第118回
天文5年(1536年)、池田恒興は尾張に生まれた。
幼名は勝三郎。父は池田恒利、母はのちに養徳院と呼ばれる女性である。
養徳院は織田信長の乳母を務めた。
天文3年(1534年)生まれの信長は恒興より二歳年上で、二人は乳兄弟として伝えられている。
恒興は幼いころから信長の近くに仕え、その勢力が尾張から美濃、近江、畿内へ広がるのに従って、織田家中での地位を高めていった。
その信長が本能寺の変で死んだあとも、恒興の戦いは続く。
最後の相手となったのは、徳川家康だった。
信長より二歳年下の「勝三郎」
恒興の父・池田恒利については伝わる史料が少なく、池田氏の出自にも諸説がある。
恒興の若年期を知るうえで大きな位置を占めるのが、母・養徳院と織田家との関係である。
乳母は幼児に乳を与えるだけの存在ではなく、その一族を含めて主家と長く結びつくことがあった。
養徳院の子である恒興も幼少期から信長の近くにあり、やがて家臣として仕えるようになった。
天文20年(1551年)ごろ、信長は父・信秀の死を受けて家督を継いだ。
尾張では織田氏内部の争いが続き、信長は弟・信勝(信行)をはじめとする一族との対立を経ながら勢力を広げていく。
永禄3年(1560年)5月19日、今川義元が大軍を率いて尾張へ侵攻した桶狭間の戦いにも、恒興は信長方として参戦したと伝えられている。
若いころの恒興については後年ほど詳しい動きを追える史料が残っていない。
その名が織田家中で大きくなっていくのは、信長が尾張を越えて勢力を広げた時期だった。
犬山城を預かる
永禄10年(1567年)、信長は斎藤龍興の稲葉山城を攻略し、城下を岐阜と改めた。
翌永禄11年には足利義昭を奉じて上洛する。
信長が美濃から畿内へ勢力を広げていくなか、恒興は尾張北部の犬山城を預かるようになった。
犬山城は木曽川の南岸に位置し、対岸は美濃である。
岐阜を本拠とした信長にとって、尾張と美濃を結ぶ地域にあった。
恒興も信長の軍事行動に従いながら、城と領地を持つ武将として織田家中で地位を築いていく。
その活動の舞台が尾張から摂津へ大きく移るきっかけになったのが、荒木村重の反乱だった。
荒木村重を追って花隈城へ
天正6年(1578年)、摂津を任されていた荒木村重が信長に背いた。
村重は有岡城に籠もり、織田軍の包囲を受ける。
翌天正7年9月、村重は少数の供を連れて有岡城を脱出し、尼崎を経て花隈城へ移った。
花隈城は現在の神戸市中央区付近にあった城である。
天正8年(1580年)、恒興は長男・元助らとともに花隈城を攻めた。
村重方も城外へ兵を出して抵抗し、戦いは数か月に及んだ。
やがて花隈城は開城し、村重は毛利氏を頼って西へ逃れた。
戦後、恒興は荒木氏の旧領の一部を与えられ、摂津で大きな所領を持つようになる。
花隈城は廃され、恒興は兵庫津に兵庫城を築いたと伝えられている。
尾張北部の犬山を預かっていた恒興は、瀬戸内海へ通じる兵庫津を押さえる立場に移った。
天正10年(1582年)、その恒興の主君だった信長が京都で倒れる。
本能寺の変――信長の死
天正10年6月2日、明智光秀が京都の本能寺を襲撃した。
信長は本能寺で自害し、嫡男・信忠も二条御所で命を絶った。
備中高松城で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は、信長の死を知ると毛利方と講和し、軍勢を畿内へ戻した。
恒興も秀吉らの軍に加わる。
6月13日、山崎で秀吉軍と明智軍が激突した。
秀吉方には恒興のほか、丹羽長秀、中川清秀、高山右近らが加わっていた。
戦いは秀吉方の勝利に終わり、敗れた光秀は勝龍寺城を離れて近江へ向かう途中で命を落とした。
本能寺の変から11日後だった。
信長と信忠を一度に失った織田家には、後継者と領国の再配分を決める必要が残った。
その話し合いに恒興も加わる。
清洲会議――勝家・秀吉と席を並べる
6月27日ごろ、尾張の清洲城に織田家の重臣が集まった。
柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興である。
信長の後継をめぐっては次男・信雄、三男・信孝、信忠の嫡男で幼い三法師らがいた。
会議では三法師が信長・信忠の後継者として立てられ、織田氏の領国も再配分された。
恒興には摂津で領地が加増された。
幼少期から信長に仕えてきた恒興は、このとき柴田勝家や丹羽長秀、羽柴秀吉とともに、信長亡きあとの織田家を左右する話し合いに参加する立場にいた。
清洲会議のあと、秀吉と柴田勝家の対立が深まっていく。
恒興は秀吉に近い立場を取った。
美濃大垣13万石へ
天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家の争いは賤ヶ岳の戦いへ進んだ。
勝家は敗れて越前北庄城で自害し、信長の三男・信孝もその後に命を落とした。
戦後、恒興は美濃へ移り、大垣を中心に13万石を与えられたとされる。
長男・元助も岐阜城に入った。
このころ恒興は「勝入」と号している。
翌年の小牧・長久手の戦いでは、池田勝入の名で記録に現れる。
恒興には元助、輝政らの息子がおり、娘の一人は森長可に嫁いでいた。
