第78回
1056年――頼時は、息子を渡さなかった
天喜4年(1056)。
源頼義は安倍頼時に、一つの要求を突きつけた。
「貞任を差し出せ」
頼時の嫡男・安倍貞任に、頼義方の陣営を襲った疑いがかけられたのである。
頼時は拒んだ。
『陸奥話記』は、そのときの頼時の言葉として、父子の情愛は人の本性であり、たとえ息子が愚かであっても見捨てることはできない、という趣旨を記している。
この決断によって、いったん収まっていた源頼義との戦争は再び始まった。
後世「前九年の役」と呼ばれる戦争の大きな転換点である。
頼時は、単に情に流された父親ではない。
彼は現在の岩手県内陸部に広がる奥六郡を束ねる首長だった。嫌疑をかけられた一族の中心人物を、国司の命令だけで引き渡せば、自分の権威そのものが揺らぐ。
父として息子を守ることと、奥六郡の支配者として一族を守ること。
頼時にとって、この二つは切り離せなかった。
そして、その決断からわずか1年後。
頼時自身が戦場で命を落とすことになる。
もとの名は「頼良」――安倍頼時は何者だったのか
安倍頼時の生年は分かっていない。
父は安倍忠良。祖父は忠頼と伝わる。
『陸奥話記』は、安倍氏を奥六郡を束ねる「俘囚の司」として描いている。頼時も当初は安倍頼良(よりよし)と名乗り、「安大夫」と呼ばれた。
安倍氏の出自については古くからさまざまな説がある。中央の安倍氏との関係、古代蝦夷の有力者層とのつながりなどが論じられてきたが、系譜を一本に決められるだけの史料は残っていない。
確かなのは、11世紀前半までに安倍氏が奥六郡で圧倒的な存在になっていたことである。
奥州市の資料では、安倍氏は11世紀初めごろには「六箇郡の司」として公的な地位を得て、奥六郡を事実上支配する勢力へ成長していたと整理されている。
奥六郡とは、胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手の六郡。
現在の岩手県内陸部、北上川流域を中心とする地域である。
平安京から見れば遠い北辺だった。
しかし頼時にとって、ここは自分の一族が何代にもわたって築いてきた地盤だった。
柵を結び、一族を置く――頼時の支配は「点」ではなかった
安倍氏の強さを理解するには、「柵」を見ると分かりやすい。
衣川、鳥海、黒沢尻、厨川など、安倍氏は北上川流域の各地に柵を持っていた。
ここでいう柵は、単なる軍事用の砦ではない。居館であり、防御施設であり、地域を押さえる政治拠点でもある。
頼時は一族を各地へ配置し、婚姻関係も使いながら勢力圏を固めた。
娘婿には藤原経清と平永衡がいる。
経清は陸奥の在庁官人として国府側にも足場を持つ人物で、その子が後の奥州藤原氏初代・藤原清衡である。
つまり頼時の家は、俘囚勢力だけで閉じた一族ではない。国府に関わる在地官人とも婚姻で結びつき、奥州社会の有力者を自分の側へ取り込んでいた。
これが、頼時の強さだった。
「奥六郡の王」ではない――それでも国府は簡単に手を出せなかった
陸奥国府は多賀城に置かれていた。
頼時の勢力圏である奥六郡とは距離がある。
制度上、奥六郡も陸奥国の一部である。それでも現地では安倍氏が人と土地を押さえ、頼時の命令が強く通った。
『陸奥話記』は、頼良が国府へ納める田租を納めず、衣川より南へ勢力を広げたと書く。
この記述には、安倍氏を討った頼義側の視点が強く反映されている。それでも、安倍氏と国府の間で徴税と支配権をめぐる緊張が高まっていたことは読み取れる。
頼時は朝廷から完全に切り離された独立君主ではない。
一方で、国府の命令だけで簡単に動く地方官人でもなかった。
この中間に立つ巨大な在地勢力だったのである。
1051年――頼時、国司軍を鬼切部で破る
永承6年(1051)、ついに戦争が始まった。
陸奥守・藤原登任が安倍氏討伐に動く。
秋田城介・平重成も加わり、国司軍は数千規模に膨らんだ。
両軍が激突したのが鬼切部である。現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首周辺に比定される。
先鋒は平重成。登任が後軍を率いた。
迎え撃つ頼良は奥六郡の兵を集めた。
そして国司軍を破った。
『陸奥話記』は、登任軍に多数の死者が出て敗走したと記す。
この戦いで重要なのは、頼時が山中へ逃げ込んで抵抗したのではなく、数千規模の国司軍を正面から撃破したことである。
朝廷の地方行政を担う陸奥守が、自国の北部にいる在地勢力へ軍を出し、敗れた。
安倍氏の軍事力は、もはや無視できる規模ではなかった。
藤原登任は更迭される。
その後任として陸奥へ来たのが、源頼義だった。
鬼切部で勝ったのに、頼時は源頼義へ従った
ここが頼時という人物の面白いところである。
国司軍を破ったからといって、そのまま朝廷と全面戦争へ突き進んだわけではない。
永承7年(1052)、上東門院彰子の病気平癒に伴って大赦が行われ、安倍氏も赦された。
新たな陸奥守となった源頼義に対して、頼良は恭順する。
『陸奥話記』は、さらに印象的な話を伝えている。
「頼良」と「頼義」は、どちらもよりよしと読む。
頼良は新任の陸奥守と同じ読みの名をはばかり、頼時へ改名した。
鬼切部で国司軍を破った男が、新しい国司には頭を下げ、自分の名前まで変えたのである。
頼時は、朝廷と戦い続けることだけを選ぶ人物ではなかった。
勝てるときには戦い、関係を修復できるなら従う。
奥六郡を守るために現実的な判断をする首長だった。
頼義を「厚くもてなした」頼時
頼時と頼義の関係は、その後およそ4年間、大きく崩れなかった。
頼義は天喜元年(1053)に鎮守府将軍を兼ね、奥州軍事の中心人物となる。
一方の頼時は奥六郡で勢力を保った。
『陸奥話記』には、頼義が奥六郡方面へ入った際、頼時が酒食を整え、手厚く饗応したという趣旨の記述がある。
頼時からすれば、頼義と正面衝突しなければ奥六郡の支配を保てる。
頼義から見ても、頼時が従っている限り、大規模な軍事行動を起こす必要はない。
両者の関係は、緊張を抱えながらも均衡していた。
その均衡を壊したのが、阿久利川事件である。
阿久利川事件――息子・貞任に嫌疑が向く
天喜4年(1056)。
頼義が鎮守府から国府へ戻る途中、阿久利川付近で野営した。
その夜、頼義配下の藤原光貞・元貞らの陣営が何者かに襲撃され、人馬に被害が出た。
『陸奥話記』によれば、光貞は頼義の問いに対し、安倍貞任を疑った。
理由もあった。
以前、貞任が光貞の妹との結婚を求めたものの、家柄を理由に断られた。その恨みから今回の襲撃に及んだのだ、と光貞は訴えたのである。
貞任が実際に襲撃を命じたことを裏づける別の史料はない。
ここで確実なのは、光貞が貞任を名指しし、頼義がその訴えを受けて貞任の処罰を求めたという流れである。
頼義は頼時に、貞任を差し出すよう命じた。
そこで頼時は、冒頭の決断をする。
「父子の愛」――『陸奥話記』が残した頼時の言葉
頼時は貞任の引き渡しを拒んだ。
『陸奥話記』が伝える頼時の言葉は、頼時という人物を知るうえで最も有名な場面である。
父と子の愛情は、人間が自然に持つものだ。たとえ貞任が愚かであっても、父として見捨てることはできない――頼時はそういう趣旨を語った。
頼時は頼義へ恭順してきた。名まで変えた。
それでも、息子を差し出す要求だけは受け入れなかった。
ここを単純な「親バカ」で片づけると、頼時の立場を見失う。
奥六郡の支配は、一族と婚姻、周辺の有力者との結びつきで成り立っていた。その頂点にいる頼時が、自分の嫡男を一方的な嫌疑で引き渡せば、「頼時は一族を守れない」という印象が広がる。
それは家族の問題であると同時に、支配者としての信用に関わる問題でもあった。
頼時は貞任を守る。そして頼義と再び戦う。
娘婿2人――頼時の婚姻戦略が戦場を複雑にした
再戦が始まると、頼時の家族関係が戦場そのものに入り込んでくる。
頼時の娘婿である平永衡と藤原経清は、当初は頼義側にいた。
永衡は進軍中、銀色に光る兜を着けていたことなどから敵方への内通を疑われ、頼義に殺された。
その場にいた経清は、自分も同じ立場に置かれると考えた。
経清は頼義軍を離れ、安倍氏側へ走る。
頼時から見れば、娘婿の一人は頼義に殺され、もう一人は自分のもとへ戻ってきたことになる。
前九年の役は「源氏対安倍氏」という単純な二陣営の戦争ではない。
国府に仕える在地官人、俘囚勢力、婚姻で結ばれた一族が、その時々の判断で敵味方に分かれた内戦だった。
頼義が狙ったのは、頼時の「外側」だった
頼義は、安倍氏を正面から攻め続けても簡単には崩せないと見た。
そこで狙ったのが、頼時の勢力圏を取り巻く北方の有力者たちである。
『陸奥話記』によれば、頼義は気仙郡司・金為時と下毛野興重を北へ送り、諸勢力へ働きかけた。その中心にいたのが安倍富忠である。
富忠は安倍姓を名乗るものの、頼時との具体的な血縁関係は分からない。頼時一族とは別系統の北方勢力と見る研究もある。重要なのは、奥六郡のさらに北で力を持つ有力者が頼義側へ傾いたことである。
これは頼時にとって、正面から軍勢をぶつけられるより危険だった。
奥六郡の支配は、頼時一人の武力だけで成り立っていたわけではない。各地の有力者が頼時を盟主として認め、必要なときに兵を出し、人や物資を動かす。その結びつきが頼時の力だった。
その輪から人が抜け始めた。
頼時は、部下を送るのではなく、自分で北へ向かった。
わずか30人――頼時は「説得」のために北へ向かった
天喜5年(1057)7月。
『陸奥話記』が伝える頼時の一行は、30人にも満たない人数だった。
大軍を率いて富忠を討ちに行ったのではない。
頼時の目的は、離反した北方勢力に利害を説き、もう一度自分の側へ引き戻すことだった。
ここに頼時という男の立場がよく表れている。
奥六郡を束ねる盟主が、自ら顔を出して話をつける。頼時には、それで離反を止められるという自負があったはずである。何代にもわたって築いてきた関係が、完全に切れたとは考えていなかったのだろう。
しかし富忠側は、すでに頼義へ傾いていた。
頼時を待っていたのは交渉の席ではなかった。
伏兵だった。
山中の伏兵――戦いは2日に及んだ
富忠は険しい場所に兵を伏せ、頼時の一行を襲った。
『陸奥話記』は、この戦いを2日間に及ぶ激戦として記している。
頼時の側は30人にも満たない。
相手は事前に兵を伏せ、地形を利用して待ち構えている。
説得に来た頼時は、そのまま戦闘へ巻き込まれた。
山の斜面や狭い道では、大軍でなくても待ち伏せした側が圧倒的に有利になる。頼時たちは包囲を受けながら応戦した。
そして戦いの最中、一本の矢が頼時を射抜いた。
『陸奥話記』が記すのは流れ矢である。
源頼義が放った矢でも、名のある武将との一騎打ちでもない。どこから飛んできたかも分からない一本の矢が、奥六郡の盟主に致命傷を与えた。
鬼切部で数千の国司軍を破った男の最期は、あまりにも戦場らしい偶然から始まった。
矢傷を負った頼時――鳥海柵へ
頼時はその場では死ななかった。
深手を負いながら、戦場を離れた。
向かったのが鳥海柵である。
現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町に残る鳥海柵跡は、11世紀の安倍氏を代表する拠点の一つである。発掘調査では大型の掘立柱建物や堀などが確認され、2013年10月17日に国史跡へ指定された。金ケ崎町は、ここを『陸奥話記』に登場する鳥海柵と位置づけている。
鳥海柵の柵主は、頼時の三男・宗任と伝わる。
頼時は、自分の一族が守る柵まで戻ってきた。
近年の研究では、富忠との戦場から頼時の居宅があった衣川方面へ戻る途中、鳥海柵で力尽きた可能性も論じられている。つまり鳥海柵は、頼時が最期の目的地として選んだというより、重傷の身体で南へ戻る途中にたどり着いた場所だった可能性がある。
いずれにしても、頼時が生きて奥六郡の支配を立て直す時間は残っていなかった。
1057年7月26日――安倍頼時、死す
天喜5年(1057)7月26日、安倍頼時は死んだ。
『陸奥話記』に収められた陸奥国解と『百錬抄』の記事を突き合わせた研究から、この日が頼時の死の日と判断されている。
生年は分からない。したがって享年も分からない。
分かっているのは、その最期の数日である。
頼義の調略によって北方の有力者が離反した。
頼時は30人にも満たない人数で、自ら説得へ向かった。
伏兵に襲われ、2日間戦った。
流れ矢を受けた。
そして鳥海柵まで戻り、死んだ。
源頼義は、頼時を正面決戦で討ち取ったわけではない。鬼切部で数千の国司軍を破った頼時を倒したのは、頼義が仕掛けた勢力の切り崩しと、その離反を自分で止めようとした頼時自身の行動だった。
ここが頼時の最期で最も印象的なところである。
頼時は奥六郡の支配者として、最後まで人と人との結びつきで自分の勢力を立て直そうとした。だからこそ、危険を承知で自分が出向いた。
その頼時が、離反した者との戦いで倒れた。
1051年の鬼切部から6年。
国司軍を撃破し、源頼義には一度恭順し、名まで変え、そして息子・貞任を差し出すことだけは拒んだ男の生涯は、鳥海柵で終わった。
頼時が守った息子――貞任へ
頼時の死で、安倍氏の戦争は終わらなかった。
後を継いだのは、頼時が頼義への引き渡しを拒んだ息子・安倍貞任である。
宗任、藤原経清らも残っていた。
そして頼時が死んでから約4か月後の1057年11月、貞任は黄海で頼義軍を迎え撃つ。
『陸奥話記』の代表的な本文では、頼義軍1,800余人に対し、安倍軍は4,000余人。頼義は最後には、自分を含めてわずか7騎ほどまで追い詰められた。
頼時が命を懸けて守った息子は、父の死からわずか4か月後、源頼義に前九年の役最大の敗北を与えることになる。




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