【人物編 Vol.9】蘇我倉山田石川麻呂――蘇我入鹿を乙巳の変で倒した右大臣は、なぜ4年後に自害したのか

人物

第20回

649年3月25日。

蘇我倉山田石川麻呂は、自ら造営を進めてきた山田寺にいた。

4年前の乙巳の変では、中大兄皇子や中臣鎌足とともに蘇我入鹿を倒し、孝徳天皇の即位後には右大臣となった人物である。

その石川麻呂が、今度は謀反を疑われていた。

密告したのは異母弟の蘇我日向だった。

前日の24日、孝徳天皇は使者を二度送り、謀反について問いただした。石川麻呂は、天皇の前で直接申し開きをしたいと答え続けた。

その機会は与えられなかった。

軍勢が動き始めると、石川麻呂は大和へ向かい、山田寺に入った。長男・興志は兵を集めて戦おうとしたが、父は許さなかった。

25日、石川麻呂は寺の僧や家族、従者たちを前にして言葉を残した。

仏殿の扉を開き、生まれ変わっても天皇を恨まないと誓った後、自ら首をくくった。

しかし、事件はそこで終わらなかった。

石川麻呂の死後、その財産を調べた使者から報告を受け、中大兄皇子は彼の心がなお忠実で潔白だったことを知る。

『日本書紀』は、中大兄皇子が後悔し、深く嘆いたと記している。

蘇我入鹿を倒す側に立ちながら、4年後には自らが謀反を疑われ、直接の弁明を求めたまま死んだ蘇我倉山田石川麻呂。

その生涯をたどる。

蘇我馬子の孫として生まれる

蘇我倉山田石川麻呂の生年は分かっていない。

後世の系譜では蘇我馬子の孫にあたり、蘇我氏のうち倉山田を拠点とした系統に属したとされる。

蘇我蝦夷・入鹿の本宗家とは別の系統にありながら、同じ蘇我氏の有力者だった。

石川麻呂が若い頃にどのような立場にあったのか、詳しい記録は残されていない。

『日本書紀』の政治記事に本格的に姿を現すのは、645年の乙巳の変である。

ただし、それ以前の641年には、後に石川麻呂の最期の場所となる寺院の造営が始まっていた。

山田寺である。

641年――山田寺の造営が始まる

山田寺は、現在の奈良県桜井市山田に跡が残る古代寺院である。

『上宮聖徳法王帝説』の裏書には、その造営過程が具体的な年代とともに記録されている。

641年に寺地の整備が始まり、643年には金堂が建てられた。648年には僧が住み始めている。

石川麻呂の氏寺として造営された寺だった。

現在の山田寺跡では、金堂、塔、中門、回廊などの遺構が確認されている。

1982年の発掘調査では、東面回廊の建築部材が倒れた状態で地中から発見された。その一部は保存処理を経て、奈良文化財研究所飛鳥資料館に復原展示されている。

東面回廊は7世紀中葉の建築で、古代寺院の建築を伝える第一級の資料となっている。

そして649年。

石川麻呂は、自ら造営を始めたこの寺で生涯を終えることになる。

娘たちを通じて中大兄皇子と結ばれる

石川麻呂の一族は、中大兄皇子と婚姻によって結ばれていた。

娘の遠智娘は中大兄皇子の妃となり、大田皇女、鸕野讃良皇女、建皇子を産んだ。

鸕野讃良皇女は、後の持統天皇である。

さらに石川麻呂の娘・姪娘も中大兄皇子の妃となり、御名部皇女と阿閇皇女を産んだ。

阿閇皇女は、後の元明天皇となる。

石川麻呂の血筋は、娘たちを通じて後の皇室へ受け継がれていった。

やがて645年、石川麻呂と中大兄皇子は政治の場でも行動をともにする。

標的となったのは、同じ蘇我氏の蘇我入鹿だった。

645年――蘇我入鹿を倒す計画に加わる

皇極4年、645年6月。

中大兄皇子と中臣鎌足らは、蘇我入鹿を宮中で討つ計画を進めた。

石川麻呂も、この計画に参加した。

石川麻呂にとって乙巳の変は、同じ蘇我氏の本宗家を率いる入鹿を倒す政変でもあった。

石川麻呂がなぜ入鹿排除に加わったのか、本人が動機を語った記録は残されていない。

『日本書紀』から確認できるのは、石川麻呂が中大兄皇子らの計画に参加し、6月12日の暗殺当日に重要な役割を担ったことである。

板蓋宮で上表文を読み続ける

6月12日。

飛鳥板蓋宮に皇極天皇が出御し、蘇我入鹿も宮中へ入った。

石川麻呂に与えられた役目は、三韓からの上表文を読み上げることだった。

石川麻呂が読み上げている間に、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が入鹿を襲う手はずだった。

