第52回
――兄・時平が死んだ。その後、朝廷の頂点に立ったのは弟だった
909年、平安朝廷を揺るがした一人の政治家が死んだ。
藤原時平。

菅原道真を大宰府へ左遷した昌泰の変の中心人物であり、醍醐天皇のもとで朝廷政治を主導した男だった。
39歳。あまりにも早い死だった。
そして、その死によって政治の表舞台へ本格的に進出した人物がいる。
弟の、藤原忠平。
忠平は藤原基経の子として生まれた。
兄には時平・仲平がおり、同母妹には醍醐天皇の中宮となる穏子がいた。
909年、兄・時平が死去すると、忠平は藤原氏の氏長者となった。
そこから右大臣、左大臣、太政大臣へと昇進。
930年には朱雀天皇の摂政。941年には関白。
さらに946年に村上天皇が即位すると、そのまま関白を続けた。
忠平は、醍醐・朱雀・村上の三代にまたがって朝廷政治の中心に立った人物である。
そして忠平の政権期、東国では一人の武人が朝廷を揺るがす。
平将門。
将門は若い頃、京都で忠平に仕えたとされる。
その人物が後に東国で勢力を拡大し、939年に朝廷への反乱へ突入する。
つまり忠平の人生を追うと、
藤原氏による摂関政治の形成と地方武士の台頭という、日本史の大きな転換点が一つにつながって見えてくる。
1.880年――藤原基経の子として生まれる
藤原忠平は、元慶4年(880)に生まれた。
父は藤原基経。

母は人康親王の娘である。
基経は、清和・陽成・光孝・宇多の各天皇の時代に朝廷政治を動かした大政治家だった。
日本史上初めて正式に関白となった人物でもある。
忠平は、その基経の子として生まれた。
兄には、藤原時平 藤原仲平がいる。
そして同母妹の穏子は、後に醍醐天皇の中宮となった。
この家系を見るだけで、忠平がどれほど強い政治基盤を持っていたのかが分かる。
父は基経。兄は時平。妹は醍醐天皇の中宮。
忠平は、藤原北家が朝廷で強大な力を持っていた家に生まれた。
2.900年――21歳で参議になる
昌泰3年(900)。忠平は21歳で参議となった。
しかし、ここで忠平は参議の地位を叔父の藤原清経に譲った。
その後、908年に改めて参議へ戻る。
そして翌909年。
人生を大きく変える出来事が起こる。
兄・時平の死である。
時平は左大臣として朝廷の頂点に立っていた。
その死によって、藤原氏の政治的中心に大きな空白が生まれた。
そこへ入ったのが忠平だった。
3.909年――兄の死で、忠平の運命が変わる
延喜9年(909)。藤原時平が死去した。
忠平はその後、権中納言となり、藤原氏の氏長者となった。
氏長者とは、藤原氏一族を代表する立場である。
ここから忠平は猛烈な勢いで昇進する。
910年。中納言。
911年。大納言。
914年。右大臣。
924年。左大臣。
わずか15年ほどで、朝廷の最高位層を駆け上がった。
兄・時平が死んだとき、忠平は29歳。
そこから朝廷の中心へ進み、40代前半には左大臣となった。
時平の死は、忠平にとって最大の転機だった。
4.忠平は「時平の弟」から何になったのか
ここで忠平の人物像が重要になる。
兄・時平は、菅原道真との政争によって強烈な印象を残した。
それに対して忠平は、後世の史料で温厚で勤勉な人物として評価されている。
忠平は朝廷の儀式や先例にも詳しかった。
平安時代の政治では、単純に法律を知っているだけでは足りない。
こうした有職故実が政治そのものだった。
忠平は、この朝廷のルールに精通した政治家だった。
そして、その知識を子の実頼・師輔へ伝えた。
忠平は、自分一代で権力を握るだけではなく、藤原氏が朝廷を運営するための政治技術を次の世代へ伝えた人物だった。
5.927年――『延喜式』が完成する
忠平の政治を語るうえで欠かせないのが、『延喜式』である。
『延喜式』は、律令国家の行政・祭祀・税制・神社・朝廷儀式などを具体的に定めた法令集である。
編纂は兄・時平の時代から進められていた。
時平が死去した後、その仕事を忠平が引き継いだ。
延長5年(927)『延喜式』が完成し、朝廷へ奏進された。
成立までに長い年月を必要とした国家的事業だった。
現在でも『延喜式』は、平安時代の国家制度や神社制度を知るための重要史料となっている。
