【人物編Vol.30】藤原純友――「海賊を討て」と命じられた男が、海賊を率いて朝廷に反旗! 最後に待っていた悲惨な結末

人物

第60回



――藤原氏に生まれた男が、瀬戸内海を支配するまで

平安時代の日本で、朝廷を本気で震え上がらせた男がいる。

藤原純友。

藤原氏の一族に生まれた。朝廷の官人として伊予国へ赴任した。

やがて瀬戸内海の海上勢力と深く結びつき、朝廷から追捕の対象とされる存在になる。

そして天慶2年(939)、ついに朝廷と武力衝突。

【戦い・事件編】藤原純友の乱(前編)――なぜ藤原純友は朝廷に反乱したのか? 海賊追捕から939年の蜂起へ
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【戦い・事件編】藤原純友の乱(後編)――大宰府を襲った藤原純友はなぜ敗れたのか? 博多津の決戦と最期
天慶4年(941)5月。藤原純友の軍勢が、九州の政治・外交・防衛を担う大宰府へ攻め込んだ。政庁や周辺の役所は火災に見舞われ、財物が奪われる。現在の大宰府跡では、第Ⅱ期政庁を覆う火災の痕跡が確認されており、941年の藤原純友の乱による焼失と考…

翌年には讃岐・伊予・備前・備後・安芸・周防などへ攻撃を広げ、天慶4年(941)には大宰府まで攻め落とした。

最後は博多湾で朝廷軍に敗れ、伊予へ逃げ帰る。

そして同年6月、捕らえられて生涯を終えた。

純友が歴史の表舞台に登場してから最期を迎えるまで、わずか数年。

しかし、その間に純友は一介の地方官人から、西日本を揺るがす軍事勢力の指導者へと変わった。

その人生をたどると、10世紀の地方社会で何が起きていたのかが見えてくる。


1.藤原純友は、藤原氏の一族だった

純友の生年はわかっていない。生まれた場所も確定していない。

ただし、出自については重要な記録が残っている。

父は藤原良範。

大宰少弐を務めた人物で、筑前守にも任じられた。

純友は藤原冬嗣につながる藤原北家の一族だった。

つまり、純友は最初から海賊社会の中で育った人物ではない。

朝廷の官職に就くことのできる家柄に生まれた男だった。

一方で、純友は藤原北家の中心にいた人物ではない。

摂関家の嫡流からは離れた家系だった。

中央政界で大きな権力を握る立場ではない。

純友が選んだのは、都で出世競争を続ける道ではなく、地方官として西国へ赴く道だった。

この選択が、後の人生を大きく変える。


2.伊予国へ――純友の人生が動き始める

純友は伊予掾として伊予国へ赴任した。

「掾」は国司を構成する役職の一つ。

伊予国の行政を担当する地方官だった。

純友が伊予掾を務めた時期は正確にはわからない。

しかし、承平6年(936)3月の記録には、すでに「前掾」と記されている。

つまり、その時点で伊予掾の任期を終えていた。

ここから純友の人生で重要な動きが始まる。

任期を終えた純友は、都へ戻らなかった。

そのまま伊予に残り、南予地方を中心に勢力を持つようになったと考えられている。

官職を失えば、普通なら都へ戻る。

しかし純友は伊予に残った。

この土地に、人脈と経済基盤を築いていった。

純友にとって伊予は単なる赴任先ではなくなっていた。

自分の力を蓄える土地になっていた。


3.瀬戸内海という巨大な舞台

純友の人生を理解するには、伊予の地理が重要になる。

伊予は現在の愛媛県。

瀬戸内海の西端に位置し、さらに豊後水道を通じて九州ともつながっている。

目の前には海がある。

しかし、この海は単なる自然の境界ではない。

人と物が動く交通路だった。

米や財物を運ぶ船。各地へ向かう商船。朝廷や地方官衙が利用する輸送船。

瀬戸内海には、無数の船が行き交っていた。

そして海を知り尽くした人々がいた。

船を操り、潮流を読み、島と島の間を自由に移動する。

陸上の武士とは違う、海上の実力者たちである。

純友は伊予に根を張ることで、この世界に入り込んでいった。


4.日振島――純友の名が海と結びつく

純友の拠点として知られるのが、日振島である。

現在の愛媛県宇和島市の西方に浮かぶ島だ。

この島は、純友の勢力を語るうえで欠かせない。