ところが、二人は動かなかった。

『日本書紀』によれば、子麻呂らは入鹿を恐れ、水で飯を流し込もうとして吐いてしまうほどだった。

石川麻呂が読む上表文は、終わりに近づいていく。

襲撃は始まらない。

石川麻呂は全身に汗を流し、声が乱れ、手まで震えた。

その様子を見た入鹿が、なぜ震えているのかと尋ねる。

石川麻呂は、天皇の近くにいることを畏れ、知らずに汗が流れているのだと答えた。

やがて中大兄皇子が自ら飛び出し、入鹿へ斬りかかった。佐伯子麻呂らも続き、入鹿は皇極天皇の前で殺された。

翌13日には父・蘇我蝦夷も死んだ。

馬子から蝦夷、入鹿へ続いた蘇我本宗家の政治的な権勢は崩れ、石川麻呂は新たな政権の中枢へ入っていく。

孝徳天皇の右大臣となる

入鹿が殺された後、皇極天皇は譲位した。

軽皇子が即位する。

第36代・孝徳天皇である。

中大兄皇子は皇太子となった。

阿倍内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣、中臣鎌足が内臣となった。

孝徳天皇は石川麻呂と阿倍内麻呂に金策を授けた。

同年7月には、両大臣に対し、古の聖王にならって天下を治め、信をもって政治を行うよう命じている。

翌646年には改新の詔が出された。

石川麻呂は右大臣として、孝徳朝の政治に参加していった。

娘・乳娘は孝徳天皇の妃となる

石川麻呂の一族は、孝徳天皇とも婚姻によって結ばれた。

645年7月。

孝徳天皇は二人の妃を立てた。

一人は左大臣・阿倍内麻呂の娘、小足媛。

もう一人が、石川麻呂の娘・乳娘だった。

一方、遠智娘と姪娘は中大兄皇子の妃となっていた。

右大臣となった石川麻呂は、娘たちを通じて孝徳天皇と皇太子・中大兄皇子の双方と結ばれていた。

しかし649年、その石川麻呂の立場は突然崩れる。

649年3月――左大臣・阿倍内麻呂の死

大化5年、649年3月。

左大臣・阿倍内麻呂が死去した。

『日本書紀』によれば、孝徳天皇は朱雀門へ出て哀悼し、皇祖母尊となっていた皇極上皇、中大兄皇子、公卿らもそろって泣いた。

その直後、右大臣・石川麻呂にも大事件が起こる。

発端となったのは、石川麻呂の異母弟・蘇我日向だった。

3月24日――異母弟・蘇我日向の密告

3月24日。

蘇我日向は、中大兄皇子へ石川麻呂を密告した。

『日本書紀』によれば、その内容は、石川麻呂が中大兄皇子の海辺への遊行を狙って殺害し、まもなく反乱を起こそうとしているというものだった。

日向は石川麻呂を、自らの「異母兄」と呼んでいる。

中大兄皇子はこの訴えを信じ、孝徳天皇へ伝えた。

天皇は大伴狛、三国麻呂、穂積嚙を石川麻呂のもとへ派遣し、謀反が事実なのかを尋ねさせた。

石川麻呂は答えた。

この問いへの返答は、自分が天皇の前で直接申し上げたい。

孝徳天皇は再び三国麻呂と穂積嚙を送り、謀反の事情を詳しく問いただした。

石川麻呂の答えは変わらなかった。

天皇の前で、自ら申し上げる。

二度にわたり、石川麻呂は直接の弁明を求めた。

孝徳天皇は軍勢を起こした。

軍勢が迫り、石川麻呂は大和へ向かう

軍勢は石川麻呂の邸宅を包囲しようと動いた。

石川麻呂は二人の息子、法師と赤猪を連れ、茅渟道を通って大和方面へ向かった。

長男・興志は、このとき山田にいて寺の造営にあたっていた。

父が逃れてきたことを知ると迎えに出て、一行は山田寺へ入った。

興志は父に、軍勢を率いて追ってくる兵を迎え撃つことを申し出た。

石川麻呂は許さなかった。

『日本書紀』によれば、その夜、興志は宮を焼こうと考え、兵を集めようとした。

石川麻呂は武力で朝廷と戦う道を選ばなかった。

3月25日――「お前は命が惜しいか」

翌3月25日。

山田寺で、石川麻呂は長男・興志に尋ねた。

命が惜しいか。

興志は、惜しくないと答えた。

石川麻呂は寺の僧たち、興志、そして数十人を前にして言葉を残した。

『日本書紀』に記された内容によれば、人臣でありながら主君に逆らうことはできず、子として父への孝を失うこともできない。この伽藍は自分自身のために造ったものではなく、天皇のために誓って造った。讒言によって不意に殺されることを恐れてここへ来たが、黄泉へ退いた後も忠誠を抱き続ける――という趣旨だった。

