第16回
冠位十二階、十七条憲法、遣隋使。
日本史では、これらの政策とともに「聖徳太子」の名が語られてきた。
一度に多くの人の話を聞き分けた。幼いころから並外れた知恵を持っていた。仏教を深く理解し、日本の政治制度を整えた。
後世の聖徳太子は、飛鳥時代を代表する理想的な政治家として描かれていく。
しかし、現在知られている「聖徳太子」は、本人が生きていた時代の名前ではない。
「聖徳」という尊称は死後に成立した。706年造立とされる法起寺塔露盤銘には「上宮太子聖徳皇」の称がみえ、現存文献で「聖徳太子」という呼称が確認されるのは、751年成立の『懐風藻』序文が初見とされる。
生前の皇子について、現在は「厩戸皇子」という名が広く用いられている。
厩戸皇子が政治に関わった推古朝には、推古天皇がいた。大臣・蘇我馬子がいた。そして、その二人と血縁でも政治でも深く結ばれていた厩戸皇子がいた。
飛鳥時代の政治を動かした三者の関係から、後世の伝説に覆われる前の厩戸皇子を追っていく。
1.574年生まれと伝わる皇子
厩戸皇子は用明天皇の皇子で、母は穴穂部間人皇女だった。
生年は一般に574年とされる。ただし、この年は『上宮聖徳法王帝説』などによって伝えられたもので、確実な生年として確認できるわけではない。
皇子の血筋を見ると、蘇我氏との結びつきが非常に深い。
父・用明天皇の母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。母・穴穂部間人皇女の母も、蘇我稲目の娘・小姉君だった。
厩戸皇子は父方と母方の双方から、蘇我稲目につながる血を引いていた。
さらに皇子は、蘇我馬子の娘・刀自古郎女を妃とする。二人の間には、後に皇位継承問題の中心人物となる山背大兄王が生まれた。
厩戸皇子自身が、蘇我氏と幾重にも血縁で結ばれた皇族だったのである。
この関係は、その後の政治活動を考えるうえでも重要になる。
2.587年――物部守屋との戦い
6世紀後半のヤマト王権では、皇位継承や仏教受容をめぐって対立が続いていた。
その中で激しく争ったのが、大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋である。
両者の対立には仏教受容だけでなく、皇位をめぐる争いや豪族間の政治的主導権も絡んでいた。
587年、用明天皇が亡くなる。
物部守屋は穴穂部皇子を支持し、蘇我馬子側との対立は決定的となった。
馬子は穴穂部皇子を殺害した後、諸皇子や有力豪族を集めて守屋を攻撃する。
『日本書紀』によれば、その軍勢には若い厩戸皇子も加わっていた。
戦況が厳しくなった際、厩戸皇子が四天王像を作り、勝利すれば四天王を祀る寺を建立すると誓ったという逸話も『日本書紀』に残る。
守屋の敗死後、この誓願によって四天王寺が建立されたと伝えられた。
この物語は、後に形成されていく「仏教を守護した聖徳太子」の人物像にもつながっていく。
587年の戦いで物部守屋は敗れ、蘇我馬子の政治的地位はさらに強まった。
厩戸皇子も、その新しい政治秩序の中で成長していく。
3.592年――崇峻天皇暗殺と推古天皇
物部守屋の死後、泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位した。
その擁立に大きく関わったのが蘇我馬子だった。
ところが、崇峻天皇と馬子の関係はやがて悪化する。
592年11月、『日本書紀』によれば、馬子は東漢直駒に命じて崇峻天皇を暗殺させた。
天皇が臣下の命令によって殺害されるという異例の事件だった。
その翌月、額田部皇女が即位する。
推古天皇である。
推古天皇は敏達天皇の皇后を務めた経験を持ち、用明天皇の同母妹でもあった。日本史上最初の女性天皇とされ、592年から628年まで36年間在位する。
翌593年、『日本書紀』は厩戸皇子を「皇太子」とし、政治を委ねたと記している。
後世には「聖徳太子が摂政となった年」として知られるようになった。
ただし、この時代の「皇太子」や「摂政」を、後世に制度化されたものとそのまま同一視できるかについては議論がある。
山川日本史小辞典では、厩戸皇子を皇太子とすること自体に疑問を示す考えも紹介され、実際の政治活動が明確になるのは602年ごろからとされている。
厩戸皇子は、推古天皇のもとで政治の中枢に加わった有力皇族として見ていく方が、当時の政治を捉えやすい。
4.推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子
推古朝の政治を、厩戸皇子一人の改革として捉えると、当時の政治構造は見えにくくなる。
大臣・蘇我馬子は敏達朝以来、長期間にわたって政治の中枢にいた。
587年に物部守屋を破り、崇峻天皇の擁立と暗殺にも関与し、推古朝でも大臣として大きな力を持ち続けた。
推古天皇も36年間にわたって在位し、王権の中心にいた。
