【人物編Vol.69】平通盛――一ノ谷の前夜、身重の妻と別れ湊川で討たれた越前三位

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人物

第139回

寿永3年(1184年)2月7日、摂津国の一ノ谷で平家軍が敗れた。

源氏軍は東西と山側から攻撃を仕掛け、平家の防衛線を次々に突破していく。

福原の山手を守っていた平通盛も、敗走する軍勢の中にいた。

『平家物語』によれば、通盛は湊川の下流で七騎の敵に囲まれ、討ち取られたという。

その日の夕暮れ、平家の船団に一人の武士が戻ってきた。

君田滝口時員。

通盛に仕えていた家人である。

時員は主人の妻が乗る船へ向かい、通盛の最期を伝えた。

敵に囲まれた主人を助けられず、自分だけが生き延びたことを詫びたと伝わる。

妻の名は小宰相局。

かつて上西門院に仕え、宮中でも評判の美貌を持つ女性だった。

『平家物語』によれば、通盛は小宰相局を見初め、三年間も恋文を送り続けた末に結ばれたという。

一ノ谷の決戦前夜、通盛はその妻を陣地へ呼び寄せていた。

翌日の戦いで、自分は討たれるかもしれない。

そう語る夫に、小宰相局は子を身ごもっていることを打ち明けたと伝えられる。

通盛は喜び、子が無事に生まれることを願った。

しかし、翌日の戦いから帰ってくることはなかった。

小宰相局は夫の死を知らされた後、屋島へ向かう船の中で数日間を過ごした。

そして2月13日の夜、夫の後を追って海へ身を投げたと『平家物語』は記している。

通盛は平清盛の弟・平教盛の長男である。

若いころから朝廷の官職を歴任し、安元2年(1176年)には越前守に任じられた。

その後、北陸で反平家勢力の討伐にあたり、越前での敗北や敦賀への退却を経験する。

寿永2年(1183年)には従三位へ昇進し、「越前三位」と呼ばれるようになった。

しかし、同じ年の北陸遠征でも平家軍は木曾義仲に大敗し、ついには京都を離れることになる。

通盛が宮廷で官位を高めていった時期は、平家が各地で軍事的な支配を失っていく時期とも重なっていた。

平教盛の長男として生まれる

平通盛は、平教盛の長男として生まれた。

父の教盛は平忠盛の子で、平清盛の異母弟にあたる。

通盛にとって清盛は伯父、忠盛は祖父となる。

通盛の正確な生年は明らかになっていない。

1150年代前半の生まれとする説があり、1153年や1155年などの数字も伝わるが、確実な出生年を示す史料は乏しい。

母は藤原資憲の娘とされる。

通盛には弟として教経、業盛らがいた。

教経は能登守として知られ、『平家物語』では優れた武勇を持つ人物として描かれる。

業盛も平家一門の公達として成長し、兄の通盛と同じ一ノ谷の戦いで討死した。

このほか、教盛の子には僧となった忠快や盛縁らの名が系図に残されている。

父の教盛は、清盛を中心とする平家一門の中でも重要な立場にあった。

朝廷の官職を歴任し、宮廷の有力者たちと婚姻関係を結びながら地位を高めていった人物である。

通盛も、そのような家に長男として生まれた。

幼少期の暮らしについては詳しい記録が残されていない。

一方、官位を得た時期は系図や官歴資料から追うことができる。

通盛はまだ幼いうちから朝廷に仕え、成人するころには平家一門の有力な官人となっていた。

「門脇中納言」と呼ばれた父・教盛

父の教盛は、平家一門の政治と軍事を支えた人物だった。

清盛の弟として朝廷に仕え、後には中納言へ昇進する。

「門脇中納言」という呼び名でも知られている。

門脇は、教盛の邸宅の位置に由来するとされる名称である。

清盛の家が平家一門の中心となる一方、教盛の家も有力な家系として地位を高めていった。

教盛の娘たちは宮廷の有力者と婚姻関係を結んでいる。

藤原範季や源通親ら、後白河法皇の周辺で活動した人物とのつながりも知られている。

教盛の家は、こうした関係を通じて朝廷の人々と結びついていた。

長男の通盛は官人として昇進を重ね、弟の教経も軍事面で活動するようになる。

教盛自身も平家の軍事行動に関わり、源氏との戦いが始まると一門を率いて各地へ向かった。

通盛はその父のもとで、平家の政治的な地位と軍事的な役割を引き継いでいく立場にあった。

若くして五位に叙される

通盛は永暦元年(1160年)、従五位下に叙された。

平安時代の朝廷では、五位以上の位階を持つ者は貴族社会の中で一定の地位を認められていた。

通盛は幼いころから、その身分を得ていたことになる。

その後、長寛2年(1164年)には中務大輔となり、永万元年(1165年)には常陸介を兼ねた。

中務大輔は中務省の次官、常陸介は常陸国の国司の次官にあたる官職である。

さらに左兵衛佐や能登守などを歴任した。

仁安3年(1168年)には従四位下へ昇進する。

承安2年(1172年)には従四位上、さらに正四位下となった。

このころ、伯父の清盛は朝廷で大きな権力を握っていた。

保元の乱と平治の乱を経て勢力を高め、仁安2年(1167年)には太政大臣に就任している。

清盛の子や弟、その子どもたちも次々に官職を与えられた。

通盛の昇進も、そうした一門の勢力拡大と重なっていた。

ただし、幼い通盛が各官職でどの程度の実務を担っていたのかについては、詳しい記録が乏しい。

成人後になると、宮廷儀礼への参加を示す記事が現れるようになる。

安元2年、越前守に任じられる

安元2年(1176年)正月、通盛は越前守に任じられた。

九条兼実の日記『玉葉』では正月30日の任官とされる。

一方、『公卿補任』では正月20日と記されており、日付には違いがある。

越前国は現在の福井県北部から敦賀周辺にあたる地域である。

北陸道が通り、日本海側の交通にも関わる重要な国だった。

当時、越前国の知行国主は平重盛である。

重盛は清盛の嫡男で、通盛にとって従兄にあたる。

知行国主は、その国の国司人事や収入に大きな影響力を持つ立場だった。

重盛が越前国を知行し、教盛の長男である通盛が越前守を務める。