天正12年(1584年)、恒興49歳、元助26歳、森長可27歳。
三人は羽柴秀吉の側に立ち、尾張へ向かった。
秀吉と家康、小牧で向かい合う
天正12年、秀吉と織田信雄の関係が決裂した。
信雄は徳川家康と結び、秀吉に対抗する。
3月13日、家康は清洲城へ入り、その後、小牧山に陣を置いた。
秀吉方も美濃から尾張へ軍勢を進める。
恒興は秀吉方として参戦し、かつて自身が城主を務めた犬山城を攻略した。
秀吉軍と家康・信雄軍は小牧周辺で対陣した。
双方とも大軍を抱え、陣地を固めて向かい合う状況が続く。
4月に入ると、秀吉方から別働隊が尾張東部を抜け、三河へ向かう作戦が動き始めた。
目標は家康の本拠・岡崎である。
後世の『太閤記』などでは、この「三河中入り」を恒興が秀吉に献策したという話が伝えられている。
総大将には秀吉の甥・三好信吉、のちの豊臣秀次が置かれ、池田恒興・元助父子、森長可、堀秀政、長谷川秀一らが加わった。
恒興の次男・輝政も父や兄とともに出陣している。
軍勢は4月6日夜から小牧を離れ、岡崎を目指して東へ進んだ。
岡崎へ向かった別働隊
家康の主力は小牧にいる。
その背後を通って三河へ入り、岡崎を衝くため、別働隊は部隊ごとに進軍を続けた。
その動きは徳川方に察知された。
4月8日夜、家康も小牧山を出発する。
徳川軍は羽柴方の別働隊を追って尾張東部へ進んだ。
翌9日早朝、恒興の軍勢は現在の日進市付近まで達していた。
その進路上に岩崎城があった。
4月9日早朝――岩崎城を攻める
岩崎城主・丹羽氏次は徳川方に属し、家康のもとへ出陣していた。
城には弟の丹羽氏重や加藤景常らが残っていた。
岡崎へ向かう池田勢が付近を通過すると、岩崎城兵がこれを阻もうとした。
恒興は城へ兵を向ける。
現在の日進市に伝わる岩崎城の戦いでは、丹羽氏重以下300余人が討死したという。
岩崎城は池田勢によって落とされた。
このころ、池田勢の後方ではすでに戦闘が始まっていた。
徳川軍は羽柴方別働隊に追いつき、三好信吉の軍を白山林で攻撃する。信吉の軍は大きく崩れた。
続いて堀秀政が桧ヶ根付近で徳川方と戦い、追撃してきた部隊を退けた。堀はそのまま岡崎へ進まず、軍を退いている。
後方の戦闘を知った恒興と森長可も岡崎への行軍を中止し、軍を返して長久手方面へ向かった。
そこには家康自身が率いる軍勢が迫っていた。
長久手――父と二人の息子が立った戦場
4月9日、長久手。
恒興・元助父子と森長可の軍勢は、追ってきた徳川軍と向かい合った。
恒興のそばには長男・元助と次男・輝政がいた。
徳川方では家康が主力を率い、井伊直政らが戦列に加わっていた。
池田勢は仏ヶ根周辺、森勢はその北側に布陣したと伝えられる。
戦闘が始まると、池田・森勢は徳川軍と正面からぶつかった。
森長可は家康方の戦列へ攻めかかるなかで鉄砲に撃たれ、戦死したと伝わる。
27歳だった。
娘婿・長可を失った池田勢も戦闘を続けた。
徳川軍の攻撃は恒興・元助らがいる方面にも及び、両軍が入り乱れる戦いになった。
岡崎を目指して前夜から進軍し、早朝には岩崎城を攻めた池田勢は、その日のうちに長久手で家康の主力と戦うことになった。
元助もこの戦場で討死する。
26歳だった。
恒興自身も長久手から退くことはできなかった。
池田勝入、49歳の最期
恒興は長久手の戦場で徳川方に討ち取られた。
恒興を討った人物として伝えられているのが、徳川家臣の永井直勝である。
天正12年(1584年)4月9日。
享年49。
現在の長久手古戦場には、恒興の戦死地を伝える「勝入塚」が残っている。
長男・元助も同じ長久手で命を落とし、その首を取ったのは徳川方の安藤直次と伝えられる。
娘婿の森長可も27歳で戦死した。
恒興の軍中にいた次男・輝政は戦場を離脱し、生き残った。
父49歳、兄26歳。
20歳の輝政が池田家を継ぐことになった。
長久手を生き延びた輝政
父と兄を失った輝政は池田家を継ぎ、その後も秀吉に仕えた。
天正18年(1590年)、小田原征伐後に三河吉田15万2000石を与えられ、のちに徳川家康の娘・督姫を妻に迎える。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後は播磨姫路52万石へ加増された。
現在の姫路城につながる大規模な築城を進めた池田輝政である。
天正12年4月9日の長久手では、恒興、元助、森長可が同じ戦場で倒れた。
輝政はそこから戻り、池田家を継いだ。
信長より二歳年下だった池田恒興の49年は長久手で終わり、池田家は20歳の輝政へ引き継がれた。
池田恒興が散った「小牧・長久手」をもっと詳しく
池田恒興の最期の戦場となった小牧・長久手の戦い。秀吉と家康は何を狙い、なぜ三河への「中入り」が行われたのか。
平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』では、史料をもとに合戦の経過が詳しく検討されています。恒興の最期だけでなく、小牧・長久手の戦い全体をさらに深く知りたい方におすすめの一冊です。


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