第96回
平治元年(1159)12月9日、夜。
京都の三条殿を、武装した兵が包囲した。
ここは後白河上皇の御所である。院近臣の藤原信頼と、その軍事力を支える源義朝が兵を動かした。標的は、保元の乱後に後白河政権の実務を握っていた信西(藤原通憲)だった。
兵は門を破って御所へ入り、やがて館に火がかかる。女房や従者が出口へ殺到し、その中を武者と馬が走った。後白河上皇は身柄を押さえられ、内裏へ移される。
約100年後に描かれた『平治物語絵巻 三条殿夜討巻』には、燃え上がる御所の前で人と馬が折り重なり、首級を抱えた武士が駆ける光景が残る。絵巻を1159年の実況図として見ることはできない。それでも、上皇の御所が夜襲され、火を放たれた衝撃が後世まで消えなかったことはよく伝わる。
この夜から、わずか3年前。
保元元年(1156)7月11日、平清盛と源義朝は同じ軍勢にいた。『兵範記』が記す兵力は、清盛300余騎、義朝200余騎。二人は後白河天皇方の主力として白河北殿を攻め、ともに勝者となった。
その二人が1159年には敵となる。
しかも平治の乱は、最初から「平清盛対源義朝」として始まった戦争ではない。信西をめぐる対立、後白河上皇と二条天皇の並立、院近臣と二条親政派の思惑が絡み合い、そこへ清盛と義朝という二つの武力が入った。
そして12月9日の夜襲から20日ほどで、義朝は敗走し、長男・義平も捕らえられる。13歳の頼朝は伊豆へ流され、清盛だけが京都に残った。
同じ勝者だった二人の差は、どこで決定的になったのか。
話は保元の乱が終わった直後から始まる。
保元の乱から3年――勝者の中で始まった争い
保元の乱は後白河天皇方の勝利で終わった。
崇徳上皇は讃岐へ流され、藤原頼長は敗走中の傷がもとで死亡。源為義、平忠正ら武士には死刑が科された。
戦後の朝廷で急速に存在感を強めたのが信西だった。
信西は藤原通憲という名の貴族だったが、家格の壁もあって出世が頭打ちになり、出家していた。学問、法律、儀式、故実に通じ、後白河天皇が即位すると政治実務の中心へ入る。
保元の乱後には荘園整理、新制の制定、大内裏再建などに力を振るった。朝廷を動かす実務家として信西の働きは大きく、同時に息子たちも官職へ進んだ。短期間で一門の力が膨らんだことで、周囲には強い警戒も生まれる。
そこにいたのが藤原信頼である。
後世の『平治物語』は信頼を無能な寵臣として描き、その人物像が長く定着した。実際の信頼は後白河の近臣として急速に昇進し、武蔵守も経験している。後白河から強い信任を受け、院政を支える有力者の一人だった。
信西と信頼の対立だけなら、まだ貴族社会の権力争いで済んだかもしれない。
ところが1158年、政局そのものがさらに複雑になる。
1158年、二条天皇即位――京都に二つの政治中心が生まれる
保元3年(1158)8月11日、後白河天皇は皇位を子の守仁親王へ譲った。
即位したのが二条天皇である。
後白河は上皇となり、院政を始めた。一方、二条天皇の周囲には藤原経宗、藤原惟方ら、天皇自身の政治を重視する貴族が集まる。
京都には、後白河院政と二条天皇親政という二つの政治的な軸が並び立った。
しかも人間関係は単純に二陣営へ分かれない。信西は後白河に近い一方、二条天皇の即位にも深く関わっている。経宗・惟方ら二条親政派も信西の力が強まりすぎることには不満を持った。信頼は後白河の近臣でありながら、反信西という点では二条親政派と利害が重なる。
平治の乱を読み解きにくくしているのは、この重なりである。
そこへ二つの大きな力が入ってきた。
平清盛と源義朝だった。
清盛と義朝――同じ勝者でも、手元に残ったものが違った
保元の乱後、清盛は官位を上げていった。