平家一門の二つの家が、越前国の支配を通じて結びついていたのである。

通盛はこの官職に就いてからも、京都の宮廷儀礼に参加した。

安元2年3月6日には、後白河法皇の50歳を祝う行事に奉仕したことが記録されている。

また、治承2年(1178年)8月19日には、中宮の御祓で陪膳を担当した。

陪膳は、宮廷の儀式で食膳を扱う役務である。

『山槐記』には、同年10月にも通盛が中宮に関する御祓や祈祷の行事に参加したことが記されている。

通盛は越前守として地方の支配に関わる一方、京都では宮廷の儀礼にも携わっていた。

越前国が支えた平家の宮廷生活

越前守の役割は、現地の行政だけに限られていたわけではなかった。

国からの収入や物資を朝廷へ納め、儀式に必要な費用を負担することも重要だった。

治承3年(1179年)正月、『山槐記』には越前国の負担に関する記事が残されている。

高倉天皇が後白河法皇のもとへ新年の挨拶に向かう際、越前守の通盛へ物資の調達を命じようとしたという。

ところが、担当者が負担の種類を取り違え、知行国主である重盛のもとへ使者を送ってしまった。

そのため、負担の扱いをめぐって問題が起こったと記されている。

また、東宮の誕生を祝う儀式でも、越前守の通盛が必要な物資の一部を負担していた。

こうした記事からは、地方の国司と京都の宮廷が具体的な物資のやり取りによって結びついていたことがわかる。

平家一門が各地の国司や知行国主となったことには、朝廷での権力を支える財源を確保する意味もあった。

越前国は、その重要な基盤の一つだった。

しかし治承3年、通盛はこの越前守の地位を一度失うことになる。

平重盛の死と越前守の解任

治承3年(1179年)7月、平重盛が死去した。

重盛は清盛の嫡男で、朝廷における平家の政治を支えてきた人物である。

その死後、後白河法皇は重盛が知行していた越前国を召し上げた。

10月9日、藤原季能が越前守に任じられる。

通盛は越前守を解かれた。

平家にとって、長年関わってきた知行国を取り上げられたことは大きな問題だった。

清盛と後白河法皇の関係は、それ以前から悪化していた。

法皇は平家への権力集中を抑えようとし、清盛は一門が得てきた地位や権益を守ろうとしていた。

越前国の召し上げは、その対立をさらに深める。

11月14日、清盛は福原から大軍を率いて京都へ入った。

治承三年の政変である。

清盛は後白河法皇の近臣たちを官職から退け、朝廷の政治を掌握した。

11月17日、藤原季能が越前守を解任される。

翌18日、通盛は再び越前守に任じられた。

さらに20日には、後白河法皇が鳥羽殿に幽閉された。

通盛はわずか1か月余りで失った官職を取り戻したのである。

越前守をめぐる人事は、清盛と後白河法皇の対立に直接左右されていた。

中宮亮として徳子に仕える

通盛は治承3年、中宮亮も務めた。

中宮亮は中宮職の次官で、中宮に関する事務や儀礼を担当する官職である。

当時の中宮は平徳子。

清盛の娘で、高倉天皇の中宮となっていた女性だった。

通盛にとっては従姉妹にあたる。

徳子は治承2年(1178年)、言仁親王を産んでいる。

後の安徳天皇である。

平家は徳子を通じて皇室との関係を強めており、中宮職も一門にとって重要な役所だった。

通盛は越前国の国司としての経歴を持ちながら、徳子の中宮職にも関わるようになった。

この中宮亮への任官時期は、小宰相局との出会いを描いた『平家物語』を読む際にも関係してくる。

『平家物語』では、通盛が中宮亮として花見に参加し、小宰相局を見初めたと描かれている。

しかし、その場面の年代を安元年間とする記述は、1179年の中宮亮就任時期と一致しない。

出会いの詳しい時期や状況は、後世の物語の中で整理された可能性がある。

一方、通盛と小宰相局が結ばれたことは、別の史料からも知ることができる。

上西門院に仕えた小宰相局

小宰相局は、上西門院に仕える女房だった。

上西門院は鳥羽天皇の皇女・統子内親王で、後白河法皇の姉にあたる。

その周囲には、宮廷の儀礼や日常生活を支える女房たちが仕えていた。

小宰相局もその一人である。

父は刑部卿藤原憲方とされ、『平家物語』には「則方」と記す伝本もある。

小宰相局は容姿に優れた女性として知られていた。

『平家物語』では、宮中第一の美女とまで称されている。

その評判は、同時代を生きた女房歌人の記録からもうかがえる。

建礼門院右京大夫である。

右京大夫は平徳子に仕え、平重盛の子・資盛とも深い関係を持っていた女性だった。

宮廷における平家一門の栄華と、戦乱によって失われていく人々の姿を、自らの歌集に書き残している。

『建礼門院右京大夫集』には、豊明節会のころ、上西門院の女房たちが見物に訪れたという記述がある。

その中で小宰相局は、特に目を引く美しさだったという。

右京大夫は、額にかかる髪の様子まで覚えていたと記している。

その小宰相局が通盛の妻となったことも、右京大夫の記憶に残されていた。

法勝寺の花見で始まったという恋

『平家物語』巻第九「小宰相身投」には、通盛と小宰相局が結ばれるまでの経緯が詳しく描かれている。

小宰相局が16歳のころ、仕えていた女院が法勝寺へ花見に出かけたという。

法勝寺は白河天皇が建立した寺院で、京都の白河にあった。

女院に仕える小宰相局も、この花見に同行していた。

通盛はその場で小宰相局の姿を見て、心を奪われたと伝えられる。

その後、和歌や恋文を送り始めた。

しかし、小宰相局からは返事が来なかった。

当時の宮廷社会では、男女が和歌や文を交わしながら関係を深めることがあった。

返歌を受け取れるかどうかは、交際の行方を左右する重要な出来事である。

通盛は何度も手紙を送ったものの、小宰相局は応じなかった。

『平家物語』では、その期間は三年間に及んだという。

やがて通盛は、これを最後にしようと考え、一通の文を書いた。

使いの者は小宰相局のもとへ向かったが、直接渡すことができなかった。

