【人物編 Vol.59】織田信雄――なぜ『無能な信長の次男』と呼ばれたのか? 小牧・長久手から晩年まで

人物

第123回

1584年4月9日。

尾張東部の長久手で、羽柴秀吉方の軍勢が徳川家康の軍に敗れた。

池田恒興、池田元助、森長可らが討死。秀吉方は約2500人を失ったとされる。

小牧・長久手の戦いで最も有名な戦闘である。

現在では「秀吉対家康」の戦いとして知られているが、この戦争が始まった直接の原因には、もう一人の男がいた。

織田信雄。

織田信長の次男である。

信雄と秀吉の関係が崩れ、信雄が家康と同盟したことで、信長死後の天下をめぐる大戦が始まった。

ところが長久手で家康が勝利してから7か月後、信雄は家康に無断で秀吉と講和する。

信雄にはこうした失敗や不可解に見える行動が多い。

父に無断で伊賀へ攻め込み、大敗した。

本能寺の変後には弟・信孝と争った。

秀吉と戦ったかと思えば講和し、1590年には転封を拒否して所領を失った。

後世、「無能な信長の次男」と呼ばれる理由は少なくない。

それでも信雄は消えなかった。

信長が死んでも、秀吉に敗れても、改易されても生き残り、豊臣家が滅びた後には再び5万石余を与えられた。

そして1630年まで生きた。

信長の死から48年後、徳川家光の時代である。

失敗を重ねながら、戦国から江戸まで生き抜いた信長の次男。

織田信雄の72年を追っていく。


1558年――織田信長の次男として生まれる

織田信雄は1558年、織田信長の次男として生まれた。

幼名は茶筅丸。

母は生駒吉乃とされ、同母兄に織田信忠がいた。

信雄が生まれた頃、信長はまだ尾張統一を進めている段階だった。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破り、1567年には美濃を攻略。翌1568年には足利義昭を奉じて京都へ入る。

