第44回
宝亀元年(770)8月21日。
一人の僧が、平城京を離れることになった。
道鏡。
わずか4年前には「法王」となり、天皇に準じる特別な待遇を受けていた人物である。
しかし8月4日に称徳天皇が亡くなると、その政治的地位は急速に失われた。
道鏡は造下野国薬師寺別当に任じられ、下野国へ移された。
法王として朝廷政治の中心にいた僧が、都から去ったのである。
道鏡はなぜ、僧侶の身で太政大臣禅師、さらに法王という前例のない地位まで昇ったのか。
そして769年の宇佐八幡宮神託事件で、道鏡は本当に皇位を狙ったのか。
その生涯を、史料から確認できる事実と後世に形成された人物像を分けながら見ていく。
1.生年不詳――河内国の弓削氏に生まれる
道鏡の生年は分かっていない。
俗姓は弓削氏。
河内国若江郡、現在の大阪府八尾市周辺を本拠とした氏族の出身だった。
現在も八尾市には「弓削」の地名が残っている。
道鏡の家系については、物部氏との関係や皇族につながる系譜など、後世にいくつかの説が生まれた。
しかし父母や出生年を確実に示す同時代史料はなく、詳しい出自には不明な部分が多い。
僧となった道鏡は義淵の弟子だったと伝えられ、葛城山で修行し、梵文などにも通じた人物として記録されている。
2.747年――史料に現れる道鏡
道鏡が文献上にはっきり姿を現すのは天平19年(747)である。
正倉院文書に「東大寺良弁大徳御所使沙弥」として名前が確認できる。
良弁と関係する僧侶で、このころは得度して間もない立場だったと考えられている。
その後、道鏡は宮中の内道場へ入り、禅師となった。
この段階では、後に朝廷の最高権力層へ入る人物になるとは予想しにくい。
道鏡の生涯を大きく変える出来事が起こるのは、762年である。
3.762年――孝謙上皇の看病
天平宝字6年(762)4月。
近江国の保良宮に滞在していた孝謙上皇が病に伏した。
道鏡はその看病にあたり、上皇から強い信任を得るようになった。
後世には、道鏡が宿曜秘法を修して上皇の病を癒やしたとも伝えられている。
ただし、道鏡が看病にあたったことと、具体的にどのような祈祷や治療を行ったのかは分けて考える必要がある。
このころ、孝謙上皇と淳仁天皇の関係も悪化した。
淳仁天皇が上皇と道鏡の関係を批判したことから対立が表面化する。
同年6月3日、孝謙上皇は国家の「大事」と賞罰は自ら扱い、淳仁天皇には「小事」を行わせるという趣旨を宣言した。
淳仁天皇を支えていた藤原仲麻呂にとっても、大きな政治的変化だった。
道鏡は翌763年、少僧都となる。
僧侶としての地位も急速に上がり始めた。
4.764年――藤原仲麻呂の乱と大臣禅師
天平宝字8年(764)9月。
藤原仲麻呂と孝謙上皇側の対立が武力衝突へ発展した。
仲麻呂は都を脱出したものの追討軍に追い詰められ、9月18日に近江国高島郡で死亡した。
その2日後。
9月20日、道鏡は大臣禅師に任じられた。
同年、淳仁天皇も廃位される。
孝謙上皇は再び皇位につき、称徳天皇となった。
藤原仲麻呂が政治の中心から消え、淳仁天皇も退いたことで、道鏡の政治的地位はさらに高まっていった。
5.765年――太政大臣禅師
天平神護元年(765)閏10月。
称徳天皇は道鏡の出身地である河内国弓削を訪れた。
この行幸の際、道鏡は太政大臣禅師に任じられた。
太政大臣禅師は、通常の太政大臣そのものではない。
太政大臣に比肩する政治的位置と、僧侶としての立場を組み合わせた極めて異例の地位だった。
道鏡は僧籍を離れないまま、朝廷政治の最高層へ入ったのである。
この時期には道鏡の一族も官位を上げていった。
それでも道鏡自身の政治的地位を支えた最大の要素は、称徳天皇からの強い信任だった。
6.766年――「法王」になる
天平神護2年(766)10月。
道鏡はさらに「法王」に任じられた。
神護景雲への改元は翌767年であり、766年の元号は天平神護2年である。
法王となった道鏡には、極めて特別な待遇が与えられた。
月料は天皇の供御に準じ、出入りの際の儀礼も天皇に準じるものとされた。
翌767年3月には、法王としての家政と政務を担う法王宮職も設けられる。
僧侶でありながら、天皇に準じる待遇を受ける。
奈良時代でも異例の存在だった。
ただし、道鏡自身が天皇になったわけではない。
称徳天皇のもとで「法王」という特別な地位を与えられたのである。
7.称徳天皇・道鏡政権期の政策
称徳天皇と道鏡が政治の中心にいた時期には、仏教を強く意識した政策が相次いだ。
放鷹司を廃して放生司が置かれ、狩猟を禁じ、肉や魚を御贄として献上することも禁じられた。
また、貴族による大規模な墾田を制限する一方、寺院や小規模な百姓の墾田には一定の例外が認められた。
称徳天皇の時代には、西大寺や西隆寺の造営など国家による仏教事業も進められている。
ただし、これらすべてを道鏡本人が考案した政策とすることはできない。
称徳天皇と道鏡が政治の中心にいた時期に、仏教を強く重視した政策が進められたと見るのが適切である。
