第4回
継体21年(527年)8月、物部麁鹿火(もののべのあらかい)は筑紫君磐井の討伐を命じられた。
『日本書紀』によれば、継体天皇は麁鹿火に斧鉞を授け、「長門より東」は自ら治め、「筑紫より西」は麁鹿火に委ねると告げた。
翌528年11月11日、両者は筑紫国御井郡で激突する。
「旗鼓相望み、埃塵相接げり」
互いの旗と鼓が向かい合い、巻き上がる土煙が接するほどの戦いだったと『日本書紀』は記している。
麁鹿火が朝廷の中枢にいたのは、磐井との戦いより20年以上前からだった。
物部氏の大連・麁鹿火
物部麁鹿火の生年は分かっていない。
名は「麤鹿火」「荒甲」とも記され、「あらかい」「あらかひ」「あらかび」などの読みが伝わる。
後世の系譜では物部麻佐良の子とされる。
物部氏は大和を基盤とし、朝廷の軍事や祭祀に深く関わった有力豪族だった。
麁鹿火が務めた「大連」は、連姓を持つ有力豪族の中でも朝廷の中枢に立つ地位である。
6世紀初めには大伴金村も大連、許勢男人は大臣を務めていた。
武烈天皇が亡くなると、麁鹿火は金村・男人らとともに、次の王を迎える動きに加わる。
武烈天皇の死と倭彦王
武烈8年(506年)12月。
『日本書紀』によれば、武烈天皇は後継となる男女を残さずに亡くなった。
大伴金村らは、丹波国桑田郡にいた倭彦王を迎えようとした。
兵仗を整えた一行が迎えに向かう。
倭彦王は遠くからその軍勢を見て恐れ、山中へ逃れた。
その後の行方は分からなかったと『日本書紀』は伝えている。
大伴金村が次に推したのが、男大迹王(おおどのおおきみ)だった。
『日本書紀』が応神天皇の五世孫と記す人物である。
継体元年(507年)正月、大伴金村が男大迹王を推すと、物部麁鹿火と許勢男人らも賛同した。
『日本書紀』では、群臣が、
「賢者はただ男大迹王のみ」
と述べ、越前国三国へ迎えの使者を送ったと記されている。
507年、継体天皇即位
男大迹王は河内馬飼首荒籠から迎えの事情を聞き、越前を出発した。
継体元年正月24日、河内国樟葉宮に入る。
2月4日、大伴金村は鏡・剣・璽符を奉った。
男大迹王は一度辞退し、群臣から重ねて即位を求められたのち、皇位についたと『日本書紀』は伝えている。
継体天皇である。
大伴金村は大連、許勢男人は大臣、物部麁鹿火は大連。
『日本書紀』には三人について「並びに故の如し」とあり、それぞれ従来の地位に置かれた。
麁鹿火は継体天皇の即位以前から大連を務め、新しい王権でもその地位を保った。
5年後、朝鮮半島をめぐる外交で麁鹿火の名が現れる。
512年、百済が任那四県を求める
継体6年(512年)12月。
百済から使者が訪れ、任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を求めた。
『日本書紀』によれば、哆唎国守の穂積臣押山は、この四県が百済に近く、倭から遠いことを挙げ、百済へ与えるよう進言した。
大伴金村も同意した。
決定を百済の使者へ伝える宣勅使に選ばれたのが、物部麁鹿火だった。
麁鹿火は百済の使者が滞在する難波館へ向かうことになった。
その出発を妻が止めた。
「後世にそしられるでしょう」
『日本書紀』には、麁鹿火の妻が夫を諫めた言葉が記されている。
妻は、住吉大神が海外の国々を神功皇后に授けて以来、長くその関係が続いてきたことを語り、任那四県を百済へ与えれば、
「後世に至りて、そしり有らむ」
と訴えた。
麁鹿火は妻の言葉を聞きながら、天皇の命に背くことを恐れた。
妻は病気と称して宣勅を行わないよう勧めたという。
麁鹿火は病気を理由に宣勅使を辞退した。
四県を百済へ与える決定は変わらず、別の使者によって伝えられた。
麁鹿火の妻の名は『日本書紀』に記されていない。
それから15年後、朝鮮半島へ向かう軍勢が筑紫で進路を阻まれる。
527年、近江毛野の軍勢が筑紫で止まる
継体21年(527年)6月。
近江毛野臣が朝鮮半島へ派遣されることになった。