信雄の少年時代は、父が尾張の一大名から畿内へ勢力を広げていく時期と重なっている。

嫡男の信忠は織田家そのものを継ぐ後継者として育てられた。

次男の信雄には別の役割が与えられる。

その舞台となったのが伊勢だった。


1569年――名門・北畠家へ入る

伊勢南部には、北畠氏が大きな勢力を築いていた。

北畠氏は村上源氏の流れをくみ、南北朝時代以来、伊勢国司として南伊勢を支配してきた名門である。

当時の中心人物は北畠具教と、その子・具房だった。

1569年、信長は北畠氏の本拠である大河内城を攻めた。

大河内城での戦いの後、信長と北畠氏の間で和睦が成立する。

その条件の一つとして、信長の次男・茶筅丸が北畠具房の養子に入った。

信雄は北畠具豊を名乗る。

織田家の少年を北畠家へ入れ、その家督を継がせる。

信長の伊勢支配は、武力だけでなく養子縁組によって進められた。

1575年、信雄は北畠家の家督を継いだ。

まだ10代だった。


1576年――北畠具教の死

信雄が家督を継いでも、旧北畠氏の勢力は残っていた。

隠居した北畠具教も三瀬館に暮らしていた。

1576年11月。

北畠一族に対する大規模な排除が行われる。

三瀬館に刺客が送り込まれ、具教は殺害された。

田丸城などでも北畠一族が殺される。

三瀬の変である。

この北畠氏排除は信長の伊勢支配の完成へ向けて行われたもので、具教殺害そのものは信雄が差し向けた刺客によって実行されたと伝わる。

かつて養子として迎えられた信雄は、今度は養家を排除する側に立った。

南北朝時代以来、南伊勢を支配してきた北畠氏の時代は終わり、伊勢の支配は織田氏へと移っていった。

信雄もやがて北畠姓を離れ、織田姓へ戻っていく。


1579年――8000の兵で伊賀へ攻め込む

信雄の生涯を語るうえで避けて通れない失敗がある。

1579年の第一次天正伊賀の乱である。

伊勢の西に位置する伊賀では、各地の国人や地侍が結びつき、独自の地域支配を続けていた。

その伊賀へ勢力を広げようとした信雄は、父・信長に無断で軍事行動を起こした。

兵力は約8000。

信雄軍は複数の方向から伊賀へ侵入した。

しかし伊賀側は山の多い地形を利用して抵抗する。

土地に不慣れな信雄軍は苦戦し、重臣の柘植保重らを失った。

信雄軍は伊勢へ撤退する。

完敗だった。

この知らせを受けた信長は激怒した。

『信長公記』には、信長が信雄の行動を厳しく叱責したことが記されている。

信雄は伊賀の地形や敵の戦力を十分に把握しないまま軍を動かし、重臣と多くの兵を失った。

若い信雄の軍事指揮は、まだまだ未熟だった。


1581年――今度は信長が伊賀を攻める

第一次伊賀攻めから2年後。

1581年、信長は伊賀への大規模な侵攻を開始した。

今度は信雄の独断ではない。

織田家を挙げた軍事作戦だった。

信雄をはじめ、織田家の諸将が各方面から伊賀へ侵攻する。

その兵力を約5万とする記録もある。

1579年に8000の信雄軍を撃退した伊賀側も、これほどの大軍を相手にすることは難しかった。

各地の城や集落で激しい戦闘が続き、伊賀側は次第に追い詰められていった。

伊賀は織田方に制圧される。

信雄は伊賀3郡を得た。

1579年に信雄が失敗した伊賀攻略は、2年後、父・信長が織田家の軍事力を大規模に投入したことで実現した。

ところが、その翌年。

織田家そのものを揺るがす事件が起こる。


1582年――本能寺の変

1582年6月2日。

明智光秀が京都の本能寺を襲撃した。

信長は自害。

嫡男・信忠も二条御所で自害した。

信雄は父と兄を同時に失った。

信長の後継者として織田家を率いるはずだった信忠まで死んだことで、織田家の後継問題は一気に混乱する。

信雄は近江方面へ軍を進めたが、光秀との決戦には間に合わなかった。

6月13日。

山崎の戦いで光秀を破ったのは、備中高松城から驚異的な速度で畿内へ戻ってきた羽柴秀吉だった。

この勝利によって、秀吉は信長の仇を討った人物として織田家中で大きな発言力を持つようになる。

信雄の人生も、ここから秀吉との関係によって大きく動いていく。


安土城を焼いたのは信雄だったのか

本能寺の変後、信長が築いた安土城の天主や本丸が炎上した。

後世、この火災について広く知られるようになったのが「信雄が安土城を焼いた」という話である。

宣教師ルイス・フロイスの記録にも、信雄が安土城を焼いたとする記述が残っている。

