第140回
寿永2年(1183年)7月、平家一門は京都を離れ、西国へ向かっていた。
木曾義仲の軍勢が迫り、都を守り続けることが難しくなった平家は、安徳天皇と三種の神器を伴って落ち延びることになった。
その途中、一人の武将が仁和寺へ向かったという。
平経正。
平清盛の弟・経盛の長男で、琵琶と和歌に優れた平家の公達である。
『平家物語』によれば、経正は幼いころ仁和寺の御室に仕え、そこで宮廷音楽に親しんでいた。
都落ちの日、経正が持参したのは、仁和寺から預けられていた琵琶の名器「青山」だった。
赤い錦の袋に収められた琵琶を御室の前へ置き、経正は別れを告げたという。
これほどの名器を西国の戦乱に持ち込み、失ってしまうのは惜しい。
もし運よく都へ戻ることができたなら、そのときは再び預かりたい。
御室は琵琶を受け取り、一首の和歌を贈った。
「あかずして別るる君が名残をば後の形見につつみてぞおく」
経正も硯を借り、返歌を書いたと伝わる。
「呉竹の筧の水はかはれどもなほすみあかぬ宮の中かな」
仁和寺の筧を流れる水は、絶えず入れ替わっていく。
しかし、この宮で過ごした日々への思いは尽きない。
経正はそのような歌を残し、再び平家一門の後を追ったという。
それから半年余り。
寿永3年(1184年)2月7日、経正は摂津国の一ノ谷で源氏軍と戦い、命を落とした。
同じ戦場では弟の経俊と敦盛も討死している。
経正は、仁和寺で琵琶を学んだ人物として知られる一方、朝廷の官職を歴任し、父の経盛とともに歌壇でも活動していた。
さらに源平の戦乱が始まると、北陸へ派遣され、木曾義仲方の勢力との戦いに関わっている。
琵琶の名器「青山」を仁和寺へ返したという逸話の前には、宮廷での長い活動と、北陸の戦場を経験した経歴があった。
平経盛の長男として生まれる
平経正は、平経盛の長男として生まれた。
父の経盛は、伊勢平氏を率いた平忠盛の子である。
平清盛の異母弟にあたり、朝廷で官職を歴任した人物だった。
経正にとって清盛は伯父、忠盛は祖父となる。
経正の正確な生年は明らかになっていない。
久安年間(1145~1151年)ごろの生まれと推定されることもあるが、それを確定できる記録は残されていない。
母についても、詳しいことはわかっていない。
父の経盛には複数の子がいた。
経正の弟として知られるのが、平経俊と平敦盛である。
経俊は若狭守を務め、源平の戦乱では平家軍に加わった。
敦盛は「無官大夫」と呼ばれ、『平家物語』では笛を携えた若武者として描かれている。
このほか経兼、経光、親盛らの名も系図に残る。
ただし、各人の生年や母の出自、幼少期の詳しい生活については不明な点が多い。
経正が成長したのは、平家が朝廷での地位を高めていた時代だった。
祖父の忠盛は鳥羽上皇の信任を得て勢力を伸ばし、清盛はその後継者として活動している。
一方、経正の父・経盛は、官人としての活動に加えて和歌にも熱心だった。
経正は、宮廷文化との結びつきが深い家で育つことになった。
歌合を催した父・経盛
父の経盛は、清盛の弟として朝廷に仕えていた。
若狭守や内蔵頭などを歴任し、後には参議に昇進する。
正三位に叙された有力な官人でもあった。
その一方、経盛は和歌を熱心に学び、宮廷の歌人たちと交流していた。
平家一門では、祖父の忠盛も和歌に親しんでいる。
忠盛は崇徳天皇の時代に歌会へ参加し、作品を残した人物だった。
経盛もこのような活動を受け継ぎ、仁安年間から承安年間にかけて歌合を催した。
歌合は、参加者が左右に分かれて歌を出し、判者がその優劣を決める催しである。
春の花や秋の月、恋など、定められた題に沿って歌を詠む。
経盛の歌合には、宮廷で活躍する歌人たちが集まった。
藤原清輔や俊恵らとの交流も知られている。
清輔は六条藤家の歌人で、歌学の研究や歌論書の執筆でも重要な足跡を残した。
俊恵は源俊頼の子で、僧侶となった後も和歌の世界で活動した人物である。
また、経盛は二条天皇の后だった藤原多子の宮職にも長く関わっていた。
宮廷の官職と歌壇での活動は、経盛の生活の中で深く結びついていた。
その長男である経正も、父が催した歌合に出詠し、後には自ら歌合を開くようになる。
しかし、経正が幼いころに深い関わりを持った場所は、父の屋敷だけではなかった。
京都の仁和寺である。
幼いころを過ごした仁和寺
仁和寺は、京都の御室にある真言宗の寺院である。
光孝天皇の発願によって造営が始まり、仁和4年(888年)、宇多天皇の時代に完成した。
宇多天皇は退位後に出家し、仁和寺に住んだ。
その後、仁和寺は皇族出身の僧が門跡を務める寺院として、朝廷と深い関係を持つようになる。
『平家物語』巻第七「経正都落」によれば、経正は数え8歳のころ仁和寺の御室へ入り、13歳で元服するまで仕えていたという。
当時の経正は童形の姿で、御室の身近に仕えていたと伝わる。
病気のとき以外はほとんどそばを離れることもなかったという。
平安時代には、貴族や有力武士の子どもが皇族や寺院に仕えることがあった。
その生活の中で礼儀や学問、和歌、音楽などを学ぶ場合もある。
経正も仁和寺で琵琶に親しみ、演奏の才能を認められたと伝えられている。
ただし、8歳から13歳まで仕えたという具体的な年齢は『平家物語』によるものだ。
経正の生年がわからないため、仁和寺へ入った正確な年は確定できない。
一方、仁和寺の法親王たちと経正の関係は、後年の和歌資料などからもうかがえる。
経正が成長して平家の武将となった後も、仁和寺との交流は続いていた。
覚性法親王と守覚法親王
経正の仁和寺での生活を考えるうえで、二人の法親王を区別する必要がある。
覚性法親王と守覚法親王である。
覚性法親王は大治4年(1129年)生まれ。
