【戦い・事件編】後三年合戦――前九年の役の勝者・清原氏は、なぜ内側から滅びたのか

戦い・事件

第82回



1087年11月14日――金沢柵、陥落

寛治元年(1087)11月14日。

出羽国の金沢柵が落ちた。現在の秋田県横手市金沢周辺である。

長い包囲によって柵内の食料は尽き、兵だけでなく、女や子どもまで飢えていた。外へ逃げようとする者も現れたが、源義家の軍勢は門から出てくる者を討った。人数が減れば、そのぶん籠城側は残った食料で長く耐えられる。だから逃がさない。飢えそのものを武器にした、冷酷な兵糧攻めである。

『奥州後三年記』や後世の『後三年合戦絵詞』には、逃げ出した女性や子どもまで殺され、恐れた人々が再び柵内へ戻っていく凄惨な場面が描かれている。

最後には清原武衡が捕らえられて斬首され、家衡も逃亡の末に討たれた。

前九年合戦で安倍氏を滅ぼし、奥羽最大級の勢力へ成長した清原氏。その一族が、およそ20年後には同族同士で殺し合い、ついに支配者の座から消えたのである。

そして焼け跡の向こうに、一人の男が残った。

藤原清衡。

前九年合戦で父を殺された少年が、後三年合戦では最後の勝者になる。

話は4年前、永保3年(1083)へ戻る。

「後三年」なのに5年間――そもそも何の戦争だったのか

後三年合戦は、永保3年(1083)から寛治元年(1087)まで続いた。実際には5年間である。

しかも始まりは、朝廷と反乱軍の戦争ではない。

清原氏の内紛である。

後世「後三年合戦」と呼ばれるようになった名称は、戦争当時から使われていたものではない。戦後には「義家の戦い」「永保の戦い」などとも呼ばれ、前九年・後三年という呼称が史料上はっきり確認できるのは、さらに後の時代である。

そのため現在は「後三年の役」より、後三年合戦と呼ぶ方が実態に近い。

朝廷が清原氏討伐を命じ、義家が国家の軍を率いて反乱を鎮圧した戦争ではなかったからである。

前九年合戦の勝者――清原氏が奥羽最大級の勢力になる

康平5年(1062)、前九年合戦が終わった。

安倍貞任は厨川柵で死に、藤原経清も源頼義によって処刑された。この勝利を決定づけたのが、出羽山北から1万余人を率いて参戦した清原武則である。

翌1063年、武則は従五位下・鎮守府将軍となった。清原氏はもともとの地盤だった出羽山北に加え、安倍氏が支配していた奥六郡へ勢力を広げる。

陸奥と出羽にまたがる巨大勢力の誕生である。

しかし、その家の中には前九年合戦が残した複雑な血縁が入り込んでいた。

武則の子が清原武貞。

武貞の子が真衡。

一方、厨川柵で処刑された藤原経清の妻――安倍頼時の娘は、幼い清衡を連れて武貞と再婚した。そして武貞との間に家衡を産む。

したがって、真衡と家衡は異母兄弟。清衡と家衡は異父兄弟である。清衡と真衡に血のつながりはないが、清原武貞の家の中では同じ一族として育った。

安倍氏、藤原氏、清原氏。

前九年合戦で敵味方に分かれた血筋が、一つの家の中に集まっていた。

清原真衡――一族をまとめようとした惣領

武貞の後、清原氏の中心に立ったのが清原真衡である。

真衡は鎮守府将軍となり、奥六郡と出羽山北にまたがる一族を率いた。

ところが真衡には後継となる男子がいなかった。そこで海道平氏の出身と伝わる海道小太郎成衡を養子に迎える。

さらに成衡の妻には、源頼義の娘を迎えたと『奥州後三年記』は伝える。

これは単なる養子縁組ではない。清原氏の後継者を一族の外から迎え、しかも河内源氏との婚姻まで結ぶ。真衡は血縁で緩やかにつながっていた清原一族を、自分を頂点とする強い惣領体制へ作り替えようとしていた。

そこで反発したのが、一族の古参だった。

砂金を庭へ投げ捨てた吉彦秀武

吉彦秀武は、前九年合戦で清原武則とともに戦った古参の武将である。武則の縁者で、1062年には七陣の第三陣を率いた。

成衡の婚礼の日、秀武は祝いの砂金を持って真衡の館を訪れた。

ところが真衡は囲碁を打ち続け、長老格の秀武を待たせた。

秀武は怒った。

持参した砂金を庭へ投げ捨て、そのまま出羽へ帰ったと『奥州後三年記』は描く。

囲碁を無視された腹いせだけで、大戦争が始まったわけではない。

古くから清原氏を支えてきた有力者と、一族を自分の下へ集権化しようとする真衡。その対立が、婚礼の席で一気に表面へ出たのである。

秀武は出羽へ戻ると、真衡に反旗を翻した。

そして清衡と家衡を味方へ誘う。

こうして後三年合戦が始まった。

1083年――源義家、26年ぶりに奥州へ

同じ永保3年(1083)、一人の武将が陸奥守として奥州へ入った。

源義家。

前九年合戦で父・頼義とともに戦った「八幡太郎」である。

1057年の黄海では数え19歳。安倍貞任の軍に追い詰められ、父・頼義の周囲がわずか7騎になる惨敗を経験した。

それから26年。義家は今度は陸奥守として戻ってきた。

最初に義家と結んだのは真衡である。

真衡が秀武を討つため出羽へ向かうと、その留守を清衡・家衡が襲った。ところが真衡の館には義家側の軍勢がいたため、二人は撃退される。

この時点の構図は、

真衡・義家 対 秀武・清衡・家衡。

ところが戦争の途中、清原氏の頂点にいた男が突然消える。

1083年秋――真衡、急死

秀武討伐のため出羽へ向かっていた真衡が急死した。

永保3年(1083)秋である。

『奥州後三年記』は病による急死として描く。真衡に実子はいない。清原氏の惣領が突然消えたことで、戦争はいったん区切りを迎えた。

清衡と家衡は義家へ降伏する。

そして義家は、安倍氏以来の奥六郡を二人に分けた。後世の記録では、清衡と家衡に3郡ずつ与えたと伝わる。

これで収まるはずだった。

しかし、真衡という共通の敵が消えると、今度は清衡と家衡が争い始める。

1086年――家衡、兄・清衡を焼き討ちにする

応徳3年(1086)。

家衡は清衡を襲った。

『康富記』が伝えるところでは、清衡は事前に危険を察知し、草むらへ身を隠して生き延びた。しかし家衡は清衡の宿所へ火を放ち、妻子や眷属を殺害した。

清衡は7歳のころ、前九年合戦で父・藤原経清を失っている。

今度は30歳前後で、妻子を失った。

清衡は陸奥守・義家のもとへ駆け込み、家衡討伐を訴えた。

ここで義家は清衡側へ立つ。

1083年には真衡と組んで清衡・家衡を退けた義家が、3年後には清衡と組んで家衡を攻める。後三年合戦の敵味方が分かりにくい理由はここにある。

これは最初から「源氏対清原氏」の戦争ではない。

清原氏の内紛へ義家が段階的に介入した戦争なのである。

沼柵の戦い――義家、冬の出羽で惨敗

家衡が籠もったのが沼柵である。現在の秋田県横手市雄物川町沼館周辺が有力な推定地となっている。

1086年冬、義家は数千騎を率いて沼柵へ向かった。

家衡は外へ出ず、堅く守る。

義家軍は包囲を続けた。

ところが、敵より先に奥羽の冬が義家軍を襲った。

大雪。寒さ。兵糧不足。

『康富記』は、兵が寒さと飢えで次々に死に、食料を失った者が自分たちの馬を切って肉を食べたと記している。さらに義家自身が凍えた兵を抱いて温め、蘇生させたという話まで残る。