つまり忠平は、兄・時平が始めた国家制度整備を引き継ぎ、完成へ導いた人物でもある。
6.930年――醍醐天皇の譲位、そして朱雀天皇
延長8年(930)醍醐天皇は皇子の寛明親王へ譲位した。
これが朱雀天皇である。
朱雀天皇はまだ8歳だった。
幼い天皇を支えるため、朝廷は摂政を必要とした。
そこで選ばれたのが、藤原忠平。
忠平は朱雀天皇の摂政となった。
そして譲位した醍醐上皇は、その後まもなく崩御した。
こうして忠平は、幼帝を補佐する朝廷の最高権力者となった。
7.摂政から関白へ――忠平が作った政治の形
忠平の政治を理解するうえで重要なのが、摂政と関白の使い分けである。
摂政は、幼少などの天皇に代わって政務を行う役職。
関白は、成人した天皇を補佐して政務を行う役職。
朱雀天皇の即位時、忠平は摂政となった。
936年には太政大臣となる。
そして941年。朱雀天皇が元服すると、忠平は摂政を辞し、関白となった。
ここで、
幼い天皇 → 摂政
成人した天皇 → 関白という形が明確になった。
以後、藤原氏が天皇を補佐して政治を主導する摂関政治が発展していく。
忠平は、その制度的な成立期の中心人物だった。
8.忠平の娘・穏子――天皇家との結びつき
忠平の政治力を理解するうえで、家族関係も重要である。
妹の藤原穏子は醍醐天皇の中宮となった。
穏子が生んだ皇子が、
朱雀天皇そして、村上天皇である。
つまり忠平は、醍醐天皇の中宮の兄であり、
朱雀天皇・村上天皇の外叔父だった。
この血縁関係は、忠平が摂政・関白として朝廷の中心に立つうえで大きな政治基盤となった。
藤原氏が天皇の外戚となり、摂政・関白として政治を補佐する。
後の摂関政治の基本構造が、忠平の時代にはっきりと形になっていった。
9.平将門――忠平のもとで働いた男
そして、ここから平将門につながる。
将門は若い頃、京都へ上り、藤原忠平に仕えたとされる。
後に朝廷最大級の反乱者となる男が、若い頃には藤原氏の最高権力者となる忠平のもとにいた。
これは非常に興味深い。
しかし、将門は京都での出世を果たせず、東国へ戻った。
そして父・平良将の遺領などをめぐり、一族との争いに入っていく。
935年、将門は伯父の平国香を殺害した。
そこから平氏一族の抗争が激化した。
936年には源護の訴えによって京都へ召喚され、禁獄される。
その後、大赦によって東国へ戻った。
そして939年、将門の人生は、決定的な方向へ進む。
10.939~940年――平将門の乱
天慶2年(939)。
将門は武蔵国の紛争や常陸国の問題に介入する。
同年11月、将門は常陸国府を攻撃した。
ここから将門の行動は、単なる一族間の争いから朝廷に対する反乱へ変わった。
将門は関東各地を制圧。
そして、「新皇」を称した。
関東に独自の政治体制を作ろうとしたのである。
朝廷は将門追討を決定する。
しかし、京都から派遣された征東大将軍・藤原忠文の軍が到着する前に決着した。
940年2月、藤原秀郷・平貞盛らが将門を討った。
将門の乱は終わった。
忠平自身が東国へ出陣したわけではない。
忠平は京都で朝廷政治を担い、朝廷による追討体制の中枢にいた。
将門を実際に討ったのは、東国の武士・在地有力者たちだった。
この事件は、朝廷が地方の武力を利用して反乱を鎮圧する時代へ進んでいたことを示している。
11.『貞信公記』――忠平自身が残した記録
忠平には、もう一つ大きな功績がある。
自らの日記を残したことだ。
その名は、『貞信公記』。
貞信公は、忠平の諡号である。
『貞信公記』は忠平が記した日記で、現在は全体が残っていない。
しかし、907年から948年までの記事が抄本などによって伝わっている。
特に10世紀前半の朝廷政治を知るうえで極めて重要な史料であり、承平・天慶の乱を知る基本史料の一つでもある。
つまり忠平は、政治を動かした本人であると同時に、その政治を記録した本人でもあった。
12.946年――村上天皇の即位
天慶9年(946)、朱雀天皇が譲位した。
皇弟の成明親王が即位する。これが村上天皇である。
忠平はここでも関白となった。
つまり忠平は、
醍醐天皇
↓