そこへ厩戸皇子が加わる。
皇子は馬子の娘・刀自古郎女を妃としており、政治的にも血縁的にも蘇我氏と強く結ばれていた。
山川日本史小辞典では、厩戸皇子について、推古天皇のもとで蘇我馬子と共同して政治を担ったとする考えも紹介されている。推古朝についても、推古天皇と厩戸皇子が蘇我氏に対抗したというより、蘇我氏と協調していたとする見方が示されている。
推古天皇、蘇我馬子、厩戸皇子。
この三者が関わる政治の中で、7世紀初頭の制度整備や外交が進められていった。
5.603年――冠位十二階
推古11年(603)、冠位十二階が定められた。
徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分け、12の序列を設定する制度である。
従来の氏姓制度が氏族を単位とする秩序だったのに対し、冠位は個人に与えられ、原則として世襲されなかった。
後の位階制度につながる重要な変化だった。
ただし、冠位十二階によって社会が一気に「家柄より能力を重視する制度」へ変わったわけではない。
皇族や蘇我氏など最上層の豪族は授与対象外だったと考えられ、施行範囲も後の畿内とその近国を中心としていた。
重要なのは、氏族が持つ姓とは別に、朝廷に仕える個人へ冠位を与えて序列化する仕組みが導入されたことである。
制度には朝鮮半島の官位制度の影響が指摘されており、東アジア外交の中で使節の身分を示す必要性も制定の背景にあったと考えられている。
冠位十二階は、厩戸皇子一人の政策というより、東アジアとの交流を進めていた推古朝の制度整備の一つとして位置づけることができる。
6.604年――十七条憲法
推古12年(604)。
『日本書紀』は、皇太子が十七条憲法を作ったと記している。
第一条では人々の協調を重んじ、第二条では仏・法・僧の三宝を敬うことを説く。
ただし、現在の憲法のように国家制度や国民の権利を定めた法律ではない。
朝廷に仕える官人の道徳や政治上の心得を示す性格が強く、儒教、仏教、法家などの思想が取り込まれている。
成立については史料に違いがある。
『日本書紀』は604年とする一方、『上宮聖徳法王帝説』には605年とする記録が残る。
現在伝わる本文の成立過程についても議論が続いている。
そのため、現在知られている十七条すべてを604年に厩戸皇子が一人で書き上げたと断定するより、『日本書紀』が推古朝の重要な政治規範を厩戸皇子に結びつけて伝えている、と捉える方が慎重である。
7.607年――「日出処の天子」と遣隋使
推古朝では、中国大陸との外交も大きく動いた。
中国側の『隋書』には600年、倭国から隋へ使者が送られたことが記されている。
この遣使は『日本書紀』には記録されていない。
その後、603年に冠位十二階、604年に十七条憲法が定められた。
600年の遣使を通じて得た情報が、その後の制度整備へ影響した可能性も考えられている。
607年には小野妹子が隋へ派遣された。
『隋書』には、倭国から隋へ送られた国書の冒頭に、日の昇る側の天子から日の沈む側の天子へ書を送るという趣旨の文言が記されている。
隋の煬帝は、この国書を見て不快感を示したとされる。
この国書は後世、聖徳太子の外交を象徴する文章として知られるようになった。
しかし『隋書』は、国書を書いた人物を厩戸皇子とは記していない。
推古朝の外交政策として扱う方が史料に忠実である。
608年には隋の使者・裴世清が倭国へ来訪し、小野妹子は再び隋へ渡った。
この時、高向玄理、南淵請安、僧旻らも留学生・学問僧として大陸へ向かった。
彼らは長期間にわたって隋・唐の制度や文化を学び、帰国後には後の政治改革にも関わっていく。
推古朝に進んだ大陸との交流は、厩戸皇子の死後も日本の政治に影響を与え続けた。
8.斑鳩へ――仏教と厩戸皇子
厩戸皇子を考えるうえで、仏教も大きな位置を占める。
蘇我馬子が飛鳥寺の造営を進めたころ、飛鳥には朝鮮半島から来た僧侶たちが集まっていた。
厩戸皇子も、高句麗僧・慧慈から仏教を学んだと伝えられる。
601年、『日本書紀』は皇子が斑鳩宮の造営を始めたと記す。
605年には斑鳩宮へ移った。
飛鳥から離れた斑鳩は、大和川水運を通じて難波方面とも結ばれる交通の要地だった。
斑鳩では法隆寺の前身となる寺院も営まれた。
法隆寺では、用明天皇が寺院建立を発願し、その遺志を推古天皇と厩戸皇子が継いで607年ごろに完成させたと伝えている。
一方、『日本書紀』には670年に法隆寺が焼失したとの記事があり、現在の西院伽藍はその後に再建されたと考えられている。
斑鳩は、厩戸皇子の政治と仏教活動を考えるうえで重要な拠点となった。
法華経・維摩経・勝鬘経の注釈書である「三経義疏」も、厩戸皇子の著作として伝えられてきた。
三経義疏の真撰については議論もあるが、百科事典類では太子撰を支持する整理もあり、とくに法華義疏には皇子の作である旨を記した古写本が伝わる。