承平6年(936)、日振島には海賊集団が集結していた。

記録によれば、2,500余人の海賊と、30余人の首領格がいた。

さらに別の記録には、海賊勢力が1,000余艘の船を持っていたとも記される。

もちろん、平安時代の記録に出てくる人数や船数を、現代の統計のようにそのまま受け取ることはできない。

それでも、純友が活動した海域に巨大な海上勢力が存在していたことは間違いない。

そして純友は、この勢力と深く関係することになる。


5.936年――純友は海賊を追う側だった

ここが藤原純友という人物の一番面白いところだ。

純友は、最初から朝廷の敵だったわけではない。

承平6年(936)朝廷は南海道の海賊問題に対応するため、伊予守の紀淑人を追捕南海道使として動かした。

純友にも海賊追捕の宣旨が出された。

つまり純友は、海賊を取り締まる側として朝廷から利用された。

そして同年6月、日振島に集まっていた海賊たちを帰順させる。

対象は、2,500余人。首領格は、30余人。

この規模の集団を武力で壊滅させるのではなく、朝廷側へ帰順させたことが重要だ。

純友は海賊たちと交渉できる立場にいた。

彼らを知っていた。彼らも純友を知っていた。ここに純友の特殊な立場がある。

朝廷の官人でありながら、現地の海上勢力ともつながっていた。

この人脈が、数年後には朝廷にとって最大の脅威になる。


6.純友は、この時すでに海賊の首領だったのか

ここは純友を語るうえで非常に重要な問題だ。

『日本紀略』の承平6年(936)6月の記事には、「南海賊従首藤原純友」と記されている。

この乱(藤原純友の乱)そのものの経過は、こちらの記事で詳しく解説しています。

文字通り読めば、純友は南海の海賊勢力を率いる人物だったことになる。

ところが同じ936年、純友は朝廷から海賊追捕の宣旨を受け、紀淑人とともに海賊の帰順に動いている。

つまり、朝廷側の海賊追捕者と海上勢力の指導者という二つの顔が、同じ時期の史料に現れる。

この点は現在の研究でも議論されている。

純友が936年の時点で完全な「海賊の親分」だった、と単純に描くことはできない。

一方で、海上勢力と強い関係を持っていたことは確かだ。

むしろ重要なのは、純友が朝廷と海上勢力の両方に顔が利く人物だったという点にある。

この立場こそ、後の純友の力の源になった。


7.なぜ純友は伊予に残ったのか

純友が伊予に残った理由は、史料にはっきり書かれていない。

しかし、純友の活動を追うと、その答えは見えてくる。

純友は地方官として伊予の行政を経験した。

その後も現地に残り、南予地方で勢力を持った。

つまり純友は、都の貴族社会から離れ、地方社会の中で自分の力を作った。

ここが、純友の人生を大きく変えた。


8.939年――純友、ついに朝廷と衝突する

転機は天慶2年(939)に訪れる。

この年、純友の勢力について朝廷へ報告しようとした人物がいた。

藤原子高。

備前介を務めていた人物だ。

純友は子高を襲撃した。

この事件によって、純友は明確に朝廷から追討される立場へ入る。

ここから純友は、単なる地方の海上勢力ではなくなる。

朝廷にとって、討伐すべき反乱勢力になった。

同じ頃、東国では平将門が朝廷との対立を深めていた。

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東では将門。西では純友。

10世紀の朝廷は、東西で大きな危機に直面することになる。


9.朝廷は純友を懐柔しようとした

朝廷は、いきなり大軍を送り込んだわけではない。

まず純友を取り込もうとした。

そのために、従五位下の位階を与えた。

これは重要な意味を持つ。

朝廷は純友を単純な賊として扱わず、官位を与えることで服属させようとした。

しかし純友は、この道を選ばなかった。

朝廷との関係は決定的に悪化する。

そして純友は瀬戸内海で軍事行動を開始する。


10.940年――瀬戸内海が戦場になる

天慶3年(940)。

純友の勢力は各地を攻撃する。

讃岐。伊予。備前。備後。安芸。周防。

さらに長門や土佐方面にも活動を広げた。

純友軍の強さは、移動速度にあった。