『日本書紀』は、その軍勢を6万と記している。
目的は新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復することだった。
毛野の軍勢が筑紫まで進むと、筑紫君磐井がその行く手を阻んだ。
『日本書紀』では「筑紫国造磐井」と記される人物である。
同書は、磐井が以前から反逆を企てていたと記し、さらに新羅が贈り物を送り、毛野軍を妨害するよう働きかけたと伝えている。
磐井は火国・豊国に勢力を及ぼし、朝鮮半島から来る船を遮り、毛野軍の進路を塞いだ。
福岡県八女市に残る岩戸山古墳は、磐井の墓と考えられている。
墳丘長135メートルを測る、北部九州最大の前方後円墳である。
毛野軍が筑紫で止まった同年8月、継体天皇は物部麁鹿火に磐井討伐を命じた。
継体天皇から授けられた斧鉞
継体21年8月1日。
『日本書紀』には、継体天皇と麁鹿火の間で交わされた言葉が詳しく記されている。
麁鹿火は磐井について、山や川の険しさを頼りに朝廷に従わず、長い年月を経ていると述べた。
継体天皇は、将軍は兵士の命を預かり、国家の存亡を担う存在であると麁鹿火に告げる。
そして斧鉞を手に取り、麁鹿火へ授けた。
「長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ」
長門より東は天皇が治め、筑紫より西は麁鹿火に委ねる。
賞罰も麁鹿火の判断に任せ、頻繁に奏上する必要はないと命じた。
麁鹿火は磐井討伐軍を率いて筑紫へ向かった。
528年11月11日、御井郡の決戦
継体22年(528年)11月11日。
物部麁鹿火と筑紫君磐井は、筑紫国御井郡で戦った。
現在の福岡県久留米市周辺である。
『日本書紀』は戦場の様子を、
「旗鼓相望み、埃塵相接げり」と記している。
両軍の旗と鼓が向かい合い、巻き上がる土煙が接する。
さらに双方が勝機を求め、「万死の地を避けず」と記された戦いとなった。
『日本書紀』では、麁鹿火が磐井を斬り、その反乱を鎮めたとする。
磐井の最期については、別の伝承も残っている。
『釈日本紀』に引用された『筑後国風土記』逸文では、官軍に敗れた磐井は一人で豊前国上膳県へ逃れ、南の山中で命を終えたと伝える。
御井郡で麁鹿火に斬られたとする『日本書紀』と、豊前へ逃れたとする『筑後国風土記』逸文。
二つの史料は、磐井の最期を異なる形で伝えている。
磐井の子・葛子と糟屋屯倉
継体22年12月。
『日本書紀』には、磐井の子・葛子が父の罪に連座して処罰されることを恐れ、糟屋屯倉を献上したと記されている。
糟屋は現在の福岡県糟屋郡から福岡市東部にかけての地域にあたる。
磐井との戦い(磐井の乱)を終えた麁鹿火は、その後も大連として朝廷に仕えた。
継体天皇の死後も大連を務める
継体天皇の後を継いだ安閑天皇の時代にも、麁鹿火は大連を務めた。
安閑天皇が亡くなり、宣化天皇が即位すると、大伴金村と物部麁鹿火は引き続き大連に任じられた。
宣化元年(536年)、筑紫に那津官家を整える記事の中で、再び麁鹿火の名が現れる。
朝廷は筑紫の那津に官家を設け、非常時に備えて各地から穀物を集めることを命じた。
那津は現在の福岡市博多区周辺にあたる。
『日本書紀』によれば、尾張・伊賀など各地の屯倉から穀物を運ばせ、那津の口に集めることになった。
麁鹿火には、新家連を派遣し、新家屯倉の穀物を運ばせるよう命じられている。
御井郡で磐井を破ってから8年が経っていた。
536年7月、物部麁鹿火死去
宣化元年(536年)7月。
『日本書紀』に、
「物部麁鹿火大連、薨」とある。
生年は伝わっておらず、没年齢も分からない。
麁鹿火の死後、欽明天皇の時代には物部尾輿が大連となり、蘇我稲目とともに朝廷の中枢に立った。
その次の世代には物部守屋が現れる。
587年、守屋は蘇我馬子との丁未の乱で敗れ、河内国渋川で命を落とした。
物部麁鹿火が筑紫君磐井を破った528年から、59年後のことだった。
さらに詳しく📖↓


コメント