石川麻呂は仏殿の扉を開いた。

そして仰ぎ見て誓った。

生まれ変わっても、天皇を恨まない。

誓いを終えると、自ら首をくくった。

石川麻呂の死と山田寺包囲

『日本書紀』は、石川麻呂に続いて妻子8人が殉死したと記している。

同日、山田寺から追討軍へ走った使者は、石川麻呂が三人の男子と一人の女子とともに自害したと報告した。

同じ史料に二つの人数表現が記されているため、これらを単純に合計することはできない。

石川麻呂を追っていた大伴狛と蘇我日向らの軍勢は、黒山まで進んでいた。

自害の知らせを受け、軍勢はいったん引き返した。

翌26日にも、石川麻呂の妻子や従者たちの中から多くの自害者が出た。

穂積嚙は石川麻呂の仲間たちを捕らえた。

その夜、木麻呂、蘇我日向、穂積嚙らの軍勢が山田寺を包囲した。

物部二田塩が命じられ、すでに死んでいた石川麻呂の首を斬った。

3月30日には、事件への連座者に処分が下された。

『日本書紀』は、14人が殺され、9人が絞首、15人が流罪となったと記している。

謀反の疑いは石川麻呂本人だけで終わらず、その家族や周囲の人々にまで及んだ。

死後の財産調査で見つかったもの

石川麻呂の死後、朝廷は使者を送り、その財産を没収した。

そこで見つかったものが、中大兄皇子に石川麻呂の死を悔やませることになる。

『日本書紀』によれば、石川麻呂が所有していた良書には「皇太子の書」、貴重な宝物には「皇太子の物」と記されていた。

使者は、その状況を朝廷へ報告した。

中大兄皇子は、そこで石川麻呂の心がなお忠実で潔白だったことを知った。

『日本書紀』は、中大兄皇子が後悔し、恥じ、深く哀しんだと記している。

石川麻呂は事件が始まった3月24日、二度にわたって天皇の前で直接申し開きをすることを求めていた。

その機会を得ることなく、翌25日に死んだ。

そして死後、残された財産から皇太子への忠節を示すものが見つかった。

密告した蘇我日向は筑紫へ

石川麻呂を密告した蘇我日向は、その後、筑紫大宰帥に任じられた。

『日本書紀』は、当時の人々がこの人事を「隠流」と呼んだと記している。

官職を与えながら都から遠ざける処遇と、当時の人々には受け取られていた。

『日本書紀』は、日向の密告を虚偽だったと明文で判定していない。

その一方で、石川麻呂の財産調査を受けた中大兄皇子が、その心を忠実で潔白だったと知り、後悔したことを記録している。

石川麻呂にかけられた謀反の疑いを考えるうえで、見落とせない記述である。

父の死を悲しんだ皇太子妃・造媛

石川麻呂の死は、中大兄皇子の妃となっていた娘にも及んだ。

『日本書紀』は、この女性を「蘇我造媛」と記している。一般に、石川麻呂の娘・遠智娘と同一人物とされる。

造媛は、父・石川麻呂の首が物部二田塩によって斬られたことを知った。

悲しみは深かった。

父の首を斬った人物の名に「塩」が入っていたため、「塩」という言葉を聞くことさえ嫌がった。

近くに仕える者たちは、塩を「堅塩」と言い換えたという。

やがて造媛は、父を失った悲しみによって亡くなったと『日本書紀』は伝えている。

中大兄皇子もその死を深く悲しんだ。

石川麻呂の事件は、中大兄皇子自身の家族にも大きな傷を残した。

石川麻呂の死後も続いた山田寺造営

石川麻呂が自害した649年、山田寺はまだ完成していなかった。

641年に寺地の整備が始まり、643年に金堂が建てられ、648年には僧が住み始めていた。

創建者の死によって造営は中断したが、後に再開される。

663年には塔の造営が始まり、673年に塔の心柱が立てられた。676年には露盤が上げられ、678年には丈六仏の鋳造が始まる。

685年、丈六仏の開眼が行われ、天武天皇も山田寺へ行幸した。

石川麻呂の死から36年後のことである。

その後も山田寺は存続し、現在、その跡は国の特別史跡となっている。

641年に造営を始めた山田寺。

645年、石川麻呂は蘇我入鹿を倒す計画に加わり、その後、孝徳天皇の右大臣となった。

649年3月24日、異母弟の密告によって謀反を疑われる。

石川麻呂は二度にわたり、天皇の前で直接弁明することを求めた。

翌25日、軍勢が迫る中で山田寺に入り、長男が求めた武力抵抗を許さず、天皇を恨まないと誓って自ら命を絶った。

死後、残された財産を調べて初めて、中大兄皇子は石川麻呂の忠節を知った。

『日本書紀』が伝える石川麻呂の最期で際立つのは、直接の弁明を求めながらその機会を得られず、死後になって忠実で潔白な心を認められたことである。

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石川麻呂が生きた飛鳥の時代に思いを馳せながら、今に残る奈良の味を楽しんでみるのも面白いかもしれません。

 
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