第90回
1583年4月24日――北庄城、炎上
天正11年(1583)4月24日、越前・北庄城が炎に包まれた。
城主は柴田勝家。
織田信長の弟・信行に仕え、かつては信長と戦った男である。その後は信長の重臣となり、越前を預けられ、北陸方面の軍事を任されるまでになった。
その勝家が、今度は羽柴秀吉に追い詰められていた。
3日前の4月21日、近江で行われた賤ヶ岳の戦いで柴田軍は崩れた。勝家は北国街道を北へ逃れ、自ら築いた北庄へ戻ったが、秀吉軍の追撃は速かった。
23日には北庄城への攻撃が始まり、その日のうちに外郭が破られ、本丸を残すだけとなった。
翌24日、勝家は最後まで戦った。
『福井県史』が引用する『毛利家文書』によれば、勝家は門を開いて7度も城外へ打って出たという。そして夕刻、妻・お市とともに最期を迎えた。
信長に背いた男が、信長のために二十数年を戦い、その信長が死んでからわずか10か月ほどで滅びる。
柴田勝家の生涯には、織田家の興隆と崩壊がそのまま重なっている。
生年は確定していない――若き日の勝家はほとんど見えない
柴田勝家の生年は確定していない。
一般には大永2年(1522)生まれと紹介されることが多い。これは後世の『柴田勝家公始末記』が1583年の死を62歳とすることなどから逆算された数字である。
実際、福井県立図書館も、勝家の出自や親族、前半生を詳しく伝える史料が少なく、『信長公記』『太閤記』『柴田勝家公始末記』などの記述は断片的であると整理している。
通称は権六。のちに修理亮を名乗った。
現在の名古屋市名東区周辺には勝家出生地の伝承が残るものの、幼少期を詳しく追える記録はない。
歴史の中に勝家がはっきり姿を現したときには、すでに1人の武将として登場する。
その主君は織田信長ではない。
信長の弟・織田信行である。
信長の父が死んだころ、勝家は信行の筆頭格だった
天文21年(1552)ごろ、織田信長の父・信秀が死去した。
福井市立郷土歴史博物館によれば、『信長公記』に勝家の名がはっきり現れるのは、この信秀死後の記事である。
そこで勝家は、信長の弟・織田信行の家臣筆頭格として登場する。
信長が織田家を継いだ後も、家中が一枚岩になったわけではない。
若い信長は奇抜な振る舞いでも知られ、織田家中には弟・信行を支持する者たちがいた。
林秀貞。林美作守。そして柴田勝家。
勝家は、最初から信長の忠臣として歩み始めた武将ではなかった。
むしろ信長を当主の座から引きずり下ろそうとした側に立ったのである。
1556年――柴田勝家、信長を倒すため出陣
弘治2年(1556)8月24日。
尾張国内の対立が、ついに合戦となった。
稲生の戦いである。
『信長公記』では、信行方の勝家が約1,000人を率いて出陣し、林美作守側にも約700人がいたと記される。一方、信長軍は700人にも満たない規模だったという。
数では信行方が優勢だった。
勝家自身も前線で戦い、信長方の山田治郎左衛門を討ち取ったと『信長公記』は伝える。
しかし戦況は崩れた。
信長自身が前へ出て兵を叱咤すると、もともと同じ織田家の者だった敵兵が動揺し、信行方は退いた。
勝家も負傷し、敗走した。
この時点で勝家は、後世の「織田家筆頭の猛将」からは想像しにくい位置にいる。
信長を倒そうとして、信長本人に敗れた武将だった。
敗れた勝家を、信長は殺さなかった
稲生の戦いの後、信行は母・土田御前の取りなしもあり助命された。
勝家も許された。
戦国大名の家督争いで、実際に軍勢を率いて当主へ刃を向けた人物である。勝家にとっては、ここで命を失ってもおかしくない状況だった。
それでも信長は使える人材を残した。
そして翌1557年、勝家自身も大きな決断をする。
再び信行が信長に対抗しようとすると、今度は勝家が信長へ知らせたのである。