その帰り道、偶然にも小宰相局の乗る牛車に出会う。

使いはその機会を逃さず、文を届けようとしたと伝わる。

牛車の簾へ投げ込まれた最後の恋文

『平家物語』によれば、通盛の使いは小宰相局の牛車を見つけると、簾の内側へ文を投げ入れた。

小宰相局は突然のことに驚いた。

誰が投げ入れたのか尋ねても、供の者たちははっきり答えない。

文を開くと、通盛からのものだった。

小宰相局はそれを車の中に置いていくことも、道端へ捨てることもできなかった。

そこで袴の腰に挟み、御所へ向かったという。

ところが、宮仕えの最中に文を落としてしまう。

場所は女院の御前だった。

女院は文を拾い、誰のものなのかと尋ねた。

周囲の女房たちは知らないと答えたが、小宰相局だけは顔を赤らめ、何も言えなかったという。

女院は以前から、通盛が小宰相局へ思いを寄せていることを知っていたと伝わる。

文を開くと、そこには通盛の恋心が細かく書き連ねられていた。

最後には一首の和歌が記されていた。

「わが恋はほそ谷川のまろき橋ふみかへされてぬるる袖かな」

細い谷川に架かる丸木橋を何度も踏み返すように、繰り返し文を送り、涙で袖を濡らしている。

そのような恋の苦しさを詠んだ歌である。

女院は小宰相局に返事をするよう勧め、自ら返歌を記したと『平家物語』は伝えている。

こうして、長い間返事を得られなかった通盛の恋に、ようやく進展があったという。

三年間の求婚や牛車での出来事、女院による仲立ちは軍記物語が伝える逸話である。

一方、二人が夫婦となったことは『建礼門院右京大夫集』にも記録されている。

『建礼門院右京大夫集』に残る結婚の話

右京大夫は、以前から小宰相局を恋い慕っていた男性がいたことを記している。

その男性は長く思いを寄せていたものの、小宰相局は通盛と結ばれた。

恋が実らなかった男性は、深く嘆いていたという。

右京大夫はその話を聞き、一首の歌を送った。

「さこそげに君なげくらめ心そめし山のもみぢを人にをられて」

心を寄せていた紅葉を、別の人に折り取られてしまった。

あなたはさぞ嘆いていることだろう。

そのような意味の歌である。

すると男性も、別の人が折り取った紅葉に、どうして心を寄せてしまったのだろうと返した。

右京大夫は、このやり取りを当時は戯れを交えた恋の話として受け止めていた。

しかし、その後に起こった出来事を知り、二人の結婚を思い返すことになる。

通盛が一ノ谷で討死し、小宰相局が夫の後を追って海へ身を投げたのである。

右京大夫はその知らせに接し、二人の結びつきの深さをあらためて感じたと記している。

『建礼門院右京大夫集』は、通盛と小宰相局の結婚が当時の宮廷でも知られていたことを伝えている。

また、小宰相局の入水が、平家の船団にいた人々だけでなく、京都の宮廷にも伝わっていたことがわかる。

平宗盛の娘との婚姻と子どもたち

通盛には、小宰相局以外にも妻がいたと伝えられている。

系図類には、平宗盛の娘が通盛の妻となったことが記されている。

宗盛は清盛の子であり、通盛とは従兄弟同士だった。

宗盛の娘との婚姻は、清盛の家と教盛の家を結びつけるものでもあった。

一方、小宰相局は上西門院に仕えており、朝廷の女房たちと深い関係を持っていた。

通盛はこうした婚姻を通じ、平家一門の内部と宮廷社会の双方に関わっていたのである。

ただし、通盛がそれぞれの女性と結婚した正確な時期はわからない。

通盛の子としては、平通衡の名が系図に残されている。

その母についても、はっきりした記録は乏しい。

後に『平家物語』では、一ノ谷の決戦前夜に小宰相局が妊娠を告げ、通盛が初めて子を授かったことを喜んだと描かれる。

しかし、通衡の存在を伝える系図や、通盛の遺児に関する『吾妻鏡』の記事も残されている。

夫婦の最後の会話については、物語が伝える内容と実際の家族関係を分けて考える必要がある。

源氏の挙兵と越前国の動揺

治承4年(1180年)、各地で反平家の動きが始まった。

5月には以仁王と源頼政が挙兵し、8月には伊豆国で源頼朝が立ち上がる。

信濃国では木曾義仲が勢力を伸ばし、北陸でも平家に従わない武士たちが活動を始めていた。

通盛にとって、特に重要だったのが越前国の情勢である。

越前は長年にわたって平家一門が国司や知行国主を務めてきた土地だった。

しかし、在地武士や寺社勢力のすべてが、平家の支配を受け入れ続けたわけではなかった。

義仲の挙兵を受け、越中や加賀では反平家の動きが広がっていく。

その影響は越前にも及んだ。

治承4年12月2日、『明月記』には越前守通盛らの追討使が近江方面へ出発したことが記されている。

同じころ、平家は近江や美濃で活動する反乱勢力の鎮圧にあたっていた。

通盛は越前守としての立場を持ちながら、軍事行動にも参加するようになった。

そして翌年、北陸での反乱はさらに激しくなっていく。

清盛の死と墨俣川の戦い

治承5年(1181年)閏2月4日、平清盛が死去した。

平家一門の中心となったのは清盛の子・平宗盛である。

しかし、源氏との戦いは収まらなかった。

同年3月、尾張国の墨俣川付近で平家軍と源行家の軍勢が衝突した。

行家は源為義の子で、頼朝や義経の叔父にあたる。

以仁王の令旨を各地の源氏へ伝え、平家打倒を呼びかけた人物でもあった。

平家方では平重衡らが軍勢を率い、通盛も追討軍に加わったと伝えられている。

『吾妻鏡』によれば、行家軍は夜間に墨俣川を渡り、平家の陣へ奇襲を仕掛けようとした。

しかし、その動きを察知した平家軍が反撃する。

行家方は敗れ、頼朝の異母弟・源義円も討死した。

一方、同時代の日記『吉記』には、越前守の軍勢に属する者たちも多数討たれたという情報が記されている。

戦いの経過や損害については伝わる記録に違いがあり、通盛自身の具体的な行動を詳しく追うことは難しい。

ただし、墨俣川の戦いが行われたころ、通盛の率いる勢力も東海道での軍事行動に関わっていたことがうかがえる。

平家はこの戦いで勝利したものの、東国における頼朝の勢力を弱めることはできなかった。

