【戦い・事件編】火打城の戦い――内通で崩れた、木曾義仲の北陸防衛線

戦い・事件

第116回

寿永2年(1183年)4月、平氏は北陸道へ追討軍を送った。

前年まで飢饉の影響もあり、大規模な軍事行動は思うように進んでいなかった。

北陸では平氏に従わない勢力が増え、信濃を拠点とする木曾義仲の勢力も越前・加賀・越中へ伸びている。

平氏にとって北陸をそのままにしておくことはできなかった。

4月9日、北陸征討のため伊勢大神宮以下16社で祈祷が行われる。

『平家物語』では17日、平維盛、平通盛、平知度、平経正、平清房、平行盛らが京都を発ったとする。

軍記物語が記す兵力は10万騎。

もちろん、10万人の騎兵が実際に京都から出陣したと確認できる数字ではない。

『玉葉』にも北陸追討の動きは記録されており、平氏が一門の武将をまとめて送り出すほどの大規模な軍事行動に踏み切ったことは確かである。

4月26日、平氏軍が越前へ攻め入ったとの情報が京都へ届いた。

その翌日。

越前南部に築かれていた燧城――火打城が落ちる。

城を破ったのは、攻め寄せた平氏軍の力だけではなかった。

守備側の中心人物の一人が、城内から平氏へ通じたのである。

その人物は、平泉寺長吏・斎明だった。

1181年、越前で平氏を破った斎明

斎明は、1183年になって突然歴史に現れる人物ではない。

二年前の養和元年(1181年)9月にも、越前で起きた戦いに姿を見せている。

このころ平氏は、北陸で広がっていた反平氏勢力を押さえるため、平通盛を越前へ送っていた。

9月2日、『玉葉』には北陸道の反乱勢力が盛んで、通盛が加賀以北を平定できず、越前にも命令に従わない者がいるとの風聞が記録されている。

4日には義仲方の先陣とされる根井太郎が水津付近で通盛軍と戦ったと『吾妻鏡』は伝える。

6日、戦況が大きく動いた。

越前の稲津実澄と平泉寺長吏斎明らが平氏側から離れたのである。

『百錬抄』『吉記』によれば、この離反によって通盛軍は敗れた。

通盛は敦賀まで退き、援軍を求めることになった。

斎明はもともと平氏側に属していた。

そこから反平氏側へ移り、二年後の火打城では再び平氏へ戻る。

その動きには、平泉寺という寺院そのものの立場も関わっていた。

白山信仰の拠点・平泉寺

平泉寺は越前国大野郡、現在の福井県勝山市にあった。

白山へ向かう越前側の登拝拠点として発展し、10世紀以降は大きな寺院勢力へ成長していた。

平安時代末期になると武士との結びつきも深まり、寺院内部に軍事力を抱えるようになる。

『福井県史』によると、斎明は越前に勢力を持った河合系斎藤氏の出身だった。

平泉寺ではこのころ斎藤氏一族が長吏を出しており、寺院と在地武士の勢力が重なっていた。

1181年に斎明が平氏を離れたときも、1183年に再び平氏へ移ったときも、一人の僧が気まぐれに旗色を変えたというだけでは収まりにくい。

内乱が続く越前で、武士や寺院勢力は自らの基盤を守りながら、平氏と義仲側の間で進む方向を選んでいた。

その斎明が、1183年4月には火打城へ入っていた。

火打城――越前から加賀へ向かう道

火打城跡は現在の福井県南越前町今庄にある。

藤倉山から東へ延びる尾根の先端に位置し、山頂は標高約268メートル。

今庄の集落からの比高は約140メートルになる。

山の下には日野川流域が広がる。

南から越前へ入った軍勢が北へ進むとき、この一帯は重要な通路となった。

今庄は後世にも北国街道の宿場として栄えた土地である。

『平家物語』は、木曾義仲自身は信濃にいながら越前に火打城を構えた、と記している。

城には平泉寺長吏斎明、稲津新介実澄、斎藤太、林六郎光明、富樫入道仏誓、土田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美らが籠もった。

