第46回
―地方を治め、元慶の乱を鎮め、最後は公卿まで上り詰めた官人の生涯
平安時代の政治家と聞くと、藤原北家の権力者や天皇、あるいは菅原道真のような学者を思い浮かべる。
しかし、平安国家を実際に動かしていたのは、地方へ赴き、税を集め、治安を守り、農業を立て直し、中央の命令を現地で実行する官人たちでもあった。
その中でも異彩を放つ人物がいる。
藤原保則(ふじわらのやすのり)。
天長2年(825)に生まれ、寛平7年(895)4月21日に71歳で死去した。
藤原南家の出身。
若い頃は中央の各省で実務を経験し、40代から地方官として備中・備前を治めた。
そして元慶2年(878)、出羽で大規模な反乱が起こると、出羽権守として現地へ赴く。
そこで保則が朝廷に伝えた言葉が、後世まで知られることになる。
「甚だ理致あり」
反乱者が提出した訴状について、保則は「非常に道理がある」と評価した。
朝廷に逆らった者の言葉を、朝廷側の官人が「理がある」と認めたのである。
保則は、ただ敵を討つことだけを考えなかった。
反乱が起きた原因を探り、降伏する者を受け入れ、現地の政治を立て直す。
その結果、元慶の乱は終息へ向かった。
保則の人生は、「人をどう支配するか」ではなく、「どうすれば人が朝廷の支配から離れずに済むのか」を考え続けた人生だった。
1.藤原南家に生まれる
藤原保則は天長2年(825)に生まれた。
父は藤原貞雄。母は安倍弟富の娘である。
保則は藤原南家の出身だった。
藤原南家は、藤原武智麻呂を祖とする名門である。
保則の祖先には、奈良時代から平安時代初期にかけて中央政界で活躍した人物がいた。
ただし、保則の時代になると、藤原氏の中心勢力は北家へ移っていた。
保則は藤原氏の一員として生まれながら、最初から中央政界の頂点に立つ立場ではなかった。
ここから保則は、自分自身の実務能力によって出世していく。
2.30歳で中央官人になる
保則の官歴が確認できる最初の大きな節目が、斉衡2年(855)である。
この年、治部省少丞となった。
30歳だった。
その後、民部省大丞 兵部省少丞 兵部省大丞 式部省少丞などを歴任した。
治部省は外交・儀礼・寺社など、民部省は戸籍や租税、兵部省は軍事、式部省は官人の人事に関係する。
つまり保則は、若い頃から複数の行政分野を経験した。
これは後の保則を理解するうえで重要である。
中央行政の実務を知ったうえで地方へ出た。
その経験が、後の地方統治につながっていく。
3.42歳、備中へ
貞観8年(866)。
保則の人生は大きく変わる。
この年、保則は従五位下に叙せられ、備中国へ赴任した。
42歳だった。
備中は現在の岡山県西部を中心とする地域である。
ここで保則は、地方行政の現実を目の当たりにする。
特に『藤原保則伝』が詳しく描くのが、英賀郡・哲多郡の荒廃である。
飢饉。逃亡する農民。租税の滞納。盗賊。治安の悪化。
そして前任者による苛酷な統治。
『藤原保則伝』では、前任の国司による厳しい取り締まりによって、罪の軽重を問わず人々が処罰され、地域が荒廃していたと描かれている。
ここで保則は政治の方向を変えた。
小さな罪を赦す。困窮者を救う。農業を奨励する。無駄な支出を抑える。
そして逃亡した人々を呼び戻した。
『藤原保則伝』によれば、次第に田畑が開かれ、人口が回復し、租税収入も増えた。
この「善政」の記録が、保則を後世の代表的な良吏として知らしめることになる。
4.保則が変えたのは「人」ではなく「環境」だった
保則の政治を理解するうえで重要なのは、犯罪者を徹底的に取り締まる方法を取らなかったことだ。
地域が荒廃している。農民が生活できない。税を払えない。逃亡する。
治安が悪化する。さらに取り締まる。
すると人々はさらに生活できなくなる。
保則は、この悪循環を断ち切ろうとした。
農業を立て直す。困窮者を救う。逃げた人を戻す。
そして地域そのものを安定させる。