『信長公記』では、信行の寵臣・津々木蔵人が勢力を持つようになり、勝家が軽んじられたことも背景として語られている。勝家は信行の再度の企てを信長へ伝えた。
信行が再び謀反を企てていることを勝家から知らされた信長は、病気を装った。兄の見舞いのため清洲城を訪れた信行は、城内で河尻秀隆らに襲われ、命を落とした。
勝家は、かつて担いだ主君を見限った。
ここから信長の家臣として生きることになる。
信長に仕える――一度敵だった男が重臣へ上がっていく
信行の死後、勝家は信長の家臣団へ入った。
ここからの勝家は、戦場で実績を積み重ねる。
福井市立郷土歴史博物館は、勝家が犬山城攻略、近江の六角氏攻め、朝倉・浅井攻め、長篠の戦いなど、信長の主要な軍事行動で働いたことを紹介している。
永禄11年(1568)、信長が足利義昭を奉じて京都へ向かうと、勝家も畿内攻略に参加した。
このころには、織田軍の一武将という位置を越え、複数の部隊を動かす重臣へ成長している。
信行方について信長と戦った1556年から、わずか十数年。
勝家は信長から再び大きな仕事を任される人物になっていた。
長光寺城――「瓶割り柴田」はどこまで本当なのか
勝家には有名な異名がある。
「瓶割り柴田」
元亀元年(1570)、近江の長光寺城で六角氏の軍勢に包囲され、水の手を断たれた。
そこで勝家は残った水を兵に飲ませ、水瓶を叩き割った。
「もう籠城はできない。討って出るしかない」
そう覚悟を決めさせて出撃し、六角軍を破った――という話である。
この逸話は広く知られ、『福井県史』でも勝家の武勇伝として紹介されている。
水瓶を割った場面を詳しく描く史料には、江戸時代の『常山紀談』など後世の軍記も含まれる。
後世の人々が勝家を「猛将」として語るとき、この水瓶の話が格好の材料になったのである。
「鬼柴田」「かかれ柴田」――有名だが、扱いには注意が必要
勝家は現在、「鬼柴田」とも呼ばれる。
さらに、「かかれ柴田」という異名もよく見かける。
「退くな、かかれ」と攻撃を続ける猛将だったから、という説明まで付くことがある。
1575年、信長はそんな異名だらけの勝家に、越前の大部分と北陸方面の軍事指揮を任せた。
1575年――越前一向一揆を潰した信長、その後を任された勝家
天正3年(1575)、越前では一向一揆が大きな勢力を築いていた。
信長は8月に越前へ侵攻し、一揆勢を徹底して攻撃する。
平定後の9月2日、越前の新しい支配体制が決まった。
信長は勝家に、
坂北・坂南・吉田・足羽北・足羽南・丹生北・今北西・今北東の8郡を預けた。
一方、府中周辺では前田利家・佐々成政・不破光治がいわゆる「府中三人衆」として配置され、大野方面には金森長近らが置かれた。
勝家が「越前49万石を与えられた」と書かれることも多いが、この時代の支配を後世の石高で単純に表すより、越前8郡と国全体の軍事指揮権を預けられたと見る方が史料に忠実である。
さらに前田利家らは勝家の家臣ではない。
信長直属の武将でありながら、軍事行動では勝家の指揮下に入る「与力」とされた。
勝家は北陸方面の軍事司令官となったのである。
信長が勝家に越前を任せた理由
『信長公記』には、信長が勝家へ越前を預けた背景として、かつて勝家が信行の再度の企てを知らせた「忠節」に報いたという説明もある。
20年近く前の出来事を、信長は覚えていたことになる。
もっとも、1575年の勝家は昔の恩だけで大国を任される立場ではない。
北には加賀一向一揆。その向こうには上杉謙信。
越前国内も一揆平定直後で荒れている。
信長が必要としたのは、戦えるだけでなく、一国規模の武将たちをまとめ、荒廃した地域を統治できる人物だった。
そこで選ばれたのが勝家だった。
朝倉氏の一乗谷を捨て、北庄を選ぶ
勝家は越前支配の本拠として、朝倉氏の一乗谷を使わなかった。