父・忠盛が残した西国の人脈、財力、郎党、院とのつながりがそのまま生きている。信西の子・藤原成範と清盛の娘との婚姻もあり、信西一門とも近かった。
義朝も勝者である。父・為義と弟たちが守る白河北殿を攻め、戦後には左馬頭となった。東国には、若いころから築いてきた坂東武士とのつながりも残っている。
ただ、保元の乱を境に義朝の家は大きく削られた。前年の大蔵合戦では弟・義賢の系統と争い、保元の乱では父・為義と多くの弟を失っている。京都で義朝の周囲に残った一門の厚みは、清盛の平氏とはかなり違っていた。
昔は、義朝が「清盛ばかり出世した」と不満を募らせ、それが平治の乱につながったという説明がよく語られた。待遇への不満がまったくなかったと証明することもできないが、乱の背景をそこだけに置くと当時の政局を取り逃がす。
義朝が結んだ相手は、後白河上皇の近臣・藤原信頼だった。信頼には院の近くで政治を動かせる立場があり、義朝には実際に兵を動かせる力がある。二人の関係は、互いの弱い部分を補う組み合わせでもあった。
1159年冬、その組み合わせが三条殿夜討へ向かう。
清盛が熊野へ向かった、その留守に兵が動いた
平治元年12月、清盛は熊野詣のため京都を離れていた。
重盛ら平氏一門の有力者も同行している。
12月9日夜、信頼・義朝側は三条殿を襲った。
清盛の不在が好機と見られたことは間違いない。
ただし、この政変を「信頼と義朝が清盛を倒すために起こした反乱」と最初から決めてしまうと、後の動きが説明しにくい。
最初の標的は信西だった。
三条殿にいた後白河上皇は拘束され、内裏へ移された。信西の屋敷も襲撃される。
信西自身は京都から脱出していた。
同時代史料が少ないため、政変の細部には今も議論が残る。後白河上皇の意向が信西排除にどこまで関わっていたかについても研究上の見解は分かれている。
それでも12月9日夜、京都で信頼・義朝側が武力を行使し、後白河上皇の身柄を押さえたことは動かない。
平治の乱はここから始まった。
三条殿夜討――上皇の御所が燃えた夜
三条殿を囲んだ兵は門を押し破り、御所の中へ入った。
夜の御所には武装していない女房、僧、従者も大勢いる。突然の襲撃で人々が門へ殺到したところへ、騎馬武者と徒歩の兵が押し寄せた。さらに火が回る。どこから逃げればよいのかも分からない混乱になった。
『平治物語絵巻 三条殿夜討巻』は、門前で牛車が動けなくなり、人が押し倒され、その上を馬が進む場面まで描いている。武士は首級を持って走り、屋根の向こうには炎が上がる。
制作は鎌倉時代で、個々の場面をそのまま史実とはできないが、後世の人々がこの夜を「御所の占拠」よりもはるかに凄惨な出来事として記憶したことが分かる。
後白河上皇は捕らえられ、内裏へ移された。
内裏には16歳の二条天皇がいる。
これで信頼・義朝側は、上皇と天皇を一か所に集めた。
当時の政争では、兵の多さと同じくらい「誰の命令として軍を動かすか」が重要だった。天皇の宣旨や上皇の院宣が出れば、昨日まで同じ都にいた武士が、その日から「官軍」と「朝敵」に分けられる。
三条殿を焼いた直後、信頼・義朝側はその命令を生み出す中心まで手に入れていた。
残る大きな標的は信西だった。
信西の最期――地中に隠れたという伝説
信西は大和方面へ逃れた。
『平治物語』は、その逃亡を強烈な場面に仕立てている。
山中に穴を掘り、箱のようなものへ身を潜め、地上へ竹筒を伸ばして呼吸する。追手をやり過ごそうとしたものの、潜伏場所を発見され、信西は自害したという。
この「土の中へ隠れた信西」は軍記物語の描写であり、細部まで事実として扱うことはできない。
信西が逃亡し、追捕を受け、最終的に自害したこと、首が京都へ運ばれてさらされたことは史料から確認できる。
保元の乱後3年間、後白河政権を動かした実務家はここで消えた。
政変の第一段階では、信頼と義朝が完全に主導権を握った。
信頼は除目を行い、自派の人々へ官職を与える。義朝も播磨守に任じられ、13歳の源頼朝も右兵衛権佐となった。
ところが、信西を倒すために集まった人々の利害は、信西の死とともに崩れ始める。
その鍵を握ったのが二条天皇だった。
熊野から戻った清盛――すぐには刀を抜かなかった
三条殿襲撃の知らせは、熊野へ向かっていた清盛にも届いた。
『平治物語』では、一行の兵が少ないため、清盛が進退を話し合う場面がある。
東国へ逃れる案まで語られるが、清盛は京都へ戻った。
途中で兵を集め、17日ごろには六波羅へ入ったとされる。
帰京した清盛は、いきなり義朝へ攻めかからなかった。
信頼側はまだ後白河上皇と二条天皇を押さえている。
ここで清盛が先に武力を使えば、天皇に弓を引いた側にされる危険がある。
『平治物語』は、清盛が信頼へ名簿を差し出し、いったん従う姿勢を見せたと伝える。
物語的な細部を差し引いても、清盛が帰京直後から正面衝突を避け、政治状況が動くのを待ったことは重要である。
必要だったのは、義朝より多くの兵を集めるだけではない。
朝廷の命令を自分の側へ引き寄せることだった。
12月25日夜――二条天皇が消えた瞬間、勝者が入れ替わった
信西が死ぬと、反信西で一時的に重なっていた人々の思惑がほどけ始めた。
藤原経宗、藤原惟方ら二条天皇側の貴族にとって、信西を排除したあとまで信頼の政権に従い続ける理由は薄い。水面下で清盛との連絡が進み、次の一手が準備された。
12月25日夜。
二条天皇が内裏を脱出する。
『平治物語絵巻 六波羅行幸巻』は、天皇が女房の姿に紛れて牛車に乗り、六波羅へ向かったと描く。変装の方法まで確定できる同時代史料はないが、二条天皇が信頼側の管理から抜け、清盛の六波羅へ移った事実が政局をひっくり返した。
ほぼ同じころ、後白河上皇も内裏を抜けて仁和寺へ入る。
12月9日の夜、信頼と義朝は三条殿を襲って後白河上皇を確保した。二条天皇も内裏にいた。その最大の政治資産を、25日の一夜で二人とも失った。
翌朝、六波羅には現役の天皇がいる。
信頼・義朝側には、天皇も上皇もいない。
ここで追討命令が出れば、清盛は天皇を守る側として兵を動かせる。
義朝は昨日まで内裏を守っていたのに、朝になると追討される側へ回った。
平治の乱を決定づけたのは、この政治的な反転だった。
とはいえ義朝にはまだ兵がいる。政治的に追い込まれても、戦場で清盛を破れば道が開く。
12月26日、京都で本格的な戦闘が始まった。
12月26日――大内裏の門で源平が激突する
信頼・義朝側は大内裏周辺へ兵を配置した。
ここからの戦闘経過は、同時代の日記だけでは細かく追えない。兵数や一騎討ちの場面は『平治物語』など後世の軍記に大きく依存するため、数字や会話はそのまま史実として扱えない。
それでも『平治物語』が描いた戦場は鮮烈である。
平氏軍は大内裏東面の陽明門、待賢門、郁芳門などへ攻め寄せた。
前線に立つのは清盛の嫡男、平重盛。
迎え撃つ源氏側には義朝の長男、源義平がいた。
大蔵合戦で15歳にして叔父・義賢を討った「悪源太」である。
4年が過ぎ、義平は数え19歳になっていた。
対する重盛は22歳。
父の世代ではなく、その息子たちが京都の門前でぶつかった。
待賢門の戦い――19歳の義平、22歳の重盛
『平治物語』では、清盛の嫡男・重盛が待賢門へ攻め込む。
門内で迎えたのが義平だった。
大蔵合戦で叔父・義賢を討ったとき、義平は数え15歳。それから4年が過ぎている。重盛は22歳。
清盛と義朝の息子たちが、それぞれ一門の先頭でぶつかった。
軍記はここから一気に速度を上げる。
重盛が門を突破して大内裏へ入る。義平が追う。重盛の郎党が主人の前へ出て食い止める。義平はさらに詰め、戦いは紫宸殿前、左近の桜・右近の橘の近くまで移ったという。
宮中の儀式が行われる場所を、鎧武者が馬で駆け、太刀と弓で戦う。
この一騎討ちの細かな動きや兵数は『平治物語』の世界であり、同時代史料から実況のように確認できるものではない。ただ、後世まで「待賢門の戦い」として伝えられ、義平と重盛の衝突が平治の乱を代表する場面になったことは確かである。
しかも物語では、ここで源氏が一方的に崩れたとは描かれない。重盛ら平氏軍はいったん後退し、義朝側は追撃へ出る。
見た目だけなら源氏が押している。
しかし、平氏が退いた先には清盛の本拠六波羅があった。
六波羅合戦――追った義朝が、逆に包み込まれる
六波羅は鴨川の東、現在の京都市東山区一帯にあった平氏の本拠である。
そこには清盛がいた。平氏の一門と郎党も集まり、何より二条天皇がいる。
義朝は退く平氏軍を追って、大内裏から東へ進んだ。
『平治物語』では、平氏の退却そのものが義朝方を六波羅へ引き寄せる動きとして描かれる。
どこまで計画的な誘引だったかは確定できないが、結果だけを見れば義朝は、自分たちが守っていた大内裏を離れ、平氏が兵を集める本拠へ近づいていった。
六波羅の門前で再び戦闘になる。
平氏方は自分たちの館を背にして戦える。義朝側は追撃で隊列が伸び、しかも天皇を失ったあとである。信頼のもとに集まった武士の結束も弱まり、『平治物語』では源頼政らが途中で戦線を離れたと語られる。
現存しない『平治物語絵巻』六波羅合戦巻は、模本や残欠から内容を追うことができる。そこには六波羅門前での戦闘、退却を決断する義朝、東国へ落ちるよう勧める鎌田正清らが描かれていた。
源氏は六波羅を抜けない。
やがて平氏側が押し返し始める。
大内裏では重盛を追っていた義平も、六波羅では戦況をひっくり返せない。兵が散り、味方が減り、京都の中で新しい陣を組み直す余地も消えていった。
ここで義朝は都を捨てる。
向かう先は東国だった。
義朝はなぜ東国を目指したのか
京都で敗れた義朝には、まだ坂東が残っていた。
若いころから相模を中心に三浦氏などの武士と関係を築き、相馬御厨や大庭御厨をめぐる争いにも介入してきた。義朝の軍事基盤は京都だけにあったわけではない。
坂東まで戻れば、再び兵を集められる可能性がある。
義朝は息子や郎党を連れて京都を脱出した。
一行には長男・義平、次男・朝長、三男・頼朝、腹心の鎌田正清らがいた。
季節は旧暦12月末。真冬である。
近江から美濃へ向かう道は厳しく、平氏側の追捕も続く。敗走する源氏一行は、東へ進むほど人数を減らしていった。
13歳の頼朝――雪の中で父とはぐれる
源頼朝は久安3年(1147)生まれ。
平治の乱では数え13歳だった。
『平治物語』によれば、頼朝は敗走中に父たちとはぐれ、雪の中をさまよった。やがて近江国で捕らえられ、京都へ送られる。
父・義朝は乱の軍事的中心人物。兄・義平も平氏と激しく戦った。
頼朝が処刑されても不思議ではない状況だったが、命は助かった。
清盛の継母・池禅尼が助命を願ったという話は『平治物語』などに見える。
c池禅尼の嘆願がどこまで決定的だったかは慎重に見る必要があるものの、頼朝が死刑を免れ、翌1160年に伊豆へ流されたことは確かである。
13歳の少年はここで政治の表舞台から消える。
次に頼朝が歴史を大きく動かすのは、20年後だった。
朝長の死、義平の捕縛
義朝の次男・朝長は敗走の途中で傷を負った。
『平治物語』は、美濃国青墓まで来たところで朝長が動けなくなり、父の足手まといになることを避けるため死を望み、義朝が手を下したという悲劇を描く。
長男・義平は父と別れたのち、京都近辺へ戻って清盛を狙ったと『平治物語』は伝える。
やがて捕らえられ、六条河原で処刑された。
軍記では、義平が処刑直前まで清盛を罵り、「雷となって復讐する」と言い残したと語る。
大蔵合戦で叔父・義賢を討ち、平治の乱では重盛と戦った悪源太義平の生涯は、20歳に届かないうちに終わった。
義朝、尾張で殺される
義朝はさらに東へ進み、尾張国へ入った。
頼ったのは長田忠致。
義朝の腹心・鎌田正清の舅にあたる人物である。
坂東まであと少し。
ここで休み、体勢を立て直したかったはずだった。
しかし義朝は長田忠致らに殺された。
『平治物語』は入浴中の義朝を襲う場面を描き、「木太刀一本でもあれば」と無念を語らせる。
保元の乱では父・為義と戦い、勝者となった義朝。
その3年後、自分も敗者となり、東国へ帰り着く直前に命を落とした。
藤原信頼も処刑――政変は20日も続かなかった
京都に残った藤原信頼は逃げ切れなかった。
捕らえられたのち、12月末に六条河原で斬首された。
公卿まで死刑に処されたことは、保元の乱に続く大きな変化だった。
三条殿を襲い、信西を死に追い込み、後白河上皇と二条天皇を押さえた信頼の政権は、20日も続かなかった。
一方、二条天皇を六波羅へ脱出させるのに関わった藤原経宗・惟方らも、その後ずっと安泰だったわけではない。乱後、後白河上皇との対立から処分を受ける。
平治の乱では、勝者と敗者が最初から固定されていたわけではなかった。
信西を倒すところまでは利害が一致した人々が、その直後から別々の方向へ動く。二条天皇の脱出で政治的な正統性が清盛側へ移り、その変化を武力で押し切ったのが12月26日の戦いだった。
源氏が消え、平氏が残った
平治の乱後、京都の武士勢力のバランスは大きく変わった。
源為義は保元の乱で死亡。義朝も平治の乱で死亡。
義平は処刑され、頼朝は伊豆へ流された。
河内源氏の義朝系は、京都の中央政界からほぼ姿を消す。
清盛の側には、重盛、宗盛、教盛、頼盛、経盛ら一門が残った。父・忠盛が築いた西国の基盤や郎党、院との関係も生きている。
保元の乱の時点では、清盛と義朝はともに後白河方の主力だった。
3年後、片方だけが京都に残った。
この差は大きい。
朝廷が軍事力を必要とするとき、清盛へ頼る場面が増えていく。
二条天皇と後白河上皇の双方との関係を使いながら、清盛は官位を上げた。
仁安2年(1167)、平治の乱から8年後。
清盛は太政大臣となる。
平氏政権へ続く道は、平治の乱によって一気に開けた。
20年後、伊豆の少年が戻ってくる
平治の乱で最も長い影を残したのは、戦場で活躍した武将ではなかった。
捕らえられた13歳の源頼朝である。
永暦元年(1160)、頼朝は伊豆へ流された。
それから20年後の治承4年(1180)。
33歳になった頼朝は伊豆で挙兵する。
父・義朝が最後まで戻ろうとした東国には、河内源氏とのつながりを持つ武士たちが残っていた。頼朝はその世界を足場にして勢力を広げ、やがて平氏と対決していく。
1159年12月9日、三条殿が燃えた夜。
清盛の時代が大きく開き、義朝の時代は終わりへ向かった。
同じ夜から、頼朝の20年に及ぶ流人生活へ続く道も始まっている。
保元の乱で肩を並べた清盛と義朝は、3年後の京都で別々の運命を選んだ。
一人は朝廷の頂点へ進み、一人は東国へ帰る途中で死んだ。
そして敗者の息子だけが生き残った。
その少年が、20年後にもう一度、源氏を東国から立ち上げることになる。


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