【人物編Vol.54】中川清秀――荒木村重を見限り、秀吉に賭け、賤ヶ岳に散った茨木城主

人物

第103回

天正11年(1583年)4月20日、近江の大岩山に柴田勝家方の軍勢が迫った。

砦を守るのは中川清秀。摂津茨木城主、数え42歳である。

攻めてきた佐久間盛政は、秀吉が美濃方面へ兵を動かした隙を突き、賤ヶ岳周辺の陣地へ攻撃を仕掛けた。前面に位置する大岩山はその最初の標的となり、中川勢はここで盛政の軍勢を迎える。

戦いの末、清秀は大岩山で命を落とした。

翌21日には羽柴秀吉が急いで北近江へ戻り、前進していた佐久間勢を攻撃する。

柴田軍は崩れ、勝家は越前北庄へ退却。その後まもなく自害した。

秀吉が賤ヶ岳の勝者となったとき、清秀はもういない。

清秀は、秀吉に若いころから仕えてきた家臣ではなかった。

ほんの5年前には荒木村重のもとで茨木城を守り、村重が織田信長へ反旗を翻した際には、その側に加わっている。それが途中で村重から離れ、信長に帰参。本能寺の変が起きると秀吉と連絡を取り、山崎では明智光秀と戦った。

池田氏から荒木村重へ。村重から織田信長へ。

そして信長の死後は羽柴秀吉へ。

名前だけを並べれば、主を次々と替えた武将に見える。

ただ、清秀が生きた摂津では、主君の側も短期間のうちに入れ替わっていた。

三好氏が衰え、足利義昭と織田信長が入り、池田氏で内紛が起こり、荒木村重が台頭する。

その村重も信長の家臣となったのち反乱を起こした。

清秀は、そのたびに選択を迫られている。

1542年、摂津に生まれた中川清秀

中川清秀は天文11年(1542年)に生まれた。

通称は瀬兵衛。父は中川重清とされる。

出生地については、現在の大阪府茨木市中河原町付近にあたる摂津国島下郡中河原と伝わり、茨木市には清秀ゆかりの地も残っている。

ただ、幼少期から青年期にかけての清秀は、分からないことが多い。

中川氏を摂津源氏につなげる系図や、父・重清を高山氏の出身とする伝承もある。

そこから高山右近と清秀を親族とする説明も広まった。荒木村重との間にも血縁関係があったという話が残る。

これらの多くは後世にまとめられた中川家の系譜や伝承によるもので、同時代史料から細かな続柄まで追うことは難しい。

清秀が歴史の表へ姿を現すころ、摂津では大きな変化が続いていた。

永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて京都へ入る。

畿内で勢力を持っていた三好勢は後退し、摂津では池田勝正、伊丹親興、和田惟政らが信長・義昭政権を支える立場に置かれた。

若い清秀は池田勝正のもとにいる。

まだ茨木城主ではない。

池田家の内紛――荒木村重とともに勝正を追放

元亀元年(1570年)、池田家中で内紛が起こった。

池田勝正は信長・義昭側に立っていたが、家中にはその路線に反発する勢力もいる。

そこで動いたのが荒木村重らだった。

中川清秀も村重側に加わり、勝正を池田城から追放する。代わって池田知正が当主となった。

この政変を境に、荒木村重は池田家中で大きな力を持つようになる。

清秀も、その傍らで行動を続けた。

まだ30歳にもなっていない。

翌年、清秀の名前を摂津で大きく知らしめる戦いが起こる。

白井河原の戦い――和田惟政が討死する

元亀2年(1571年)8月28日。

現在の茨木市郡山周辺で、荒木村重・中川清秀らと和田惟政らが激突した。

白井河原の戦いである。

和田惟政は足利義昭の側近として活動し、信長の上洛後には高槻を拠点として摂津支配の一角を担っていた。

荒木・中川方から見れば、池田勝正と同じく信長・義昭側に立つ武将である。

両軍が白井河原でぶつかり、戦いは荒木・中川方の勝利に終わった。

和田惟政はこの合戦で戦死する。

後世の『中川家譜』などは、惟政を討ち取った人物を清秀と伝えている。

清秀が荒木村重側の有力武将として戦い、この勝利の後に勢力を伸ばした流れが追うことができる。

白井河原は、中川家にとって特別な合戦になった。

後世の岡藩でも清秀の立身の始まりとして重視され、『中川氏年譜』では詳しい記述が残された。ただし、この年譜は清秀の死から約200年後に編纂が始まった史料で、白井河原の年代にも誤りがあることが現在の研究で指摘されている。

