戦い・事件

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【戦い・事件編】宇佐八幡宮神託事件――道鏡はなぜ天皇になれなかったのか? 769年、和気清麻呂が持ち帰った神託

神護景雲3年(769)。九州の宇佐八幡から、奈良の朝廷を揺るがす神託がもたらされた。「道鏡を皇位につければ、天下は太平になる」道鏡は皇族ではない。称徳天皇の信任を受け、朝廷で絶大な権力を握っていたとはいえ、その出自は皇統とは無縁だった。その...
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【戦い・事件編】なぜ最高権力者・藤原仲麻呂は8日で敗れたのか?――恵美押勝の乱と764年の政変

天平宝字8年(764)9月18日。琵琶湖西岸の近江国高島郡。かつて朝廷の最高位にまで昇った藤原仲麻呂は、追討軍に追い詰められていた。近江へ進もうとすれば橋を焼かれ、越前へ向かえば関を押さえられる。三尾埼で追討軍に敗れた仲麻呂は、勝野鬼江から...
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【戦い・事件編】藤原広嗣の乱――なぜ藤原広嗣は1万余の兵を率いて朝廷に反乱したのか? 740年、板櫃川の戦い

天平12年(740)10月9日。豊前国を流れる板櫃川を挟み、二つの軍勢が向かい合っていた。西岸には藤原広嗣。その兵力は1万余。東岸には朝廷の追討軍6,000余が布陣していた。広嗣は大宰少弐として九州に赴任していた藤原氏の貴族である。約40日...
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【戦い・事件編】橘奈良麻呂の変――藤原仲麻呂打倒計画はなぜ実行前に潰れたのか、757年の密告と一斉逮捕

757年(天平勝宝9歳)7月2日。藤原仲麻呂のもとへ、一人の官人から密告が入った。告発したのは上道斐太都。橘奈良麻呂らが藤原仲麻呂を排除し、皇太子・大炊王を退け、新たな天皇を立てようとしているという内容だった。翌3日。奈良麻呂をはじめ、黄文...
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【戦い・事件編】隼人の反乱――大伴旅人が率いた南九州征討、「斬首・捕虜1400余人」

養老4年、720年2月29日。九州を統轄する大宰府から、平城京の朝廷へ報告が届いた。「隼人反きて、大隅国守陽侯史麻呂を殺す」南九州で隼人が反乱を起こし、朝廷から派遣されていた大隅国守・陽侯史麻呂が殺害されたという。2月29日は、大宰府が事件...
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【戦い・事件編】壬申の乱(後編)――大和・近江の激戦、最後の瀬田橋へ

672年7月22日、大海人皇子の軍が瀬田川へ到達した。川の西側には、大友皇子と近江朝廷の群臣がいた。『日本書紀』は、軍勢の後方が見えないほど兵が並び、旗が野を覆い、鉦や鼓の音が響いたと記している。大軍を印象づける表現を含むとはいえ、近江朝廷...
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【戦い・事件編】壬申の乱(前編)――大海人皇子はなぜ吉野を脱出し、不破を押さえたのか?

天智天皇10年(671年)10月、大海人皇子は近江大津宮を離れ、吉野へ向かった。大海人皇子は天智天皇の同母弟である。兄の政権を長く支えてきた有力皇族だったが、天智天皇の晩年には、その息子である大友皇子が政権の前面へ出ていた。大友皇子は大化4...
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【戦い・事件編】白村江の敗戦後――天智天皇の防衛網と、壬申の乱への道

天智2年(663年)8月。倭国・百済復興軍は、朝鮮半島の白村江で唐・新羅軍に敗れた。百済王として復興軍に迎えられていた豊璋は高句麗へ逃れ、百済再興の試みも終わりを迎える。倭国軍は朝鮮半島から撤退し、百済の人々の中には海を渡って倭国へ移る者も...
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【戦い・事件編】白村江の戦い――なぜ日本は戦ったのか?

天智2年(663年)8月27日、朝鮮半島西南部の河口へ、倭国から渡ってきた水軍が近づいた。そこには唐の水軍が待っていた。『日本書紀』が記す船数は170艘。唐軍は百済復興勢力の本拠・周留城へ向かう陸軍と歩調を合わせながら水路を進み、倭国から来...
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【戦い・事件編】古人大兄皇子――乙巳の変後、なぜ中大兄皇子に討たれたのか

645年6月12日。飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿が殺された。乙巳の変である。入鹿の死を目の当たりにした一人の皇子が、自らの宮へ走って戻った。舒明天皇の皇子・古人大兄皇子である。『日本書紀』は、この時の古人大兄皇子の言葉を記している。「韓人、鞍作臣...
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