【戦い・事件編】水島の戦い――日食で空が暗転、都落ちした平氏が木曾義仲軍を破った海戦

戦い・事件

第122回

寿永2年(1183年)閏10月1日、備中国水島。

現在の岡山県倉敷市玉島付近の海上に、木曾義仲方と平氏の船団が向かい合った。

『平家物語』では、義仲方の船は500余艘。これに対して平氏は1000余艘を繰り出したと記される。

遠ければ弓を射かけ、船が接近すれば太刀を振るい、熊手で敵を引き落とす。組み合ったまま海へ落ちる武士もいた。

激戦が続くなか、空に異変が起きた。

太陽が欠け始めたのである。

この日、水島周辺では実際に日食が起きていた。

九条兼実の日記『玉葉』にも日食の記録が残されている。

『源平盛衰記』は、突然暗くなった空を見て源氏方が動揺した一方、平氏方は日食を知っていたため攻撃を続けたと伝える。

やがて義仲方の侍大将・海野行広が討たれ、大将の矢田義清も命を落とした。

勝ったのは平氏だった。

倶利伽羅峠、篠原と敗れ、京都まで失った平氏が、瀬戸内海で反撃に転じた。

水島の戦いは、その後の平氏復調を象徴する一戦となった。

京都を離れた平氏、西国で軍勢を立て直す

寿永2年7月25日、平宗盛を中心とする平氏一門は京都を離れた。

北陸道を進んだ木曾義仲軍に倶利伽羅峠、篠原で敗れ、京都を維持できなくなったためである。

平氏は安徳天皇を奉じ、三種の神器を携えて西国へ向かった。

『平家物語』では、このとき都を離れた平氏の軍勢を7000余騎と記している。

一門は大宰府まで下ったが、九州で安定した地盤を築くことはできず、やがて瀬戸内海へ戻った。そして讃岐国屋島を重要な拠点として勢力を立て直していく。

平氏にとって瀬戸内海は、長く政治・経済・軍事の基盤としてきた地域だった。

平清盛は摂津国福原を重視し、大輪田泊を整備して日宋貿易を推進した。

瀬戸内海沿岸や西国には、平氏と結びついた武士や在地勢力も存在していた。

平氏はそうした基盤を利用して軍勢を集め、海上交通を押さえていった。

『平家物語』は、屋島に拠点を置いた平氏が「山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国」を掌握したと描いている。

