【戦い・事件編】墨俣川の戦い――源行家の大敗と義円の死

戦い・事件

第114回

治承5年(1181年)3月10日、美濃と尾張の境を流れる墨俣川を挟み、源平両軍が向かい合った。

西から進んできたのは、平重衡を中心とする平氏軍である。

平維盛、平通盛、平忠度、平知度ら一門の武将も加わっていた。

これを迎え撃ったのが源行家だった。

行家の軍勢には、源義朝の子・義円もいた。

頼朝の異母弟であり、義経の同母兄にあたる人物である。

幼くして寺に入り、長く僧として生きてきた義円にとって、墨俣川はその名が史料に大きく現れる数少ない戦場となった。

前年10月、富士川で平氏の追討軍は戦線を維持できずに撤退した。

それから約5か月。

清盛を失ったばかりの平氏は再び東海道へ軍勢を送り、今度は墨俣川で源氏軍を打ち破る。

その戦いで、源行家は軍勢の多くを失い、義円は帰らぬ人となった。


清盛死去の直後、平氏は再び東海道へ兵を送った

治承4年(1180年)12月28日、平重衡の軍勢による南都攻撃で東大寺や興福寺の伽藍が炎に包まれた。

年が明けた治承5年閏2月4日、平氏を率いてきた平清盛が死去する。

前年から各地では反平氏の動きが広がっていた。源頼朝は鎌倉を拠点に東国で勢力を伸ばし、甲斐源氏も活動を続ける。信濃では木曾義仲が兵を集め、近江、美濃、尾張でも平氏に敵対する勢力が動いていた。

東海道方面で兵を集めていたのが源行家である。

行家は源為義の子で、源義朝の弟。頼朝にとっては叔父にあたる。

治承4年4月、以仁王が平氏追討を呼びかける令旨を出すと、行家は諸国の源氏へその意思を伝える役割を担った。

その後、自らも兵を集め、尾張・三河方面へ進出していく。

美濃から尾張を抜ける東海道は、京と東国を結ぶ重要な経路だった。

行家の勢力がここで拡大すれば、平氏にとって大きな脅威となる。

清盛の死から間もなく、平氏は東海道へ追討軍を送り出した。

軍を率いたのは平重衡である。

南都への攻撃を指揮してから、まだ数か月しか経っていない。

重衡の軍には平維盛、平通盛、平忠度、平知度らが加わった。

前年の富士川で撤退した維盛も、再び東国へ向かう軍勢の中にいた。

兵数については史料によって記録が異なる。

九条兼実の日記『玉葉』は行家軍を「五千余騎」とし、『吉記』には「三千余騎」とある。

平氏側についても記録に差があり、後世の軍記物語になるとさらに大きな数字が現れるため、両軍の実数を確定することは難しい。

それでも、平氏が行家討伐のため相当な軍勢を東海道へ投入したことは、戦闘後に残された記録からもうかがえる。

治承5年3月、両軍は美濃と尾張の境へ近づいていった。


寺で育った義朝の子・義円

行家のもとには、源義朝の子・義円が加わっていた。

義円は義朝と常盤御前の間に生まれ、幼名を乙若といった。

同母兄は今若、のちの阿野全成。同母弟の牛若は、のちに源義経と名乗る。

平治元年(1159年)、父の義朝は平治の乱に敗れ、尾張へ逃れる途中で殺害された。

幼かった兄弟は父とは別の道を歩むことになる。

乙若は寺へ入り、僧として成長した。やがて義円と称し、「卿公」とも呼ばれるようになる。

それから約20年が過ぎた治承4年、頼朝が伊豆で挙兵した。

平治の乱によって各地へ散った義朝の子たちが、再び歴史の表舞台へ現れる時期でもあった。

義円も行家の軍勢に加わり、平氏との戦いへ身を投じる。

義円が行家のもとへ赴いた経緯については、史料ごとに記述が異なる。

後世に成立した『源平盛衰記』では、頼朝が義円に兵をつけ、「十郎蔵人行家に力を合わせよ」と送り出した形で描かれている。

『吾妻鏡』の治承5年3月10日条には、行家、その子の光家らとともに義円が尾張・三河の武士を率いて布陣したことが記されているものの、頼朝から派遣された経緯までは書かれていない。

治承5年3月10日、義円は行家とともに墨俣川の戦場にいた。

ここから先の彼の生涯は、長くは続かなかった。


墨俣川を挟んで源平両軍が対峙する

墨俣川は、現在の岐阜県南西部を流れる長良川にあたる。

美濃から尾張へ進む際の要所であり、平氏軍がここを突破すれば尾張へ入る。

さらに三河、遠江、駿河へ進めば、その先には頼朝が勢力を固めつつある東国があった。

3月10日、源平両軍は墨俣川付近で対峙した。

『吾妻鏡』は源氏方について、源行家、その子の光家と次郎、義円、泉太郎重光らが尾張・三河の武士を率いたと記している。

平氏方には重衡をはじめ、維盛、通盛、忠度、知度、盛綱、盛久らが名を連ねた。

前年の富士川では、平氏軍は頼朝方との大規模な戦闘に入る前に撤退している。

墨俣では両軍が実際に刃を交えることになった。

『玉葉』治承5年3月13日条には、戦いから数日後に京へ届いた報告が残されている。

そこでは、墨俣を渡ろうとした官軍に対し、尾張方面を守る反平氏勢力約5000騎が進んできたと伝えている。

両軍が川辺に布陣するなか、行家は兵力差を埋めるため夜襲を企てた。


夜襲を狙った行家の動きが平氏に知られる

『吾妻鏡』によれば、日が暮れるころ、行家は密かに平氏軍を襲う策を立てた。

暗闇に紛れて川を越え、平氏の陣へ攻め込もうとしたのである。

ところが、行家軍が動き出す前に異変を察知した者がいた。

平重衡に仕える金石丸である。

金石丸は馬を洗うため墨俣川へ出た際、対岸の源氏軍の動きに気づいたという。

知らせを受けた平氏軍は、行家の攻撃の前に行動を起こした。

重衡の軍勢が先に動き、夜襲の準備を進めていた源氏軍へ襲いかかった。

不意を突くつもりだった行家軍は、攻撃を始める前に主導権を奪われた。

川辺で戦闘が始まった。


墨俣川で崩れた行家軍

『玉葉』に記された報告では、戦闘は巳刻から申刻まで続いたという。

当時の時刻区分には幅があるため現代の時計にそのまま置き換えることはできないものの、戦いが短時間の衝突だけで終わらず、数時間に及んだことがうかがえる。

行家軍は、夜襲の機会を失ったうえ、兵力でも平氏軍が優勢だった。

戦線が崩れると、行家方の兵は川へ追い込まれていった。

鎧を身につけた武士にとって、川への退却は危険を伴う。馬から落ちれば重い鎧のまま流れに巻き込まれ、岸へ上がることも難しくなる。

『吾妻鏡』には、川へ入って溺死した者や、傷を負って命を落とした者が多数いたことが記されている。

同書が伝える死者は「六百九十余人」。

『玉葉』に届いた戦勝報告ではさらに大きな数字が記され、討ち取られた者が1000余人、その後に川で溺死した者が300余人に達したという。

『吉記』には、平氏の各隊が得た首級や捕虜について具体的な数字も残されている。

重衡方213人、通盛方67人、維盛方74人、忠度方21人、知度方8人などである。

それぞれ異なる経路で伝わった記録であり、数字を合計して実際の戦死者数とみなすことはできないが、複数の史料が大きな損害を記していることから、行家軍が墨俣川で壊滅的な打撃を受けた様子は読み取れる。