つまり保則は、犯罪を減らすために、犯罪者を増やさない社会を作ろうとした。
この考え方は、後の元慶の乱でも繰り返し現れる。
5.備中から備前へ
貞観13年(871)、保則は従五位上に進んだ。
同年、備中守となる。
そして貞観16年(874)には、備前権守となった。
備前は現在の岡山県南東部を中心とする地域である。
保則は備前でも地方統治にあたった。
ここで保則の人物像を象徴する有名な逸話が残っている。
6.盗賊が自首した――『藤原保則伝』が描く名官人
『藤原保則伝』には、こんな話がある。
他国から来た盗賊が、官物を盗んで備前へ逃げ込んだ。
盗賊たちは、そこで保則の政治について聞く。
「この国の国司は、どのような人物なのか」
すると、保則が人々を慈しみ、悪事を厳しく憎む人物だという話を聞かされる。
盗賊たちは恐れ、やがて自ら保則のもとへ出頭した。
盗んだ物を差し出し、自分たちの罪を告白したという。
保則は彼らを処罰するのではなく、罪を改めたことを認めて帰した。
この逸話は非常に面白い。
しかし、ここは史料の読み方が重要になる。
この話を「実際に盗賊がこう行動した」と同時代の確実な事実として扱うのではなく、三善清行が『藤原保則伝』で描いた保則の人物像を示す逸話として読む。
『藤原保則伝』そのものが、保則を理想的な「良吏」として描く伝記だからだ。
だから、この逸話の面白さは、
「盗賊が本当に自首したか」だけではない。
10世紀初頭の知識人である三善清行が、
「保則とは、犯罪者さえ改心させるほど徳のある地方官だった」
と評価していたことにある。
7.京都へ戻ると、今度は治安を担当する
貞観18年(876)。
保則は京都へ戻った。
そして、右衛門権佐となり、さらに検非違使を兼ねた。
検非違使は平安京の治安維持や犯罪捜査などを担当する。
地方で人々を治めた保則が、今度は都の治安を担当する。
ここで保則の経験が生きる。
地方行政。税制。治安。人事。
保則はすでに、さまざまな行政現場を経験していた。
その後、民部大輔となり、さらに弁官として中央行政の中枢へ進んでいく。
そして元慶2年(878)。
保則の名を歴史に刻む事件が起こる。
8.元慶の乱――秋田城が襲われる
元慶2年(878)。
出羽国で大規模な反乱が起こった。

現在の秋田県を中心とする地域で、俘囚と呼ばれた人々が蜂起した。
秋田城が襲撃され、朝廷側の軍勢は大きな損害を受けた。
朝廷は軍事力によって鎮圧しようとした。
しかし戦況は簡単には収まらなかった。
そこで朝廷が出羽国へ派遣したのが、藤原保則だった。
元慶2年5月4日。
保則は出羽権守となる。
ここで保則のそれまでの人生が一本につながる。
備中で荒廃した地域を立て直した。備前で地方統治を経験した。京都で治安行政にも携わった。
その保則を、朝廷は「戦乱が起きた地域の統治者」として送り込んだ。
9.保則が出羽で最初に見たもの
出羽へ赴任した保則は、反乱軍だけを敵として見なかった。
なぜ反乱が起きたのか。
そこを調べた。
『藤原保則伝』は、前年の不作にもかかわらず、出羽国司や秋田城司による苛酷な徴税が続いていたことを反乱の背景として描いている。
特に秋田城司の良岑近については、極めて厳しい人物像が描かれる。
税を集めることをやめない。要求は際限がない。少しでも要求に応じなければ、厳しい処罰を加える。
『藤原保則伝』は良岑近を「悪吏」の典型として描いている。
ここでも備中時代と同じ問題が現れた。
苛政によって人々が追い詰められる。
保則は、その構造を見た。
10.保則、軍事力を捨てなかった
保則を「戦わない政治家」とだけ理解すると、本質を外す。
保則は出羽へ赴任すると、軍事的な備えも整えた。
兵を配置し、朝廷側の拠点を維持した。
そして小野春風ら軍事担当者と連携した。
一方で、朝廷の備蓄を使って人々を救済し、降伏する者を受け入れた。
つまり、
軍事力を背景にして、政治的に反乱を終わらせた。
これが保則のやり方だった。
11.「甚だ理致あり」
