第56回
天慶2年(939)12月26日。
摂津国須岐駅付近で、備前介・藤原子高の一行が襲撃された。
襲ったのは、藤原純友と結んだ藤原文元らだった。
子高は捕らえられ、その子も殺害されたと伝えられる。
須岐駅は現在の兵庫県西宮市付近に比定される。伊予を拠点としていた純友と結びつく人々の行動は、畿内に近い摂津まで及んでいた。
同じころ、東国では平将門が常陸・下野・上野の国府を掌握し、「新皇」を称していた。
東の平将門。
西では藤原純友をめぐる海上勢力が動く。
後世には、将門と純友があらかじめ反乱を約束していたという物語も生まれた。しかし、二人の事前共謀を裏付ける同時代史料は確認されていない。
939年末、藤原純友はなぜ朝廷と衝突する道へ進んだのか。
その背景には、数年前から瀬戸内海を揺るがしていた海賊問題と、地方支配をめぐる対立があった。
1.西国と京都を結んだ瀬戸内海
平安時代の瀬戸内海は、山陽・四国・九州と京都を結ぶ重要な交通路だった。
西国から都へ送られる租税や物資にも海上輸送が利用され、多くの船が往来していた。
9世紀後半になると、この海上交通を脅かす海賊の活動がたびたび問題となる。
承平年間(931~938)には活動がさらに激しくなり、記録には1,000余艘の賊船が海上に現れ、官物を奪い、人命を害したとする記事が残る。朝廷は追捕海賊使や警固使を置き、沿岸諸国に海賊追捕を命じた。
当時「海賊」と呼ばれた人々が、一つの統一された集団だったわけではない。
海上交通に関わる人々や地方の有力者、国司と対立した武装集団など、さまざまな勢力が瀬戸内海沿岸で活動していた。
その中に藤原純友が現れる。
2.前伊予掾・藤原純友
藤原純友の生年は分かっていない。
系譜についても、大宰少弐・藤原良範の子とする説のほか、伊予前司・高橋友久の子で良範の養子になったとする伝承がある。
純友は伊予掾を務めた。
掾は国司を構成する官人の一つで、地方行政の実務を担う立場だった。
任期を終えた後も純友は伊予に残り、現地に勢力基盤を築いたと考えられている。
936年の記録では、すでに「前伊予掾」と記される。愛媛県史では、3月に純友が一党を率いて伊予へ向かい、その途中で摂津国河尻を侵掠したとする『吏部王記』の記事も紹介されている。
その一方で、同じ年に純友へ海賊追捕の宣旨が出された。
ここに、936年の純友を簡単には捉えられない理由がある。
3.936年――純友は海賊の首領だったのか
承平6年(936)。
南海道の海賊活動は深刻な状況にあった。
朝廷は紀淑人を伊予守とし、追捕南海道使として海賊対策にあたらせた。
この時の純友について、後世の史料は異なる姿を伝えている。
『日本紀略』には純友を「南海賊徒主」とする記述があり、日振島に集まった海賊勢力の首領だったように読める。
一方、同系統の海賊帰順記事を伝える『扶桑略記』には、純友を海賊首領とする部分がない。
さらに『本朝世紀』には、純友自身が朝廷から海賊追捕の宣旨を受けていたことが記されている。
愛媛県史でも、この史料差を踏まえ、936年時点ですでに純友が海賊首領だったかどうかについて議論があるとしている。
世界大百科事典は、純友が海賊行為に関わる一方で政府の海賊追捕にも協力する、微妙な立場にあったと整理している。
936年の純友を「完全な朝廷側」か「反乱した海賊首領」かのどちらか一方に固定することは難しい。
伊予に勢力を持ち、海上勢力と深く関係しながら、朝廷から海賊追捕も命じられていた人物だった。
4.2,500余人が帰順した海賊対策
紀淑人は海賊対策を進めた。
『日本紀略』『扶桑略記』系の記録では、海賊2,500余人が帰順し、小野氏彦ら30余人の首領も降伏したとされる。
紀淑人は帰順者に衣食や田畑、種子などを与え、農耕に従事させた。
海賊活動はいったん沈静化する。
武力だけで追捕するのではなく、帰順した人々を地域社会へ戻す政策も取られたのである。
純友も海賊追捕に関わった人物として史料に名を残した。
しかし、瀬戸内海をめぐる対立そのものは消えなかった。
数年後、海賊平定に関わった地方の有力者と国司との間で、新たな争いが表面化していく。
5.海賊平定に関わった人々と国司
藤原純友の乱の背景には、地方支配をめぐる対立があった。
備前国では、海賊平定にも関わった藤原文元と備前介・藤原子高が対立する。
讃岐国でも、藤原三辰ら在地勢力と国司側の間に争いが起きた。
海賊追捕を通じて軍事力を持った人々と、新たに地方支配を担う国司との利害が衝突していったのである。
山川日本史小辞典も、海賊平定で功績を挙げた土着勢力と国司との対立を、純友の乱が起こる重要な背景として挙げている。
純友は、こうした人々との関係を深めていった。
939年末、その対立は国司を直接襲撃する事件へ進む。
6.939年――平将門と藤原純友
天慶2年(939)、東国では平将門をめぐる戦いが急速に拡大した。
11月21日、将門は常陸国府を制圧。
12月には下野・上野へ進み、「新皇」を称した。
同じ時期、西国でも純友をめぐる情勢が動いている。
後世には、将門と純友が比叡山で会い、東西から同時に反乱することを約束したという話が伝えられた。
この共謀説を裏付ける史料的根拠はない。
『純友追討記』は、純友が将門の謀反を聞いて乱を企てたとする。しかし同書は著者・成立年とも不明で、1094年成立の『扶桑略記』より前には成立していたと考えられる後世の軍記である。