さらに北陸では反平家勢力が拡大し、通盛は越前へ向かうことになる。

養和元年、越前へ出陣する

養和元年(1181年)夏、北陸では平家に対する反抗が広がっていた。

7月17日、九条兼実の日記『玉葉』には、越中や加賀の国人たちが源氏方に加わり、その影響が越前まで及んでいることが記されている。

翌18日には、越前守の通盛が北陸へ向かうという風聞も記録された。

8月14日、朝廷は北陸道の反乱勢力を討つため、追討の宣旨を下した。

翌15日、平経正が北陸へ出発する。

そして16日には、通盛も進発したと『吾妻鏡』は伝えている。

経正は平経盛の子で、通盛の従兄弟にあたる。

琵琶の名手として知られる一方、平家の軍事行動にも参加していた人物だった。

通盛はこの出陣に際し、越前守を辞任している。

8月15日には平親房が後任の越前守に任じられた。

通盛は国司の地位を離れ、北陸を平定する武将として越前へ向かったのである。

ところが、そのころ越前の情勢は急速に悪化していた。

8月23日、加賀方面から反平家勢力が越前へ攻め込み、大野郡や坂北郡を焼き払ったと『吉記』に記されている。

平家が長年支配してきた越前国で、戦いが本格化していた。

越前国府で援軍を求める

通盛は越前国府に入り、反乱勢力への対応にあたった。

国府は現在の福井県越前市周辺に置かれていたと考えられている。

『吉記』には、9月1日、通盛が国府にいて京都へ援軍を求めたという風聞が記録されている。

平家方は加賀以北の勢力を抑えることができず、越前国内にも命令に従わない武士たちが現れていた。

9月2日には、そのような状況が京都へ伝わっている。

通盛は越前守として長く関わってきた土地で、平家の支配を守ろうとしていた。

しかし、現地の武士たちは一枚岩ではなかった。

北陸の有力な寺社勢力も、それぞれの立場から行動していた。

なかでも白山平泉寺は、宗教的な権威だけでなく、武力を持つ大きな勢力だった。

こうした在地の協力を得られるかどうかが、平家軍の行動を左右することになる。

そして9月、通盛の軍勢は相次いで敗北した。

稲津実澄と平泉寺斉明の離反

養和元年9月6日、通盛は越前での戦いに敗れたと記録されている。

『百錬抄』や『吉記』によれば、その背景には在地勢力の離反があった。

名前が挙げられているのが、稲津新介実澄と平泉寺斉明である。

実澄は越前の在地武士、斉明は白山平泉寺に関わる有力者だった。

この二人が平家方を離れ、敵方に加わったと伝わる。

平家軍は、京都から派遣された武士だけで戦っていたわけではなかった。

現地の国人や寺社勢力の協力を得て、軍勢を維持していた。

その協力が失われれば、補給や情報収集にも支障が生じる。

通盛は敵との戦闘だけでなく、在地勢力の離反によっても追い詰められていった。

越前国府を守り続けることは難しくなり、軍勢は南へ退却する。

向かった先は敦賀だった。

しかし、その途中にも敵が待ち受けていた。

水津の戦い――敦賀まで退却する

越前国府から敦賀へ向かう北陸道には、山と海が迫る険しい場所があった。

水津である。

現在の福井県敦賀市杉津付近にあたる。

『吾妻鏡』9月4日条には、木曾義仲方の根井太郎行親が水津まで進出し、通盛の軍勢と戦ったことが記されている。

ただし、1181年の段階で義仲が北陸の武士たちをどこまで直接指揮していたのかについては、史料上の検討が必要となる。

『福井県史』でも、北陸の反平家勢力の動きを義仲の軍勢だけにまとめて理解することには慎重な見方が示されている。

水津方面での戦いの後、通盛はさらに南へ退いた。

9月10日ごろには敦賀の城まで退却し、援軍を求めていたと『吉記』に記されている。

従兄弟の経正は若狭方面にいたが、通盛が期待した援軍は十分に届かなかった。

『玉葉』には、通盛が敦賀の城から山中へ逃れようとしているという風聞も残る。

通盛の軍勢は、北陸の反乱勢力を抑えるどころか、越前南部の拠点を守ることにも苦しんでいた。

平家は追加の追討軍を派遣しようとしたが、兵の不足などによって計画は遅れた。

通盛は敦賀から反撃するだけの兵力を確保できず、京都へ戻ることになる。

北陸での敗北と帰京

養和元年11月、通盛は北陸から京都へ戻った。

『吾妻鏡』では11月21日、『吉記』では20日の帰京とされている。

一方、経正はなお若狭にとどまっていたという。

通盛は越前国府を守りきれず、水津で敵と戦い、敦賀まで退いた末に帰京したのである。

平家はその後も北陸へ軍勢を派遣しようとした。

しかし、当時は飢饉や疫病も深刻化しており、兵力や食糧の確保は容易ではなかった。

寿永元年(1182年)には、通盛の父・教盛を北陸へ派遣する案も出たと記録されている。

それでも平家は北陸で失った支配を回復できなかった。

木曾義仲は北陸の武士たちを集め、勢力を拡大していった。

通盛が敗れた越前の情勢は、その後の大規模な北陸遠征へつながっていく。

そして寿永2年、通盛は再び北陸へ向かうことになった。

「越前三位」と呼ばれる

寿永2年(1183年)2月、通盛は従三位に昇進した。

三位は公卿に列する位階である。

通盛は参議に任じられないまま従三位となり、「越前三位」と呼ばれるようになった。

越前守を務めた経歴と三位の位階を組み合わせた呼び名だった。

『平家物語』でも、この名が繰り返し使われている。

通盛にとって大きな栄達である。

しかし、前年までに北陸の支配は大きく揺らいでいた。

木曾義仲は信濃から北陸へ勢力を伸ばし、越前・加賀・越中の武士たちも平家に反抗している。

平家はこの動きを抑えるため、再び大軍を派遣することを決めた。

三位に昇進した通盛も、遠征軍の大将の一人に選ばれた。

宮廷で高い位階を得た通盛は、その直後に北陸の戦場へ向かうことになったのである。

倶利伽羅峠――維盛とともに大軍を率いる

寿永2年4月、平家は木曾義仲を討つため北陸へ軍勢を進めた。

総大将格となったのは平維盛。

通盛も有力な大将の一人として加わっていた。

平家軍はまず越前へ進み、燧城を攻める。

燧城は現在の福井県南越前町付近にあったとされる山城で、北陸道を押さえる重要な拠点だった。

平家はこの城を攻略し、さらに加賀方面へ進軍する。

『平家物語』によれば、平家軍は篠原付近で軍勢を二手に分けた。

そのうち砺波山へ向かった大軍の大将として、維盛と通盛の名が挙げられている。

前年に越前で敗れた通盛は、今度は平家の主力軍を率いる立場として北陸へ戻ってきたのである。

しかし、木曾義仲は北陸の在地武士たちを集め、迎撃の準備を進めていた。

5月11日、加賀国と越中国の境に近い倶利伽羅峠付近で両軍が激突する。

平家軍は大敗した。

『平家物語』には、義仲が平家軍を谷へ追い落としたという話が描かれている。

また、牛の角に松明をつけて敵陣へ追い込んだという火牛の逸話も知られる。

戦闘の詳しい経過や軍勢の数には軍記物語の脚色が含まれると考えられるが、平家軍が北陸で大きな損害を受けたことは確かである。

通盛自身が戦場のどの位置にいて、どのように退却したのかまでは明らかになっていない。

その後、平家軍は加賀国の篠原でも敗れ、北陸方面の主力を失った。

通盛は前年に続き、北陸で大きな敗北を経験した。

延暦寺への協力要請と都落ち

倶利伽羅峠で勝利した義仲は、北陸道から京都へ向かって進軍した。

平家は主力軍を失い、都の防衛も難しくなっていた。

寿永2年7月5日、平家一門は延暦寺へ協力を求める願文を送ったと伝えられている。

この願文には平宗盛や教盛、知盛らとともに、通盛の名も見える。

平家は比叡山の僧兵を味方につけ、京都を守ろうとしていた。

しかし、延暦寺の勢力は平家に従わず、義仲方へ傾いていく。

一門は最後の有力な防衛の手段を失った。

7月25日、平宗盛らは安徳天皇と三種の神器を伴い、京都を離れた。

通盛も父の教盛や弟たちとともに西国へ向かった。

小宰相局も平家一門の船団に加わったと伝えられる。

京都の宮廷で暮らしていた小宰相局は、平家と行動をともにして各地を移動する生活へ移った。

平家はまず九州で勢力を立て直そうとした。

しかし、豊後国の緒方惟栄らの抵抗を受け、安定した拠点を築くことができなかった。

その後、一門は讃岐国の屋島へ移る。

瀬戸内海の海上交通を利用し、再び軍勢を集めようとしていたのである。

水島の戦い――瀬戸内海で反撃する

寿永2年閏10月、平家軍は備中国の水島で木曾義仲方の軍勢を破った。

義仲は足利義清らを西国へ派遣し、屋島の平家を攻撃しようとしていた。

これに対し、平家は船団を使って迎え撃つ。

平知盛らを中心に、一門の武将たちが軍勢を率いた。

通盛も父の教盛や弟の教経らとともに、西国での軍事行動に関わっていた。

水島では海上と沿岸で戦いが行われ、義仲方は敗れた。

足利義清らも戦死したと伝わる。

さらに11月、平家軍は播磨国の室山で源行家の軍勢を破る。

こうした勝利によって、平家は西国で勢力を立て直し始めた。

軍勢は播磨から摂津方面へ進み、かつて清盛が拠点とした福原周辺まで戻っていく。

一方、京都では木曾義仲と後白河法皇の対立が深まり、頼朝も弟の範頼と義経を京都へ派遣した。

翌寿永3年(1184年)1月20日、源氏軍は義仲を破る。

義仲は近江国の粟津で討死した。

京都を確保した範頼と義経は、続いて平家追討へ向かった。

福原周辺に布陣していた平家は、再び源氏との決戦を迎えることになった。

一ノ谷の山手を守った通盛と教経

寿永3年2月、平家は福原から一ノ谷にかけて軍勢を配置していた。

東側には生田の森、西側には一ノ谷があり、北には山地、南には瀬戸内海が広がっている。

平家はこの地形を利用し、源氏軍の進撃を防ごうとしていた。

源氏方では範頼が東側から進み、義経は丹波方面の山道を進軍する。

2月4日から5日にかけて、義経軍は三草山で平資盛・平有盛らの軍勢を夜襲し、これを破った。

山側の進路を守っていた平家軍が敗れたことで、義経の軍勢はさらに一ノ谷へ近づいた。

『平家物語』巻第九「老馬」には、この知らせを受けた宗盛が、一門の武将たちに山手の守備を命じようとする場面がある。

しかし、容易に引き受けようとする者はいなかったという。

そこで宗盛は、能登守平教経に使者を送った。

教経は通盛の弟である。

教経は、強い敵がいる場所こそ引き受けるべきだと語り、出陣を承諾したと伝わる。

宗盛は平盛俊らの軍勢を付け、教経を山手へ向かわせた。

教経は兄の通盛を伴い、鵯越の麓にあたる陣地を守ったという。

この陣地で、通盛は小宰相局を呼び寄せていたと伝えられる。

弟・教経に叱られた決戦前夜

『平家物語』「老馬」には、一ノ谷の決戦前夜の通盛と小宰相局が描かれている。

通盛は教経の陣地に妻を呼び寄せ、最後になるかもしれない別れを惜しんでいたという。

二人はしばらく語り合っていた。

ところが、その様子を見た教経が怒った。

敵がいつ山から攻め下ってくるかわからない。

そのような状況で妻との別れを惜しんでいては、武具を整える暇もなくなる。

教経は兄を厳しく戒めたと伝わる。

通盛はその言葉を受け、急いで武具を整えた。

そして小宰相局を船へ帰したという。

この会話の詳しい内容は『平家物語』の描写によるものだが、夫婦の別れは後世の能『通盛』にも取り入れられることになった。

また、『平家物語』「小宰相身投」では、小宰相局が夫の死後、この最後の対面を思い返す場面がある。

そこには、二人の間で交わされたもう一つの話が記されている。

小宰相局の妊娠である。

身重の妻に告げた言葉

『平家物語』によれば、通盛は決戦前夜、小宰相局に自分の死を予感させる言葉を残した。

明日の戦いで、自分は討たれるかもしれない。

そうなったら、おまえはどうするのか。

通盛はそのように尋ねたという。

小宰相局は、しばらく隠していたことを打ち明けた。

子を身ごもっているという話だった。

通盛はその知らせをたいそう喜んだと伝わる。

『平家物語』では、通盛は三十になるまで子がなかったと語っている。