鳥羽天皇の皇子で、仁和寺の門跡を務めた人物だった。
仏教の学問や儀礼に通じ、宮廷文化にも親しんでいた。
経正が幼いころに仕え、その琵琶の才能を認められた相手として知られている。
しかし、覚性法親王は嘉応元年(1169年)に亡くなった。
平家が京都を離れた寿永2年(1183年)には、すでに14年が経過していたのである。
覚性法親王の後を継いだのが、守覚法親王だった。
守覚法親王は久安6年(1150年)生まれ。
後白河天皇の皇子で、仁和寺に入って覚性法親王のもとで出家した。
嘉応元年に覚性法親王が亡くなると、その後継として仁和寺の門跡となる。
守覚法親王も和歌や仏教儀礼に詳しく、家集などの著作が伝わっている。
経正はこの守覚法親王とも交流を続けていた。
都落ちの際に琵琶「青山」を返した相手は、年代から守覚法親王と考えられる。
経正が幼少期に仕えた覚性法親王と、1183年に仁和寺で別れを告げた守覚法親王。
経正は二代にわたる仁和寺の御室と関わりを持っていたのである。
宮廷音楽で重んじられた琵琶
経正が特に優れていたと伝えられるのが、琵琶の演奏だった。
平安時代の宮廷では、唐から伝わった雅楽が儀式や宴席で演奏されていた。
琵琶もその中で用いられる楽器の一つである。
四本の弦を張り、撥で弦を弾いて音を出す。
宮廷では貴族や皇族も音楽を学び、優れた奏者は高い評価を受けていた。
また、演奏の技術は家や師弟関係を通じて受け継がれることが多かった。
特定の曲は秘曲として扱われ、限られた人物に伝授される場合もあった。
経正は仁和寺でこうした音楽に接し、琵琶の技量を磨いたと『平家物語』は伝えている。
その才能は、仁和寺の御室から特別な楽器を預けられるほどだったという。
それが「青山」である。
「青山」は、仁和寺に伝わる琵琶の名器として語られている。
経正が自由に所有していた楽器というよりも、寺から大切に預けられた宝物だった。
その由来について、『平家物語』は長い説話を記している。
琵琶「青山」に伝わる唐からの由来
「青山」は「せいざん」と読む。
『平家物語』巻第七「青山之沙汰」には、この琵琶の由来が詳しく記されている。
仁明天皇の時代、藤原貞敏という人物が唐へ渡った。
貞敏は琵琶を学び、唐の琵琶博士から秘曲を伝授されたという。
そして帰国の際、三面の琵琶を持ち帰ろうとした。
「玄象」「獅子丸」「青山」である。
玄象は「玄上」とも表記される。
ところが、帰国の船が海を渡っていると、激しい風が吹き、波が高くなった。
人々は竜神が名器を惜しんでいると考え、そのうちの一面を海へ沈めたという。
海中に沈められたのは獅子丸だった。
残された玄象と青山は日本へ伝わり、天皇の宝物となったと語られている。
さらに『平家物語』では、「青山」の姿についても説明している。
胴の部分には紫藤が用いられ、撥で弦を弾く部分には、緑の山々の木々の間から有明の月が昇る様子が描かれていたという。
その絵にちなんで「青山」と名づけられたと伝わる。
ただし、これらは琵琶の名器の由緒を説明する説話である。
唐からの伝来や海中へ名器を沈めた話を、細部まで史実として確認することは難しい。
古くから宮廷に伝わった楽器には、その貴重さを示すさまざまな物語が付け加えられていた。
「青山」も、そうした名器の一つとして語られてきたのである。
村上天皇の前に現れた琵琶博士
「青山」に関する説話は、唐から日本へ伝わった話だけでは終わらない。
村上天皇の時代にも、不思議な出来事が起こったとされる。
村上天皇は天慶9年(946年)から康保4年(967年)まで在位した天皇である。
『平家物語』の覚一本系では、ある夜、村上天皇が清涼殿で琵琶「玄象」を奏でていたと語られる。
すると、その前に見知らぬ人物が現れた。
唐で貞敏へ琵琶を教えた博士の霊だったという。
博士は、貞敏に三曲を伝授するはずだったが、一曲だけ教え残していたと語った。
そのため、死後も苦しみから抜け出せずにいる。
残された秘曲を天皇へ伝えたいと願い出たのである。
博士の霊は「青山」を手に取り、その曲を奏でたと伝わる。
こうした音楽説話は、『古事談』や『十訓抄』などにも類似した話が残されている。
また、『平家物語』の伝本によっては、琵琶を奏でた際に天人が現れたと語られるなど、細部に違いがある。
古い楽器の伝来や秘曲の継承に関する話が、経正の物語と結びついていったと考えられる。
仁和寺から預けられたという「青山」は、皇室や寺院で長く重んじられてきた名器として描かれている。
経正はその琵琶を扱うことを許された人物として、後世に名を残すことになった。
十七歳で宇佐八幡宮へ赴いたという逸話
『平家物語』には、経正が数え17歳のころ、宇佐八幡宮へ勅使として赴いたという逸話もある。
宇佐八幡宮は豊前国にある有力な神社で、現在の大分県宇佐市に鎮座する。
八幡神を祀る神社として朝廷から深く信仰され、国家の重要な祈願にも関わっていた。
『平家物語』によれば、経正はこのとき「青山」を預けられ、宇佐八幡宮へ向かったという。
そして神前で琵琶の秘曲を奏でた。
演奏を聞いた人々は、その音色に涙を流したと伝えられている。
琵琶を聞き慣れていた者だけでなく、音楽に詳しくない者まで感動したという。
ただし、経正が実際に何年に宇佐へ赴いたのかはわからない。
経正の生年が不明なため、17歳という年齢から年代を求めることも難しい。
また、勅使としての派遣や演奏の経過についても、詳しい同時代の記録は残されていない。
この逸話は、経正が若いころから優れた琵琶の奏者だったことを語るものとして伝わっている。
その一方、成人した経正には朝廷の官職を歴任した記録が残されている。
淡路守から但馬守へ
経正は若いころから朝廷の官職を与えられていた。