この話は第一次伊賀攻めの失敗などと結びつき、信雄の愚かさを示す逸話として繰り返し語られてきた。

しかし現在の滋賀県による安土城の調査では、信雄放火説は成立しないと考えられている。

安土城の主郭部が炎上したのは6月14日から15日未明。

この時点で信雄は安土に来ていなかった。

発掘調査でも、城下から火が燃え広がったとする説を裏付ける痕跡は確認されていない。

安土城を誰が焼いたのかについては明智秀満による放火説などもあるが、炎上の原因そのものは完全には確定していない。

少なくとも、信雄が安土城を焼いたという話をそのまま史実として扱うことはできない。

信雄には実際に大きな失敗が沢山ある。

だからこそ、後世に付け加えられた評価と、実際に確認できる行動は分けて見る必要がある。


清洲会議――信長の後継者にはなれなかった

本能寺の変から間もない1582年6月。

織田家の重臣たちが清洲城に集まった。

清洲会議である。

信長も、後継者だった信忠も死んだ。

成人した信長の息子として残っていた信雄と信孝は、当然、織田家の後継問題に関わることになる。

しかし織田家の家督を継ぐことになったのは、信雄でも信孝でもなかった。

信忠の幼い嫡男・三法師だった。

信雄は兄・信忠の遺領だった尾張を得た。

この時点で、信雄がただちに尾張・伊勢・伊賀のすべてを支配したわけではない。

翌1583年、滝川一益や弟・信孝が没落すると、その旧領も信雄の支配下へ入る。

こうして信雄は尾張、伊勢5郡、伊賀3郡を領有する大名となった。

本能寺の変によって信長の天下は崩れたが、信雄自身の勢力はむしろ大きくなっていた。


弟・信孝との争い

清洲会議の後、織田家内部では羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激しくなった。

信雄は秀吉と結ぶ。

弟・信孝は勝家と結んだ。

信長の息子同士の争いと、織田家重臣同士の主導権争いが重なった。

1583年4月。

賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破る。

勝家は北庄城へ退き、妻のお市の方とともに自害した。

後ろ盾を失った信孝も追い詰められた。

信雄は信孝を攻め、同年5月、信孝は尾張の野間で自害する。

本能寺の変からわずか1年。

信長の嫡男・信忠はすでに死に、三男・信孝も消えた。

成人した信長の息子たちの中で、信雄の存在は大きくなった。

しかし信孝を倒すために手を組んだ秀吉もまた、織田家臣という立場を越える勢力へ成長していた。

次に衝突するのは、信雄と秀吉だった。


1584年――信雄と秀吉、決裂

1584年。

信雄の家臣の中に秀吉へ接近する者が現れた。

信雄は津川義冬、岡田重孝、浅井長時の3人が秀吉に内通したと疑い、殺害する。

3月のことである。

信雄と秀吉の関係は決定的に崩れた。

信雄が頼った相手が徳川家康だった。

家康は1560年代から信長と同盟を結び、長年にわたって織田家とともに戦ってきた。

信雄と家康は同盟を結ぶ。

秀吉も大軍を動かした。

こうして始まったのが小牧・長久手の戦いである。


小牧・長久手――秀吉と戦った信長の次男

小牧・長久手の戦いは「秀吉対家康」の戦いとして知られている。

実際、戦場で秀吉軍と渡り合った中心人物は家康だった。

しかし開戦に至る政治的な対立の中心には信雄がいた。

秀吉方は約10万。

家康・信雄方は約1万6000から1万7000が出動したともいわれる。

家康・信雄方は小牧山周辺に陣を構え、秀吉方と対峙した。

3月には羽黒で森長可が敗れる。

正面から家康を崩すことが難しいとみた秀吉方では、家康の本国・三河を攻撃する作戦が浮上した。

羽柴秀次を大将に、池田恒興、森長可らが尾張東部を進む。

ところが、その動きは家康側に察知された。

4月9日。

長久手周辺で両軍が激突する。

家康軍の攻撃を受けた秀吉方は崩れた。

池田恒興、嫡男の池田元助、森長可らが討死。

秀吉方の損害は約2500人に達したとされる。

長久手の戦闘は家康方の完勝だった。

しかし戦争全体は終わらなかった。

秀吉は約10万ともいわれる大軍を動かせるだけの力を持っていた。

家康が長久手で勝っても、秀吉の勢力そのものを崩壊させることはできなかった。

戦いは長期化していく。

そして戦場となった地域の一つが、信雄自身の領国だった。


信雄の領国が削られていく

