第13回
592年11月3日、大臣・蘇我馬子は群臣に「今日は東国からの調を献上する日である」と告げた。人々が集まるなか、馬子の命令を受けた東漢直駒が崇峻天皇を殺害した。
『日本書紀』は、この事件について「馬子宿禰、群臣を欺きて曰はく、『今日、東国の調を進る』と。乃ち東漢直駒をして天皇を弑せしむ」と記す。実行者だけでなく、馬子が殺害を命じたことまで明記されている。
崇峻天皇は、その日のうちに倉梯岡陵へ葬られた。
さらに2日後、朝廷は筑紫に駐留する将軍たちへ早馬を送り、国内で政変が起きても国外の任務を怠らないよう命じている。筑紫には前年から二万余の軍勢が置かれていた。
第32代・崇峻天皇。
欽明天皇の皇子として生まれ、587年に物部守屋が滅ぼされた直後に即位した。
治世では飛鳥寺の造営が始まり、東国や北陸へ使者が送られ、朝鮮半島をめぐって二万余の軍勢が筑紫へ集結した。
それから約5年後、崇峻天皇は大臣・蘇我馬子によって命を奪われる。
二人の関係は、なぜ天皇暗殺にまで至ったのか。
欽明天皇と蘇我小姉君の皇子
崇峻天皇の生年は分かっていない。
即位前は泊瀬部皇子と呼ばれた。
父は第29代・欽明天皇、母は蘇我小姉君である。小姉君は大臣・蘇我稲目の娘だった。
蘇我稲目の子には蘇我馬子もいるため、馬子は泊瀬部皇子にとって母方の叔父にあたる。
同母兄には穴穂部皇子がいた。
また、欽明天皇の子には敏達天皇、用明天皇、のちに推古天皇となる額田部皇女らがおり、6世紀後半の皇位は欽明天皇の子どもたちを中心に継承されていく。
その皇位継承に、蘇我氏と物部氏という二つの有力氏族の対立が深く関わった。
蘇我馬子と物部守屋
当時の朝廷で大きな力を持っていたのが、大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋だった。
蘇我氏は天皇家との婚姻関係を深めていた。欽明天皇には蘇我稲目の娘である堅塩媛と小姉君が入り、多くの皇子・皇女を生んでいる。
物部氏も軍事や祭祀などを担い、古くから朝廷を支えてきた有力氏族だった。
両氏の対立を象徴する問題の一つが仏教の受容である。
蘇我氏は仏教を受け入れ、寺院造営や僧尼の保護を進めた。物部守屋や中臣勝海らは仏教受容に反対した。
587年に起こる武力衝突には、こうした宗教をめぐる問題に加え、皇位継承をめぐる政治的な争いが重なっていた。
泊瀬部皇子も、その争いの中へ入っていく。
587年――用明天皇の死
585年、敏達天皇が死去し、異母弟の用明天皇が即位した。
用明天皇の母は蘇我稲目の娘・堅塩媛であり、母方から蘇我氏の血を引いていた。
587年4月、用明天皇が病に倒れる。
『日本書紀』によれば、用明天皇は病床で仏教への帰依を望んだ。馬子は天皇の意向を受け入れる立場を示し、物部守屋と中臣勝海は反対した。
朝廷内の緊張が高まるなか、用明天皇は同月に死去する。
次の天皇を誰にするのか。
皇位をめぐる争いが動き始めた。
穴穂部皇子と物部守屋
物部守屋と結んでいた皇族の一人が穴穂部皇子だった。
穴穂部皇子は泊瀬部皇子の同母兄で、母は蘇我小姉君である。蘇我氏の血を引きながら、政治的には守屋と行動をともにした。
『日本書紀』には、用明天皇の死以前から穴穂部皇子と守屋が密接に結びついていた様子が記されている。
一方、泊瀬部皇子はのちの物部守屋討伐で馬子側の軍勢に加わった。
同じ母から生まれた兄弟は、皇位継承をめぐる争いのなかで異なる陣営に立つことになる。
587年6月――穴穂部皇子殺害