朱雀天皇
↓
村上天皇
という三代にわたって朝廷の中心にいた。
朱雀天皇の外叔父であり、村上天皇の外叔父でもある。
そして関白として天皇を支える。
忠平は、藤原氏が天皇家との外戚関係を利用しながら政治を主導する体制を完成に近づけた。
13.949年――70歳で死去
天暦3年(949)藤原忠平が死去した。
70歳。
兄・時平が39歳で死去したのに対して、忠平は70歳まで生きた。
忠平の死後、子の藤原実頼と藤原師輔が朝廷の中枢へ進んでいく。
そして、忠平が築いた政治基盤は次の世代へ受け継がれる。
藤原氏の摂関政治は、ここからさらに大きく発展する。
忠平は死後、「貞信公」の諡号を贈られた。
藤原忠平の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 880年 | 藤原基経の子として生まれる |
| 900年 | 参議となるが、叔父・清経に譲る |
| 908年 | 参議に復帰 |
| 909年 | 兄・時平死去。氏長者となる |
| 910年 | 中納言 |
| 911年 | 大納言 |
| 914年 | 右大臣 |
| 924年 | 左大臣 |
| 927年 | 『延喜式』完成・奏進 |
| 930年 | 朱雀天皇即位。摂政となる |
| 936年 | 太政大臣 |
| 941年 | 関白となる |
| 946年 | 村上天皇即位。引き続き関白 |
| 949年 | 70歳で死去 |
まとめ
藤原忠平は、880年に藤原基経の子として生まれた。
父は平安前期の朝廷政治を動かした藤原北家の大物。
兄には藤原時平、仲平がいて、同母妹の穏子は醍醐天皇の中宮となった。
忠平自身も若くして朝廷へ入り、900年に21歳で参議となった。
一度その地位を叔父・清経に譲ったものの、908年に参議へ復帰。
そして909年、兄・時平が死去すると、忠平は藤原氏の氏長者となった。
そこから中納言、大納言、右大臣、左大臣へと昇進。
924年には左大臣となり、朝廷の政治を主導した。
927年には、時平の時代から進められていた『延喜式』を完成させて奏進した。
930年。
醍醐天皇が皇子・寛明親王へ譲位し、朱雀天皇が即位する。
8歳の幼帝を支えるため、忠平は摂政となった。
936年には太政大臣。
941年、朱雀天皇が元服すると、忠平は摂政から関白へ移った。
そして946年、村上天皇が即位すると、そのまま関白を続けた。
つまり忠平は、幼い天皇には摂政、成人した天皇には関白として政治を支える体制が形になっていく時代の中心人物だった。
さらに忠平は朝廷の儀式や先例にも精通し、その知識を次世代へ伝えた。
自らの日記『貞信公記』も残した。
この日記は10世紀前半の朝廷政治を知る重要史料であり、承平・天慶の乱を知るうえでも重要な記録となっている。
そして忠平の政権期、東国で平将門が反乱を起こした。

将門は若い頃に京都で忠平に仕えたとされる。
その将門が東国へ戻り、一族間の抗争を経て、939年に常陸国府を攻撃。
その後、関東各地を制圧し、新皇を称した。
朝廷は追討を決定し、940年、藤原秀郷・平貞盛らが将門を討った。
将門の乱は、中央の貴族政治と地方の武力勢力との関係が大きく変わっていく時代を象徴する事件だった。
忠平自身は戦場へ赴かず、京都で朝廷政治を担った。
そして949年。
藤原忠平は70歳で死去した。
兄・時平が道真との政争によって強烈な印象を残したのに対し、忠平は朝廷の制度と儀式を整え、摂政・関白として藤原氏が政治を主導する体制を形にした人物だった。
時平が藤原氏の権力をめぐる政争の時代を代表する政治家なら、忠平はその権力を制度として定着させた政治家だった。
そして忠平の死後、藤原氏の政治は次の世代へ進む。
その先に登場するのが、
藤原実頼 藤原師輔
そして、そのさらに先に現れるのが、
藤原兼家 藤原道長である。
藤原氏の黄金時代は、ここからさらに加速していく。
藤原忠平が完成へ導いた『延喜式』。平安時代の政治・祭祀・税制・朝廷の仕組みを知るうえで欠かせない史料です。平安朝廷の「仕組み」をもっと深く知りたい方におすすめの一冊です。


コメント