長久手で敗れた秀吉は、正面から家康を倒すことだけに固執しなかった。

戦線を広げ、信雄の領国を圧迫していく。

伊勢でも戦闘が続いた。

信雄の家臣や城が次第に秀吉方から圧力を受ける。

長久手の局地戦では家康が勝った。

戦争全体では、信雄の支配する地域が削られていた。

ここに、家康と信雄の立場の違いがあった。

家康には三河・遠江を中心とする自らの領国がある。

一方、秀吉との政治的対立の当事者だった信雄は、自分の領国そのものを戦場として攻撃されていた。

戦争が長引くほど、信雄の負担は大きくなる。

そして1584年11月。

信雄は秀吉との講和を選んだ。


1584年11月11日――家康に無断で秀吉と講和

11月11日。

信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。

講和によって、信雄は伊賀や南伊勢などを割譲した。

それでも信雄自身の大名としての地位は残った。

この講和は、小牧・長久手の戦いの流れを決定的に変える。

家康が秀吉と戦った大きな理由は、信雄を支援することにあった。

その信雄自身が秀吉と和睦した。

家康は戦争を続ける名目を失う。

家康は浜松へ兵を引き、12月には次男の於義丸、のちの結城秀康を秀吉の養子とすることで和睦した。

後世、信雄の単独講和は「家康が長久手で勝ったのに、信雄が勝手に秀吉と和睦した」と批判されてきた。

家康に無断で講和したことは事実である。

一方で信雄の領国は秀吉軍から圧迫され、戦争を続けるほど支配地域を失う状況に置かれていた。

信雄は領国の一部を差し出し、自らの大名としての立場を残す道を選んだ。


秀吉の天下で生きる

小牧・長久手の戦いを終えた秀吉は、急速に天下統一へ向かう。

1585年、関白に就任。

同年には四国を平定し、1587年には九州を平定した。

信雄も秀吉の政治秩序へ組み込まれる。

1585年には権大納言、1587年には正二位内大臣にまで昇った。

数年前まで秀吉と戦っていた信雄が、豊臣政権の高い官位を得ていた。

本能寺の変直後には信長の後継をめぐる争いの中心にいた信雄だったが、天下の主導権は完全に秀吉へ移っていた。

それでも信雄は大名として領国を保っていた。

その地位を失うのが1590年である。


1590年――転封を拒否し、すべてを失う

1590年。

秀吉は小田原征伐で北条氏を滅ぼした。

徳川家康には、北条氏の旧領を中心とする関東への移封が命じられる。

家康が去った東海地方では、大規模な大名配置の変更が行われることになった。

信雄にも家康の旧領への転封が命じられた。

信雄はこれを拒否した。

秀吉は信雄を改易する。

信雄は領国を失い、下野国烏山へ配流された。

かつて尾張・伊勢・伊賀に勢力を持ち、家康とともに秀吉と戦った信長の次男が、領地をすべて失った。

小牧・長久手では一部の領国を失っても大名として残る道を選んだ信雄だったが、今度は転封命令を拒んだことで、その地位そのものを失った。

信雄は出家し、常真と号した。

32歳ほどの時だった。


改易されても、秀吉のもとへ戻る

領地を失った信雄は、そのまま歴史から消えなかった。

のちに赦免され、再び秀吉の近くに仕えるようになる。

秀吉の相伴衆となった。

かつて秀吉と大軍を率いて戦った人物が、今度は秀吉の側近くにいる。

戦国時代らしい、立場の変化だった。

信雄の嫡男・秀雄には越前大野が与えられ、織田家の系統そのものも残された。

1598年、豊臣秀吉が死去する。

信雄は40歳だった。

父・信長を失った本能寺の変から16年。

弟・信孝との争いも、小牧・長久手も、自身の改易も経験したうえで、今度は秀吉の死を迎えた。


1600年――関ヶ原の戦い

秀吉の死から2年後。

1600年、関ヶ原の戦いが起こる。

徳川家康を中心とする東軍と、石田三成らの西軍が激突した。

信雄は家康に心を寄せ、西軍には属さなかったとされる。

嫡男の秀雄は越前大野を領していたが、関ヶ原の戦い後に所領を失った。

信雄自身も、この時点で大名として復活したわけではない。

それでも徳川政権が成立していく中で、信雄は生き残った。

1603年、家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。


茶、和歌、歌舞――信雄のもう一つの顔

信雄の生涯は戦争と政争だけで続いたわけではない。

晩年の信雄は、文化人としての顔も持っていた。