ともあれ惟政の死後、荒木村重らは東摂津でさらに勢力を広げた。

その中で清秀は、茨木との結びつきを深めていく。

荒木村重のもとで茨木城主へ

荒木村重はその後、織田信長に従った。

かつて信長・義昭側と戦っていた村重だが、天正年間に入ると織田政権へ組み込まれ、摂津各地へ勢力を伸ばしていく。

天正2年(1574年)には伊丹氏を破って伊丹城を手に入れた。

のちの有岡城である。

清秀も村重に従い続けた。

茨木市の現在の整理では、天正5年(1577年)ごろに清秀が茨木城主となったとされる。

数え36歳。

池田氏の一武将として出発した清秀は、ここまで約7年で一城を預かるところまで上がってきた。

茨木は京都から西国へ向かう交通路に近く、高槻や有岡とも結びつく重要な場所にある。

高槻には高山右近。茨木には中川清秀。

そしてその西の有岡城に荒木村重がいた。

村重にとって、清秀と右近は東側を支える有力な武将でもある。

その関係が崩れるのは、わずか1年後のことだった。

1578年、荒木村重が信長に背く

天正6年(1578年)秋、荒木村重が織田信長に反旗を翻した。

当時、信長は羽柴秀吉を播磨へ送り、毛利氏との戦いを進めている。

京都と播磨の途中に位置する摂津で村重が敵に回れば、西国方面の戦いにも大きな影響が出る。

信長は村重の反乱を知ると、すぐに全面攻撃へ移ったわけではない。

明智光秀や羽柴秀吉らが説得に動き、村重を安土へ出向かせようとしている。

『立入左京亮入道隆佐記』には興味深い話が残る。

村重はいったん安土へ向かうため有岡城を出たものの、茨木で清秀に止められたという。

安土へ行けば切腹させられる。それなら摂津で戦った方がよい――清秀がそう勧め、村重は有岡へ引き返したと記される。

この時点の清秀は、村重の反乱に消極的に巻き込まれただけの人物ではなく、村重側の有力者として動いていたことが分かる。

茨木城の清秀も信長に背いた。

高山右近が先に離反する

村重側にとって大きな問題となったのが、高槻城と茨木城だった。

有岡城の東に位置する二城を信長方が押さえれば、村重は孤立する。

そこで信長側は、まず高山右近を村重から離そうとした。

右近にはキリスト教をめぐる問題も絡んでおり、宣教師オルガンティーノらを通じた説得も進む。

右近は最終的に高槻城を開き、信長側へ移った。

高槻を失えば、その西隣に位置する茨木城の清秀も苦しくなる。

織田軍はすでに摂津へ入っている。

有岡の村重と最後まで戦うのか。それとも信長へ戻るのか。

清秀が選んだのは後者だった。

11月24日――中川清秀、信長へ帰参

天正6年11月24日、清秀は信長へ帰参した。

『立入左京亮入道隆佐記』にも、「中川瀬兵衛廿四日に帰参仕候」とある。

後世の伝承だけで作られた日付ではない。

高山右近に続いて清秀も離れたことで、荒木村重は東摂津の重要拠点を失った。

ここで清秀は、長く行動をともにしてきた村重と別れる。

白井河原ではともに和田惟政と戦い、村重が信長に従えば清秀も従った。反乱が起きたときも最初は村重側に残っている。

その関係を11月24日に切った。

清秀がこの日、何を語ったのかは残っていない。

茨木城には中川家の一族と家臣がいる。

隣の高槻はすでに信長方へ移った。

有岡城を包囲する織田軍の規模も大きい。

清秀は城を開き、中川家を残す道へ進んだ。

有岡城に残った人々を待っていたもの

荒木村重はその後も有岡城で抵抗を続ける。

天正7年(1579年)になると村重自身は城を抜け、尼崎へ移った。

有岡には家臣、その妻子、城内の人々が残された。

信長は厳しい処分を命じる。

村重の妻子や一族、多くの家臣の家族が処刑された。