選んだのは北庄。現在の福井市中心部である。
一乗谷から北西へ約10キロ。
北陸道と足羽川が交わり、美濃方面へ向かう街道にもつながる交通の要地だった。
山に囲まれた朝倉氏の城下から、平野部の交通拠点へ。
ここに勝家の北陸支配の考え方が見える。
北庄城を築き、その周囲へ商人や職人、寺院を集める。
勝家はここから北陸一帯を見渡そうとした。
北庄城の普請より「農民の耕作」を優先した掟
猛将として語られる勝家だが、越前へ入ってから残した史料には行政官としての顔がよく出る。
天正4年(1576)3月。
勝家は越前支配について七か条の「国中掟書」を出した。
内容が面白い。
北庄城の建設には多くの人夫が必要だった。
それでも勝家は、勝手な人夫徴発を禁じた。
人夫を出させるときは、勝家の印判がある正式な催促状を必要とする。
さらに使者への接待まで、一汁二菜・酒一杯程度に制限した。
城を造っている大名が、農民を好きなだけ使ってよいとしたわけではない。
一揆で荒れた越前を立て直すためには、まず田畑へ人を戻し、農業を再開させなければならなかった。
勝家はその現実を理解していた。
検地――村と土地を数字で把握する
勝家は越前で検地も行った。
誰がどの土地を耕し、どれだけの年貢を負担するのか。
中世以来の複雑な権利関係を整理し、支配者が土地と収穫量を把握していく。
たとえば織田大明神領では、勝家の検地によって1,489石余の土地が確認された史料が残る。
秀吉の太閤検地より前である。
もちろん制度や精度まで後の太閤検地と同じではない。
それでも勝家が「力で一揆を鎮圧しただけの武将」だったという見方では、この史料を説明できない。
北陸方面軍の総大将であると同時に、土地を調べ、年貢を整理し、村々を支配する領主だった。
1576年――「刀さらえ」を命じる
同じ1576年。
勝家は丹生郡の織田寺社に対し、「刀さらえ」を命じた。
このため「秀吉の刀狩より12年早く、勝家が刀狩を行った」と紹介されることがある。
ただ、ここも丁寧に見た方がいい。
『福井県史』によれば、「さらえ」は点検・摘発の意味を持ち、この刀さらえは知行高などに応じて刀を提出させる仕組みだった可能性がある。
しかも同じころ勝家側は、反本願寺派の寺院や門徒には逆に武装を求めていた。
したがって1588年の秀吉の全国的な刀狩令と、そのまま同じ政策として見ることはできない。
一揆平定直後の越前で、誰に武器を持たせ、誰の武器を管理するかを勝家が厳しく統制していた、と見るのが分かりやすい。
「集めた刀を舟橋の鎖にした」は後世の話
勝家が集めた刀を溶かし、農具にした。
九頭竜川の舟橋をつなぐ鎖にした。
という話も有名である。
ところが『福井県史』は、これを近世の『明智軍記』『柴田勝家始末記』などが伝えた話とし、確証はないと明記している。
北庄に商人と職人を集める
勝家は北庄へ、人を集めた。
一向一揆などで他国へ逃れていた商人に戻るよう命じる。
一乗谷などにいた商人や職人も北庄へ移す。
鋳物師には屋敷を与える。
天正8年(1580)には、五分市から来た鋳物師たちへ、一人につき15間四方の屋敷を諸役免除で与えた記録も残っている。
1576年9月には北庄で楽市も行っている。
勝家が作っていたのは巨大な軍事基地だけではない。
人が住み、商売をし、物を作り、税が集まる都市だった。
現在の福井市中心部につながる都市形成の出発点として、勝家の北庄は重要な位置を占めている。
宣教師フロイスが見た柴田勝家
天正8年(1580)5月18日。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスが北庄の勝家を訪れた。
フロイスの記録からは、北庄での勝家の権力の大きさがうかがえる。
