戦い・事件

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【戦い・事件編】鹿ケ谷の陰謀――密議、裏切り、処刑――平清盛への反乱計画

安元3年(1177)6月1日。京都には、すでに武装した兵が集められていた。標的は比叡山延暦寺。後白河法皇が山門への武力攻撃を決め、平重盛・宗盛ら平氏の兵をはじめ、近江・美濃などの武士まで動員されようとしていた。ところが、その軍勢は比叡山へ向...
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【戦い・事件編】平治の乱――源義朝はなぜ平清盛に敗れたのか?

平治元年(1159)12月9日、夜。京都の三条殿を、武装した兵が包囲した。ここは後白河上皇の御所である。院近臣の藤原信頼と、その軍事力を支える源義朝が兵を動かした。標的は、保元の乱後に後白河政権の実務を握っていた信西(藤原通憲)だった。...
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【戦い・事件編】保元の乱――勝者となった義朝と清盛 父子・兄弟・叔父甥が殺し合った、京都の四時間

保元元年(1156)7月11日未明。夜明け前の京都を、三つの武士団が東へ進んでいた。二条大路を進む平清盛、300余騎。大炊御門大路を進む源義朝、200余騎。近衛大路を進む源義康、100余騎。同時代の日記『兵範記』が記す兵力だけで600...
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【戦い・事件編】大蔵合戦――15歳の「悪源太」義平、叔父・義賢を討つ

久寿2年(1155)8月16日、武蔵国で、河内源氏の叔父と甥が戦った。叔父は、源為義の子・源義賢。甥は、義賢の兄・源義朝の長男、源義平である。義平は1141年生まれで、このとき数え15歳だった。戦いは義平の勝利に終わり、義賢は死亡した。...
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【戦い・事件編】源義忠暗殺事件――源氏の棟梁を殺したのは誰だったのか? 河内源氏を崩壊させた1109年の暗殺

1109年2月――河内源氏の棟梁が、京都で斬られた天仁2年(1109)2月。京都で、河内源氏の棟梁が何者かに襲われた。源義忠。父は「八幡太郎」源義家。前九年合戦、後三年合戦を経験し、東国武士の間に大きな名声を築いた人物である。その義家が...
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【戦い・事件編】源義親の乱――英雄・源義家の息子が朝敵へ転落した日

1108年正月――源義家の後継者が、出雲で追い詰められる嘉承3年(1108)正月。山陰道を西へ進んできた軍勢が、出雲国へ入った。大将は平正盛。平清盛の祖父として知られる男である。正盛自身が直接率いていた兵は、およそ240~250人。...
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【戦い・事件編】北庄城の戦い――「もう勝てない」柴田勝家は、なぜ北庄城に残ったのか?

1583年4月24日――柴田勝家、北庄城で最期を迎える天正11年(1583)4月24日。越前・北庄城。現在の福井市中心部で、柴田勝家の最後の戦いが始まっていた。城の外を埋めているのは羽柴秀吉の軍勢。城の内側に残ったのは、賤ヶ岳から敗走してき...
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【戦い・事件編】後三年合戦――前九年の役の勝者・清原氏は、なぜ内側から滅びたのか

1087年11月14日――金沢柵、陥落寛治元年(1087)11月14日。出羽国の金沢柵が落ちた。現在の秋田県横手市金沢周辺である。長い包囲によって柵内の食料は尽き、兵だけでなく、女や子どもまで飢えていた。外へ逃げようとする者も現れたが、...
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【戦い・事件編】延久蝦夷合戦――源頼俊と清原氏はなぜ北奥州へ進軍したのか?

1070年――前九年の役から8年、さらに北で軍が動く延久2年(1070)。前九年の役が終わってから8年。陸奥国で、再び大規模な軍事行動が始まった。今度の戦場は、安倍氏が支配した奥六郡よりさらに北である。史料に現れる名は、「衣曾別嶋の荒夷」...
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【戦い・事件編】前九年の役・後編――源頼義はなぜ壊滅寸前から安倍氏を滅ぼせたのか? 黄海から厨川柵へ

1057年11月――頼時を失った安倍氏へ、頼義が迫る前編はこちら。天喜5年(1057)7月、奥六郡を率いた安倍頼時が死んだ。頼義の調略によって安倍富忠らが離反し、説得に向かった頼時自身が攻撃を受けて致命傷を負った。安倍氏を束ねてきた盟主...
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