越前だけでなく、加賀、越中、能登の武士の名も並ぶ。

覚一本『平家物語』では、その兵力を6000余騎としている。

別系統の『延慶本平家物語』では5000余騎とされ、伝本によって数字にも違いがある。

実数は分からない。

それでも、火打城が越前一国の小さな籠城戦として語られていないことは分かる。

軍記では、北陸各地の反平氏勢力が集まった城として描かれている。

城の前に水をためる

火打城の戦いでよく知られているのが、水を利用した防御である。

『平家物語』によると、城の前には能美川と新道川という二本の川が流れていた。

守備側は二つの川が合流する場所に大石を積み、大木を切って逆茂木を組み、柵を築いた。

川の流れがせき止められる。

水は山裾まで広がり、城の前が湖のようになったという。

平氏軍は容易に渡れず、向かいの山に陣を置いたまま日を送った。

『平家物語』の文章は、水面に山影が映る様子まで美しく描写している。

これは同時代の軍事報告ではなく、後世に成立した軍記物語の場面である。

現在の地形だけから、1183年4月にどの範囲まで水がたまり、どれほどの水深になったのかを復元することはできない。

城前の河川をせき止めて進路を遮ったという伝承は、『平家物語』『源平盛衰記』を中心に伝わった火打合戦の重要な場面として残っている。

福井県史でも、この水を利用した防御が紹介されている。

平氏軍はその前で足を止めた。

そこで斎明が動く。

城内から飛んだ一通の文

『平家物語』では、斎明は平氏と以前から親しい関係にあった人物として描かれる。

斎明は城内の様子と、水をせき止めた仕組みを書いた文を蟇目矢に入れ、平氏の陣へ射込んだ。

文には、城前の水はもともとあった湖ではなく、川を一時的にせき止めたものだと記されていた。

夜になって柵を切れば水は引く。

そうなれば渡ることができ、自分も城内から力を貸す。

『平家物語』が伝える内容は、おおよそそのようなものだった。

平氏軍は夜を待って人を出し、堰を壊した。

水が落ちていく。

翌朝には馬でも渡れるほどになり、平氏軍が火打城へ攻め込んだと物語は続く。

斎明が矢に密書を入れたこと、堰を切る方法まで詳しく知らせたことは、軍記物語が残した具体的な描写である。

一方、火打城が斎明の内応によって落ちたという骨格は、より簡潔な記録にも残っている。

『福井県史』年表では『百錬抄』などをもとに、寿永2年4月27日、平氏軍が平泉寺長吏斎明の内応によって燧城と河上城を落としたとしている。

戦闘の細部を『平家物語』、日付と陥落の骨格を別史料から確認すると、火打城で起きたことの輪郭が見えてくる。

4月27日、火打城は陥落した。

城を失った北陸勢

火打城を守っていた軍勢は城を離れた。

『平家物語』では、生き残った兵は加賀まで退き、白山河内へ入ったとされる。

平氏軍は同日に河上城も落とした。

越前南部の防衛線が崩れる。

平氏は北へ進んだ。

5月2日には、斎明を先頭に長畝城を出発して加賀へ攻め入ったと『源平盛衰記』は伝えている。

1181年に平通盛が越前で敗れてから、およそ一年半。

平氏は再び越前を通過し、加賀へ軍を進めるところまで戻していた。

火打城での勝利の直後だけを見れば、北陸道追討軍は順調に前進していた。

木曾義仲はまだ平氏本隊との決戦に姿を現していない。

義仲は信濃にいた

『平家物語』は火打城の段階で、義仲本人が信濃にいたと記している。

火打城に籠もっていたのは、越前、加賀、越中、能登など北陸各地の勢力だった。

横田河原の戦い以後、信濃から越後、さらに北陸へ続く地域では、平氏に反発する在地武士や寺院勢力がそれぞれ動いていた。

義仲はそうした勢力と結びつきながら北陸で軍事力を広げていった。

火打城に名が残る富樫、石黒、宮崎、入善らも、それぞれ北陸各地を基盤とした武士である。

平氏軍が火打城を落として加賀へ進んだことで、その北陸勢と平氏軍が本格的にぶつかる時期が近づいた。

加賀へ入った平氏軍

平氏軍は越前を抜けた後も北上した。

『福井県史』によれば、斎明の案内を受けた平氏軍は越前を進み、加賀と能登南部へ勢力を広げ、義仲方の前進部隊を破りながら加賀・越中国境へ迫った。

『平家物語』では5月8日、加賀の篠原付近に集まった軍勢を二つに分けたとする。

一軍は砺波山方面へ。

もう一軍は能登と越中の境へ向かった。

ここでも「7万騎」「3万騎」といった大きな数字が現れるが、軍記が示す兵数として読む必要がある。

平氏軍の進路そのものは明確だった。

越前から加賀へ入り、その先の越中を目指している。

義仲も動き始めた。

火打城から倶利伽羅へ

4月27日に火打城を落とした平氏軍は、半月ほどの間に加賀を抜け、越中との国境まで進んだ。

火打城では、守備側の斎明が内応したことで平氏が道を開いた。

平氏はその勢いのまま北へ進む。

5月11日。

加賀と越中を結ぶ砺波山の山中で、平氏軍と木曾義仲の軍が激突する。

倶利伽羅峠の戦いである。

火打城を失った義仲側が、そのまま崩れて北陸から消えたわけではなかった。

越前を突破した平氏軍は、敵を追ってさらに深く北陸へ入った。

その先で待っていた義仲軍との戦いによって、わずか二週間前まで平氏側に傾いていた北陸の戦況は大きく変わることになる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました