・上総広常・三浦義澄ら東国の武士たちは、これに反対した。鎌倉へ入ったばかりの頼朝には、まだ従...
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【戦い・事件編】富士川の戦い――石橋山で大敗した頼朝、平家追討軍と本格的な初戦

治承4年(1180年)10月20日の夜、駿河国を流れる富士川の西岸に平氏の追討軍がいた。大将は平維盛。前年に亡くなった平重盛の嫡男で、数え23歳になる。平忠度、平知度ら一門の武将が従い、軍勢の実務を伊藤忠清が担っていた。東には源頼朝が迫って...
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【戦い・事件編】石橋山の戦い――20年耐えた源頼朝、最初の挙兵はなぜ大敗したのか?

治承4年(1180年)8月23日、相模国石橋山。山の斜面に陣を取った源頼朝の軍勢は、『吾妻鏡』によれば300余騎だった。谷を一つ隔てた向こうには大庭景親の3000余騎。さらに伊豆から追ってきた伊東祐親300余騎が後方の山へ回っている。頼朝が...
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【戦い・事件編】福原遷都――わずか半年で終わった、平清盛「海の都」の計画

治承4年(1180年)5月26日、宇治で平氏軍が勝利した。源頼政は平等院で自害し、以仁王も奈良へ向かう途中の南山城で命を落とす。園城寺を巻き込んだ反乱は、ひとまず鎮圧された。それから7日後の6月2日。安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇が京都を出...
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【戦い・事件編】以仁王の挙兵――77歳の源頼政、宇治橋で平氏に挑む

治承4年(1180年)5月26日、源頼政は宇治の平等院で最期を迎えた。数え77歳。2年前には従三位に昇り、「源三位」と呼ばれた老将である。保元の乱では後白河天皇方、平治の乱では最終的に平清盛方につき、河内源氏が京都から消えたあとも朝廷に残っ...
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【戦い・事件編】治承三年の政変――平清盛と後白河法皇、20年の協力関係が崩壊

治承3年(1179年)11月14日、平清盛が福原から京都へ入った。『山槐記』は、その軍勢を数千と記している。翌15日には関白・松殿基房とその子・師家が政界から退けられ、代わって20歳の近衛基通が関白となった。17日には太政大臣・藤原師長をは...
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