仁安2年(1167年)閏7月には淡路守となった。
淡路国は現在の兵庫県淡路島にあたる。
承安2年(1172年)には殿上人となり、その後、左兵衛佐や左馬権頭などを歴任した。
左兵衛佐は宮中の警備に関わる左兵衛府の次官である。
左馬権頭は、朝廷の馬を管理する左馬寮の官職だった。
安元2年(1176年)には従四位上へ昇進し、皇太后宮亮を務めている。
皇太后宮亮は皇太后宮職の次官にあたる。
父の経盛も、二条天皇の后だった藤原多子の宮職に長く関わっていた。
父子の官歴には、宮廷の同じ方面で活動した様子が見える。
治承2年(1178年)には丹後守を兼ね、翌治承3年には正四位下へ昇進した。
同年11月には但馬守も兼ねている。
丹後国は現在の京都府北部、但馬国は兵庫県北部にあたる。
経正は「皇太后宮亮経正」や「但馬守経正」と呼ばれることもあった。
一方、これらの国司に任じられた際、実際に各国へ赴任して行政を担当したのかについては、詳しい記録が乏しい。
平家一門には国司となりながら京都で活動する人物も多く、経正も宮廷での官人生活を続けていた。
そして、その生活の中で重要な位置を占めていたのが和歌だった。
父とともに歌合へ参加する
経正は琵琶だけでなく、和歌にも熱心だった。
その活動は父の経盛と深く結びついている。
経盛は仁安年間から承安年間にかけて歌合を催し、宮廷の歌人たちと交流していた。
経正も父の歌合に参加している。
また、源通親の家で行われた歌合や、住吉社・広田社・別雷社に奉納する和歌の催しにも出詠した。
別雷社は現在の上賀茂神社にあたる。
こうした歌合には、貴族や僧侶、女房歌人などが参加していた。
同じ題で歌を詠み、その表現や技巧を競い合う。
経正もその中で作品を発表し、評価を受けていたのである。
承安3年(1173年)には、自ら歌合を主催したことも知られている。
歌合を催すには参加者を集め、題を定め、判者を依頼する必要がある。
経正は歌を詠むだけでなく、歌人たちを集める立場にもなっていた。
さらに、経正は歌林苑の会衆の一人としても知られる。
歌林苑は藤原清輔らが中心となって活動した歌人たちの集まりである。
経正は清輔や登蓮法師らとも交流していた。
父の経盛とともに、平家一門の歌壇を支えた人物だった。
藤原俊成に見せた百首歌
経正は藤原俊成にも和歌を学んでいた。
俊成は当時の歌壇を代表する人物で、後に『千載和歌集』を編むことになる。
経正は百首歌を俊成に見せ、批評や指導を求めたことが知られている。
百首歌は、春夏秋冬や恋などの題に沿って百首の和歌を詠むものである。
一度に多くの歌をまとめることには、歌人としての力量を示す意味もあった。
経正は若いころから歌合に参加し、自ら歌合を催してきた。
俊成へ百首歌を見せたことも、その活動の一つだった。
平家一門では、経正の叔父である忠度も俊成から和歌を学んでいた。
忠度は都落ちの際、自作をまとめた巻物を俊成へ託したと『平家物語』が伝えている。
一方、経正が都落ちの日に仁和寺へ返したのは琵琶「青山」だった。
同じ歌壇で活動していた二人の武将が、異なる形で都との別れを描かれることになる。
経正の作品は、後に『経正集』と呼ばれる家集にまとめられた。
現在もその写本が伝わっている。
厳島への旅で詠んだ月の歌
経正の家集には、旅先で詠んだ和歌が収められている。
厳島へ参詣する途中、備後国の鞆で詠んだとされる一首がある。
「あたら夜の月をひとりぞながめつる思はぬ磯に波枕して」
思いがけず立ち寄った海辺で、美しい月を一人で眺めている。
波の音を聞きながら夜を過ごす情景を詠んだ歌である。
詞書には、厳島参詣の途中、九月十三夜に鞆で詠んだと記されている。
鞆は現在の広島県福山市にある港町で、瀬戸内海の交通の要地として知られていた。
厳島は平家一門が深く信仰した場所でもある。
清盛は厳島神社の社殿の整備に力を注ぎ、一門の繁栄を祈願していた。
経正もそうした信仰の地へ向かう旅の中で、和歌を詠んだと伝わる。
ただし、この歌には作者の異説がある。
『経正集』に伝わる一方、『風雅和歌集』では藤原公重の作品として収められている。
そのため、経正が確実に詠んだ歌として断定することはできない。
経正の家集には、ほかにも海や旅を題材とした作品が残されている。
宮廷の歌人として活動する一方、瀬戸内海の各地へ出かけた経歴もうかがえる。
福原の海辺で秋を送る
治承4年(1180年)、平清盛は安徳天皇らを福原へ移した。
福原は現在の神戸市兵庫区周辺にあたる。
清盛はこの地を拠点として整備し、大輪田泊を利用した海上交通にも力を入れていた。
経正も福原に滞在したことがあった。
そのときに詠んだとされる歌が、後世の勅撰和歌集に残されている。
「入日さす方をながめて和田の原波路に秋を送るけふかな」
海へ沈んでいく夕日を眺めながら、秋の最後の日を送る歌である。
詞書には、福原に滞在していたころ、九月の晦日に人々と海辺へ出かけて詠んだことが記されている。
晦日は月の最後の日を指す。
旧暦の九月が終わる日は、秋の最後の日でもあった。
「和田の原」は広い海を意味する言葉で、福原の大輪田にも通じる。
この歌は後に『新拾遺和歌集』へ収められた。
また、『経正集』には海辺の夜に波の音を聞いた歌もある。
「さまざまに思ふ寝覚のうらかぜにおなじこゑなる波の音かな」
旅先の夜、目を覚ましてさまざまなことを思う。
その間も、浦風に吹かれた波の音は変わらず響いている。
こうした歌からは、経正が海辺の景色を好んで題材としていた様子がうかがえる。
福原で和歌を詠んだ時期、平家はなお朝廷で大きな権力を持っていた。
しかし、同じ年に源氏の挙兵が始まり、経正自身も各地で軍事行動に関わるようになる。
