第115回
治承5年(1181年)6月。
越後から信濃へ、大軍が南下してきた。
率いるのは城四郎資職。
越後で勢力を広げてきた城氏の棟梁で、平氏政権に属する有力武士だった。
城氏の軍勢は信濃へ入ると、各地の勢力を従わせながら南へ進んだ。
正面から戦おうとする者はほとんどなく、城に籠もった勢力も次々に落とされたという。
京へ伝わった報告では、その数は「万余騎」。
その大軍が陣を置いたのが、千曲川沿いの横田河原だった。
現在の長野市篠ノ井横田付近にあたる。
迎え撃つ側には、木曾義仲がいた。
前年に兵を挙げたばかりの義仲にとって、越後の城氏はこれまで戦った相手とは規模が違う。
ところが横田河原で崩れたのは、義仲軍ではなかった。
城資職は身体に数か所の傷を負い、甲冑を脱ぎ、弓矢まで捨てて越後へ逃げ帰る。万余騎と伝えられた軍勢のうち、資職とともに戻った兵はわずか三百余騎だったと『玉葉』は記している。
木曾谷で育った源氏の武将が、信濃北部へ押し寄せた越後の大勢力を退けた。
二年後、倶利伽羅峠で平氏軍を破り、京都へ入る木曾義仲。その勢力が大きく広がる契機となった戦いが、横田河原の戦いである。
義仲の挙兵
木曾義仲は源義賢の子として生まれた。
父の義賢は源為義の子で、源義朝の弟にあたる。源頼朝と義仲は従兄弟同士だった。
久寿2年(1155年)、武蔵国の大蔵館で義賢が源義平に討たれる。
義平は義朝の長男である。
幼い義仲は父を失い、信濃国木曾へ逃された。『吾妻鏡』によれば、義仲を育てたのは木曾の有力者・中原兼遠だった。
時が流れ、治承4年(1180年)。
以仁王と源頼政による平氏打倒の動きが起こり、各地の源氏が動き始める。8月には頼朝が伊豆で挙兵し、甲斐源氏も兵を集めた。
義仲も信濃で立ち上がる。
当初の義仲を支えたのは、中原兼遠の子である樋口兼光、今井兼平ら、木曾と結びついた武士たちだった。そこから義仲は木曾谷を離れ、東信濃や上野へ活動範囲を広げていく。
治承4年9月には、北信濃で平氏方の笠原頼直と衝突した。
『吾妻鏡』が「市原」と記す戦いである。
現在の長野市若里周辺にあった市村付近とみる説が有力で、義仲方には村山義直や栗田寺の僧兵が加わった。
善光寺平一帯には笠原氏、布施氏、富部氏、保科氏など平氏方の武士も多く、北信濃は義仲が簡単に支配できる土地ではなかった。
市原で笠原頼直を退けたあと、義仲は上野へも進出する。
『吾妻鏡』によれば、同年10月には上野へ入り、12月に信濃へ戻った。
こうした動きから、横田河原のころの義仲が木曾谷だけを基盤としていたわけではないことが分かる。佐久・小県を中心とする東信濃や、西上野の武士との結びつきも軍事力を支えていた。
信濃へ攻め込もうとしていた越後の城氏
義仲の勢力拡大を警戒したのが、越後の城氏だった。
城氏は桓武平氏の系統を引く武士団で、平維茂の子孫とされる。
越後北部の奥山荘などへ勢力を広げ、治承年間には越後を代表する武士団の一つとなっていた。
当時の棟梁は城太郎資永だった。
治承4年の末、平氏政権は東国で広がる反乱への対応を進めており、資永も信濃方面への軍事行動を準備していた。
ところが治承5年の初め、資永が急死する。
死去の月については史料整理にも二月・三月の違いがみられる。長野市誌第二巻は二月、同十五巻では三月としている。
城氏の指揮を引き継いだのが弟の四郎資職だった。
史料には「助職」とも書かれ、後には「長茂」と名乗ったため、城長茂の名でも知られている。
兄を失った城氏は信濃侵攻を中止しなかった。
資職は軍勢を立て直し、5月ごろから南へ動き始める。
城資職の軍勢、信濃へ入る
越後から北信濃へ入った資職軍は、当初かなりの勢いで進んだ。
このときの状況を伝える重要な史料が、九条兼実の日記『玉葉』である。
兼実が横田河原の情報を記したのは治承5年7月1日。
戦場から直接見た記録ではないものの、情報の経路が比較的はっきりしている。
兼実は藤原兼光から話を聞き、兼光は後白河院の御所で越後の知行国主・藤原光隆から聞いたという。越後国府を通じて入ってきた情報だった可能性が高い。
その『玉葉』によれば、信濃へ入った資職を迎え撃とうとする者は、初めのうちはほとんどいなかった。
降伏を申し出る勢力が続き、抵抗して城へ籠もった者も簡単に攻め落とされた。
資職側は信濃平定が近いと考えていたという。
越後から大軍を率いてきた城氏を前に、信濃の武士たちが一斉に義仲へ従ったわけではなかった。
北信濃には以前から平氏方の勢力が多い。
笠原頼直、布施惟俊、富部家俊、保科氏ら、義仲と対立する武士も存在していた。
資職軍はこうした勢力とも結びつきながら、千曲川沿いを南へ進んでいった。
義仲軍は白鳥河原から北へ向かった
城氏の進軍を知った義仲も軍勢を集めた。
義仲がどこから出陣したのかについて、軍記の記述は一致しない。
『平家物語』では、義仲が依田城にいたとする。
依田城は現在の長野県上田市丸子地域に比定される。
『源平盛衰記』では、さらに東の海野荘白鳥河原に兵を集めたと描く。現在の東御市付近で、千曲川沿いに位置する。
長野市誌では、東信を中心に軍勢を整えた義仲が白鳥河原から北上し、横田河原へ向かった流れを採っている。
義仲軍の中核には木曾の武士だけでなく、信濃各地の勢力がいた。
ここで『玉葉』は興味深い記録を残している。
資職軍を襲った源氏勢力を、
「キソ党」
「サコ党」
「甲斐国武田党」
の三つに分けて記しているのである。
「キソ党」は義仲を中心とする勢力と考えてよい。
「サコ党」は佐久の武士団とする説がある一方、「タコ党」の誤記として上野国多胡荘周辺の武士を指すとみる説もある。
武田党についても、甲斐源氏が実際にどこまで加わっていたのか確定していない。
『平家物語』には、この三つの勢力をそのまま示す記述がない。
横田河原で戦った反城氏勢力が、すべて義仲の直接的な家臣として統一されていたのではなく、
義仲を中心に、信濃・上野、場合によっては甲斐の武士が同じ敵を相手に集まった軍勢だった可能性がある。
横田河原――善光寺平南部の決戦
城資職が陣を置いた横田河原は、現在の長野市篠ノ井横田付近にあたる。
千曲川が善光寺平へ入る一帯で、周囲には信濃国内を結ぶ交通路が通っていた。
この地域には平氏方の武士も多かった。
横田付近に勢力を持った布施氏、富部氏などが城氏に加わったことも、軍記物語には記されている。
戦いが行われた日は史料によって違う。
『吾妻鏡』は寿永元年(1182年)10月9日。
『平家物語』や『源平盛衰記』の諸本では治承5年6月25日前後。
『玉葉』は6月13日、14日ごろとする。
『吉記』には6月27日の段階ですでに城資職敗走の情報が京へ届いているため、信濃で25日に戦いが起こり、その二日後に京都まで情報が到着したとは考えにくい。
横田河原の戦いは、治承5年(1181年)6月13~14日ごろに起きたとみるのが最も自然である。
墨俣川で源行家が平氏軍に敗れた3月10日から、わずか約3か月後のことだった。
大軍を率いた城氏は、勝利を確信していた
城氏の兵数も史料によって大きく違う。
『平家物語』では四万余騎。
別の軍記では三万騎規模の数字も現れる。
義仲軍については『平家物語』が三千余騎としている。
中世の軍記に出てくる「騎」は軍勢の規模を強調する表現として使われることがあり、従者や徒歩兵を含む実人数も分からない。
同時代の『玉葉』が伝える城氏軍は「万余騎」である。
実数を確定する材料にはならないものの、越後から相当規模の軍勢が動いたことは間違いない。
資職軍は信濃へ入ってから連戦を続け、ほとんど抵抗を受けずに横田河原まで進んできた。
ところが長距離の行軍と戦闘を重ねた兵には疲労が蓄積していた。
『玉葉』は、その状態で信濃源氏の攻撃を受けたと記す。
資職軍にとって、横田河原までの順調な進軍がかえって油断を生んだ可能性もある。
義仲方が三手から襲いかかる
横田河原で何が起こったのか。
同時代に最も近い『玉葉』の記録は、戦闘の細かな内容までは記載がない。
それでも、軍勢が崩れた瞬間についてははっきりしている。
城資職の軍勢が勝利を確信していたところへ、信濃の源氏勢力が三手から襲いかかった。
木曾党。
佐久党とみられる勢力。
武田党と記された一団。
長い軍旅で疲れていた城氏軍は、突然の攻撃を受けた。
『玉葉』が京へ伝えた情報では、城氏の兵たちは「一矢を射る間もなく」敗れたという。
表現には敗報を伝える側の誇張が含まれている可能性がある。
それでも、資職軍が十分な陣形を整える前に攻撃を受け、短時間で統制を失った様子は読み取れる。
横田河原の勝敗を決めたのは、後世に有名になる一つの奇策だけではなかった。
複数方向からの攻撃と、長距離を進んできた城氏軍の疲労が重なり、大軍が一気に崩れていった。
『平家物語』が描いた「赤旗から白旗へ」
横田河原には、もう一つ有名な戦闘場面が伝わっている。
井上九郎光盛による赤旗の奇策である。
『平家物語』では、義仲軍を三千余騎とし、井上光盛の策によって七手に分けたとする。
兵たちは平氏方の印である赤旗を用意した。
山や谷から赤旗を掲げた軍勢が現れる。
城氏の兵から見れば、近づいてくるのは味方に見える。
平氏側に加勢する信濃の武士が来たと思わせ、距離を詰めた。
やがて七手の軍勢が一つになる。
その瞬間、赤旗が捨てられた。
代わって掲げられたのが、源氏の白旗だった。
鬨の声とともに義仲方が襲いかかり、城氏の兵は混乱して崩れた――という。
横田河原を代表する逸話だが、これは『平家物語』が伝える戦闘描写である。
同時代の『玉葉』には、井上光盛も赤旗も出てこない。
長野市誌も、軍記に残った個々の逸話には実際の戦闘経験が反映されている可能性を認めつつ、それだけを横田河原合戦の全体像とみることには慎重な立場を取っている。
実際に旗を利用した偽装が行われた可能性はある。
崩れた城氏軍――資職は傷を負って逃げた
城氏軍が崩れると、敗走は激しいものになった。
ここでも『玉葉』の記録が具体的である。
資職は身体の二、三か所に傷を負った。
追撃を受けながら逃れるうちに甲冑を脱ぎ捨て、弓矢も捨てたという。
それを捨てなければ逃げ切れないほど追い詰められたことになる。
越後から率いてきた軍勢は「万余騎」。
資職と一緒に本国へ戻ったのは「三百余騎」。
『玉葉』は残る「九千余騎」について、谷へ落ちて命を失った者、山林へ逃げ込んで行方が分からなくなった者がいたと記している。
九千余人が戦死したという意味ではない。
逃亡して軍から離れた者や、山中へ散った兵まで含めた数字である。
それでも、万余騎とされた軍勢が組織的な戦闘能力を失い、資職がわずかな兵を連れて越後へ戻ったという報告から、敗北の大きさは十分に伝わる。
城氏軍は信濃から押し戻された。
信濃の武士同士も敵と味方に分かれた
『平家物語』『源平盛衰記』には、横田河原で戦った信濃武士の姿も描かれている。
平氏方についた富部家俊と義仲方の西七郎との戦い、富部家俊の郎党・杵淵重光が主人の仇を討とうとして戦死した話などがその代表である。
細かな一騎討ちは『玉葉』では確認できず、軍記物語として扱う必要がある。
その背景に、北信濃の武士たちが二つに分かれていた事実はあった。
横田河原の周辺には、笠原、布施、富部、保科など平氏方の勢力が存在している。
一方で、村山義直や栗田寺の勢力は義仲に加わった。
横田河原は、京都の平氏一門と義仲が直接ぶつかった戦いではない。
越後の城氏と義仲を軸に、信濃国内の武士たちも敵味方に分かれて戦った。
治承・寿永の内乱が、源氏と平氏という二つの家だけで完結する戦争ではなかったことが、北信濃の戦場からも見えてくる。
横田河原で、義仲の勢力は一段大きくなった
義仲は横田河原以前にも戦っている。
市原では笠原頼直を破り、東信濃や上野へ勢力を広げていた。
それでも、頼朝のように広い地域を掌握した存在にはまだなっていない。
横田河原で破った城氏は、越後を代表する大勢力だった。
しかも資職軍は、大軍を率いて信濃へ攻め込み、各地の勢力を従わせながら進んできている。
その軍勢を信濃から追い返した。
横田河原の勝利は、義仲の軍事的な評価を大きく押し上げた。
義仲のもとへ武士が集まる理由も増える。
強い武将のもとに従えば、自らの土地を守り、敵対勢力を倒せる可能性が高くなる。
武士たちが主従関係を選びながら動いていた時代、戦場での勝利そのものが次の軍勢を生み出した。
横田河原は、義仲にその力を与えた戦いだった。
勝っても、すぐ京都へ向かったわけではない
横田河原で城氏を破ったあと、義仲がそのまま京都へ攻め上ったわけではない。
治承5年から養和年間にかけて、日本列島は深刻な飢饉に襲われた。
とくに畿内から西国では食糧不足が広がり、大軍を長期間動かすための兵粮確保も難しくなる。
平氏側も大規模な東国遠征を続けられる状況ではなくなった。
義仲は信濃を基盤に勢力を整えながら、北陸方面へ目を向けていく。
平氏も城氏を見捨てたわけではない。
横田河原の敗北後も、資職には義仲追討の役割が求められている。
それでも、越後から信濃へ大軍を送り込んで義仲を一気に押さえ込む構想は、横田河原で大きく後退した。
その間に北陸道でも反平氏の動きが広がる。
越前、加賀、越中。
戦場はしだいに北陸へ移っていった。
二年後、義仲は平氏の大軍を迎える
横田河原から約二年が過ぎた寿永2年(1183年)。
平氏は北陸道の反乱を鎮圧するため、大規模な軍勢を送り出した。
総大将格となったのは平維盛。
前年まで信濃で戦っていた城氏とは違い、今度は平氏一門が率いる追討軍が義仲の前へ進んでくる。
義仲も横田河原当時とは違っていた。
信濃で勢力を築き、北陸の武士たちとも結びつき、大軍を迎え撃てる存在へ成長している。
横田河原で越後の城氏を破った経験から二年。
義仲と平氏軍は、北陸道をめぐる激しい攻防へ入る。
その先に待っていたのが、寿永2年5月の倶利伽羅峠の戦いだった。
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