用明天皇が死去してから約2か月後、馬子側が先に動いた。
『日本書紀』によれば、587年6月、馬子らは豊御食炊屋姫の命を奉じ、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真嚙らを穴穂部皇子のもとへ向かわせた。
夜半、兵が皇子の宮を包囲する。
穴穂部皇子は逃れようとしたが、兵士たちに殺害された。
翌日には、穴穂部皇子と親しかった宅部皇子も殺された。
守屋は皇位継承で結びついていた皇子を失った。
翌7月、蘇我馬子と物部守屋の対立は全面的な武力衝突へ発展する。
587年7月――丁未の乱
蘇我馬子は諸皇子や群臣とともに、物部守屋を討つ軍勢を編成した。
『日本書紀』には、そのなかに泊瀬部皇子の名も記されている。
泊瀬部皇子のほか、竹田皇子、厩戸皇子、難波皇子、春日皇子、紀男麻呂、巨勢比良夫、膳賀拕夫、葛城烏那羅らが参加した。
軍勢は物部守屋の本拠である河内国渋川へ向かった。
守屋側の抵抗は激しかった。
『日本書紀』は、守屋が木の枝に登り、そこから雨のように矢を射たと記している。馬子側の軍勢は恐れ、三度退いた。
この戦いで厩戸皇子は四天王像を作り、勝利すれば四天王を祀る寺を建立すると誓った。馬子も寺院建立を誓ったと『日本書紀』は伝えている。
やがて迹見赤檮が守屋を射落とし、守屋とその子らは殺された。
指導者を失った物部軍は崩壊する。
長く朝廷の有力氏族として勢力を持ってきた物部氏の本宗家は、この戦いを境に政治の中心から退いていった。
587年8月――泊瀬部皇子が即位する
物部守屋が滅ぼされた翌月。
587年8月、泊瀬部皇子が即位した。
第32代・崇峻天皇である。
『日本書紀』は、豊御食炊屋姫と群臣が泊瀬部皇子に即位を勧めたと記している。
物部氏を倒して勢力を強めた蘇我馬子が崇峻天皇の即位に大きな影響を持ったと考えられているが、『日本書紀』の即位記事そのものは、馬子一人が崇峻天皇を擁立したとは記していない。
崇峻天皇自身も、直前の丁未の乱では馬子側の皇族として守屋討伐に参加していた。
即位後、蘇我馬子は引き続き大臣を務めた。
宮は倉梯柴垣宮に置かれた。
現在の奈良県桜井市倉橋付近である。
物部守屋を倒した同じ陣営から、崇峻天皇と大臣・蘇我馬子を中心とする新たな政治体制が始まった。
588年――飛鳥寺の造営が始まる
崇峻天皇元年にあたる588年。
百済から僧侶や仏舎利とともに、寺工、瓦博士、画工など、寺院建築に関わる技術者が渡来した。
蘇我馬子は飛鳥で法興寺の造営を始める。
のちの飛鳥寺である。
587年の丁未の乱で馬子は、物部守屋に勝利すれば寺を建てると誓っていた。
その翌年から大規模な寺院造営が始まった。
592年10月には仏堂と歩廊の建設が始まり、寺が完成するのは596年。崇峻天皇の死後、推古天皇の時代である。
飛鳥寺跡の発掘調査では、塔を中心に三つの金堂を配置した伽藍が確認されている。
崇峻朝は、物部氏との戦いが終わり、飛鳥で本格的な寺院造営が進み始めた時代でもあった。
妃・大伴小手子と二人の子
588年3月、崇峻天皇は大伴糠手連の娘・小手子を妃とした。
『日本書紀』によれば、二人の間には蜂子皇子と錦代皇女が生まれた。
蜂子皇子については、父の死後に都を離れて出羽へ向かい、出羽三山を開いたという伝承が後世に生まれている。
この逃亡や出羽三山開山の話は、『日本書紀』の崇峻紀には記されていない。
妃となった小手子自身は、592年の崇峻天皇暗殺をめぐる別伝に登場する。