元慶の乱を語るうえで、絶対に外せない場面がある。
反乱側は、朝廷に対して自分たちの不満を訴えた。
その内容をまとめたものが、いわゆる愁状である。
保則はこれを読んだ。
そして朝廷へ報告した。
「甚だ理致あり」
非常に道理がある。
この一言に、保則の政治姿勢が表れている。
朝廷に逆らった者の言葉を、
「反乱者の戯言」として切り捨てなかった。
反乱が起きた原因を認めた。
そして、「原因を取り除けば、戦争そのものを終わらせられる」と考えた。
12.小野春風とともに降伏を受け入れる
元慶の乱では、軍事面で大きな役割を果たした人物がいる。
小野春風である。
保則が政治・行政を担当し、春風が軍事面を担った。
この組み合わせが重要だった。
反乱側から降伏を申し出る者が現れる。
朝廷側では、降伏が本物なのか疑う意見もあった。
しかし春風は現地を確認し、降伏が本心によるものだと判断した。
そして降伏を受け入れる。
この過程では、朝廷に服属した俘囚も戦闘や説得に関わった。
つまり元慶の乱は、「朝廷軍と蝦夷が正面から戦っただけの戦争」ではない。
現地の人々の中にも、朝廷側につく者と反乱側につく者がいた。
保則はその現実を利用した。
13.保則が朝廷に求めたもの
朝廷は当初、反乱者を追討する方針を取った。
しかし保則は、武力だけで鎮圧することに反対した。
降伏する者を受け入れる。苛政を改める。現地の行政を立て直す。
そうすることで反乱の拡大を防ぐ。
この方針が朝廷に認められていく。
元慶の乱は、最終的に大規模な軍事作戦による殲滅戦ではなく、降伏者の受け入れと統治の再建によって収束した。
保則が元慶の乱で評価される最大の理由はここにある。
14.元慶の乱の後、保則はさらに出世する
元慶の乱を終息へ導いた後も、保則は地方行政を続けた。
元慶5年(881)には播磨権守を兼任。
元慶6年(882)には従四位下へ昇進し、讃岐権守を兼ねた。
地方官としての経験は、ここで終わらない。
仁和3年(887)には伊予守に任じられた。
しかし保則は伊予守を辞退した。
その後、大宰大弐となる。
大宰府は九州の行政・軍事・外交を担う重要機関である。
東北の元慶の乱を鎮めた保則が、今度は西日本の最重要拠点へ進んだ。
そして同年、従四位上となった。
15.大宰府でも政治を行う
大宰府は、単なる地方役所ではない。
九州の統治を担う。
外交にも関係する。軍事にも関係する。そして朝鮮半島情勢にも対応する。
保則はここでも行政を担った。
寛平元年(889)には、大宰大弐として出した文書が残されている。
そこには神社・寺院・神人・土地・租税などに関する具体的な規定が記されている。
この史料からも、保則が大宰府で宗教施設と行政の関係を整理し、土地や租税に関わる問題を処理していたことがわかる。
つまり保則は、東北の反乱を鎮めただけの人物ではない。
地方行政そのものを熟知した官人だった。
16.宇多天皇の時代、中央政界へ
寛平3年(891)。
保則は左大弁となった。
左大弁は太政官の重要な弁官である。
地方行政を長年経験した保則が、再び中央政府の中枢へ戻った。
そして寛平4年(892)4月28日、参議となる。
68歳、ついに公卿の列に入った。
さらに寛平5年(893)には近江権守を兼ね、同年2月には民部卿となった。
民部卿は民部省の長官。
戸籍や租税など、国家財政と人民支配に関わる重要ポストである。
保則は、
中央の実務官 → 地方官 → 都の治安担当 → 元慶の乱の鎮定 → 大宰府 → 左大弁 → 参議 → 民部卿
という道を歩いた。
若い頃から華々しい出世をした人物ではない。
70歳近くになって中央政界の中枢へ到達した。
ここに保則の人生の面白さがある。
17.三善清行が描いた「理想の官人」
保則の死後、その人物像を後世へ伝えた人物がいる。
三善清行である。
清行は延喜年間に『藤原保則伝』を著した。
この伝記は、保則の地方行政を詳しく描いている。