源氏の挙兵と北陸の動揺
治承4年(1180年)、平家への反抗が各地で始まった。
両者は宇治川付近で平家軍に敗れ、頼政は平等院で自害した。
以仁王も奈良へ向かう途中で討ち取られる。
しかし、反平家の動きは収まらなかった。
8月には伊豆国で源頼朝が挙兵する。
信濃国では木曾義仲が勢力を伸ばし、北陸にも反平家の動きが広がっていった。
経正の父・経盛は若狭国と深い関係を持っていた。
若狭国は現在の福井県南部にあたり、京都と日本海側を結ぶ交通の要地である。
ところが、この若狭でも平家に従わない武士たちが現れ始めた。
治承4年11月28日、『玉葉』には、経盛の知行国である若狭国の有力な在庁官人たちが、近江の源氏方へ味方したという知らせが記されている。
北陸道から京都へ運ばれる物資も、反乱勢力によって妨げられていた。
平家は北陸の支配を維持するため、軍勢を派遣する必要に迫られる。
翌1181年、その追討軍に加わったのが経正だった。
1181年、通盛より一日早く北陸へ出陣
治承5年(1181年)閏2月4日、平清盛が死去した。
平家一門の中心となったのは、清盛の子・平宗盛である。
しかし、源氏との戦いは続いていた。
北陸では越中や加賀の在地武士たちが反平家の動きを強め、その影響は越前にも及んだ。
養和元年8月14日、朝廷は北陸道の反乱勢力を追討するよう命じた。
翌15日、平経正が出陣する。
『吾妻鏡』には、そのように記されている。
さらに16日には、平通盛も進発した。
通盛は経正の従兄弟で、平教盛の長男にあたる。
越前守を務めた経歴があり、北陸の支配に深く関わってきた武将だった。
経正と通盛は、相次いで北陸へ向かったのである。
しかし、すでに越前では反平家勢力が活動を強めていた。
8月23日には、加賀方面から攻め込んだ武士たちが越前の大野郡や坂北郡を焼き払ったと伝えられている。
通盛は越前国府へ入り、敵の進撃を抑えようとした。
一方、経正は若狭方面で行動していた。
経正が具体的にどの場所へ陣を敷き、どれほどの軍勢を率いていたのかについては記録が乏しい。
しかし、通盛の軍勢が越前で敗れた際、経正のいる若狭からの援軍が問題となっていたことは確認できる。
敦賀で経正の援軍を待った通盛
養和元年9月、通盛の軍勢は越前で敗北した。
在地武士や寺社勢力が相次いで離反し、越前国府を守り続けることが難しくなっていた。
通盛は南へ退き、水津方面でも敵と戦う。
水津は現在の福井県敦賀市杉津付近にあたる。
山と海に挟まれ、北陸道の交通を押さえる要地だった。
通盛はさらに敦賀まで退却した。
9月10日ごろには敦賀の城に立てこもり、援軍を求めていたと記録されている。
このとき、通盛が期待していたのが経正の軍勢だった。
『玉葉』9月12日条には、通盛が若狭にいる経正からの援軍を待っていたものの、援軍が到着しなかったという風聞が記されている。
そのため、通盛が敦賀の城を離れて山中へ逃れようとしているという知らせまで京都へ伝わった。
ただし、これらは京都へ届いた風聞であり、実際にどこまで正確な情報だったのかは慎重に考える必要がある。
また、経正が援軍を送れなかった理由についても、詳しい記録は残されていない。
若狭方面で別の敵に対応していた可能性や、交通路を押さえられて動けなかった可能性が考えられる。
いずれにしても、平家の北陸追討軍は十分に連携できず、越前で大きな敗北を喫した。
その後も北陸の情勢は好転せず、通盛は京都へ戻ることになる。
一方、経正は若狭に残っていた。
若狭に残った経正
養和元年11月21日、『吾妻鏡』には、北陸へ派遣されていた通盛らが帰京したと記されている。
『吉記』では前日の20日としている。
しかし、経正はなお若狭にとどまっていた。
若狭は父の経盛が知行していた土地であり、平家にとって維持したい地域だった。
越前で反平家勢力が拡大するなか、若狭方面にも軍勢を置く必要があったと考えられる。
ただし、経正がいつ若狭を離れたのか、詳しい足取りはわかっていない。
実際にどのような敵と戦い、どの程度の軍勢を率いていたのかについても記録が限られている。
それでも、1181年の北陸出兵は、経正が武将として活動したことを示す重要な出来事である。
宮廷で歌を詠み、仁和寺で琵琶を学んだ経正は、源平の戦乱が始まると軍勢を率いて若狭へ向かった。
しかし、この遠征で平家は北陸の支配を回復できなかった。
木曾義仲はさらに勢力を伸ばし、翌寿永2年には平家との大規模な戦いが始まる。
経正も再び北陸へ出陣することになった。
寿永2年、再び木曾義仲の追討へ
寿永2年(1183年)、平家は木曾義仲を討つため北陸へ大軍を派遣した。
主力軍を率いたのは平維盛。
前年までに北陸で敗北を経験していた通盛も、軍勢を率いて参加している。
経正も副将軍の一人として遠征へ加わったと『平家物語』は伝えている。
平家軍は近江国から北陸道を進み、越前・加賀方面の反平家勢力を討とうとしていた。
しかし、義仲は北陸の在地武士たちを集め、平家軍を迎え撃つ準備を進めていた。
『平家物語』巻第七「竹生島詣」には、この遠征の途中で経正が琵琶湖の島を訪れたという逸話が残されている。
大将軍の維盛や通盛らが北陸へ進む一方、経正や忠度らは近江国の塩津・海津付近にとどまっていたという。
塩津と海津は琵琶湖の北部に位置し、北陸道との交通に関わる場所だった。
そこで経正は、湖の沖合に浮かぶ島を眺めていたと伝わる。
竹生島へ渡る
『平家物語』によれば、寿永2年4月18日、経正は琵琶湖の北岸付近にいた。
湖の向こうに見える島を指し、供の藤兵衛尉有教に尋ねたという。
あれは何という島か。
有教は、名高い竹生島だと答えた。
