第110回
治承4年(1180)10月20日、駿河国の富士川から平維盛の追討軍が退いていった。
源頼朝はそのまま西へ進み、京都を目指そうとした。
ところが、千葉常胤・上総広常・三浦義澄ら東国の武士たちは、これに反対した。
鎌倉へ入ったばかりの頼朝には、まだ従わない武士が坂東各地に残っている。
背後を固めてから西へ向かうべきだという意見だった。
その筆頭に挙げられたのが、常陸国の佐竹氏である。
頼朝は意見を受け入れ、軍を西へ進めるのをやめた。
富士川からわずか7日後の10月27日、今度は東へ向かって出発する。
目標は常陸国北部。
佐竹秀義が立て籠もる金砂城だった。
平清盛の治承三年の政変から、坂東の戦乱へ
金砂城の戦いは、頼朝が伊豆で兵を挙げたことだけを起点にすると、その位置づけが見えにくい。
前年の治承3年(1179)11月、平清盛は軍勢を率いて京都へ入り、関白松殿基房を失脚させ、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。
いわゆる治承三年の政変である。
平氏は朝廷の人事を大きく入れ替え、翌治承4年2月には高倉天皇が譲位。
清盛の外孫である安徳天皇が即位した。
その平氏政権に対し、4月に以仁王が諸国の源氏へ平氏追討の令旨を発する。
5月には源頼政と以仁王が宇治で敗死したものの、令旨はすでに各地へ運ばれていた。
伊豆にいた頼朝も4月27日にこれを受け取っている。
8月17日、頼朝は伊豆国目代・山木兼隆を襲撃して挙兵。
8月23日の石橋山では大庭景親らに敗れ、わずかな供とともに山中へ逃れた。
8月28日に真鶴から海を渡って安房へ入り、そこで再び兵を集める。
千葉常胤、上総広常らが加わると頼朝軍は急速に膨らみ、10月6日には鎌倉へ入った。
さらに10月、京都から平維盛を大将とする追討軍が東海道を下ってくる。
頼朝は駿河へ進み、甲斐源氏も平氏軍へ圧力をかけた。
富士川西岸に布陣した平氏軍では脱落者が相次ぎ、10月20日未明、戦線を維持できなくなった軍勢が西へ退いた。
ここで頼朝には、二つの道が生まれた。
平氏を追って西へ進むか。
鎌倉へ戻り、坂東に残る敵対勢力を抑えるか。
頼朝自身は前者を望んだ。
「まず佐竹を討つべきだ」――頼朝を止めた東国武士たち
10月21日、『吾妻鏡』によれば、頼朝は退却する平維盛軍を追い、上洛しようとした。
これを止めたのが、千葉常胤・三浦義澄・上総広常らである。
彼らが問題にしたのは、常陸の佐竹氏だった。
頼朝のもとには相模・武蔵・下総・上総などから多くの武士が集まっていたものの、その結びつきはまだ浅い。石橋山で頼朝と戦った畠山重忠、河越重頼、江戸重長らが加わったのも10月に入ってからである。
頼朝が大軍を率いて京都へ向かえば、鎌倉から常陸まで広がる東国の支配を誰かに任せなければならない。
その常陸に、佐竹氏がいた。
佐竹氏は清和源氏の流れをくむ一族で、頼朝と同じ源氏である。
常陸北部の奥七郡を中心に勢力を築き、現在の常陸太田市周辺を本拠としていた。
『吾妻鏡』は、このころの佐竹氏について、
「権威境外に及び、郎従国中に満つ」と記している。
影響力は常陸一国に収まらず、多くの郎従を抱える大勢力だったというのである。
しかも当主・佐竹隆義は、このとき京都にいた。
隆義は平氏側に立っており、息子の秀義も頼朝のもとへ参じていない。
富士川から平氏軍が退いても、常陸北部には依然として頼朝に従わない大きな武士団が残っていた。
千葉常胤や上総広常にとっても、これは無視できない相手だった。
頼朝は彼らの意見を受け入れ、西進を取りやめた。
武田信義を駿河、安田義定を遠江に置き、平家が再び東海道を下ってきた場合に備え、自らは坂東へ戻る。
そして10月27日、佐竹秀義追討のため常陸へ向かった。
富士川から15日――頼朝、常陸国府へ
11月2日、富士川から退いた平維盛らが京都へ戻った。
そのころ頼朝は、すでに常陸へ向かっていた。
11月4日、頼朝は常陸国府に到着する。現在の茨城県石岡市付近である。