厩戸皇子と仏教との深い結びつきを伝える重要な資料の一つである。
蘇我馬子もまた、飛鳥寺の造営を進めた仏教興隆の中心人物だった。
仏教をめぐっても、馬子と厩戸皇子は同じ推古朝の中で重要な役割を担っていた。
9.620年――蘇我馬子とともに歴史を編む
推古28年(620)。
『日本書紀』は、厩戸皇子と蘇我馬子が『天皇記』『国記』をはじめ、臣・連・伴造・国造など諸氏族に関する記録を編纂したと伝えている。
『天皇記』『国記』そのものは現存していないため、内容を直接確認することはできない。
それでも、この記録は二人の政治的関係を考えるうえで重要である。
厩戸皇子と馬子は、同じ政権の中で王権や諸氏族の歴史を記録する事業を共同で進めた人物として『日本書紀』に描かれている。
厩戸皇子を蘇我馬子の「表の顔」、馬子をその「裏方」と分ける史料的な根拠はない。
推古朝の中枢で、二人がともに政治事業へ関わっていた姿が見えてくる。
10.622年――厩戸皇子の死
厩戸皇子の没年については、史料によって記録が異なる。
『日本書紀』は推古29年(621)2月5日に皇太子が死去したと記す。
一方、『上宮聖徳法王帝説』、天寿国繡帳銘、法隆寺金堂釈迦如来像光背銘などでは、推古30年(622)2月22日とされる。
現在は622年2月22日説が広く採用されている。
622年説では、妃の膳部菩岐岐美郎女が2月21日に亡くなり、厩戸皇子も翌22日に死去したと伝えられる。
皇子の死後、妃の一人・橘大郎女は推古天皇に願い出て、皇子が往生した「天寿国」の姿を刺繍で表現させたと伝わる。
現在、中宮寺に残る国宝・天寿国繡帳である。
現存する繡帳には飛鳥時代に制作された部分も含まれ、皇子の死後早い時期から厩戸皇子を特別な存在として追慕する動きがあったことを伝えている。
厩戸皇子は天皇にはならなかった。
皇子自身が即位を望まなかった、あるいは蘇我馬子との間に何らかの役割分担があったためと説明できる史料は残っていない。
確認できるのは、皇子が推古天皇の在位中に亡くなったということである。
622年説に従えば、厩戸皇子は推古天皇より6年早く世を去った。
628年に推古天皇が亡くなると皇位継承問題が起こり、厩戸皇子の子・山背大兄王も有力候補となる。
厩戸皇子自身は、その争いを見ることなく亡くなっていた。
11.厩戸皇子から「聖徳太子」へ
厩戸皇子の死後、その人物像には長い時間をかけて新たな物語が重ねられていく。
仏教を広めた聖人。理想の政治家。未来を見通す人物。一度に多くの人々の話を聞き分けた皇子。
『日本書紀』の段階ですでに超人的な能力を示す記述がみられ、奈良・平安時代になると太子をめぐる伝承はさらに広がった。
917年成立の『聖徳太子伝暦』のころには、後世に伝わる太子伝説の多くがまとまった形で描かれるようになった。
有名な「聖徳太子二王子像」の原品も、皇子の生前ではなく奈良時代の8世紀に描かれたものとされる。
東京国立博物館は、この像について「聖徳太子の最古の肖像とされる」とする一方、実際に誰を描いたのかについて議論があることも紹介している。
現在知られている聖徳太子像を、そのまま7世紀初頭の厩戸皇子の姿と考えることはできない。
史料から見える厩戸皇子は、蘇我氏と深い血縁で結ばれ、推古天皇のもとで蘇我馬子とともに政治に関わった皇族だった。
東アジアとの交流が急速に広がる時代に生き、官人制度、政治規範、外交、仏教、歴史編纂に関わった。
推古朝の政治と文化は、厩戸皇子一人によって作られたものではない。
推古天皇、蘇我馬子、朝廷の官人、渡来人、僧侶たちが関わる中で、新しい政治と文化が形づくられていった。
その中心にいた一人が厩戸皇子だった。
622年の死後、その記憶は何世紀にもわたって語り直されていく。
歴史上の厩戸皇子から、理想化された「聖徳太子」へ。
二つの姿が重なりながら、その名は現在まで日本史を代表する人物の一人として残り続けている。
もっと聖徳太子について深く知りたい方へ。
聖徳太子は「十七条憲法を作った偉人」という一言では語りきれません。蘇我馬子との関係や、当時の倭国がどのように「大国」へ向かっていったのかを知ると、聖徳太子の見え方も変わってきます。
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聖徳太子 倭国の「大国」化をになった皇子 (日本史リブレット) [ 大平聡 ]
聖徳太子ゆかりの法隆寺。
法隆寺といえば、やっぱり思い浮かぶのが「柿」です。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
歴史を読んだあとに、奈良の柿を味わってみるのも面白いかもしれません。
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