『福井県史』によれば、人々は勝家を「上様」と呼び、勝家の子を「殿様」と呼んでいたという。
もちろん勝家が信長から独立した大名になったという意味ではない。
信長の支配下にありながら、越前ではそれほど大きな権限を持っていたのである。
1556年、信長へ反旗を翻した柴田権六。
24年後、その男は一国規模の支配を任されるまでになっていた。
北陸方面軍――勝家の敵は上杉謙信
勝家が越前へ置かれた最大の軍事的理由が、北方への備えだった。
加賀一向一揆。そして越後の上杉謙信。
勝家自身も書状の中で、「北国表警護」のため越前に置かれているという趣旨を記している。
天正5年(1577)。
謙信は能登の七尾城を攻撃。
9月15日に七尾城が落ちた。
一方、信長は勝家を惣大将として北陸へ軍を送っている。
その中には、羽柴秀吉。滝川一益。丹羽長秀。前田利家。佐々成政。金森長近。
といった有力武将がいた。
この顔ぶれを見れば、勝家の地位が分かる。
信長は北陸戦線で、これだけの武将をまとめる大将として勝家を置いた。
秀吉が勝手に帰る――1577年、すでに二人は衝突していた
北陸遠征の途中、勝家と羽柴秀吉の間で問題が起きた。
『信長公記』によれば、秀吉は勝家らと行動していた最中、信長へ断りを入れずに軍を離れて帰還した。
信長は激怒した。
賤ヶ岳の6年前。
すでに勝家と秀吉は、同じ軍の中でぶつかっていたのである。
この事件だけを見て「二人は昔から宿敵だった」とまで言う必要はない。
それでも、勝家が総大将となる軍から秀吉が離脱した事実は、その後の二人を考えると非常に興味深い。
手取川――「謙信に大敗」は慎重に読む
1577年9月23日。
後世、手取川の戦いと呼ばれる戦闘が起きたとされる。
『福井県史』では、勝家を惣大将とする信長軍が上杉謙信軍との夜戦で大敗した、と整理している。
ただし、この戦いは史料の残り方が難しい。
『信長公記』は勝家らの北陸出陣と秀吉の無断帰陣を記すものの、大規模な「手取川決戦」を詳しく描いていない。上杉側の史料からは織田軍を追撃したことなどが確認されるが、後世に語られるほど巨大な合戦だったのかについては研究上議論がある。
したがって記事では、勝家軍が謙信軍の圧力を受けて退いたところまでは押さえ、派手な兵数や壊滅的損害を安易に足さない方が史実に近い。
勝家にとって北陸最大級の難敵が謙信だったことは間違いない。
しかし翌1578年3月、その謙信が急死する。
謙信死後――勝家は加賀を押さえる
上杉謙信が死ぬと、上杉家では御館の乱が起きた。
北陸の情勢は一気に変わる。
勝家は再び北へ進んだ。
そして天正8年(1580)ごろまでに加賀をほぼ平定する。
さらに織田軍は越中方面へ進出した。
佐々成政。前田利家。佐久間盛政。
勝家の周囲には北陸で戦い続けた武将たちがいた。
このころの勝家は、「信長の古参家臣」というだけの存在ではない。
織田政権の北陸支配を一手に担う、方面軍司令官だった。
1582年――魚津城の向こうで信長が死んだ
天正10年(1582)、勝家は越中で上杉景勝と戦っていた。
標的の一つが魚津城である。
6月3日、魚津城は織田方の攻撃で陥落した。
しかしその前日、6月2日。
京都では本能寺の変が起きていた。
織田信長が死んだ。
勝家ら北陸勢がその知らせを把握し、軍を引き返している間に、羽柴秀吉は中国地方から戻っていた。
6月13日、山崎の戦い。
秀吉が明智光秀を破る。
勝家も近江まで戻り、6月18日には坂田郡で禁制を出しているが、光秀を討つ戦いには間に合わなかった。
勝家の軍事力が弱かったからではない。
戦っていた場所が遠すぎた。
そしてこの時間差が、信長死後の政治では決定的だった。
秀吉は「主君の仇を討った男」として清洲へ入る。
6月27日――清洲会議
本能寺の変から25日後、6月27日。