ここで千葉常胤・上総広常・三浦義澄・土肥実平らを交え、佐竹氏への対応を協議した。
頼朝はいきなり金砂城へ全軍を向けてはいない。
まず上総広常を使者として佐竹側へ送り、その出方を探った。
佐竹一族の佐竹義政は、広常からの誘いに応じる。
一方、秀義は動かなかった。
父・隆義が平氏方として京都にいることもあり、頼朝のもとへ出向く意思を示さず、金砂城へ入った。
ここから頼朝の佐竹攻めは、かなり荒っぽい展開を見せる。
佐竹義政、橋の上で殺される
上総広常に誘われた佐竹義政は、大矢橋付近までやってきた。
頼朝は義政の家人たちを遠ざけ、義政だけを橋の中央へ呼び出す。
そこで上総広常が義政を殺害した。
『吾妻鏡』は、この一件を簡潔に記している。
義政の家人たちは主を失い、頼朝へ降る者と逃げる者に分かれた。
交渉の場に呼び出した相手を殺すという手段まで使い、頼朝は佐竹一族の一角を崩したのである。
残った大きな標的が秀義だった。
頼朝は金砂城へ軍勢を送る。
『吾妻鏡』に名前が並ぶのは、下河辺行平・下河辺政義・土肥実平・和田義盛・土屋宗遠・佐々木定綱・佐々木盛綱・熊谷直実・平山季重ら。
石橋山以来、頼朝の軍勢を支えてきた武士たちが含まれている。
兵力について『吾妻鏡』は「数千の強兵」と記した。
彼らが向かった金砂城は、現在の茨城県常陸太田市にある西金砂山に築かれていた。
標高は約412メートル。
山頂付近まで急斜面が続き、とくに西側は切り立った地形を持つ。平地で騎馬武者がぶつかる戦場とは様子がまるで違った。
秀義は、この山を選んで頼朝軍を待った。
数千の頼朝軍を止めた金砂山
11月4日、頼朝方の武士たちが金砂城へ攻めかかった。
山上では秀義と佐竹方の武士たちが防御を固めている。
頼朝軍は山を登りながら攻撃を加えた。
城兵は高い場所から矢を射かけ、石を落とした。
『吾妻鏡』には、頼朝軍が下から放った矢は山上まで届かず、大きな岩が道を塞いで人も馬も進めなくなったとある。
攻める側は見上げながら山道を進み、佐竹方は上から矢と石を浴びせる。
馬を使える場所も限られた。
石橋山で戦った熊谷直実や平山季重らも加わっていたが、武勇だけで突破できる地形ではなかった。
日が西へ傾いても城は落ちない。
やがて月が昇った。
頼朝軍は金砂山の斜面に取りついたまま、その日の攻撃を終えた。
「人力では落とせない」
翌11月5日の寅刻。現在の時刻に直せば、おおむね午前3時から5時ごろにあたる。
土肥実平らが頼朝へ使者を送り、前日の戦況を報告した。
『吾妻鏡』には、彼らの言葉として、
「佐竹所搆之塞、非人力之可敗」と記されている。
金砂城の守りは、人の力で破れるものではない。
さらに城内の兵についても、一人で千人に当たるほど勇猛だと伝えた。
誇張を含む表現ではあるが、正面からの攻撃が行き詰まっていた様子は読み取れる。
頼朝は老練な武士たちに意見を求めた。
そこで策を出したのが上総広常だった。
広常が目をつけた人物は、城の中にはいなかった。
佐竹秀義の叔父、佐竹義季である。
上総広常が仕掛けた、佐竹一族の切り崩し
義季は佐竹一族の人間で、秀義にとっては叔父にあたる。
広常は頼朝に進言した。
義季は知略があり、同時に欲も深い。恩賞を約束すれば、秀義を倒すために動く可能性がある。
頼朝はこの策を認めた。
広常が義季のもとへ向かうと、義季は喜んで迎えたという。
広常は、東国の武士たちが次々と頼朝へ従っているなか、秀義だけが敵対していると説いた。
さらに秀義を討てば、その跡を継がせるという条件を示した。
義季は応じた。
前日、頼朝軍が正面から攻めても崩せなかった金砂城を、今度は佐竹氏の内側から揺さぶることになった。
義季は土地勘がある。
広常とともに金砂城の背後へ回った。
そして城の後方から鬨の声を上げた。
背後から響いた鬨の声
金砂城の兵たちは、頼朝軍が再び正面から来ると考えていたはずである。
ところが11月5日、声が上がったのは背後だった。
そこには叔父・義季の軍勢がいる。