経正は島へ参詣することを決め、五、六人の供を連れて小舟に乗ったと伝わる。
竹生島は現在の滋賀県長浜市に属する。
琵琶湖の北部に浮かぶ島で、古くから神仏への信仰を集めてきた。
特に弁才天を祀る場所として知られている。
弁才天は音楽や芸能とも深い関係を持つ神仏だった。
経正は島へ上陸すると、境内へ進んだ。
『平家物語』は、島の景色を詳しく描いている。
季節は春の終わり。
木々には若葉が広がり、谷間では鳥の声が聞こえていたという。
湖の中に山が立ち上がる様子は、古代中国の伝説に登場する蓬莱山にもたとえられている。
経正は弁才天の前に進み、北陸遠征での戦勝を祈願したと伝わる。
軍勢が敵を破り、平家が勝利できるよう願ったのである。
この参詣の詳しい経過は『平家物語』によるものだが、経正の琵琶の才能と弁才天信仰を結びつける逸話として広く知られるようになった。
そして、日が暮れ始めたころ、島の僧たちが経正に琵琶を差し出したという。
竹生島で奏でた秘曲
『平家物語』によれば、経正が参詣を終えるころには日が暮れていた。
やがて月が昇り、湖面を明るく照らし始める。
そのとき、島の僧たちが経正のもとへ琵琶を持ってきた。
経正が優れた奏者であることを聞き、演奏を願ったのである。
経正は琵琶を受け取り、秘曲を奏でたという。
曲の名は「上玄」と「石上」。
伝本には「上原」と表記するものもある。
琵琶の音色は境内に響き、居合わせた人々を魅了したと伝えられている。
すると、不思議な出来事が起こった。
経正の袖の上に、白い竜が姿を現したという。
『平家物語』では、弁才天が経正の演奏に感じ入り、竜の姿で現れたと描いている。
経正は喜び、涙を流しながら一首の和歌を詠んだと伝わる。
「ちはやぶる神に祈りのかなへばやしるくも色のあらはれにけり」
神への祈りがかなったためだろうか。
そのしるしが、こうして目に見える姿で現れた。
そのような意味の歌である。
経正は、これで北陸遠征も成功するだろうと喜び、再び小舟に乗って島を離れたという。
白竜の出現は、神仏の霊験を伝える軍記物語の説話である。
『平家物語』はこの場面で、音楽を神仏への祈りに結びつける経正の姿を描いている。
しかし、その後の北陸遠征は、経正たちの期待とは反対の結果となった。
倶利伽羅峠での大敗
寿永2年5月、平家の主力軍は加賀国から越中国方面へ進んだ。
木曾義仲は北陸の在地武士たちを集め、迎撃の準備を進めていた。
5月11日、倶利伽羅峠付近で両軍が激突する。
平家軍は義仲方の攻撃を受け、大敗した。
『平家物語』には、義仲が軍勢を分けて平家軍を包囲し、険しい谷へ追い落としたという話が描かれている。
また、牛の角に松明をつけて敵陣へ追い込んだという火牛の逸話も知られる。
戦闘の詳しい経過や軍勢の数字には不明な点が多いが、平家の北陸遠征が大きな失敗に終わったことは確かである。
経正が倶利伽羅峠の主戦場で、どの部隊を指揮していたのかは明らかになっていない。
『平家物語』では、経正は維盛や通盛らと別の場所にとどまっていたと描かれている。
竹生島への参詣後、どのような経路で軍勢へ合流したのかについても詳しい記録はない。
その後、平家軍は加賀国の篠原でも義仲方の追撃を受けた。
大軍を投入した遠征は失敗し、平家は京都へ退却する。
この敗北によって義仲は京都へ進む道を開き、平家一門は都落ちへ追い込まれることになった。
寿永2年7月、平家の都落ち
寿永2年7月、木曾義仲の軍勢が京都へ迫った。
平家は北陸で主力軍の多くを失い、都を守ることが難しくなっていた。
7月24日から25日にかけて、後白河法皇はひそかに都を離れ、比叡山へ移った。
法皇を確保できなくなった平家は、安徳天皇と三種の神器を伴って西国へ向かうことを決める。
7月25日、平家一門は京都を離れた。
六波羅や西八条の邸宅には火が放たれ、長年暮らしてきた場所が失われていった。
経正も父の経盛や弟たちとともに都を去ることになった。
朝廷の官職を持ち、父と歌合に参加し、仁和寺で琵琶を学んできた経正。
京都には、それまでの生活を支えてきた人々がいた。
しかし、西国へ向かえば、いつ都へ戻れるのかわからない。
平家は軍勢を立て直そうとしていたものの、各地では反平家の武士たちが活動を強めていた。
『平家物語』によれば、経正はこの都落ちの途中で仁和寺を訪ねたという。
目的は、預かっていた琵琶「青山」を返すことだった。
鎧姿のまま仁和寺へ向かう
『平家物語』巻第七「経正都落」には、経正が仁和寺を訪れる場面が詳しく描かれている。
経正は侍五、六騎を伴い、仁和寺へ向かったという。
寺へ着くと馬から下り、御室への面会を願った。
平家一門はすでに都を離れた。
今後、西国でどのような運命が待っているかはわからない。
しかし、幼いころから仕えてきた御室に、最後の挨拶をしたい。
経正はそのように伝えたと『平家物語』は記している。
このとき、経正は鎧を身につけていた。
紫地の錦の直垂に萌黄匂の鎧。
太刀を佩き、弓矢を携えた武将の姿だったという。
経正は、武具を身につけたまま御室の前へ出ることを遠慮した。
しかし、御室はそのままの姿で構わないから来るよう命じたと伝わる。
経正は兜を脱ぎ、庭の白砂に進んでかしこまった。
やがて御室の前へ招かれる。
そこで経正は、供の藤兵衛尉有教を呼んだ。
有教が持ってきたのは、赤い錦の袋だった。
その中には、琵琶の名器「青山」が収められていた。
琵琶「青山」を御室へ返す
経正は琵琶を御室の前へ置いた。
『平家物語』によれば、経正は名器を返そうとする理由を語ったという。
これまで長く預かってきた琵琶であり、手元から離すのは名残惜しい。
しかし、これほどの名器を西国の戦乱へ持ち込み、失ってしまうことは忍びない。