8.由義宮と由義寺――故郷・河内の「西京」
道鏡政権期に大きな意味を持った土地が、道鏡の故郷・河内国弓削だった。
765年、称徳天皇は弓削行宮を訪れている。
そして神護景雲3年(769)10月30日。
由義宮は「西京」とされ、河内国も「河内職」に改められた。
ただし、平城京そのものが廃されたわけではない。
八尾市も、由義宮を平城京に対する副都として位置づけている。
また、弓削氏の氏寺だった弓削寺も整備され、由義寺となったと考えられている。
発掘調査では大型塔の基壇が確認され、由義寺跡は現在、国史跡に指定されている。
道鏡の故郷だった弓削の地は、称徳天皇・道鏡政権のもとで国家的な政治・宗教拠点へ変化していった。
9.769年――宇佐八幡宮から届いた神託
神護景雲3年(769)。
大宰府から朝廷へ、道鏡を皇位につければ天下が太平になるという趣旨の宇佐八幡神の神託が伝えられた。
この神託を奏上したのが、大宰主神・習宜阿曾麻呂だった。
『続日本紀』系の記録では、道鏡はこの知らせを喜んだとされる。
称徳天皇は神託を確認するため、和気清麻呂を宇佐へ派遣した。
清麻呂が持ち帰ったのは、最初とは逆の趣旨の神託だった。
皇位には皇統の人物を立てるべきであり、臣下を天皇としてはならないという内容である。
道鏡の即位は実現しなかった。
10.道鏡は本当に皇位を狙ったのか
宇佐八幡宮神託事件は、道鏡の人物像を考えるうえで最も慎重に扱う必要がある。
後世には、道鏡が皇位につくために偽の神託を作らせたという物語が広く知られるようになった。
しかし、道鏡本人が最初の神託を捏造させたことを直接証明する同時代史料があるわけではない。
八尾市も、事件の首謀者については諸説があるとしている。
一方、史料では道鏡が最初の神託を聞いて好意的に受け止めたとされ、道鏡や弟・弓削浄人らの関与を重く見る解釈もある。
したがって、
「道鏡が神託を捏造して皇位を奪おうとした」
とも、
「道鏡は皇位にまったく関心がなかった」
とも断定できない。
確認できるのは、道鏡を皇位につける内容の神託が朝廷へ伝えられ、その後、和気清麻呂による再確認によって即位には至らなかったことである。
道鏡自身がどの段階から、どの程度この動きに関与していたのかには、なお不明な点が残る。
11.神託事件の後も失脚しなかった道鏡
宇佐八幡宮神託事件で道鏡の即位が実現しなかったからといって、道鏡がただちに失脚したわけではない。
称徳天皇からの信任はその後も続いている。
神託事件の同年10月、称徳天皇は由義宮へ行幸し、由義宮を「西京」とした。
770年にも称徳天皇は由義宮へ行幸している。
宇佐で再確認された神託によって道鏡の即位は実現しなかった。
それでも法王としての地位は、称徳天皇が存命する間維持された。
道鏡の政治的基盤が、称徳天皇の信任と強く結びついていたことが分かる。
12.770年――称徳天皇の死と失脚
宝亀元年(770)8月4日。
称徳天皇が亡くなった。
道鏡の政治的地位も、ここで大きく変わる。
8月21日。
道鏡は造下野国薬師寺別当に任じられ、下野国へ移された。
下野薬師寺は戒壇を持つ重要な官寺であり、単なる無名の地方寺院ではない。
それでも、法王として朝廷政治の中心にいた道鏡が都を離れたことは、明確な政治的失脚だった。
称徳天皇の死から、わずか17日後である。
13.772年――下野で生涯を終える
宝亀3年(772)4月7日。
下野国から、薬師寺別当・道鏡が死去したとの報告が朝廷へ届けられた。
道鏡はその地で生涯を終えた。
770年に都を離れてから、およそ2年後だった。
道鏡の死後、その人物像にはさまざまな物語が重ねられていく。
称徳天皇との男女関係を強調する話。
身体的特徴を誇張する逸話。
皇位を奪おうとした「怪僧」としてのイメージ。
しかし、そうした人物像の多くは、道鏡と同時代の史料によってそのまま確認できるものではない。
史料からたどれる道鏡は、河内国弓削氏の出身で、僧として宮中へ入り、762年の孝謙上皇の看病を大きな転機として地位を上げた人物である。
763年に少僧都。
764年に大臣禅師。
765年に太政大臣禅師。
766年には法王。
僧侶として異例の地位にまで昇った。
769年には道鏡即位を求める宇佐八幡宮の神託が朝廷へ伝えられたものの、皇位継承は実現しなかった。
そして770年に称徳天皇が亡くなると、道鏡は都を離れた。
称徳天皇の強い信任のもとで法王まで昇った道鏡の生涯は、772年、下野国で終わった。
その異例の昇進と失脚は、奈良時代後半に政治と仏教がどれほど深く結びついていたのかを示す出来事でもあった。
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称徳天皇はなぜ道鏡をここまで重用したのか?
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