将門の行動と純友の行動を、最初から一つの計画として結びつけることはできない。
それでも、朝廷が東国の将門への対応に追われていた時期に、西国でも武力衝突が拡大したことは確かである。
7.12月17日――伊予国から届いた報告
12月17日。
伊予国から京都へ、純友が紀淑人の制止を振り切って海上へ出ようとしているため、早く召喚してほしいという内容の解状が届いたとされる。
朝廷は純友の動きを警戒し始めていた。
その9日後。
純友と結んだ藤原文元らが、摂津国で備前介・藤原子高を襲撃する。
純友と朝廷との関係が大きく揺らぐ事件だった。
8.12月26日――須岐駅襲撃
天慶2年(939)12月26日。
京都へ向かっていた備前介・藤原子高らの一行が、摂津国須岐駅付近で襲撃された。
実行したのは藤原文元らだった。
『純友追討記』は、文元が純友の郎党として子高を追撃し、子高を捕らえ、その子を殺害したと伝えている。
一方、愛媛県史は、この事件に純友自身がどこまで関与していたのかを含め、真相は明確ではないとしている。
したがって、純友本人が須岐駅で襲撃を指揮したとまでは書けない。
それでも純友と結びついた文元らが国司を襲撃したことは、朝廷にとって重大な事件だった。
なお、この事件をもって「純友の反乱開始」とする見方がある一方、純友自身が国家に対して公然と武力行動を開始する940年後半を乱の本格化とみる考えもある。
藤原純友の乱には、「いつから純友自身の反乱と呼ぶべきか」という問題も残っている。
9.朝廷は純友をただちに討たなかった
須岐駅襲撃後、朝廷は純友本人をすぐに全面的な討伐対象とはしなかった。
940年2月3日には、前年12月に純友召喚の官符を持って派遣された藤原明方が、伊予国の解状と純友自身の申文を携えて京都へ戻っている。
純友側からも、朝廷へ事情を説明する動きがあったことになる。
その数日前の1月30日。
朝廷では、純友を五位へ昇叙することが協議された。
東国では将門への対応が続いていた。
朝廷は純友との関係を完全に断ち切るより、まず懐柔によって西国の情勢を落ち着かせようとした。
10.従五位下を与えられた純友
940年1月30日、純友を従五位下へ叙することが朝廷内で決まった。
2月3日には位記を持った使者・蜷渕有相が伊予へ派遣される。
3月2日、使者は京都へ戻り、純友が叙位を喜んだことを報告した。
前年12月に、純友と結んだ勢力による国司襲撃が起きた直後のことである。
朝廷は純友を従五位下という貴族の位階に取り込み、武力衝突の拡大を避けようとしていた。
この懐柔策には、東国で続く平将門との戦いを抱える中、東西両方面で同時に大規模戦争を行うことを避ける意図もあったと考えられている。
940年初頭の純友は、朝廷から完全な反乱者として切り離された存在ではなかった。
11.「純友が海上へ出た」
2月22日。
山陽道追捕使・小野好古から、純友が船に乗って海上へ出たとの報告が京都へ届いた。
翌23日、朝廷は山崎、摂津国川尻、備後などに警固使を置く。
25日には山崎へ兵を派遣した。
世界大百科事典では、この時の報告を純友が海路で上洛しているとの情報として整理している。
純友が本当に京都への進軍を計画していたのかは分からない。
誤報だったとする見方と、将門敗死など情勢の変化を受けて中止したとする見方がある。
このころ東国では大きな変化が起きていた。
2月、平将門が藤原秀郷・平貞盛らとの戦いで敗死する。
朝廷が東国と西国を同時に警戒する状況は、次第に変わっていった。
12.940年初夏――懐柔から追捕へ
将門の死後、朝廷は西国の海賊勢力への対応を強めていく。
6月18日。
山陽道追捕凶賊使に対し、純友の「暴悪な士卒」を追捕するよう命じる官符が出されることになったと記録されている。
ここでも対象は「純友本人をただちに討て」という単純な命令ではなく、まず純友と結びついた武装勢力の追捕だった。
しかし、このあと情勢はさらに悪化する。
8月には伊予・讃岐・阿波などで大規模な襲撃が始まり、朝廷との戦いは新たな段階へ入っていく。愛媛県史は、純友自身が国家に対して本格的な反乱へ踏み込む時期を、この940年8月以降とみる考えも示している。
936年。
純友は海賊追捕の宣旨を受けていた。
939年末には、純友と結ぶ勢力が国司を襲撃する。
940年初頭には朝廷から従五位下を与えられ、なお懐柔の対象だった。
その関係は、将門の死と西国で続く武力衝突によって崩れていく。
瀬戸内海を舞台に、藤原純友と朝廷が直接争う本格的な追討戦が始まる。
――藤原純友の乱・後編へ続く。
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平将門と藤原純友、東西で朝廷を揺るがした二つの乱を、政治・軍事の両面から読み解く一冊です。
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平将門と藤原純友 天慶の乱、草創期武士の悲痛な叫び (日本史リブレット人 17) [ 下向井 龍彦 ]
藤原純友が活動した伊予国は、現在の愛媛県。
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