そこで仁和寺へ返すことにしたと伝わる。
経正はさらに、もし平家の運が開け、再び都へ戻ることができたなら、そのときは改めて預かりたいと願ったという。
「青山」は仁和寺に伝わる大切な楽器だった。
経正は琵琶の才能を認められ、その名器を預けられていたと伝えられている。
都落ちの際に返そうとしたことにも、仁和寺との関係が表れている。
『平家物語』では、経正の申し出を聞いた御室が深く心を動かされたと描かれる。
そして、別れを惜しむ一首の和歌を贈ったという。
その歌には、返された琵琶が経正との別れの形見になるという思いが込められていた。
「あかずして別るる君が」
御室は経正へ一首の和歌を贈ったと伝わる。
「あかずして別るる君が名残をば後の形見につつみてぞおく」
まだ十分に語り合うこともできないまま別れていく経正。
その名残を後の形見として、大切に包んでおこう。
そうした意味の歌である。
「つつみて」には、返された琵琶を袋へ収めておくことも重ねられている。
経正が持参した名器「青山」は、二人の別れを伝える形見として詠まれた。
経正も硯を借り、返歌を書いたという。
「呉竹の筧の水はかはれどもなほすみあかぬ宮の中かな」
筧は、水を引くために用いられる竹や木の樋である。
そこを流れる水は、絶えず新しいものに入れ替わっていく。
しかし、仁和寺で過ごした日々への思いは尽きない。
「すみ」には、水が澄むことと、その場所に住むことが掛けられている。
また、御室の歌にある「あかずして」に対し、経正は「すみあかぬ」と応じた。
相手の言葉を受け取り、自分の思いを返す和歌の贈答である。
経正が幼いころに暮らした仁和寺。
そこでの生活や、法親王との交流が、二人の歌に重ねられている。
この場面は『平家物語』によって伝えられたものだが、琵琶と和歌を通じて別れを告げる経正の姿は、後世の芸能にも受け継がれていく。
桂川まで見送った行慶
御室との別れを終え、経正は仁和寺を出ようとした。
『平家物語』によれば、寺に仕える童形や僧侶、坊官たちが集まり、経正との別れを惜しんだという。
経正の袖にすがり、涙を流す者もいたと伝わる。
中でも経正と深い関係を持っていたのが、大納言法印行慶だった。
行慶は葉室大納言藤原光頼の子で、仁和寺の僧として活動していた人物である。
経正が幼いころに教えを受けた相手として、『平家物語』に登場する。
行慶は経正を寺の門前で見送るだけでは別れがたく、桂川のほとりまで同行したという。
そこでようやく別れることになった。
行慶は一首の歌を詠んだと伝わる。
「あはれなり老木若木も山桜おくれ先だち花は残らじ」
老いた木も若い木も、山桜はいずれ花を散らす。
人もまた、誰が先に命を終えるかわからない。
そうした思いを詠んだ歌である。
経正も返歌を贈ったという。
「旅衣よなよな袖をかた敷きて思へば我は遠くゆきなん」
これから遠い旅へ向かい、夜ごと一人で袖を敷いて眠ることになる。
西国へ進む経正の心境を詠んだ歌だった。
行慶との別れを終えると、経正は再び馬に乗ったという。
赤旗を掲げて西国へ
『平家物語』によれば、仁和寺から戻った経正は、巻いて持たせていた平家の赤旗を掲げさせた。
すると、周囲で待っていた家人たちが馬を走らせて集まってきた。
その数は百騎ほどになったと伝えられる。
経正は軍勢を率い、安徳天皇や平家一門の後を追った。
仁和寺では琵琶を返し、御室や行慶と和歌を交わして別れを惜しんだ。
しかし、寺を離れれば経正は平家軍を率いる武将である。
西国へ向かう一門に追いつき、再び戦いに備えなければならなかった。
この場面は、同じ巻に登場する平忠度の都落ちと並んで知られている。
忠度は藤原俊成へ百余首の歌を託したと伝わる。
経正は仁和寺へ琵琶「青山」を返したという。
二人は宮廷文化に親しんだ平家の武将でありながら、源氏との戦いに従って都を離れた。
そして翌年、同じ一ノ谷で命を落とすことになる。
西国での再起と福原への進出
京都を離れた平家は、西国で軍勢を立て直そうとした。
しかし、九州では豊後国の緒方惟栄らが反抗し、安定した拠点を築くことができなかった。
その後、一門は讃岐国の屋島へ移る。
屋島は瀬戸内海に面し、海上交通を利用するうえで重要な場所だった。
経正も父の経盛や弟たちとともに、一門へ従っていた。
『平家物語』には、西国へ下った後も経盛や経正らが月を眺めて和歌を詠む場面がある。
都を追われても、歌を詠む習慣は続いていたと伝えられる。
一方、平家は軍勢を再編し、反撃を始めた。
寿永2年閏10月、備中国の水島では木曾義仲方の軍勢を撃破する。
さらに11月、播磨国の室山で源行家の軍勢を破った。
こうした勝利によって、平家は播磨から摂津方面へ再び進出していく。
経正が水島や室山でどのような軍事行動を担当したのか、詳しい記録は乏しい。
しかし、一門の軍勢とともに西国で活動を続けていた。
そのころ京都では、木曾義仲と後白河法皇の関係が悪化していた。
源頼朝は弟の範頼と義経を派遣し、義仲を討たせる。
寿永3年(1184年)1月20日、義仲は近江国の粟津で討死した。
京都を確保した源氏軍は、続いて平家追討へ向かった。
経正たちは福原周辺で、その攻撃を迎えることになる。
一ノ谷へ迫った源氏軍
寿永3年2月、平家は摂津国の福原から一ノ谷にかけて軍勢を配置していた。
福原はかつて清盛が拠点とした場所である。
治承4年には安徳天皇らが移り、短い期間ながら政治の中心となったこともあった。
経正もその福原で和歌を詠んだと伝えられている。
しかし、寿永3年の福原は、源氏軍を迎え撃つ戦場になっていた。
平家は東の生田の森から西の一ノ谷にかけて防衛線を築いた。
北には山地が迫り、南には瀬戸内海が広がる。
平家はこうした地形を利用して敵を防ぎ、海上の船団も活用しようとしていた。
一方、源氏方では範頼が東側から進み、義経が山側の道を進軍する。
2月4日から5日にかけて、義経軍は三草山で平資盛・平有盛らの軍勢を夜襲し、これを破った。
山側の防衛が崩れ、源氏軍は一ノ谷へ迫った。
経正が具体的にどの陣地を守っていたのかについては、詳しい記録が残されていない。
ただし、父や弟たちとともに平家軍へ加わり、決戦を迎えていた。
そして2月7日、源氏軍の攻撃が始まった。
一ノ谷の戦い――経正の討死
寿永3年2月7日、一ノ谷の戦いが始まった。
西の一ノ谷口では、熊谷直実や平山季重らが先陣を争ったと伝えられている。
さらに山側からも源氏軍が攻め寄せた。
『平家物語』には、義経が険しい坂を駆け下り、平家の陣地へ突入したという話が残る。
後世に鵯越の坂落としとして知られる場面である。
一方、九条兼実の日記『玉葉』には、多田行綱が山手の陣地を破ったと記されている。
実際の攻撃経路や各武将の役割については、史料ごとに違いがある。
源氏軍の攻撃を受け、平家の防衛線は各所で崩れた。
武士たちは海岸へ退き、沖に浮かぶ船を目指した。
しかし、すべての者が船へ逃れられたわけではなかった。
経正もこの戦いで命を落とした。
『吾妻鏡』には、一ノ谷で討死した平家の武将として経正の名が記されている。
2月15日条には、戦いの軍功に関する報告があり、経正の討取りは安田義定の功績として記録された。
義定は甲斐源氏の武将で、当時は遠江守の官職を持っていた。
ただし、教経については『平家物語』が壇ノ浦まで生き延びた人物として描いており、史料間に大きな違いがある。
経正自身についても、誰が直接首を取り、どの地点で討ち取られたのか、細かな経過は明らかになっていない。
『吾妻鏡』が経正の討取りを安田義定の軍功として報告していることが、確認できる記録である。
経正は生年不詳のため、討死したときの年齢も確定できない。
都落ちから半年余りを経た寿永3年2月7日、経正は一ノ谷で生涯を終えた。
弟の経俊と敦盛も討死する
一ノ谷では、経正だけでなく弟の経俊と敦盛も討死した。
経俊は若狭守を務めた人物で、平家の軍勢に加わっていた。
しかし、経俊の具体的な戦歴を追える記録は限られている。
一ノ谷でどのように戦い、誰に討ち取られたのか、詳しい経過も明らかでない。
一方、末弟の敦盛には『平家物語』に有名な逸話が残る。
敗走の途中、海へ逃れようとしていた敦盛は、熊谷直実に呼び戻された。
そして直実と組み合い、首を取られたと伝えられている。
敦盛は若く、笛を携えていたという。
そのため、後世には笛の名手として語られるようになった。
経正は琵琶、敦盛は笛。
同じ経盛の子でありながら、それぞれ異なる楽器の逸話を残している。
経正は淡路守や丹後守、但馬守を歴任し、宮廷歌壇でも活動した。
一方、敦盛はまだ若く、経正のような官歴を持つまでには至っていなかった。
一ノ谷では、経正、経俊、敦盛の三兄弟が同じ日に命を落としたと伝えられている。
父の経盛自身は、この戦いを生き延びた。
しかし、息子たちは福原から一ノ谷にかけての戦場で帰らぬ人となった。
京都の八条河原へ送られた首
一ノ谷で勝利した源氏軍は、討ち取った平家武将たちの首を京都へ送った。
『吾妻鏡』によれば、朝廷ではその首を市中にさらすかどうかについて議論が行われた。
平家の武将たちは長く朝廷に仕え、高い官位を得てきた人物でもあった。
その首をさらすことには慎重な意見もあったという。
しかし、範頼や義経らの要請を受け、最終的には首をさらすことが認められた。
2月13日、平家一門の戦死者の首が京都の八条河原に運ばれたと伝わる。
その中には経正の名もあった。
ほかにも平忠度、平通盛、平敦盛、平師盛、平知章、平経俊らの名が記されている。
経正は都落ちの際、仁和寺へ琵琶「青山」を返したと伝えられている。
その半年余り後、経正の討死が京都へ伝わり、首が八条河原へ運ばれたのである。
一方、父の経盛は一ノ谷から脱出し、安徳天皇や平宗盛らとともに屋島方面へ退いた。
平家と源氏の戦いは、なお続いていた。
父・経盛は壇ノ浦へ
一ノ谷で多くの武将を失った平家は、屋島を拠点として抵抗を続けた。
安徳天皇と三種の神器は、なお一門の手中にあった。
経正の父・経盛も、平家と行動をともにしていた。
翌元暦2年(1185年)2月、義経軍は屋島を急襲する。
平家は屋島を離れ、さらに西へ退いた。
そして3月24日、長門国の壇ノ浦で最後の決戦が行われる。
平家軍は源氏方に敗れ、安徳天皇は海へ沈んだ。
平知盛も入水し、宗盛は捕虜となった。
経正の父・経盛も、この戦いで命を落としたと伝えられている。
『平家物語』では、経盛は弟の教盛とともに甲冑へ碇をつけ、手を取り合って海へ身を投げたと描かれている。
最期の詳しい経過には史料による違いがあるものの、経盛が壇ノ浦で亡くなったことは伝えられている。
経正が一ノ谷で討死してから、およそ1年後のことだった。
経盛は宮廷で官職を歴任し、和歌に親しみ、歌合を催してきた。
経正もその活動を受け継ぎ、藤原清輔や俊成らと交流していた。
父子が残した和歌は、平家滅亡後も歌集によって伝えられていく。
勅撰和歌集に残された経正の歌
経正が詠んだ歌は、生前の歌合だけにとどまらなかった。
その作品は家集にまとめられ、後世の勅撰和歌集にも採られた。
勅撰集への入集は『千載和歌集』が初出とされる。
ただし、『千載和歌集』では作者名が「よみ人しらず」となっている。
経正の家集などに伝わる作品との照合によって、経正の歌と考えられている。
『千載和歌集』は、後白河法皇の命を受けて藤原俊成が編んだ勅撰和歌集である。