589年――東山道・東海道・北陸道へ使者を送る
崇峻天皇2年、589年7月。
朝廷は三方向へ使者を派遣した。
近江臣満を東山道へ送り、蝦夷の境を視察させた。
宍人臣雁を東海道へ派遣し、東方の沿海諸国を視察させた。
さらに阿倍臣を北陸道へ送り、越などの諸国の境を確認させている。
『日本書紀』が崇峻朝の国内政治について伝える記事の一つである。
崇峻朝の朝廷は、畿内から東国、北陸方面へと広がる地域の状況を把握するため、人員を派遣していた。
591年――崇峻天皇、任那をめぐって群臣に問う
崇峻天皇4年、591年8月。
崇峻天皇は群臣に対し、任那の再建を望んでいるが、どう考えるかと問いかけた。
群臣はこれに賛成したと『日本書紀』は記している。
任那をめぐる問題は、崇峻朝になって突然始まったものではない。
『日本書紀』では562年に任那諸国が新羅に滅ぼされたと記され、その後も朝廷は百済や新羅との外交を続けていた。
崇峻朝では、その問題に対して大規模な軍事動員が行われる。
二万余の軍勢が筑紫へ向かう
591年11月。
朝廷は紀男麻呂、巨勢猿、大伴囓、葛城烏奈良を大将軍に任じた。
『日本書紀』によれば、諸氏族の臣・連を率いた「二万余軍」が筑紫へ向かった。
同時に吉士金を新羅へ、吉士木蓮子を任那へ派遣し、任那をめぐる問題について交渉させている。
二万余の軍勢は、すぐに朝鮮半島へ渡ったわけではなかった。
筑紫に駐留し、新羅などとの外交交渉が続けられた。
この軍勢は崇峻天皇の死後も撤収しない。
『日本書紀』では推古天皇3年、595年7月に将軍たちが筑紫から帰還したと記されている。
崇峻朝末期から推古朝初期まで、大規模な軍勢が九州北部に置かれ続けたことになる。
592年――崇峻天皇と馬子の関係が崩れる
崇峻天皇5年、592年10月。
一頭の山猪が天皇へ献上された。
『日本書紀』によれば、崇峻天皇は猪を指し、この猪の首を切るように、自分が憎いと思う者の首をいつか切りたいという意味の言葉を口にした。
さらに宮中では、多くの武器が準備された。
この話を知った馬子は、天皇が憎んでいる人物とは自分ではないかと恐れた。
そして仲間を集め、天皇殺害を計画する。
『日本書紀』は、これを暗殺直前の出来事として記している。
崇峻天皇が誰の殺害を考えていたのか、具体的な名前は記されていない。
馬子は自分の身に危険が迫っていると判断した。
587年には同じ側に立って物部守屋を倒した天皇と大臣の関係が、5年後には互いの生命に関わるほど悪化していた。
妃・小手子が密告したという別伝
『日本書紀』は、崇峻天皇暗殺をめぐって別の伝承も載せている。
妃の大伴小手子は、天皇からの寵愛が衰えたことを恨んでいた。
そこで人を馬子のもとへ送り、崇峻天皇が山猪を見て「この猪の首のように、憎い者の首を切りたい」という趣旨の言葉を口にしたこと、さらに宮中に武器が集められていることを知らせたという。
馬子はその知らせを聞いて驚いた。
ただし『日本書紀』は、この話を本文とは別の「或本」の伝承として収録している。
本伝と別伝の双方に、崇峻天皇が武器を準備し、馬子が自身への危険を感じたという流れが残されている。
592年11月3日――蘇我馬子、天皇を殺す
11月3日。
馬子が先に動いた。
『日本書紀』によれば、馬子は群臣を欺き、
「今日、東国の調を進る」
と告げた。
そして東漢直駒に命じ、崇峻天皇を殺害させた。
東漢氏は渡来系氏族として朝廷の文書作成や財政などの実務に携わり、軍事面でも活動した一族である。
『日本書紀』は、
「乃使東漢直駒弑于天皇」
と記す。
東漢直駒に天皇を弑させた。
崇峻天皇暗殺について、『日本書紀』は実行者を東漢直駒、命令者を蘇我馬子として明確に記録している。
587年8月の即位から約5年。
崇峻天皇の生年は分からず、何歳で命を落としたのかも確定できない。
暗殺されたその日に葬られる
『日本書紀』は暗殺を記した直後、
「是の日、天皇を倉梯岡陵に葬る」と続けている。
崇峻天皇は殺害されたその日のうちに葬られた。
古代の天皇が死去した際には、正式な埋葬まで殯の期間を置く例が多い。
崇峻天皇について、『日本書紀』には殯を行った記事がない。
暗殺と埋葬が同じ日の出来事として記録されている。
現在、宮内庁は奈良県桜井市倉橋にある倉梯岡陵を崇峻天皇陵として治定している。
暗殺から2日後、筑紫へ早馬が走る
11月5日。
朝廷は筑紫に駐留する将軍たちのもとへ駅使を送った。
『日本書紀』に記された命令は、
「内乱によりて、外事を怠ることなかれ」
というものだった。
国内で政変が起きても、国外に関する任務を怠るなという意味である。
筑紫には前年から二万余の軍勢が駐留していた。
天皇が殺されても、その軍勢は解散されなかった。
将軍たちは595年まで筑紫に残る。
崇峻天皇の死によって、朝廷の外交・軍事活動そのものが停止したわけではなかった。
暗殺を実行した東漢直駒の死
崇峻天皇を殺害した東漢直駒も、その後長く生きることはなかった。
『日本書紀』によれば、駒は蘇我馬子の娘・河上娘を奪い、妻とした。
河上娘は崇峻天皇の嬪だったとも記されている。
馬子は当初、娘が死んだものと思っていた。
やがて駒が河上娘を奪っていたことが明らかになると、馬子は駒を殺した。
天皇暗殺の実行者も、同じ11月の記事の中で命を落とした。
一方、暗殺を命じた馬子自身が処罰されたとは記されていない。
馬子は大臣として朝廷に残った。
592年12月――推古天皇即位
崇峻天皇の死によって皇位は空いた。
群臣が次の天皇として推したのが、敏達天皇の皇后だった額田部皇女である。
額田部皇女は欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘で、崇峻天皇の異母姉にあたる。
『日本書紀』によれば、群臣は即位を求めたものの、額田部皇女は一度辞退した。その後、皇太子と群臣が再び即位を求め、三度に及んだため、ついに受け入れたという。
592年12月。
額田部皇女が豊浦宮で即位した。
第33代・推古天皇である。
翌593年には厩戸皇子が皇太子となり、政治に参加したと『日本書紀』は記している。
蘇我馬子も大臣の地位を維持した。
587年、泊瀬部皇子は物部守屋を倒した側の皇族として即位した。
その治世では飛鳥寺の造営が始まり、東国・北陸へ使者が派遣され、二万余の軍勢が筑紫へ送られた。
592年11月3日、その崇峻天皇を蘇我馬子が殺した。
それでも朝廷は崩れなかった。
筑紫の軍勢はそのまま駐留し、翌月には推古天皇が即位した。
崇峻朝に始まった飛鳥寺の造営も、新しい天皇のもとで続いていく。
そして推古天皇、厩戸皇子、大臣・蘇我馬子が政治の中枢を担う時代が始まった。
崇峻天皇を殺害した蘇我馬子は、その後も34年間、大臣として朝廷に立ち続けることになる。
ていきます。
飛鳥の歴史を読んだあとは、奈良の味を。
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