できれば男子であってほしい。

自分が命を落としても、子が生まれれば形見となる。

そう願ったという。

さらに、妊娠してから何か月になるのか、体調はどうなのかと尋ねたと伝えられる。

平家は都落ちした後、各地を転々としていた。

一門の女性たちも船での生活を続け、戦況に応じて移動している。

小宰相局が落ち着いて出産できる状況ではなかった。

通盛はそのことを心配していたと『平家物語』は描いている。

ただし、通盛にはほかの子がいたことを示す記録も残されている。

三十になるまで子がいなかったという話については、実際の家族関係と必ずしも一致しない。

『平家物語』は、初めて父になる喜びと翌日の戦死を重ねることで、夫婦の別れを描いている。

そして2月7日、源氏軍による攻撃が始まった。

2月7日――崩れた平家の防衛線

寿永3年2月7日、一ノ谷の戦いが始まった。

東の生田の森では範頼軍が平知盛・平重衡らと交戦する。

西側の一ノ谷口では熊谷直実や平山季重らが先陣を争っていた。

さらに北側の山地からも源氏軍が迫る。

『平家物語』には、義経が険しい坂を騎馬武者とともに駆け下り、平家の陣地を急襲したという場面が描かれている。

後世に鵯越の坂落としとして知られる出来事である。

一方、九条兼実の日記『玉葉』には、多田行綱が山手の陣地を破ったという記述がある。

実際の攻撃経路や、義経と行綱の役割については議論が残る。

源氏軍の攻撃を受け、平家の防衛線は各所で崩れた。

武士たちは海岸へ退き、沖に浮かぶ船へ逃れようとした。

しかし、すべての者が船へ乗れたわけではなかった。

通盛も山手から退却することになる。

その途中、源氏方の武士たちに追いつかれたと伝わる。

湊川で七騎に囲まれる

『平家物語』によれば、通盛は湊川の下流で七騎の敵に囲まれた。

湊川は福原の東側を流れ、現在の神戸市兵庫区付近に河口があった川である。

平家軍が敗走する中、通盛は源氏方の追撃を受けていた。

その最期に関わった武士として、『平家物語』には二人の名が登場する。

近江国の木村三郎成綱。

そして武蔵国の玉井四郎助景である。

木村成綱は佐々木氏に関係する武士として記されている。

玉井助景も東国から源氏方に加わった人物だった。

『平家物語』では、七騎に囲まれた通盛が討たれたという知らせが、家人の言葉によって伝えられる。

一方、『吾妻鏡』にも通盛が一ノ谷で戦死したことが記されている。

同書では通盛が湊川に至って討たれたとされ、戦死の場所は軍記物語と大きく異ならない。

ただし、誰がどのように通盛を討ち取ったのか、細かな戦闘経過は明らかになっていない。

通盛は従三位に昇進してから、およそ1年で命を落とした。

一ノ谷の戦場で生涯を終えたとき、年齢は30歳前後だったと考えられている。

その討死の知らせを小宰相局へ伝えるため、一人の家人が船団へ戻った。

君田滝口時員が伝えた最期

通盛の死を小宰相局に伝えたのは、君田滝口時員だった。

『平家物語』には「時員」と記す伝本のほか、「時算」と記すものもある。

時員は通盛に仕える家人で、一ノ谷の戦いにも同行していた。

主人が敵に囲まれた際、時員も討死するつもりだったという。

しかし、以前から通盛に一つの命令を受けていた。

自分がどうなっても、命を捨ててはならない。

必ず生き延びて、小宰相局の行方を捜すように。

そのように命じられていたと伝わる。

時員は戦場を脱出し、妻の乗る船へ向かった。

そして通盛が湊川の下流で七騎に囲まれ、討たれたことを報告した。

木村成綱や玉井助景らが攻撃したという。

さらに時員は、主人を助けられず、自分だけが生き残ったことを詫びた。

小宰相局はその言葉を聞いても、何も答えなかった。

ただ衣をかぶり、伏してしまったと『平家物語』は記している。

通盛が以前から家人にどのような命令を与えていたのか、実際のやり取りは確認できない。

しかし、『平家物語』はこの報告を通じて、戦場に残された通盛と、船中で待っていた小宰相局を結びつけている。

小宰相局は夫の死を聞いても、しばらくの間、それを信じることができなかったという。

夫の帰りを待った六日間

『平家物語』によれば、小宰相局は通盛の討死を知らされても、すぐには受け入れられなかった。

知らせに間違いがあるのかもしれない。

どこかで生き延び、後から戻ってくるかもしれない。

最初の二、三日は、少し外出した人の帰りを待つような気持ちでいたという。

しかし、四日、五日と過ぎても通盛は戻らなかった。

生きているという知らせも届かない。

小宰相局は次第に望みを失い、起き上がることもできなくなっていったと伝えられる。

そばには乳母が付き添っていた。

乳母も悲しみを抱え、小宰相局と同じように伏していたという。

一ノ谷で討死した平家の武将は、通盛だけではなかった。

同じ戦いで平忠度、平敦盛、平経正ら多くの公達が命を落としている。

通盛の弟・業盛も戦死した。

平家の船団には、夫や子を失った人々が数多く残されていた。

その中で小宰相局は、通盛が戻らないまま過ぎていく日々を送ったと『平家物語』は描いている。

そして2月13日の夜、乳母に自分の思いを語り始めたという。

2月13日の夜、乳母に語ったこと

『平家物語』では、平家の船団は屋島へ向かっていた。

夜が更けると、小宰相局は乳母に語りかけたという。

通盛が討たれたという知らせを、最初は信じたくなかった。

しかし、誰も夫が生きているとは言わない。

もう亡くなったのだと思うようになった。

小宰相局はそう語ったと伝えられる。

そして、一ノ谷の決戦前夜を思い返した。

通盛は自分が討たれるような気がすると言っていた。

あのとき二度と会えないとわかっていたなら、来世でも夫婦になろうと約束したかった。

そのように悔やんだという。

さらに、妊娠を告げたときの通盛の姿も思い出していた。

通盛は子を授かったことを喜び、無事に生まれることを願った。

小宰相局はその子をどうするべきかも思い悩んでいたと伝えられる。

子を産んで育てれば、夫の形見を手元に残すことができる。

しかし、子の姿を見るたびに亡くなった通盛を思い出すことになる。

平家の敗走が続く中、どこで暮らし、どのように子を育てることになるのかもわからなかった。

小宰相局は乳母に、夫の後を追いたいという思いを打ち明けたと『平家物語』は記している。

乳母が思いとどまらせようとする

小宰相局の言葉を聞いた乳母は、必死に止めようとしたという。

乳母は京都に年老いた親や幼い子を残し、小宰相局に付き従ってきた女性だった。

平家の都落ちにも従い、船での生活を続けていた。

乳母は、一ノ谷で夫を失った女性たちはほかにもいると語った。

皆、深い悲しみの中にある。

それでも生きて、亡き夫の菩提を弔おうとしている。

小宰相局にも、無事に子を産み、育てながら通盛を供養してほしい。

そのように訴えたと『平家物語』は描いている。

乳母自身も、平家に従って都を離れてから長い時間を過ごしていた。

小宰相局を失えば、自分の暮らしもどうなるかわからない。

それでも乳母は、まず小宰相局の命を守ろうとしたという。

長い説得の末、二人は休むことになった。

しかし、夜が更けて乳母が眠ったころ、小宰相局はひそかに船端へ向かったと伝えられる。

小宰相局、海へ身を投げる

『平家物語』によれば、小宰相局は船端に立ち、念仏を唱えた。

広い海の上では、どちらが西なのかを確かめることも難しかった。

そこで月の沈む方向を西方と考え、そちらへ向かって祈ったという。

亡き通盛と極楽浄土で再び会いたい。

そして同じ蓮の上に生まれたい。

小宰相局はそう願ったと伝わる。

その後、海へ身を投げた。

船にいた者が気づき、大声を上げたという。

乳母は驚いて起き上がったが、小宰相局の姿はすでになかった。

人々は海へ入り、捜索を始めた。

夜の海は暗く、春の霞や雲によって月の光も弱かったと『平家物語』は描いている。

やがて小宰相局は引き上げられた。

しかし、すでに息は絶えていた。

乳母は亡骸を抱きしめ、泣き続けたと伝えられる。

夜が明けるころ、人々は通盛が残した衣を取り出した。

それを小宰相局の亡骸へ巻きつけ、再び海へ沈めて葬ったという。

この捜索や葬送の詳しい経過は『平家物語』によって伝えられている。

一方、小宰相局が通盛の死後に入水したことは、『建礼門院右京大夫集』にも記されている。

夫の戦死を知った小宰相局の死は、同時代の宮廷の人々にも伝わっていたのである。

乳母の出家と忠快による供養

小宰相局の亡骸を海へ沈めた後、乳母も後を追おうとしたと伝わる。

しかし、周囲の人々に引き止められた。

『平家物語』によれば、乳母はその場で自ら髪を切り、出家を志したという。

その剃髪に関わったのが、中納言律師忠快だった。

忠快は通盛の弟で、平教盛の子である。

僧となっていた忠快は、平家の都落ちにも関わり、一門と行動をともにしていた。

乳母は忠快から戒を受け、通盛と小宰相局の菩提を弔うことになったと伝えられる。

後世の寺伝では、この乳母を「呉葉」と呼ぶものもある。

ただし、当時の史料からその実名を確認することは難しい。

乳母の出家も、小宰相局の入水とともに『平家物語』に記された出来事である。

通盛が一ノ谷で討死してから数日の間に、妻も命を落としたという知らせは、父の教盛にも届いた。

教盛が一ノ谷で失った二人の息子

一ノ谷の戦いでは、通盛の弟・業盛も討死していた。

業盛は教盛の子で、通盛や教経の弟にあたる。

『平家物語』では、まだ若い公達として描かれる人物である。

教盛は一日の戦いで、長男の通盛と業盛を失ったことになる。

さらに、その数日後には小宰相局も海へ身を投げた。

『平家物語』は、教盛が小宰相局を通盛の形見のように思っていたと記している。

長男を失った教盛にとって、残された妻は通盛とのつながりを感じさせる存在でもあった。

しかし、その小宰相局まで亡くなった。

教盛は知らせを聞き、悲しみを深めたと伝わる。

一方、教盛自身は一ノ谷を生き延びた。

安徳天皇や平宗盛らとともに屋島へ退き、その後も平家一門の軍事行動に参加することになる。

右京大夫が聞いた小宰相局の最期

通盛と小宰相局の死は、京都の宮廷にも伝わった。

その知らせを記したのが、建礼門院右京大夫である。

右京大夫は、以前に小宰相局を恋い慕っていた男性の話を覚えていた。

小宰相局が通盛の妻となったことで、その男性が嘆いていたことも知っていた。

当時は、宮廷で交わされる恋の話の一つだった。

右京大夫は、恋が実らなかった男性を慰める歌を送り、相手も返歌を寄せている。

ところが、源平の戦乱が進み、通盛が一ノ谷で討死した。

さらに小宰相局が夫の後を追って海へ身を投げたという知らせが届いた。

右京大夫は以前の歌のやり取りを思い出した。

そして、二人の結びつきがこれほど深いものだったとは、言葉もないと記している。

『建礼門院右京大夫集』は、平家一門の人々と近く接していた女性が、自らの記憶や感情を和歌とともに書き残した作品である。

そこには、戦乱で命を落とした知人たちのことや、かつて宮廷で交わした会話などが記されている。

通盛と小宰相局の結婚、そして小宰相局の入水も、その記憶の一つだった。

一方、『平家物語』では三年間の恋文から決戦前夜の会話、船中での入水までが長い物語として描かれている。

二人の生涯は、異なる立場から書かれた作品によって後世へ伝えられることになった。

弟・教経と父・教盛の最期

通盛が一ノ谷で討死した後も、平家は源氏への抵抗を続けた。

父の教盛は一門とともに屋島へ退き、さらに西国へ向かった。

一方、弟の教経については、史料によって最期が異なる。

『吾妻鏡』には一ノ谷の戦死者として教経の名が記されている。

しかし、『平家物語』では教経は一ノ谷から生き延び、壇ノ浦まで戦った人物として描かれている。

壇ノ浦で義経を追い詰めたものの、逃げられたため、最後には敵の武士たちを抱えて海へ飛び込んだという逸話が知られている。

このように、教経の実際の没年や戦歴には史料間の食い違いがある。

一方、父の教盛は元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦で命を落とした。

『平家物語』では、教盛は兄の経盛とともに甲冑へ碇をつけ、手を取り合って海に入ったと伝えられる。

安徳天皇も海へ沈み、平知盛も入水した。

平宗盛は捕虜となり、平家一門は軍事的な力を失った。

通盛が一ノ谷で討死してから、およそ1年後のことである。

文治元年、通盛の遺児が見つかる

通盛の死後、子どもの存在について記録が残された。

文治元年(1185年)12月17日、『吾妻鏡』には平家一門の生き残りを捜索した記事がある。

源頼朝は平家滅亡後も、一門の子孫に対する追捕を続けていた。

京都では北条時政らが活動し、平家の子どもたちの行方も捜されていた。

このとき、小松内府重盛の子・忠房や、平宗盛の子どもたちとともに、通盛の子が一人発見されたと記されている。

ただし、その子の名前や年齢、母が誰だったのかについては、記事から詳しいことはわからない。

通盛の子としては、系図に通衡の名が残されている。

しかし、1185年に発見された子が通衡だったのかどうかは明らかでない。

また、『平家物語』では小宰相局が通盛の子を身ごもっていたと描かれている。

小宰相局は夫の死後、海へ身を投げたと伝わるため、1185年に発見された子との関係を示す確かな材料はない。

一ノ谷で討死した通盛には、別の子が生存していた可能性がある。

その子も平家滅亡後の追捕の対象となり、鎌倉幕府の記録に名を残すことになった。

能『通盛』――鳴門の海に現れる夫婦

通盛と小宰相局の物語は、室町時代の能にも取り上げられた。

演目は『通盛』。

井阿弥が作り、世阿弥が改作したと伝えられる作品である。

物語の舞台は阿波国の鳴門の浦。

平家一門の菩提を弔う僧が、海辺で読経している。

そこへ老人と女性を乗せた小舟が近づいてきた。

二人は平家の人々について語り、通盛と小宰相局の最期を話す。

そして、やがて海へ姿を消した。

二人は通盛と小宰相局の霊だった。

その夜、僧が供養を続けていると、通盛が武将の姿で現れる。

小宰相局もともに姿を見せ、夫婦は一ノ谷の決戦前夜を振り返る。

通盛は妻との最後の対面を語り、弟の教経に戒められて戦場へ向かった経緯を語る。

さらに、源氏軍との戦闘や自らの最期を述べる。

そして僧の供養を受け、夫婦は救われていく。

能『通盛』は、『平家物語』の夫婦の別れと入水をもとにした作品である。

物語の舞台が鳴門の浦へ移されたことで、通盛と小宰相局の名は阿波の海とも結びつくようになった。

一ノ谷で討死した武将と、船から海へ身を投げた妻。

二人の死は、室町時代の芸能でも繰り返し演じられることになった。

願成寺に残る通盛と小宰相局の五輪塔

現在の神戸市兵庫区には、通盛と小宰相局を供養する五輪塔が残されている。

願成寺である。

願成寺は兵庫区松本通にある浄土宗の寺院で、境内には通盛、小宰相局、乳母の呉葉を供養する五輪塔が伝えられている。

神戸市の解説によれば、これらの石塔はもともと烏原村にあった。

その後、烏原貯水池の建設に伴って現在地へ移されたという。

境内には、法然の弟子である住蓮を弔う石塔もある。

また、乳母の呉葉と住蓮との関係を伝える寺伝も残されている。

ただし、現在の五輪塔が通盛の実際の埋葬地を示すとは限らない。

『平家物語』では通盛の死を湊川下流での出来事として描いているが、その遺体がどこへ葬られたのかを明確に示す史料は乏しい。

小宰相局についても、船から入水した後、亡骸を再び海へ沈めたと伝えられている。

願成寺の五輪塔は、後世の人々が通盛と小宰相局、乳母の菩提を弔うために伝えてきた供養塔である。

一方、徳島県の鳴門周辺にも小宰相局に関する墓所や供養の伝承が残されている。

能『通盛』が鳴門の浦を舞台としたこともあり、夫婦の物語は各地の寺院や史跡に結びついていった。

通盛の死後に残された記録

元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦で平家軍が敗れた。

通盛の父・教盛もこの戦いで命を落とし、安徳天皇は海へ沈んだ。

宗盛は源氏方の捕虜となり、平家は朝廷で築いてきた政治的な権力を失った。

平家滅亡後も、頼朝のもとでは一門の生き残りに対する捜索が続けられる。

同年12月17日、『吾妻鏡』には通盛の子が一人発見されたという記事が残された。

一方、通盛自身の生涯については、京都の宮廷記録や北陸の戦闘を伝える史料から、その足取りを追うことができる。

安元2年(1176年)の越前守任官。

治承3年(1179年)の解任と復任。

養和元年(1181年)の越前への出兵、在地勢力の離反による敗北、水津での戦いと敦賀への退却。

寿永2年(1183年)には従三位へ昇進し、再び北陸遠征へ加わったが、平家軍は倶利伽羅峠で大敗した。

その後、通盛は父や弟たちとともに都落ちし、西国での軍事行動を続けた。

一ノ谷では弟の教経とともに山手を守ったと伝えられ、2月7日、湊川付近で生涯を終える。

小宰相局については、建礼門院右京大夫が歌集にその名を残した。

右京大夫は、かつて宮廷で見かけた小宰相局の美しさを覚えていた。

通盛との結婚をめぐって交わした和歌も記し、夫の討死を知った小宰相局が海へ身を投げたと聞いて、深く驚いたことを書き留めている。

やがて『平家物語』では、通盛と小宰相局の恋文、決戦前夜の別れ、船中での入水が長い章段として描かれるようになった。

室町時代には能『通盛』が作られ、阿波の鳴門で夫婦の霊が僧の前に現れる物語が演じられた。

神戸の願成寺には通盛と小宰相局、乳母を供養する五輪塔も伝えられ、現在はかつて烏原村にあった石塔が兵庫区松本通に安置されている。

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