京都を離れてから数か月。平氏は西国で再び大きな軍事勢力となっていた。

義仲、西国の平氏追討へ

京都に入った木曾義仲も、平氏の動きを見過ごすことはできなかった。

寿永2年9月20日、義仲は西国の平氏を追討するため山陽道へ出陣した。

しかし、義仲自身が水島で戦ったわけではない。

『平家物語』によれば、水島へ向かった軍勢の大将は矢田判官代義清、侍大将は信濃国の武士・海野弥平四郎行広だった。

同書はその軍勢を7000余騎と記している。

義仲方は山陽道を進み、備中国水島へ到達した。

水島は現在の岡山県倉敷市玉島周辺にあたり、当時は現在よりも海が深く内陸へ入り込んでいた。

その先には瀬戸内海が広がり、さらに海を越えれば平氏の拠点である屋島がある。

『平家物語』は、義仲方が水島に船を浮かべ、屋島へ攻め寄せようとしていたと記す。

そこへ平氏の船団が現れた。

源氏500余艘、平氏1000余艘

寿永2年閏10月1日。

『平家物語』によれば、最初に水島へ現れたのは一艘の小舟だった。

義仲方の兵たちは漁船か釣り船と思ったが、平氏側から送られた使者の船だった。

これを見た義仲方は、浜に引き上げていた500余艘の船を一斉に海へ下ろした。

平氏側から押し寄せた船は1000余艘。

『平家物語』では平氏軍の大将を平知盛、副将を平教経としている。

一方、水島合戦について『百錬抄』などを収めた『信濃史料』では、義仲方の海野幸広らが「平重衡等」と戦って敗死したと記されている。

参加した平氏武将の記述には史料による違いがある。

戦闘の様子を詳しく伝えているのは『平家物語』である。

平教経は味方に船を組み合わせるよう命じた。

1000余艘の船は纜や舳綱で結ばれ、その間にもやいを入れ、さらに歩み板を渡したという。

『平家物語』は、その状態を「舟の上は平々たり」と表現している。

多数の船を連結し、武士たちが船から船へ動きながら戦えるようにしたのである。

やがて両軍から鬨の声が上がった。

水島の海上で戦いが始まった。

弓、太刀、熊手――船上で繰り広げられた激戦

最初は弓による射撃戦となった。

距離が縮まると、戦いは一気に激しくなる。

『平家物語』には、

遠くの敵には弓を射る。

近くの敵には太刀で斬りかかる。

熊手を引っかけて海へ落とす。

敵と組み合い、互いに刺し違えて海へ飛び込む。

そうした船上戦の様子が記されている。

陸上での騎馬戦とは大きく異なる戦場だった。

平氏はさらに船へ馬を乗せていた。

戦況が傾くと、船を傾けながら馬を海へ下ろし、船に引きつけながら泳がせた。

馬の脚が海底に届く深さになると武士たちは騎乗し、平教経を先頭に攻めかかったと『平家物語』は描いている。

海上で戦い、浅瀬へ近づけば馬を下ろして騎馬戦へ移る。

瀬戸内海を舞台とした水島の戦いでは、平氏の船団を使った戦い方が大きな力を発揮した。

そして、この日の戦場ではもう一つ、後世まで語られる出来事が起きている。

戦いの最中、太陽が欠けた

水島の戦いが行われた寿永2年閏10月1日、日食が起きた。

日食そのものは軍記物だけに残された話ではない。

同時代を生きた公卿・九条兼実の日記『玉葉』にも、この日の日食が記録されている。

水島の戦いと日食が同じ日に重なったことは確認できる。

この天文現象を合戦の展開と結びつけているのが『源平盛衰記』である。

同書では、戦闘中に空が突然暗くなり、太陽の光が見えなくなったとする。

義仲方の兵たちは、それが日食だと知らなかった。

突然暗くなった海上で方角を失い、船を退かせ始めたという。

一方、平氏方は日食が起こることを知っており、そのまま攻撃を続けたと『源平盛衰記』は伝えている。

実際の戦場で、平氏だけが日食を事前に把握していたのか。

日食が勝敗にどこまで影響したのか。

そこまでは同時代史料から確認できない。

ただし、戦いが行われた日に実際に日食が起きたという点は、水島の戦いを考えるうえで非常に興味深い。

昼間の海上で太陽が欠け、周囲が急速に暗くなる。

現代のように天文情報を誰もが知ることのできない時代である。

その光景を目の当たりにした兵たちが、何を感じたのか。

『源平盛衰記』に残された日食の逸話は、実際に起きた天文現象を背景として生まれたものだった。

海野行広討死、矢田義清も水島に消える

激戦のなか、義仲方の侍大将・海野行広が討たれた。

『平家物語』では、それを見た大将の矢田義清が主従7人で小舟に乗り、敵へ突入したと描く。

義清たちは激しく戦ったが、やがて船を踏み沈めて命を落とした。

『百錬抄』などを出典とする記録でも、海野幸広らが平氏と水島で戦って敗死したことが確認できる。

指揮官を失った義仲方は崩れた。

平教経らが馬を下ろして攻めかかると、兵たちは我先にと退却していったと『平家物語』は伝える。

勝敗は決した。

平氏の勝利だった。

『平家物語』はこの勝利を、

「平家は水島の軍に勝つてこそ会稽の恥をば雪めけれ」と記している。

倶利伽羅峠以来、義仲軍に敗れ続けてきた平氏が、水島でその雪辱を果たしたというのである。

水島敗戦のころ、義仲の背後で頼朝が動く

水島で義仲方が敗れたころ、京都をめぐる情勢も大きく動いていた。

義仲が西国へ出陣している間、後白河法皇と源頼朝の交渉が進んでいた。

寿永2年10月、朝廷は頼朝に対して寿永二年十月宣旨を出す。

東海・東山道の荘園・公領から本来の年貢や所当を納めることを条件として、頼朝にその実行を担わせる内容だった。

頼朝が朝廷から東国支配を認められていくうえで大きな意味を持つ宣旨である。

一方、西国へ向かった義仲軍は水島で敗れた。

義仲は閏10月15日に京都へ戻った。

9月20日の出陣から一か月足らず。

平氏追討は成果を挙げられず、有力な武将まで失っての帰京だった。

しかも京都では、後白河法皇との関係がさらに悪化していく。

水島で平氏が勝利した同じ時期に、義仲を取り巻く政治状況も急速に厳しさを増していた。

水島から室山へ――平氏の反攻は続く

水島で勝利した平氏は、その勢いを保ったまま東へ圧力を強めていった。

翌11月には、播磨国室山で源行家の軍勢と激突する。

室山の戦いである。

ここでも平氏が勝利した。

水島、そして室山。

都落ちから数か月のうちに、平氏は西国で軍勢を立て直し、義仲・行家方を相次いで破った。

そのころ京都では、義仲と後白河法皇の対立が限界に達していた。

寿永2年11月19日、義仲は法住寺殿を攻撃する。

さらに東からは、頼朝が送り出した源範頼・源義経の軍勢が京都へ迫った。

寿永3年(1184年)1月、義仲軍は宇治川・瀬田方面で頼朝方と戦って敗北する。

義仲は京都を離れて近江へ向かったが、粟津で討死した。

その間にも平氏は摂津国福原、一ノ谷周辺へ進出し、軍勢を整えていた。

義仲を倒した範頼・義経の軍勢が次に向かった相手は、その平氏だった。

寿永3年2月7日。

源平両軍は一ノ谷で激突する。

京都を失った平氏が反撃へ転じた水島の戦いから、およそ3か月後のことだった。

水島の戦いをはじめ、源平合戦の詳しい様子を伝えているのが『平家物語』です。

船を連結して戦う平氏軍、水島で討死する矢田義清・海野行広など、史料だけでは見えにくい戦場の姿が生き生きと描かれています。

源平合戦をさらに深く読みたい方には、現代語訳や注釈付きの『平家物語』がおすすめです。

 
新版 平家物語(二) 全訳注 (講談社学術文庫) [ 杉本 圭三郎 ]

コメント

タイトルとURLをコピーしました