陸上の軍隊なら、山を越え、街道を進み、国府を目指す。

純友軍は違う。

船を使う。伊予から讃岐へ。讃岐から備前へ。さらに中国地方へ。

海を使えば、戦場そのものを移動できる。

純友は瀬戸内海を巨大な軍事道路として使った。

朝廷にとって、これほど厄介な相手はいなかった。


11.純友を追う男――小野好古

朝廷はついに本格的な追討軍を編成する。

中心となったのが、小野好古。

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そして副官として、源経基が加わった。

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源経基は平将門の乱にも登場する人物だ。

東国では将門と戦い、西国では純友の追討に関わった。

この二つの乱を追っていくと、後の武士社会を担う人物たちが同じ時代に集まっていることがわかる。

朝廷は純友を海上で追うため、船も準備した。

伝承・後世史料には、朝廷側が200余艘の船を用意したとする記録も残っている。

純友にとっても、瀬戸内海は絶対に負けられない戦場になった。


12.941年――純友の本拠地が崩れる

天慶4年(941)。

朝廷軍は純友の本拠地へ迫った。

ここで純友に大きな打撃を与えたのが、藤原恒利の離反だった。

純友側の有力人物だった恒利は朝廷側へ帰服した。

朝廷軍は恒利の情報を利用して、純友の本拠地を攻撃する。

純友軍は敗れた。

本拠地を失った純友は、九州へ逃れる。

そして向かった先が、大宰府。

ここから純友は最後の勝負に出る。


13.大宰府を攻め落とす

大宰府は西海道を統括する巨大な政治拠点だった。

九州の諸国を管轄し、外交や軍事でも重要な役割を担っていた。

純友がここを攻撃した意味は大きい。

単に地方の役所を襲ったのではない。

西日本の朝廷支配の中心を直接攻撃した。

天慶4年(941)、純友軍は大宰府を攻撃し、府内に入り、財物を奪い、政庁などを焼いた。

現在の大宰府政庁跡では、941年の純友の乱による焼失が確認されている。

ここまで来れば、純友は完全に「海賊」の範囲を超えている。

朝廷の西日本支配そのものを揺さぶる軍事指導者だった。


14.博多湾――純友の最後の戦い

しかし、大宰府を占領したことで純友が勝ったわけではない。

朝廷軍が九州へ到着した。

追討使の長官は、小野好古。

海上から純友を攻撃したのが、大蔵春実らの軍だった。

陸と海。

両方向から純友軍へ攻撃が加えられた。

最後の決戦の舞台となったのが、博多湾。

純友軍にとって、もっとも得意なはずの海が最後の戦場になった。

激戦の末、純友軍は大敗した。

船を大量に失った。

記録には800余艘の船を官軍が奪ったとするものもある。

かつて巨大な船団を動かしていた純友は、最後には小舟で逃げることになる。


15.伊予へ――最後に戻った土地

純友が向かったのは、再び伊予だった。

かつて官人として赴任した土地。長年、自分の勢力を築いた土地。

そして最後に逃げ帰った土地でもある。

純友は伊予に潜伏した。

しかし、追手は迫っていた。

警固使・橘遠保。

遠保によって純友は捕らえられる。

時は天慶4年(941)6月。

純友の反乱が始まってから、わずか数年だった。

そして純友は伊予で死ぬ。

死の詳細については史料に違いがある。

『日本紀略』では橘遠保によって殺害されたとする記録があり、後世の史料には捕らえられた後、獄中で死んだとする記述もある。

国立公文書館が公開する史料にも、941年6月に橘遠保が純友と子の重太丸を討ち、その首を都へ送ったとする記述が確認できる。

純友は、941年に死んだ。


16.純友の死後も、海賊は消えなかった

純友が死んだからといって、瀬戸内海から海上勢力が消滅したわけではない。

純友の乱に参加した人々の背景には、瀬戸内海沿岸の地域社会があった。

海を生活の場とする人々。船を操る人々。沿岸の有力者。海上交通に関わる人々。

彼らは純友個人の所有物ではない。

純友が死んでも、海を舞台にした地域社会は残った。