約30年前の黄海でも、父・頼義は11月の奥州へ進み、雪と兵糧不足の中で安倍貞任に大敗した。

今度は息子の義家が、同じ失敗を繰り返した。

沼柵は落ちない。

義家は撤退した。

家衡の勝利である。

清原武衡が加勢――「金沢柵へ移れ」

義家を退けた家衡のもとへ、翌寛治元年(1087)、叔父の清原武衡が加勢した。

武衡は前九年合戦の英雄・清原武則の子である。

『奥州後三年記』では、武衡は家衡が名将・義家を退けたことを称えたうえで、沼柵よりさらに堅い要害へ移るよう勧める。

その場所が金沢柵だった。

現在の秋田県横手市金沢地区である。

金沢柵の正確な位置は今も確定していない。金沢城跡などが候補として調査されているが、後三年合戦当時の柵そのものを決定できる遺構は確認されていない。

沼柵で一度負けた義家は、今度こそ家衡・武衡を倒すため軍を立て直した。

弟・源義光まで都から駆けつける

1087年8月、義家の弟源義光が奥州へやって来た。

新羅三郎義光である。

兄の苦戦を聞き、都での官職を投げ打つようにして参戦したと伝わる。義家は弟を副将格として迎え、清衡、吉彦秀武、東国武士らとともに金沢柵を攻める態勢を整えた。

ここから後三年合戦は最終局面へ入る。

雁の列が乱れた――義家が伏兵を見破る

金沢方面へ進軍する途中、後三年合戦を代表する逸話が生まれる。

空を飛んでいた雁の列が、突然乱れた。

義家はそれを見て、草むらに人が潜んでいると判断した。

調べると、武衡が置いた伏兵がいたという。

いわゆる「雁行の乱れ」である。

後世の物語では、義家が大江匡房から兵法を学び、「鳥が乱れる場所には伏兵がいる」という教えを思い出したことになっている。

実際の戦場でどこまでこの通りの出来事があったのかは史料の性格を踏まえる必要がある。それでも、義家が後世「武勇だけではなく兵法にも通じた名将」として語られていくうえで、最も有名な逸話の一つになった。

