第3回
6世紀前半。
現在の福岡県八女市に、北部九州最大の前方後円墳が築かれた。
岩戸山古墳である。
墳丘長135メートル。周濠などを含めた全長は170メートル以上に及ぶ。
古墳の北東には一辺約43メートルの「別区」と呼ばれる方形区画があり、墳丘やその周辺には人物、馬、猪、盾などを石でかたどった石製表飾が並べられていた。
この巨大古墳の被葬者と考えられているのが、筑紫君磐井である。
磐井が生まれた年も場所も分かっていない。何歳で亡くなったのかも記録には残らない。
彼の名が歴史上に大きく現れるのは、継体大王21年(527年)。
ヤマト王権が朝鮮半島へ送ろうとした軍勢の進路を磐井が遮り、翌528年には物部麁鹿火が率いる軍勢と筑紫国御井郡で激突した。
『日本書紀』は、磐井がこの戦いで殺されたと記す。
『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前国上膳県へ逃れ、山中で姿を消したという異なる最期が伝えられている。
527年の戦いが始まる以前から、筑紫君は北部九州に大きな基盤を築いていた。
その姿を現在に伝えているのが、八女丘陵に残された古墳群と岩戸山古墳である。
「筑紫君」とは何者だったのか
史料によって、磐井の呼び方は異なる。
『日本書紀』には「筑紫国造磐井」とある。
『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」と記されている。
現在では「筑紫君磐井」という呼称も広く用いられている。
磐井の本拠と考えられているのが、現在の福岡県八女市を中心とする八女丘陵である。
八女市・筑後市・広川町にまたがる丘陵には、300基を超える古墳が確認されている。
八女古墳群である。
大型古墳の築造が本格化するのは5世紀に入ってからだった。
八女丘陵西部には、墳丘長約107メートルの石人山古墳が築かれ、その後も大型の前方後円墳が続いた。
そして6世紀前半、岩戸山古墳が築かれる。
磐井一代で巨大な勢力が生まれたのではない。
八女丘陵では磐井以前から、大型前方後円墳を築く首長層が何世代にもわたって力を蓄えていた。
磐井は、その頂点に立った人物だった。
墳丘長135メートル、岩戸山古墳
福岡県八女市吉田。
ここに岩戸山古墳が残っている。
墳丘長135メートル、後円部径約80メートル、前方部幅約92メートル。
周濠などを含めると全長170メートル以上に達する。
北部九州最大の前方後円墳である。
岩戸山古墳が磐井の墓と考えられる大きな手がかりが、『筑後国風土記』逸文にある。
『筑後国風土記』そのものは現在まで伝わっていない。
後世に編纂された『釈日本紀』巻十三に引用された文章が逸文として残されている。
そこには上妻県の南二里に「筑紫君磐井」の墓があると記され、その規模や構造まで書かれている。
墓域は南北六十丈、東西四十丈。
石を積み上げて造られ、周囲には水田があったという。
さらに墓の北東には「衙頭」と呼ばれる区画が設けられていた。
岩戸山古墳にも、墳丘の北東側に一辺約43メートルの「別区」が存在する。
古墳の位置、規模、築造年代、そして特徴的な別区。
これらが風土記逸文の記述と重なることから、岩戸山古墳は筑紫君磐井の墓と考えられている。
古墳に並んだ石人・石馬
岩戸山古墳を特徴づけるものが、石人・石馬をはじめとする石製表飾である。
ヤマトを中心とする多くの古墳では、墳丘に円筒埴輪や人物・動物などを表した形象埴輪が並べられた。
九州では、石を加工して人物や動物などを表現する独特の文化が発達した。
岩戸山古墳には、とりわけ多くの石製表飾が集中している。
武装した人物、裸体の人物、馬、猪、鶏、盾、靫など、さまざまなものが造られた。
主な材料は阿蘇溶結凝灰岩だった。
『筑後国風土記』逸文にも、磐井の墓に石人・石盾を並べ、石馬・石殿・石蔵を置いたという記述がある。
なかでも異彩を放つのが、北東側の別区である。
風土記逸文では、ここに裁判を表したような場面が造られていた。
「解部」と呼ばれる人物が立ち、その前には裸になって地面に伏す「偸人」が置かれる。
傍らには盗まれた猪を表した石猪があった。
猪を盗んだ者が裁きを受ける光景を表現したものと解釈されている。
巨大な墳丘とともに、こうした空間まで築くことのできた人物が磐井だった。
石人・石馬はどこまで広がったのか
石人・石馬は岩戸山古墳だけで見つかっているわけではない。
とりわけ多いのが福岡県南部の筑後地方と熊本県北部である。
さらに佐賀県、大分県、宮崎県などでも確認され、遠く鳥取県からも発見例がある。
八女古墳群では、岩戸山古墳より前に築かれた石人山古墳にも武装石人が置かれていた。
石製表飾の文化は、磐井が現れる以前から八女丘陵に存在していたのである。
筑後から熊本県北部に集中する石人の分布は、筑紫君を中心とする地域的な結びつきを考える材料になっている。
『日本書紀』が527年の戦いについて記した地域とも重なる。
同書では、磐井が「火」と「豊」に勢力を広げたと描かれている。
火は現在の熊本県を中心に佐賀・長崎方面、豊は現在の福岡県東部から大分県方面にあたる。
石人・石馬が発見された地域を、そのまま磐井の直接支配領域とすることはできない。
それでも考古資料からは、八女を中心とした石製表飾の文化が広い地域へ展開していたことが分かる。
継体大王と筑紫君磐井
磐井と同じ時代にヤマト王権の頂点に立ったのが継体大王である。
『日本書紀』によれば、継体は応神天皇の五世孫とされ、越前から迎えられて即位した。
継体元年は507年とされる。
磐井の墓と考えられる岩戸山古墳も6世紀前半に築造された。
注目したいのは、岩戸山古墳そのものが前方後円墳であることだ。
前方後円墳は、ヤマト王権と各地の有力首長層との政治的な関係を考えるうえで重要な古墳形式である。
磐井が最初からヤマト王権と敵対し続けていた人物だったとは限らない。
ヤマト王権との政治的な関係を持ちながら、北部九州に独自の基盤を築いていた有力首長。
その関係が527年に軍事衝突へ発展する。
朝鮮半島をめぐる情勢
6世紀前半の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅、そして加耶諸国が勢力を争っていた。
北部九州は朝鮮半島へ向かう海上交通の重要な位置にある。
ヤマト王権が朝鮮半島へ人員や軍勢を送る場合、筑紫を通ることになる。
継体21年(527年)6月。
『日本書紀』によれば、ヤマト王権は近江毛野臣に6万の兵を与え、朝鮮半島へ派遣しようとした。
目的は、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を復興し、任那に合わせることだったと記されている。
6万という兵数は『日本書紀』が記す数字である。
近江毛野の軍勢が海を渡るためには、北部九州を経由する必要があった。
その進路を磐井が遮った。
527年、新羅から磐井への働きかけ
『日本書紀』は、戦争が始まった背景に新羅がいたと記す。
近江毛野の派遣を知った新羅は、磐井に賄賂を贈り、毛野の軍勢を妨害するよう働きかけたという。
磐井はこれに応じた。
同書は、このときの磐井について以前から反逆の意志を抱いていたと描いている。
さらに磐井は火・豊に勢力を広げ、高句麗・百済・新羅・任那からヤマト王権へ向かう船を妨害し、近江毛野の軍勢の進路を遮ったという。
『日本書紀』が完成したのは、磐井の戦いから約200年後の8世紀である。
そこに記された戦争の経緯は、ヤマト王権側から編纂された歴史として読む必要がある。
一方、岩戸山古墳や八女古墳群は、527年以前から筑紫君が北部九州に大きな政治的・経済的基盤を築いていたことを示している。
その筑紫君とヤマト王権が、527年に武力を交えることになった。
磐井は近江毛野の進路を塞いだ
『日本書紀』には、磐井と近江毛野が言葉を交わしたという記事もある。
磐井は毛野に、昔は同じ釜の飯を食べた仲だったのに、今では使者となって自分を服従させようとしている、と語ったという。
この会話を実際の発言として確認することはできない。
史書の記述では、磐井と毛野は以前から面識のある人物として描かれている。
磐井は毛野の軍勢を遮り、朝鮮半島へ渡ることを阻んだ。
ヤマト王権は磐井討伐を決める。
同年8月、継体大王は大連・物部麁鹿火を将軍に任命した。
戦争は翌528年まで続いた。
物部麁鹿火、九州へ
『日本書紀』は、物部麁鹿火を派遣するときの継体大王の言葉を詳しく記している。
磐井がいる長門より東は自分が治め、筑紫より西は麁鹿火に任せる。
賞罰も麁鹿火に委ねる。
そのような内容である。
物部氏の有力者である麁鹿火が将軍として派遣され、戦争は筑紫で決着を迎える。
決戦の地となったのが筑紫国御井郡だった。
現在の福岡県久留米市周辺である。
528年11月、御井郡の決戦
継体22年(528年)11月11日。
『日本書紀』によれば、物部麁鹿火と磐井の軍勢が筑紫国御井郡で激突した。
両軍は旗と鼓を向かい合わせ、埃を巻き上げながら戦った。
互いに勝機を争い、容易には退かなかったという。
戦闘の末、麁鹿火が磐井を斬った。
磐井の軍勢は敗れた。
磐井がどれほどの兵を動員したのか。
御井郡のどこで決戦が行われたのか。
両軍がどのような陣形を組んだのか。
そこまでを知る史料は残っていない。
『日本書紀』から追えるのは、527年に始まった軍事衝突に物部麁鹿火が派遣され、翌528年11月に御井郡で決戦が行われたという経過である。
二つに分かれる磐井の最期
磐井がどのように死んだのか。
ここで『日本書紀』と『筑後国風土記』逸文の記述が分かれる。
『日本書紀』では、物部麁鹿火が御井郡の戦場で磐井を斬った。
『筑後国風土記』逸文では、官軍の攻撃を受けた磐井は勝てないと判断し、一人で豊前国上膳県へ逃れた。
そして南の山中で命を終えた。
磐井がどこで死んだのかを知る者はいなかったという。
同じ磐井の最期について、一方は「戦場で斬られた」と記し、もう一方は「豊前へ逃れて姿を消した」と伝えている。
官軍に壊されたと伝わる石人・石馬
『筑後国風土記』逸文には、磐井の墓をめぐる話も残されている。
磐井を取り逃がした官軍は、その墓に並べられていた石人・石馬を壊したという。
石人の手を折り、石馬の頭を落とした。
そのため土地に災いが起きたと、古老が語ったと記されている。
岩戸山古墳からも、破損した石製品が数多く見つかっている。
それらが528年の戦争後に官軍によって壊されたものかどうかは分かっていない。
それでも、磐井の墓に多数の石人・石馬があったという風土記逸文の記述と、岩戸山古墳から多数の石製表飾が確認されている事実は重なる。
息子・葛子と糟屋屯倉
磐井の敗北後、『日本書紀』には息子の葛子が登場する。
継体22年(528年)12月。
葛子は父の罪によって自分も殺されることを恐れ、「糟屋屯倉」を献上して死罪を免れるよう求めたという。
糟屋は現在の福岡県糟屋郡を中心とする地域である。
八女から見ると、かなり北に位置する。
この『日本書紀』の記事は、戦争以前の筑紫君の影響が現在の福岡市周辺にまで及んでいた可能性を考える材料にもなっている。
葛子は生き残った。
八女丘陵でも、岩戸山古墳を最後に大型古墳が途絶えたわけではなかった。
岩戸山古墳のあとも続いた八女古墳群
岩戸山古墳のあとにも、八女丘陵では大型の前方後円墳が築かれている。
乗場古墳、善蔵塚古墳、鶴見山古墳などである。
鶴見山古墳では、2005年(平成17年)の調査で武装石人が出土した。
童男山古墳群からも、子どもを背負った女性を表した石人が見つかっている。
岩戸山古墳以前から続いてきた石人・石馬の文化は、528年の戦争後にも八女丘陵に残った。
さらに『日本書紀』には、磐井の戦いから140年以上を経た時代にも「筑紫君」を名乗る人物が現れる。
天智天皇10年(671年)の「筑紫君薩野馬」である。
白村江の戦いから8年後、唐から帰国した一行のなかにその名が記されている。
薩野馬と磐井の直接の系譜関係は分からない。
確認できるのは、528年から143年後の史料にも「筑紫君」を名乗る人物が登場することである。
岩戸山に残る筑紫君磐井
現在も福岡県八女市には岩戸山古墳が残っている。
墳丘長135メートル。
周濠などを含めた全長は170メートル以上。
北部九州最大の前方後円墳である。
磐井以前から、八女丘陵では大型古墳が築かれていた。
その流れのなかで岩戸山古墳が造られ、数多くの石人・石馬が置かれた。
『日本書紀』では、磐井は火・豊にまで勢力を及ぼし、527年に近江毛野の軍勢を遮った人物として登場する。
翌528年11月、物部麁鹿火との御井郡の戦いに敗れた。
同年12月には息子の葛子が糟屋屯倉を献上したと記されている。
それから143年後の671年にも、『日本書紀』には「筑紫君」の名が現れる。
磐井が生きた年数も、その顔も分からない。
八女丘陵に残された巨大な墳丘と石人・石馬は、6世紀前半の北部九州に、ヤマト王権と軍勢を交えるほどの力を持った筑紫君磐井がいたことを、今に伝えている。
「磐井の剣」は、八女茶の産地・福岡県八女にちなんだ玉露白折。
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