尾張・清洲に織田家の宿老が集まった。
柴田勝家。羽柴秀吉。丹羽長秀。池田恒興。
ここで信長死後の後継者と領地配分が話し合われた。
『福井県史』は『多聞院日記』などをもとに、勝家が信長三男・織田信孝を推し、秀吉が信忠の幼い息子・三法師を推したと整理している。
結果、信長の嫡孫である三法師を中心に織田家を支える形が決まった。
秀吉がここですべてを掌握したわけではない。
勝家も近江の長浜を確保し、養子・柴田勝豊を入れている。
信長死後の織田政権は、まだ複数の宿老が力を持つ状態だった。
その均衡が、半年ほどで崩れていく。
お市、北庄へ
清洲会議後、勝家はお市と結婚した。
信長の妹で、浅井長政の未亡人である。
浅井長政との間に生まれた、
茶々。初。江。
三人の娘も北庄へ移った。
『福井県史』では、清洲会議で勝家とお市の婚姻が決まり、1582年10月ごろ、お市が三人の娘を連れて北庄へ入ったと整理している。
勝家とお市が夫婦として過ごせた期間は、半年ほどしかない。
北庄へ入った時点で、すでに秀吉との対立は深まっていた。
勝家が秀吉を批判する
1582年10月。
勝家は堀秀政宛ての書状で、秀吉の独断専行を批判している。
その直後、秀吉は大徳寺で信長の葬儀を行った。
勝家や信孝は、その主導権から外された。
信孝。勝家。滝川一益。
秀吉に反発する勢力がまとまっていく。
勝家は同年11月、近江へ軍勢を送りながら、一方では前田利家らを秀吉のもとへ派遣して和睦も試みている。
勝家は最初から戦争一本で突っ走ったわけではない。
冬が来れば越前から大軍を動かせなくなる。
そこまで含めて時間を稼ごうとしていた。
しかし秀吉は、その冬を利用した。
雪に閉ざされた越前――秀吉が先に動く
越前の冬は重い。
雪が積もれば、北陸道を大軍で南下するのは難しくなる。
その間に秀吉は動いた。
長浜城の柴田勝豊を降伏させる。岐阜の織田信孝を圧迫する。
反秀吉陣営を一つずつ切り離していった。
勝家は北庄にいながら、畿内で自分の味方が減っていくのを見るしかなかった。
やがて1583年春。
雪が解ける。勝家は北庄を出た。
3月3日、近江柳ヶ瀬方面に本陣を構える。
秀吉との決戦が始まった。
賤ヶ岳――勝家の戦争は、佐久間盛政の攻撃から崩れた
両軍は余呉湖周辺で対峙した。
柴田側には佐久間盛政、前田利家、柴田勝政ら。
秀吉側は木之本を中心に砦を連ねる。
戦線が大きく動いたのは4月20日から21日にかけてである。
勝家方の佐久間盛政が大岩山砦を急襲。
守将・中川清秀を討った。
ここまでは柴田軍の勝利だった。
しかし盛政は前線に留まった。
その間、岐阜方面へ動いていた秀吉が猛烈な速度で近江へ引き返してくる。
そして4月21日、柴田軍の戦線は崩れた。
さらに前田利家の部隊が戦線から離れる。
勝家の周囲の兵も減った。
『福井県史』では、最後に家臣・毛受勝照が勝家の金の御幣の馬標を受け取り、身代わりとなって戦う間に、勝家が北庄へ退いたと記している。
勝家の戦争は終わった。
残されたのは、北庄まで逃げ切ることだった。
北庄へ――自分が築いた町へ戻る
1575年以来、勝家は北庄を作ってきた。
城を築いた。町を整えた。商人を呼んだ。職人を移した。検地を行った。
寺社を安堵した。北陸方面軍を送り出した。
その町へ、1583年4月、敗軍の将として帰ってきた。
勝家が北庄を本拠にしてから約8年。
自分が北陸支配のために築いた場所が、そのまま最後の城になる。
秀吉軍も北へ迫った。
4月23日――北庄城、攻撃開始
4月23日。
秀吉軍が北庄城への攻撃を開始する。
その日のうちに外側の防衛線は破られ、本丸だけが残ったと『福井県史』は記す。
お市の三人の娘は城外へ出され、秀吉側へ引き渡された。
茶々。初。江。
この三人は生き残る。