そして保則を、「良吏」として評価した。
ここには10世紀初頭の政治思想も関係している。
三善清行自身、地方行政のあり方について強い問題意識を持っていた。
そのため『藤原保則伝』は単なる人物紹介ではない。
「こんな地方官こそ理想的だ」
という政治論でもある。
だからこそ、盗賊が自首する話や、任期を終えた保則を民衆が引き止める話など、保則の徳を強調する逸話が並ぶ。
これらは保則という人物を知るうえで非常に面白い。
同時に、史実として確認できる官歴と、後世に形成された理想的な人物像を分けて読む必要がある。
18.帰京する保則を民衆が引き止めた
『藤原保則伝』には、保則が備前での任期を終えて帰京するときの逸話もある。
保則が帰ると知った人々は道に集まった。
別れを惜しみ、保則を引き止めた。老人は酒や食べ物を持ってきた。人々は保則との別れを悲しんだ。
保則は人々の熱意に押され、ひそかに船で出発したという。
この話も、保則がどれほど民衆から慕われた人物として記憶されたのかを示している。
そして、この逸話には保則の政治の特徴が凝縮されている。
中央から命令を持ってやって来た国司が、任期を終えたときに民衆から別れを惜しまれる。
それが三善清行の描いた「理想の国司」だった。
19.「良二千石」と呼ばれた男
保則には、古代中国の名地方官になぞらえて評価されたという伝統的な人物像がある。
それが「良二千石」である。
「二千石」は中国・漢代の地方官の高い官位を指す表現だった。
つまり保則は、「地方を立派に治める名官」として評価された。
日本の平安時代に生きた保則が、中国の古典に登場する理想的な地方官になぞらえられた。
ここにも、当時の知識人が保則をどのように評価していたかが表れている。
20.晩年――71歳で死去
寛平7年(895)4月21日。
藤原保則は亡くなった。
71歳だった。
最終的な官位は、従四位上・参議・民部卿。
30歳で治部省少丞となった男は、40代で地方へ出て、備中・備前を治め、出羽では元慶の乱に対応し、大宰府を経て中央政界へ戻り、68歳で参議となった。
そして71歳で人生を終えた。
平安時代としては長寿だった。
しかも、その人生の後半になるほど政治的な重要性が増している。
21.保則の最期と仏教
保則の晩年については、仏教に関する伝承が残っている。
後世の人物伝では、保則が仏教への信仰を深め、最期には比叡山へ入り、念仏を唱えながら亡くなったと伝えられる。
これは保則の死の瞬間を直接記録した同時代史料とは区別して扱う必要がある。
しかし、この伝承も保則という人物を理解するうえでは興味深い。
なぜなら、地方行政においても保則は神仏との関係を重視していたからだ。
保則の人物像には、
行政官としての現実主義と神仏への信仰が共存している。
これは平安時代の官人を理解するうえでも重要な特徴である。
22.藤原保則という男の本当のすごさ
藤原保則の人生を見ると、一つの特徴が浮かび上がる。
保則は、戦場だけで評価された人物ではない。
備中では荒廃した地域を立て直した。
備前では地方行政を行った。京都では検非違使として治安を担当した。出羽では元慶の乱に対応した。
大宰府では九州の政治を担った。そして中央では左大弁・参議・民部卿まで昇進した。
つまり保則は、「地方を知る中央官僚」だった。
これは当時の朝廷にとって非常に重要な能力だった。
中央で決めた政策を地方へ持っていく。
しかし地方には地方の事情がある。
税を取りすぎれば人々は逃げる。
苛酷な政治をすれば反発が生まれる。
軍事力だけで押さえれば、さらに反発が強くなる。
保則は地方でそれを実際に経験した。だから元慶の乱でも、
反乱者の訴えを読んだとき、「甚だ理致あり」と言えた。
23.保則と元慶の乱――なぜ彼が選ばれたのか
元慶の乱で保則が派遣されたことは偶然ではない。
朝廷が必要としていたのは、単純な武将ではなかった。
すでに朝廷軍は敗れていた。