その混乱のなかで、義円も平氏軍と戦っていた。


義円、墨俣川に死す

義円の最期について、『吾妻鏡』の記述は簡潔である。

義円禅師は平盛綱に討ち取られた。

どのように討たれたのか。

同書からそれ以上の様子を知ることはできない。

後世の『源平盛衰記』では、義円の最期が詳しく描かれている。

同書によれば、行家と義円は先陣を争っていた。

義円は行家より先に戦功を立てようと考え、一人で川を渡って平氏軍のいる側へ潜んだという。

やがて行家軍が渡河を始めると、義円は名乗りを上げ、自ら先陣を切ろうとした。

この場面は義円の勇猛さを印象づけるが、『吾妻鏡』や『玉葉』には見えない。

後世の軍記物語が伝える義円像として読む必要がある。

史料から確認できる義円の最期は、墨俣川で行家軍とともに戦い、平氏方の平盛綱に討たれたところまでである。

義円は20代だったとみられる。

父・義朝が平治の乱に敗れたとき、義円はまだ幼かった。

その後は寺で育ち、僧として年月を重ねた。

父の死から約20年後、各地の源氏が平氏に対して兵を挙げるなかで義円も戦場へ向かい、墨俣川で命を落とした。

弟の義経が頼朝と対面し、源平合戦の中心へ姿を現していくのは、このころからである。

義円には、義経のように一ノ谷、屋島、壇ノ浦を戦う機会は訪れなかった。


行家の子も捕らえられ、軍勢は崩壊した

墨俣川で失われたのは義円だけではない。

『吾妻鏡』によれば、行家の子である蔵人次郎は平忠度に生け捕られた。

泉太郎重光とその弟も、平盛久によって討ち取られている。

主だった武将を失った行家軍は統制を保てなくなり、兵たちは川を越えて逃れようとした。

行家自身も危険な状態に陥った。

『玉葉』に記された第一報では、行家が負傷して川へ入り、そのまま死亡した可能性まで伝えられている。

京に届いた情報で生死が分からなくなるほど、行家軍の敗走は激しかった。

行家は生き延び、尾張から三河方面へ退却した。

平氏軍は墨俣川を越えて追撃に移る。


敗走は三河の矢作川まで続いた

行家は三河国へ入り、矢作川方面まで後退した。

現在の愛知県岡崎市周辺である。

平氏軍も東へ進み、行家を追った。

軍記物語では矢作川でも両軍が戦った様子が描かれている。

墨俣で多くの兵を失った行家には、平氏の追討軍を押し返すだけの戦力は残っていなかった。

尾張・三河を足場に勢力を伸ばしていた行家は、この敗戦によって大きく後退することになった。

平氏側から見れば、前年の富士川で失った勢いを取り戻す勝利となる。

富士川では維盛を中心とした追討軍が戦線を維持できずに撤退した。

約5か月後、重衡を中心とする軍勢は墨俣川で行家軍を破り、尾張から三河方面へ進んだ。

清盛が死去して間もない時期にも、平氏には大軍を編成して東海道へ送り出す力が残っていた。


敗れた行家は、その後も戦場に現れ続ける

墨俣川で行家軍が大敗した背景には、平氏軍との兵力差に加え、夜襲の計画を察知されて先手を取られたことが大きく影響した。

戦線が崩れた場所に墨俣川があったことも被害を拡大させた。『吾妻鏡』と『玉葉』がともに溺死者を記していることから、敗走時の混乱が川辺で深刻なものになった様子が見えてくる。

それでも、行家はこの一戦で戦死しなかった。

のちに木曾義仲と結び、義仲と頼朝の対立にも関わっていく。

さらに義仲の没落後も生き延び、やがて頼朝と対立した義経と行動をともにする。

平氏追討の令旨を各地へ伝えた男は、その後も源氏内部の争いを渡り歩いていくことになる。

墨俣川で、その行家と運命を分けたのが義円だった。

平治の乱によって父・義朝を失い、寺で育った乙若は、成人すると義円と名乗った。源氏が再び兵を挙げた治承年間、行家の軍勢に加わって墨俣川へ向かい、治承5年3月10日に平盛綱の手で討たれた。

頼朝は鎌倉に生き、同母弟の義経もこれから戦場へ出ていく。

義円の生涯だけが、墨俣川で終わった。

平氏はこの戦いに勝利した。

しかし東国では頼朝が勢力を固め、信濃では木曾義仲の軍勢が成長している。

墨俣川から約2年後の寿永2年(1183年)、平氏は北陸道から進んでくる義仲軍と正面からぶつかることになる。

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