叔父の織田有楽から茶を学び、茶道、和歌、歌舞にも通じていたと伝わる。

若い頃の信雄は、伊賀攻めの失敗や父からの叱責など、武将としての失敗が目立つ。

しかし領国を失った後も長く生きた信雄にとって、文化や公家社会とのつながりも重要なものになっていった。

信雄は武力だけで生きる戦国大名の時代から、徳川幕府のもとで秩序が整えられていく時代までを経験した。

その長い後半生は、若い頃の軍事行動だけでは見えてこない。


1614年――大坂の陣

1614年。

徳川家と豊臣家の対立が、大坂冬の陣へ発展した。

翌1615年には大坂夏の陣が起こる。

信雄は豊臣方には加わらず、家康側に心を寄せていた。

かつて小牧・長久手で信雄と家康が秀吉を相手に戦ったのは1584年。

それから30年が過ぎていた。

信雄は秀吉と敵として戦い、のちに秀吉へ仕え、秀吉の死後には徳川の時代を迎えた。

そして1615年。

大坂城が落ちる。

豊臣秀頼と淀殿が死に、豊臣家は滅亡した。

信雄は、かつて自分から織田家の主導権を奪っていった秀吉が築いた豊臣家の最期まで生きていた。

その大坂の陣の後、信雄の人生はもう一度大きく動く。


1615年――25年ぶりに大名へ

大坂の陣後、徳川家康は信雄に所領を与えた。

大和国宇陀郡と上野国の所領を合わせて5万石余。

1590年の改易から25年。

信雄は再び大名となった。

大和では宇陀松山を領した。

若い頃の信雄は北畠家を継ぎ、伊勢を支配した。

本能寺の変後には尾張、伊勢5郡、伊賀3郡を領した。

それを1590年にすべて失った。

そこから25年を経て、再び自らの家を大名家として残す領地を手にした。

信雄は57歳になっていた。

父・信長はすでに33年前に死んでいる。

秀吉も17年前に死んでいた。

そして翌1616年には徳川家康も死去する。

信雄は、信長、秀吉、家康という三人が去った後も生き続けた。


1630年――信長の次男、死去

1630年4月30日。

織田信雄は死去した。

73歳。

信雄が生まれた1558年、父・信長はまだ尾張で戦っていた。

死んだ1630年には、徳川家光が三代将軍として江戸幕府を治めていた。

72年の生涯の間に、日本の政治の中心は大きく変わった。

織田信長。

羽柴秀吉。

徳川家康。

信雄は三人すべてと深く関わりながら、その時代を生き抜いた。

信雄の子孫も残った。

その系統は丹波柏原藩や出羽天童藩などへつながり、明治まで続いていく。

本能寺の変で兄・信忠は父とともに死んだ。

弟・信孝は翌1583年に自害した。

信雄も何度も大きな危機に直面した。

1579年には伊賀攻めで大敗。

1584年には秀吉と戦い、領国の一部を割譲して講和。

1590年には転封を拒否して改易。

それでも、そのたびに政治の世界へ戻ってきた。

信雄を名将と呼ぶことは難しい。

第一次伊賀攻めは明確な軍事的失敗であり、父・信長から激しく叱責された。1590年には秀吉の転封命令を拒否し、自ら大名としての地位を失っている。

一方、小牧・長久手の戦いでは、信雄自身が秀吉と対立する一方の当事者だった。

当時の信雄は尾張、伊勢5郡、伊賀3郡を支配する大名であり、家康はその信雄と結んで秀吉と戦った。

「秀吉対家康」という後世の巨大な二人の名前だけでは、この戦争の姿は見えてこない。

そして信雄の人生も、伊賀攻めの失敗だけでは見えてこない。

父ほど戦争に強かったわけではない。

秀吉のように天下を奪ったわけでもない。

家康のように幕府を築いたわけでもない。

何度失敗しても、領国を失っても、信雄は生き残った。

戦国の覇者たちが次々と世を去った後、73歳まで生き、最後には自らの子孫を江戸時代の大名家へつないだ。

それが、織田信長の次男・織田信雄の生涯だった。

織田信雄をもっと知りたい方へ

「伊賀攻めで大敗した信長の次男」というイメージが強い織田信雄ですが、その生涯を最後まで追うと、秀吉・家康の時代をしぶとく生き抜いた意外な姿が見えてきます。

『あんまり役に立たない日本史』では、織田信雄も「しくじり続けながらも織田家を守った人物」として紹介されています。

教科書ではあまり深く扱われない人物の意外な一面を、気軽に楽しみたい方におすすめです。

 
あんまり役に立たない日本史 [ しろっぷ じゅんぺい ]

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