さらに大軍を投入しても、東北の現地社会を完全に抑え込める保証はなかった。
そこで必要になったのが、
「戦争を終わらせた後に、どう統治するかを理解している人物」だった。
保則にはその経験があった。
備中。備前。京都。
これまでの経験をすべて持って出羽へ入った。
そして、軍事力を維持しながら、政治によって反乱を分解する。
この方法によって元慶の乱は終息へ向かった。
24.史実と伝説を分けて見るからこそ、保則は面白い
藤原保則には、非常に美しい人物像が残されている。
盗賊が自首する。民衆が別れを惜しむ。神仏を敬う。
反乱者の訴えにも耳を傾ける。
こうした逸話をすべてそのまま事実として読む必要はない。
しかし、これらを切り捨てる必要もない。
なぜなら、それらは保則が後世にどのような官人として評価されたのかを教えてくれるからだ。
同時代の史料で確認できる官歴と元慶の乱での活動。
そして後世の『藤原保則伝』が描く理想的な良吏像。
この二つを重ねると、藤原保則という人物が立体的に見えてくる。
まとめ
藤原保則は、天長2年(825)に藤原南家の一族として生まれた。
30歳で治部省少丞となり、その後、民部・兵部・式部などの官司を経験した。
中央行政の仕組みを学んだ保則は、42歳となった貞観8年(866)に備中へ赴任する。
ここから保則の名官人としての人生が始まった。
備中では、飢饉や租税負担、治安悪化などで荒廃した地域を統治した。
その後、備前へ移り、地方官としての実績を重ねる。
『藤原保則伝』には、盗賊が保則の善政を聞いて自首した話や、任期を終えた保則を民衆が引き止めた話が残る。
これらは保則を理想的な「良吏」として描いた後世の伝記による逸話である。
貞観18年(876)には京都へ戻り、右衛門権佐・検非違使となる。
地方行政だけでなく、都の治安行政も経験した。
そして元慶2年(878)。出羽で元慶の乱が起こる。
秋田城が襲われ、朝廷軍が苦戦する中、保則は出羽権守として現地へ派遣された。
保則は軍事的な備えを整える一方、反乱が起きた原因を調べた。
反乱側の愁状を読み、その主張について、
「甚だ理致あり」と朝廷へ報告した。
これが保則の政治を象徴する言葉である。
反乱者だから討つ。それだけではなかった。
なぜ反乱したのか。何が彼らを朝廷から離反させたのか。
そこまで考えた。
降伏する者を受け入れ、現地の統治を立て直し、小野春風らと連携して反乱を終息へ導いた。
その後、讃岐、大宰府などの重要な地方行政を経験し、寛平3年(891)には左大弁、寛平4年(892)には参議、寛平5年(893)には民部卿となった。
そして寛平7年(895)4月21日、71歳で亡くなった。
若い頃から華々しい権力者だったわけではない。
30歳で実務官人となり、42歳で地方へ出て、地方統治の経験を積み、元慶の乱を経て、68歳でようやく参議となった。
藤原保則の人生は、地道な実務の積み重ねが最後に中央政界の地位へつながった人生だった。
そして保則を最も象徴するのが、やはり元慶の乱である。
朝廷軍が苦戦する中で、保則は「もっと大軍を送れ」とだけ主張しなかった。
反乱者の言葉に耳を傾け、その中に「理」を見つけた。
その判断こそ、保則が単なる地方官ではなく、古代国家の統治そのものを理解していた人物だったことを示している。
藤原保則。
平安時代の歴史を動かしたのは、武器を手に戦場を駆けた武将だけではない。
地方の現実を知り、人を治め、反乱を鎮め、国家を動かした官人もまた、歴史の大きな転換点を作っていた。
その代表が、藤原保則だった。
藤原保則をもっと深く知りたい方へ。元慶の乱だけでなく、地方官としての「良吏・藤原保則」の生涯を詳しく知ることができる一冊です。
藤原保則ゆかりの地・備中、備前にちなんで、岡山の名産品を味わってみるのもおすすめです。


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