経正の叔父・平忠度も、同じ和歌集に作者名を伏せた歌を残したことで知られている。
ただし、経正の歌が「よみ人しらず」とされた詳しい経緯を、俊成自身が記録しているわけではない。
平家の武将として朝廷の敵となったこととの関係は指摘されているが、作品ごとの伝来も含めて検討されている。
その後、『新拾遺和歌集』などにも経正の歌が採られた。
勅撰集への入集歌は計8首とする整理がある。
また、経正は『治承三十六人歌合』にも歌人として選ばれている。
宮廷歌壇での活動は、源平の戦乱が終わった後も、作品を通じて知られることになったのである。
その歌を伝える重要な資料が『経正朝臣集』だった。
『経正朝臣集』に残された作品
『経正朝臣集』は、経正の和歌をまとめた私家集である。
現在、宮内庁書陵部の図書寮文庫には、江戸時代初期に書写された一巻が保存されている。
書誌には「平経正詠」と記されている。
この写本は、平安時代末期の経正の歌を知るうえで重要な資料となっている。
『経正集』には、旅先で詠んだ歌や宮廷の人々との贈答歌などが収められている。
その一方、別の歌集ではほかの作者の作品として伝わっている歌もある。
厳島へ向かう途中の月を詠んだ「あたら夜の月をひとりぞながめつる」の歌は、その一例である。
作者や詞書について、伝本ごとの違いが研究されている。
また、経正が承安3年に自ら歌合を催したことや、藤原俊成へ百首歌を見せたことも、宮廷歌壇での活動を知る手掛かりとなっている。
経正は琵琶の名手として語られることが多い。
しかし、和歌の世界でも長く活動し、自作を残した歌人だった。
その作品は、平家滅亡後も歌人たちの間で読み継がれていった。
能『経政』――仁和寺に現れる経正の霊
経正の都落ちの逸話は、室町時代の能にも取り上げられた。
演目は『経政』。
流儀によっては『経正』と表記される。
作者は明らかになっていない。
物語の舞台は京都の仁和寺である。
一ノ谷で経正が討死した後、仁和寺ではその菩提を弔うことになった。
御室の命を受けた僧・行慶が、経正のために管絃講を催す。
管絃講は、音楽を奏でて故人を供養する仏事である。
そこで用いられるのが、経正が都落ちの際に返した琵琶「青山」だった。
行慶らが音楽を奏でていると、経正の霊が現れる。
亡霊は生前に仁和寺で過ごした日々を思い返し、管絃の音に心を動かされたと語る。
やがて霊は琵琶を手に取り、演奏を始める。
しかし、音楽に心を慰められていた霊は、次第に戦場での記憶を呼び起こされる。
修羅道に落ちた武将としての苦しみが現れ、激しい戦いの姿を見せるのである。
最後には夜明けが近づき、経正の霊は姿を消していく。
能『経政』は、『平家物語』の「経正都落」をもとに作られた作品である。
仁和寺で音楽に親しんだ経正と、一ノ谷で討死した武将としての経正が、同じ舞台に描かれている。
この能によって、都落ちの際に返した琵琶「青山」は、経正の死後の物語でも重要な役割を持つことになった。
神戸に残る琵琶塚
現在の神戸市兵庫区切戸町には、「琵琶塚」と呼ばれる石碑が残されている。
近くには清盛塚と呼ばれる石造十三重塔や、平清盛の像もある。
琵琶塚は、琵琶の名手として知られた経正と結びつけられてきた史跡である。
かつて清盛塚の近くには、琵琶の形に見える塚があったと伝えられている。
その形から琵琶塚と呼ばれ、経正の墓や琵琶を埋めた場所と考えられるようになった。
明治35年(1902年)には、経正にゆかりのある場所として石碑が建てられた。
その後、道路拡張工事に伴い、清盛塚とともに現在の場所へ移された。
ただし、経正が実際にこの場所へ埋葬されたことを示す確かな記録はない。
『平家物語』では、経正は名器「青山」を都落ちの際に仁和寺へ返したと描かれている。
一方、琵琶塚には経正の琵琶を埋めたという地域の伝承がある。
両者は伝わり方が異なり、名器「青山」そのものが琵琶塚へ埋められたと確定する材料はない。
琵琶塚は、経正の名が福原や一ノ谷に近い土地でも伝えられてきたことを示している。
経正が和歌を詠んだ福原の海辺は、後に源氏軍との戦場となった。
そこには、琵琶とともに語り継がれた経正の名が、史跡として残されている。
仁和寺に残された琵琶「青山」の物語
経正が一ノ谷で討死した後、弟の経俊と敦盛も同じ戦いの戦死者として記録された。
翌元暦2年(1185年)3月には、父の経盛も壇ノ浦で命を落としている。
一方、経正が生前に詠んだ和歌は、家集や勅撰和歌集によって伝えられた。
『経正朝臣集』には、厳島への旅や福原の海辺を詠んだ歌が残されている。
さらに『平家物語』巻第七「経正都落」には、仁和寺での別れが詳しく描かれた。
経正は琵琶「青山」を御室へ返し、和歌を交わして西国へ向かったという。
行慶は桂川まで見送り、経正は赤旗を掲げて平家一門の後を追ったと伝わる。
その後、室町時代には能『経政』が作られた。
能の舞台では、仁和寺の僧たちが琵琶「青山」を用いて管絃講を催し、経正の霊を弔う。
また、琵琶湖の竹生島には経正が琵琶を奏でて戦勝を祈ったという説話が伝わり、福原に近い神戸市兵庫区には琵琶塚の名が残った。
宮内庁書陵部には『経正朝臣集』の写本が保存され、経正が宮廷歌壇で詠んだ作品を今に伝えている。
寿永2年7月、経正は仁和寺へ琵琶「青山」を返し、もし都へ戻れたなら再び預かりたいと願ったという。
しかし、翌1184年2月7日、一ノ谷で命を落とした。
経正が仁和寺に返したと伝わる名器「青山」は、後に能『経政』の中でその供養に用いられ、亡霊となった経正が再び琵琶を奏でる場面へと受け継がれていった。
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