のちに茶々は秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産む。
初は京極高次へ嫁ぐ。
江は徳川秀忠の正室となり、徳川家光の母になる。
北庄城で別れた三姉妹は、その後の豊臣・徳川両家の中心へ入っていく。
一方、お市は勝家のもとに残った。
4月24日――「腹の切り様を見よ」
翌24日、最後の攻撃が始まった。
勝家は籠城して静かに死を待ったわけではない。
『毛利家文書』によれば、城門を開いて7度も打って出た。
それでも兵力差は埋まらない。
夕刻、勝家はお市とともに死を選んだ。
『福井県史』が紹介する記録では、勝家は最期に天守へ上がり、攻め寄せる敵へ、
自分の腹の切り方を後学のために見ておけ、
という趣旨の言葉を投げたとされる。
この場面の細部には軍記的な演出も含まれる。
それでも、勝家が北庄城で自害し、お市も同じ日に死んだことは確かである。
福井県史年表は北庄城陥落を天正11年4月24日としている。
勝家は何歳だったのか
『柴田勝家公始末記』は、勝家を62歳とする。
そこから1522年生まれという数字が広く知られるようになった。
ただし、生年を直接示す確実な同時代史料はない。
したがって、「1583年に死去。享年62とする後世の記録がある」という形が一番安全である。
敵になった秀吉は、勝家を弱い武将とは見ていなかった
勝家を倒した秀吉は、勝家を、
「日ごろ武篇を仕付けたる武士」と評したことが『毛利家文書』に残る。
長いあいだ武事に鍛えられてきた武士、という意味である。
その言葉は勝家の生涯によく合っている。
信行の軍として信長と戦う。
信長の家臣へ移る。近江で戦う。浅井・朝倉と戦う。一向一揆と戦う。
上杉謙信と向き合う。越前を支配する。北陸方面軍を率いる。
そして最後に秀吉と戦う。
30年近く、勝家の人生から戦争が消えることはほとんどなかった。
それでも「猛将」だけでは柴田勝家を語れない
柴田勝家と聞けば、
鬼柴田。瓶割り柴田。賤ヶ岳。北庄城。
そうした勇猛なイメージが先に出る。
しかし越前に残された史料を読むと、別の勝家が見えてくる。
人夫徴発を制限する。使者への接待を一汁二菜に抑える。
検地を行う。楽市を進める。商人を呼び戻す。職人へ屋敷を与える。
寺社へ土地を安堵する。北庄に城下町を作る。
信長が勝家へ任せたのは、軍事力だけではなかった。
一向一揆で荒れた国を立て直し、その国からさらに北陸方面を平定しうる体制を作ること。
勝家はそれを8年かけて進めた。
信長に背いた男が、最後には織田家のため秀吉と戦った
1556年、勝家は織田信行を担ぎ、信長を倒そうとした。
1557年、信行の再度の動きを信長へ知らせた。
1575年、信長から越前8郡と北陸方面の軍事指揮を任された。
1582年、その信長が本能寺で死んだ。
1583年、勝家は織田信孝らと結び、信長死後に勢力を急拡大する秀吉と戦った。
そして北庄で死んだ。
勝家の人生は、一度の忠誠で一直線につながってはいない。
主君を見限ったこともある。敗れたこともある。
謙信を前に退いたこともある。秀吉には完全に先手を取られた。
それでも、稲生で信長と戦った男が、その信長から北陸方面を預けられるところまで上がった。
ここに柴田勝家という人物の面白さがある。
北庄城が落ちた1583年4月24日。
消えたのは一人の猛将だけではない。
信長の家臣団の中で、佐久間信盛・丹羽長秀らと並ぶ古参の重臣として長年戦い続けた人物が消えた。
そして勝家を倒した羽柴秀吉は、この勝利からわずか数年で、織田家臣の重臣という立場を越えていく。
柴田勝家の死は、織田信長の時代が終わり、豊臣秀吉の時代へ移っていく大きな境目だった。
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