清秀はその前年に信長へ帰参している。

そのため茨木城も中川家も残った。

清秀が村重と最後まで戦っていればどうなったかは分からない。

ただ、有岡城に残された人々が迎えた結末を見れば、1578年11月の決断が中川家の存続を左右したことは間違いない。

清秀はその後、今度は信長軍の一員として有岡城攻めに加わる。

つい数週間前まで味方だった村重を攻める側へ回ったのである。

戦国の摂津では、それほど早く立場が変わった。

信長の家臣として残った清秀

村重から離れた清秀は、処刑も改易もされなかった。

茨木城を引き続き拠点とし、信長の家臣として行動する。

天正10年(1582年)春には、信長による武田氏攻めにも従軍した。

同じころ、羽柴秀吉との関係も深くなっていた。

秀吉は中国地方で毛利氏と戦っている。

清秀との間には、本能寺の変以前から書状のやり取りがあった。

とくに注目されるのが、天正8年(1580年)6月5日付とされる秀吉の誓書である。

そこには、「向後兄弟之契約申定候」と記されている。

今後、兄弟の契約を結ぶという意味になる。

清秀と秀吉が文字どおり対等な「兄弟」だったという話ではない。戦国期の武将同士が関係を強める際に使う表現でもある。

それでも、秀吉が清秀を単なる一武将として扱っていなかったことは伝わる。

天正10年4月23日にも、備中で毛利氏と戦う秀吉から清秀へ書状が送られた。

秀吉は武田氏滅亡を祝い、清秀が信長の遠征に加わったことをねぎらい、自らの備中での戦況も知らせている。

本能寺の変が起こる前から、二人の間にはすでに連絡の道ができていた。

本能寺の変――清秀は秀吉と連絡を取る

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が本能寺を襲撃した。

織田信長は自害し、嫡男の信忠も二条御所で命を落とす。

清秀のいる茨木は京都から近い。

一方、秀吉はまだ備中高松城を攻めていた。

信長が死んだあと、畿内の武将たちはすぐに態度を決められる状況ではなかった。

京都は光秀が押さえている。

柴田勝家は北陸。

丹羽長秀、池田恒興、織田信孝らもいる。

羽柴秀吉が中国地方からどこまで早く戻れるのかも分からない。

そんななか、清秀は秀吉と連絡を取った。

6月5日付の秀吉から清秀への書状が残っている。

秀吉は清秀からの手紙を受け取ったことを記し、信長と信忠について「無事に切り抜けた」という内容を伝えた。

実際には二人ともすでに死んでいる。

秀吉は清秀に事実と違う情報を送った。

光秀側へ移る武将が増えることを防ぎ、自分が戻るまで畿内の味方をつなぎ止める意図があったと考えられている。

清秀はその手紙を受け取り、再び秀吉へ返事を出した。

「夜中でも一騎駆けで向かう」――6月10日の秀吉書状

6月10日、秀吉は再び清秀へ書状を送った。

そこには、清秀から「その地に変わったことはない」との返事が届いたことが記されている。

さらに清秀は、明智光秀が摂津・河内方面へ動く可能性についても知らせていたらしい。

秀吉は、もし光秀がそちらへ向かうなら、夜中であっても一騎駆けで駆けつけるという趣旨を返している。

高山右近、丹羽長秀、池田恒興らの動向にも触れながら、清秀へ出兵を求めた。

本能寺の変からまだ8日。

清秀は茨木で情報を集め、秀吉へ送る。

秀吉は西から戻りながら、自分の位置や周囲の武将の動きを清秀へ知らせる。

信長が倒れてすぐ、二人はすでに次の戦いへ向けて動いていた。

6月11日、清秀は秀吉軍と合流する。

そして13日、山崎で明智光秀と戦う。

山崎の戦い――高山右近と再び同じ軍に立つ

天正10年6月13日、山崎周辺で羽柴秀吉軍と明智光秀軍が衝突した。

清秀は高山右近らとともに秀吉方へ加わる。

茨木市の資料では、清秀と右近は秀吉軍の先陣を務めた武将として紹介されている。

この二人は、何度も同じ場所に現れる。

荒木村重のもとでは、清秀が茨木、右近が高槻を守った。

村重が信長へ背くと、右近が先に離れ、その後を清秀が追った。

山崎の戦いは秀吉の勝利に終わる。

光秀は敗走し、ほどなく死んだ。

信長の死からわずか11日である。

この勝利によって秀吉は、織田家中で一気に存在感を増した。

「猿め、はや天下を取った気でおるわ」

山崎の戦いのあと、清秀には一つの逸話が残る。

秀吉が清秀に、「瀬兵衛、骨折り」と声をかけた。

すると清秀は、秀吉にも聞こえるように、

「猿め、はや天下を取った気でおるわ」と口にしたという。

この会話を同時代史料から確認することはできない。

後世に伝わった逸話である。

ただ、秀吉と清秀の関係を伝える話としては面白い。

すでに「兄弟之契約」を結んだとされる二人であり、清秀は本能寺直後にも秀吉と頻繁に連絡を取っている。

主君へただ平伏する家臣というより、古くから付き合いのある武将として語られてきたのだろう。

そして山崎の勝利後も、清秀は秀吉側に残った。

次に争う相手は、明智光秀よりさらに強大だった。

柴田勝家との対立――清秀は秀吉を選ぶ

本能寺の変では、信長だけでなく嫡男・信忠も死んだ。

そのため織田家では、次に誰を中心とするのかが問題となる。

信長の子には信雄、信孝がいる。

嫡孫の三法師もいた。

家臣では柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興らが大きな力を持つ。

清洲会議の後、秀吉と勝家の対立が深まった。

勝家は北陸方面を任された織田家屈指の重臣。

秀吉は山崎で光秀を破り、畿内で急速に勢力を拡大している。

清秀は秀吉側についた。

本能寺の変後に初めて秀吉と結びついたわけではない。

すでに数年前から親交があり、山崎でもともに戦っている。

その流れのまま、清秀は秀吉と柴田勝家の争いへ入っていった。

天正11年(1583年)春、両軍は近江北部で向き合う。

大岩山――清秀最後の陣地

秀吉方は余呉湖周辺の山々に砦を築いた。

清秀が守るのは大岩山。

すぐ近くの岩崎山には高山右近が布陣する。

またしても二人は隣り合う位置にいた。

4月、秀吉は織田信孝への対応のため、美濃方面へ軍を動かした。

これを好機と見たのが柴田勝家方である。

佐久間盛政が攻撃に出た。

盛政は北近江へ進み、秀吉方の前線を叩く。

最初に大きな攻撃を受けたのが中川清秀の大岩山だった。

4月20日、佐久間盛政が大岩山を襲う

天正11年4月20日。

佐久間盛政の軍勢が大岩山へ押し寄せた。

清秀は砦を守って戦った。

『大日本史料』はこの日の出来事を、

「柴田勝家ノ将佐久間盛政、羽柴秀吉ノ将中川清秀ヲ近江大岩山ニ襲フ、清秀、奮戦シテ之ニ死ス」

とまとめている。

戦闘の細かな経過は史料ごとに違う。

後世の中川家史料では、清秀が退却を勧められても大岩山を動かなかったという話も残った。

確認できるのは、佐久間勢の攻撃によって大岩山が崩れ、清秀がここで戦死したこと。

高山右近は陣を退き、生き延びた。

清秀は退けなかった。数え42歳。

白井河原の戦いから12年。

茨木城主となってからは、まだ6年ほどしかたっていなかった。

清秀を倒した佐久間盛政も、すぐに敗走する

大岩山を落とした佐久間盛政は、さらに前へ進んだ。

攻撃そのものは成功している。

ところが柴田勝家は、盛政に深く進みすぎず戻るよう求めたと伝わる。

盛政はすぐには退かなかった。

そこへ秀吉が戻ってくる。

美濃方面から急いで北近江へ引き返した秀吉は、翌21日、前進していた柴田方へ攻撃を仕掛けた。

佐久間勢は崩れる。

柴田軍全体も敗走を始め、勝家は越前北庄へ退いた。

その後、北庄城は秀吉軍に囲まれ、勝家は妻のお市とともに自害する。

清秀を討った佐久間盛政も逃走中に捕らえられ、処刑された。

大岩山で清秀を倒した翌日から、戦況は完全に逆転したのである。

清秀はその光景を知らない。

自分がついた秀吉が勝ったことも、勝家が滅びたことも見ることなく、大岩山で死んだ。

「中川も今は三途の川ぞかし」

清秀には辞世として、

「中川も 今は三途の川ぞかし
同じ淵瀬に 身をば沈めむ」

という歌が伝わる。

自らの姓「中川」と三途の川を掛けた歌である。

清秀の死後、中川家では祖先の事績がまとめられ、多くの逸話が残された。

清秀が死んでも、中川家は残った

清秀の死後、長男の秀政が家督を継いだ。

秀吉は中川家を取り潰さなかった。

秀政はのちに播磨三木へ移り、領地を広げる。

文禄の役では朝鮮へ渡ったが、文禄元年(1592年)、現地で25歳の若さで死亡した。

中川家には再び当主を失う危機が訪れる。

そこで家督を継いだのが弟の秀成である。

秀吉は本来なら改易にしてもおかしくない事情があったとしながら、父・清秀の忠節を理由に秀成の相続を認めたと伝わる。

清秀と秀吉の関係は、本人が死んだあとも中川家を支えた。

秀成はその後、豊後岡へ移る。

現在の大分県竹田市を中心とする岡藩である。

中川家は江戸時代を通じて岡藩主を務め、明治維新まで続いた。

大岩山で清秀の命は終わっても、中川家は終わらなかった。

池田、村重、信長、秀吉――清秀は何を守ったのか

中川清秀の生涯を追うと、何度も主君の名が変わる。

若いころは池田勝正に仕えた。

やがて荒木村重とともに勝正を追放する。

白井河原で和田惟政を破り、村重のもとで茨木城主となった。

その村重が信長に背くと、最初は反乱に加わる。

しかし高山右近が離れ、織田軍が迫る中で、1578年11月24日に村重を離れた。

信長の家臣として残り、本能寺の変が起きれば秀吉と連絡を取る。

山崎で光秀を破り、翌年には柴田勝家との戦いへ向かった。

こうして並べると、清秀ばかりが主を替えているように見える。

だが、清秀の若いころから賤ヶ岳まで約15年の間に、摂津の政治そのものが何度もひっくり返っている。

池田勝正は家中から追放された。

荒木村重は信長の敵から家臣となり、その後再び敵となった。

織田信長は本能寺で突然死んだ。

清秀は、そのたびに新しい立場を選ばざるを得なかった。

そして、どの段階でも中川家は残っている。

村重から離れたときも、信長が死んだときも、清秀は動いた。

清秀の目には、秀吉についていく道にかけたのであろう。

そして、賤ケ岳の戦いで、大岩山に散った。

大岩山を落とした佐久間盛政は翌日には敗走する。

柴田勝家も数日後に滅びた。

清秀が最後に選んだ秀吉は勝ったのだ。

乱世を生き残る道を必死に模索し戦い続けた清秀は、次なる天下人を見極め、秀吉のために賤ケ岳の戦いで戦死することにより、後世の中川家を結果的に守ったことになったのだった。

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戦国摂津の下克上 高山右近と中川清秀[本/雑誌] (中世武士選書) / 中西裕樹/著

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