前日まで頼朝軍を退けていた佐竹方の守りが崩れた。
『吾妻鏡』は、予想していなかった方向からの攻撃に秀義と郎従たちが混乱し、防御の方法を失ったと記す。
上総広常らはその機を逃さず攻め込んだ。
秀義は城を捨てて逃走する。
後世の伝承では、秀義はさらに北へ逃れ、現在の北茨城市にある花園方面へ入ったと伝わる。
11月4日に正面から攻めて落とせなかった金砂城は、翌5日、佐竹一族の内応によって陥落した。
戦闘そのものは二日間だった。
その前には義政の謀殺があり、城攻めが始まると正面攻撃に失敗し、最後は義季を味方につけて背後を突いた。
頼朝が常陸へ入ってから行ったのは、兵力だけに頼る戦いではなかった。
熊谷直実と平山季重も金砂山を戦った
この戦いには、のちに源平合戦で名を知られる武士も参加している。
熊谷直実と平山季重である。
『吾妻鏡』11月7日条には、金砂城の戦いで二人がたびたび先陣を争ったことが記されている。
熊谷直実は石橋山の戦いでは平氏方の大庭景親軍に属していた。
その後、頼朝へ従い、今度は常陸で佐竹氏と戦っている。
平山季重も武蔵国の武士で、のちには一ノ谷の戦いなどで名を残す。
治承4年の頼朝軍には、長く源氏だけに仕えてきた者ばかりが集まっていたわけではない。数か月前まで敵方にいた武士も加わり、その軍勢を形づくっていた。
金砂山の急斜面を攻めた武士たちの中に、のちの鎌倉御家人たちの姿がすでに見えている。
佐竹氏の所領を没収する
金砂城が落ちたあと、頼朝は佐竹氏の所領をそのまま残さなかった。
常陸北部に広がっていた佐竹氏の領地は没収され、頼朝に従った武士たちへ与えられていく。
これは一つの山城を奪っただけの戦後処理ではなかった。
土地を奪い、その土地を味方への恩賞に回す。
頼朝のもとへ集まった東国武士にとって、戦って功績を挙げれば所領を得られる仕組みが形になり始めていた。
佐竹氏の勢力は大きく後退した。
一方で、一族すべてがここで滅んだわけではない。
秀義は逃亡し、のちに頼朝へ従う。
文治5年(1189)の奥州合戦では、頼朝軍の一員として戦うことになる。
治承4年の頼朝は、服属した者を自らの軍事組織へ取り込んでいった。
その積み重ねが、鎌倉を中心とする武士団を大きくしていく。
富士川の勝利後に、頼朝が必要としていたもの
富士川から平維盛軍が退いたとき、頼朝は京都へ向かおうとした。
千葉常胤・上総広常・三浦義澄らは、その進軍計画に異を唱えた。
11月2日には維盛が京都へ戻っている。
頼朝は追わなかった。
そのころには常陸へ向かい、11月4日に佐竹義政を排除し、金砂城への攻撃を始めている。
そして翌5日、佐竹秀義を金砂城から追い出した。
8月23日の石橋山では、大庭景親の軍勢に敗れて山中へ逃げ込んだ頼朝が、二か月余り後には相模・武蔵・下総・上総から集まった武士を率いて常陸まで軍を進めていた。
この急速な勢力拡大の途中に、金砂城の戦いがある。
京都の平氏を倒す前に、坂東で自分に従わない大勢力を抑える。
頼朝が選んだのは、その順番だった。
11月5日、金砂城は落ちた。
頼朝はその後鎌倉へ戻り、東国の武士たちとの主従関係をさらに固めていく。
京都では平清盛が健在であり、平氏政権も続いている。
源平の戦いが再び大きく動くまで、もう少し時間が必要だった。
佐竹氏についてもう少し深く知りたい方には、高橋修編『佐竹一族の中世』がおすすめです。平安時代末の佐竹氏成立から鎌倉・南北朝・戦国期までをたどり、金砂山や常陸での佐竹氏の動きも詳しく扱っています。金砂城の戦いをきっかけに、佐竹氏そのものを掘り下げてみたい方に向いた一冊です。
金砂城の舞台となった現在の茨城県常陸太田市周辺は、そばの産地としても知られています。記事を読んで常陸の土地に興味を持った方には、茨城名物の「常陸秋そば」もおすすめ。自宅で気軽に味わえるものもあり、歴史の舞台を食から楽しんでみるのもいいですね。


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