だからこそ、瀬戸内海ではその後も海上勢力が活動し続ける。

純友の乱は、海賊を一掃した事件ではない。

瀬戸内海という巨大な海上社会が、朝廷の支配と衝突した事件だった。


17.純友が残した最大の謎

藤原純友には、本人が書き残した記録がほとんどない。

そのため、「なぜ反乱を起こしたのか」という最大の謎が残っている。

朝廷への不満だったのか。

地方社会で積み上げた勢力を守ろうとしたのか。

海上勢力の利益を守ろうとしたのか。

平将門の乱を好機と見たのか。

純友自身が何を考えていたのかを直接知ることはできない。

後世の『純友追討記』には、将門の乱を知った純友が反乱を決意したという筋書きがある。

しかし、将門と純友が最初から綿密に連携していたという確実な証拠はない。

だからこそ、純友を「将門と共謀した西国の反乱者」とだけ描くと、人物像を狭くしてしまう。

純友には、936年から941年までの間に積み重なった地方社会との関係がある。


18.「海賊を追う男」が「海賊を率いる男」になった

藤原純友の人生で最も印象的なのは、この変化だ。

936年。

朝廷から海賊追捕の宣旨を受ける。

日振島に集まる海賊たちを帰順させる。

この時の純友は、朝廷から見れば利用価値のある地方官だった。

ところが数年後、朝廷は純友を追討するために軍を動かす。

純友は瀬戸内海を駆け回り、国府を襲い、船を集め、大宰府まで攻撃した。

そして941年。

博多湾で敗れ、伊予へ逃げ帰り、そこで死ぬ。

この変化は劇的だ。

朝廷の命令を受けて海賊を追っていた男が、最後には朝廷軍から追われる側になった。

その間に何があったのか。純友本人は何も語っていない。

だからこそ、藤原純友という人物は面白い。


19.純友の人生を追うと、平安時代の「地方」が見えてくる

藤原純友は、京都から見れば地方官だった。

しかし伊予へ行けば、話は変わる。

そこには京都とは違う人間関係があった。

土地を持つ者。船を持つ者。海を知る者。地域社会をまとめる者。

純友はそこへ入り込み、勢力を築いた。

そして、その力が大きくなった時、朝廷の命令だけでは動かせない存在になった。

これが10世紀の地方社会の怖さだった。

朝廷には官職がある。

しかし地方には地方の力がある。

その二つが一致している間は、純友は朝廷の役人だった。

衝突した瞬間、純友は反乱者になった。


20.藤原純友――わずか数年で歴史に名を残した男

生年はわからない。若い頃の姿もわからない。

家族についても詳しいことは残っていない。

それでも、純友が生きた数年間は記録に残った。

伊予掾として地方へ赴任した。

伊予に残った。

日振島を中心とする海上勢力と関係を築いた。

936年には海賊追捕に関わった。

939年、朝廷との対立が決定的になる。

940年、瀬戸内海各地へ攻撃を広げる。

941年、大宰府を攻撃する。

博多湾で敗れる。伊予へ逃げる。そして死ぬ。

藤原純友の人生は、わずかな史料の中に激しく刻まれている。

藤原氏に生まれた官人。伊予に根を張った地方勢力者。

海上勢力を動かした男。朝廷に反旗を翻した反乱者。

この四つの顔を持つ男だった。

そして純友が死んだあとも、瀬戸内海から海上勢力が消えることはなかった。

純友という一人の男が歴史から消えても、純友を生み出した海と社会は残った。

だから藤原純友の人生を見るとき、最後に残るのは「海賊」という一つの言葉ではない。

京都から遠く離れた西国で、ひとりの地方官人が巨大な人脈と海上勢力を手にし、ついには朝廷そのものと戦うまでになった。

それが藤原純友という男の生涯だった。

藤原純友をもっと深く知りたい人へ。

「海賊を追う側だった男」が、なぜ朝廷に反旗を翻したのか。

純友の生い立ちから、伊予での活動、海賊との関係、そして最期まで。

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藤原純友 南海賊徒の首、伊予国日振島に屯聚す (ミネルヴァ日本評伝選) [ 寺内 浩 ]

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