数え16歳――鎌倉景正、右目を射抜かれる

後三年合戦には、東国武士の武勇を象徴する強烈な話も残る。

鎌倉権五郎景正。後に景政とも表記される武将である。

『奥州後三年記』では、このとき数え16歳。

戦場で征矢が右目に突き刺さり、矢は顔を貫いて兜の鉢付にまで達した。

それでも景正は倒れない。刺さった矢を折り、さらに敵へ矢を放って相手を討ち取ってから自陣へ戻ったという。

味方の三浦為次が矢を抜こうとしたが抜けない。そこで景正の顔へ足を掛けて引こうとすると、景正は激怒した。

敵の矢で死ぬことは武士の本望。しかし、生きたまま顔を足で踏まれるのは恥である――そう言って刀を抜こうとしたと伝わる。

16歳の少年武者が、目に矢を受けたまま戦う。

後三年合戦が、源義家だけの戦争ではなく、後に東国武士団の中核となる者たちが武名を上げた戦場でもあったことがよく分かる逸話である。

金沢柵――正面攻撃では落ちない

義家軍は金沢柵を包囲した。

しかし家衡・武衡は沼柵で義家を退けた経験を持つ。金沢柵でも防御を固め、戦いは長期化した。

ここで義家側に兵糧攻めを進言したのが、古参の吉彦秀武だったと『奥州後三年記』は伝える。

力攻めを続ければ、攻める側にも死者が増える。

ならば柵を閉じ込め、食料が尽きるまで待つ。

義家はこの策を採った。

秋が深まるにつれ、柵内から食料が消えていった。

女や子どもまで殺す――兵糧攻めの凄惨さ

飢えに耐えられず、金沢柵から人々が外へ出始めた。

ここで義家側は、出てきた者を逃がさなかった。

『奥州後三年記』では、女や子どもまで討たれたと描かれる。

理由は明確だった。

柵から人が減れば、その分だけ残った兵糧が長持ちする。だから逃げる者を討ち、柵内の人数を減らさない。食料の消費を早め、内側から崩壊させるのである。

華々しい一騎打ちとは正反対の戦い方だった。

金沢柵の最終局面で義家が使った最大の武器は、弓でも太刀でもない。

飢えだった。

1087年11月14日――金沢柵、炎上

寛治元年(1087)11月14日。

金沢柵はついに陥落した。

籠城側は自ら柵へ火を放ったと『奥州後三年記』は伝える。

炎と煙の中で兵は崩れ、逃げる者が次々に討たれた。後世の『後三年合戦絵詞』には、首を失った死体や腕を斬られた者が折り重なる、生々しい落城の光景が描かれている。

武衡は沼地へ隠れたが発見され、義家の前へ引き出された。

武衡は命乞いをした。それでも義家は許さず、斬首した。

家衡も変装して逃れようとしたが、追手に討たれた。

さらに武衡・家衡側の主要な郎党48人の首が、義家の前へ並べられたと『奥州後三年記』は記している。

前九年合戦の勝者だった清原氏の支配は、ここで崩壊した。

清衡――父を殺した源氏と組み、最後に残る

戦争が終わったとき、真衡はすでに死に、家衡も武衡も消えていた。

残ったのが清衡である。

清衡の父は藤原経清。母は安倍頼時の娘。

1062年、清衡が7歳ほどのとき、父は厨川柵で源頼義に処刑された。

その清衡が25年後、頼義の息子・義家と組んで勝者になった。

家柄の恨みだけで動けば、決して選べない相手である。

清衡は生き残るため、そして家衡に奪われたものを取り戻すため、父を殺した源氏の力さえ使った。

後三年合戦後、清衡は実父の姓である藤原を名乗り、清原氏が築いてきた奥六郡を中心とする勢力を継承する。出羽方面への影響力も広げ、やがて奥州最大の実力者へ成長していく。

勝った義家に、朝廷は恩賞を出さなかった

一方、源義家の立場は複雑だった。

戦場では勝った。

しかし朝廷は、家衡・武衡追討を国家の正式な戦争として認めなかった。

もともとは清原氏の内紛である。義家は追討の官符を求めたが、朝廷はこれを認めず、戦後も功績に対する公的な恩賞を出さなかった。

翌寛治2年(1088)、義家は陸奥守を離れる。

前九年合戦では父・頼義が戦功によって伊予守となった。それに対し、義家は金沢柵まで落としながら、同じ形の恩賞を得られなかったのである。

朝廷が出さないなら、義家が出す

それでも義家には、命を懸けて従った武士たちがいた。

『奥州後三年記』は、朝廷から恩賞が出なかったため、義家が自分の財産を使って将兵の功に報いたと伝える。

これは大きかった。

武士たちにとって、自分たちへ報いてくれたのは遠い京都の朝廷ではない。

源義家その人である。

義家は奥州を自分の支配下へ置くことには成功しなかった。しかし、東国武士の間で「八幡太郎義家に従う」という個人的な結びつきは、以前より強くなった。

戦争の勝者が、必ずしも土地を手にするとは限らない。

義家が得たのは奥州ではなく、武士たちの信望だった。

そして清衡は平泉へ

後三年合戦が終わった1087年、清衡は30代前半だった。

7歳で父・経清を失う。

清原家で育つ。真衡と争う。家衡に妻子を殺される。

源義家と組み、家衡・武衡を倒す。

二つの大戦争を生き抜いた末、最後に残った。

その後、清衡は江刺方面から平泉へ拠点を移し、長治2年(1105)には中尊寺の造営に着手する。

前九年合戦で安倍氏が消え、その勝者となった清原氏も後三年合戦で崩れた。

最後に奥州を受け継いだのは、安倍頼時の孫であり、藤原経清の息子だった清衡である。

安倍氏から清原氏へ。清原氏から奥州藤原氏へ。

金沢柵の炎が消えたあと、奥州では新しい時代が始まった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました