第1回
福岡県八女市吉田。
八女丘陵の一角に、全長170メートルを超える巨大な古墳が残っている。
岩戸山古墳である。
墳丘だけでも約135メートル。後円部の直径は約80メートル、前方部の幅は約92メートルに達する。6世紀前半に造られた前方後円墳として、北部九州では最大の規模を持つ。
さらに古墳の北東側には、一辺約43メートルの「別区」と呼ばれる方形の空間が設けられている。
『筑後国風土記』逸文には、墓の周囲に石人や石盾が並び、別区には裁判の場面を表した石像が置かれていたという記事が残る。
この巨大な墓の主と考えられているのが、筑紫君磐井である。
6世紀前半、筑紫を中心に北部九州で大きな勢力を持った人物だった。
その磐井が527年、ヤマト王権と衝突した。
『日本書紀』は「反乱」として記録する。
ヤマト王権が送り込んだ大将は物部麁鹿火。
戦いは翌528年まで続き、最後は筑紫の御井郡で両軍が激突した。
磐井の乱である。
6世紀の筑紫にいた巨大な豪族
磐井が生まれた年は分からない。
父母も、若いころの経歴も記録には残っていない。
史料に姿を現したときには、すでに筑紫を代表する有力者だった。
『日本書紀』は「筑紫国造磐井」と記す。
『古事記』では「筑紫君石井」。
『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」と呼ばれている。
現在では「筑紫君磐井」の名で知られることが多い。
筑紫は朝鮮半島に近い。
博多湾から海へ出れば、壱岐、対馬を経て朝鮮半島南部へつながる。
大陸や朝鮮半島から人や物、技術が入ってくる玄関口でもあった。
その北部九州に大きな勢力を築いていたのが筑紫君の一族である。
磐井の力を現在まで伝えているのが、八女丘陵に並ぶ古墳群だった。
岩戸山古墳だけが孤立しているわけではない。
八女丘陵には300基を超える古墳が確認され、岩戸山古墳の前後にも大型の前方後円墳が築かれている。
その中でも岩戸山古墳は際立って大きい。
墳丘長約135メートル。
北部九州最大の前方後円墳である。
古墳には石人、石馬、石盾など、北部九州に特徴的な石製品が多数置かれていた。
『筑後国風土記』逸文には、墓の周囲に石人と石盾がそれぞれ60枚並べられていたとの記述もある。
古墳の規模から見ても、磐井を筑紫の一地方だけを治めた小さな豪族として扱うことはできない。
その勢力は筑紫の外へも及んでいた。
527年の記事で『日本書紀』は、磐井が「火」と「豊」の二国に勢力を張ったと記している。
火は後の肥前・肥後につながる地域。
豊は後の豊前・豊後につながる地域である。
現在の福岡県南部だけでなく、九州北部から中部へまたがる広い範囲が戦乱に巻き込まれた。
ヤマト王権と朝鮮半島
磐井が史料に現れる6世紀前半、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅、加耶諸国がせめぎ合っていた。
ヤマト王権も朝鮮半島南部との関係を長く持っていた。
その状況が大きく変化する。
『日本書紀』によれば、継体天皇6年(512年)、百済の求めに応じて任那四県を百済へ与えた。
さらに513年には己汶・帯沙をめぐる問題が起こる。
朝鮮半島南部では新羅も勢力を拡大していた。
その圧力を受け、加耶諸国の領域は次第に縮小していく。
継体天皇21年(527年)。
ヤマト王権はついに大軍を動かした。
527年、近江毛野が「6万」を率いて九州へ向かう
527年6月。
『日本書紀』によれば、近江毛野臣が軍勢を率いて朝鮮半島へ向かった。
記録された兵力は、
6万。
目的は、新羅によって失われた南加羅と喙己呑を復興し、任那へ戻すことだったという。
6万という数字をそのまま実数とみなせるかには慎重さが必要になる。
6世紀前半の動員力を考えても、非常に大きな数字である。
それでも『日本書紀』が、通常の使節派遣とは明らかに異なる大規模な軍事行動として描いていることは分かる。
近江毛野の軍勢が畿内から九州へ進み、そこから海を渡る。
その進路に筑紫があった。
ここで磐井が動く。
『日本書紀』は、磐井が以前から反乱を企て、機会をうかがっていたと記す。
さらに新羅がその動きを知り、磐井へ密かに財物を贈って、
近江毛野の軍を止めるよう勧めたという。
これは『日本書紀』が記した反乱の経緯である。
新羅から磐井へ財物が渡ったことを、別の同時代史料で確認することはできない。
『日本書紀』が完成したのは磐井の乱から約200年後の720年であり、ヤマト王権側から編纂された歴史書でもある。
一方で、磐井が毛野の軍勢の進路を遮ったことは、この戦いを考えるうえで中心となる出来事だった。
磐井は毛野軍の進路を塞いだ
『日本書紀』によると、磐井は火国と豊国に勢力を広げた。
さらに高句麗、百済、新羅、任那から来る船を自分のもとへ引き寄せ、朝廷への貢納を妨げたという。
そして、朝鮮半島へ向かう近江毛野軍の進路を遮断した。
畿内から朝鮮半島へ大軍を送るには、瀬戸内海を西へ進み、北部九州を経て海を渡る必要がある。
筑紫の有力者である磐井がその経路を押さえれば、毛野軍は予定どおり朝鮮半島へ進めない。
『日本書紀』には、このとき磐井が毛野へ語った言葉まで残されている。
かつて同じ釜の飯を食べた仲ではないか。
お前が使者になったからといって、自分を従わせることなどできるものか。
そのような趣旨の言葉である。
実際の会話がそのまま記録されたとは考えにくい。
ただ、『日本書紀』が磐井と毛野を、以前から面識のある人物として描いている点は興味深い。
毛野軍は筑紫を突破できなかった。
朝鮮半島への派兵計画は止まる。
ヤマト王権は磐井を討つことを決めた。
継体天皇は誰を九州へ送るか
527年8月。
継体天皇は大伴金村、物部麁鹿火、許勢男人の三人に、磐井を討つ将を選ぶよう命じた。
大伴金村が答えた。
磐井を討つことができるのは物部麁鹿火である。
麁鹿火は物部氏の大連だった。
物部氏は軍事との結びつきが強く、麁鹿火自身も王権の中枢にいた人物である。
継体天皇は麁鹿火を大将軍に任じた。
このとき『日本書紀』は、継体天皇が麁鹿火へ与えた命令を長く記している。
「長門より東は朕これを制らむ。筑紫より西は汝これを制れ」
長門より東は自分が治める。
筑紫より西はお前に任せる。
さらに賞罰も麁鹿火自身が決め、いちいち朝廷へ報告する必要はないという権限まで与えたと記す。
どこまでが実際の527年の言葉なのかは分からない。
それでも『日本書紀』の叙述では、麁鹿火は現地で軍事判断を下せる大きな権限を持って九州へ向かった。
相手は磐井一人ではない。
『日本書紀』自身が、磐井は火・豊の二国に勢力を張ったと書いている。
ヤマト王権は、北部九州の広い地域を巻き込んだ勢力と戦うことになった。
戦いは一年以上続いた
麁鹿火が征討将軍に任じられたのは527年8月。
決戦の記事が現れるのは翌528年11月である。
その間の戦闘経過を『日本書紀』はほとんど書いていない。
どの城を攻めたのか。
何度戦ったのか。
双方が何人の兵を動員したのか。
磐井がどこに本陣を置いたのか。
具体的な記録は残っていない。
そのため、磐井軍と麁鹿火軍が一年三か月にわたって絶え間なく戦い続けたとまでは言えない。
ただ、527年6月に毛野軍の進路が遮られ、8月に麁鹿火の派遣が決まり、決着が528年11月まで下る。
短期間の小競り合いでは終わらなかった。
最終的な戦場となったのは、筑紫の御井郡だった。
現在の福岡県南部、筑後川流域にあたる。
528年11月――御井郡の決戦
継体天皇22年(528年)11月11日。
『日本書紀』は、物部麁鹿火と磐井が筑紫の御井郡で戦ったと記す。
ここでようやく、磐井の乱の具体的な戦闘描写が現れる。
両軍は向かい合った。
旗と鼓が互いに見えるほど接近する。
兵が動き出すと、舞い上がった土埃が入り混じった。
『日本書紀』は戦いの激しさを伝えるため、こう記している。
双方とも勝敗を決するまで退かなかった。
麁鹿火にとっては、前年8月に征討を命じられてから一年以上を経て迎えた決戦である。
磐井にとっても、ここで敗れれば筑紫で築いてきた勢力そのものを失う。
御井郡のどこで戦ったのかは確定していない。
兵数も分からない。
騎兵と歩兵がどのように配置されたのか、どちらが先に攻撃したのかも記録にはない。
残っているのは、両軍が正面から激しく戦ったという記述である。
そして戦いは麁鹿火軍の勝利に終わった。
『日本書紀』は、
物部麁鹿火が磐井を斬った。
そう記している。
527年から続いた戦いは、ここで決着した。
ところが磐井の最期については、別の話も残っている。
磐井は本当に御井郡で殺されたのか
『日本書紀』では、磐井は御井郡の戦いで物部麁鹿火に斬られた。
『古事記』も細部は異なるものの、筑紫君石井が天皇の命令に従わなかったため、物部荒甲と大伴金村を派遣して殺したと記している。
これに対し、『筑後国風土記』逸文は違う最期を伝える。
官軍が突然攻めてきた。
磐井は勝てないと判断し、ひとり豊前国上膳県へ逃れ、南の山の険しい場所で死んだ。
そのため磐井の墓には遺体が入っていなかったという。
『日本書紀』では戦場で討死。
『筑後国風土記』では豊前へ逃亡したのち死去。
どちらが実際の磐井の最期だったのか、現在の史料から決めることはできない。
『筑後国風土記』の話が重要なのは、磐井の墓について具体的な記述を残している点にもある。
その墓は現在の岩戸山古墳にあたると考えられている。
石人と石馬が並んだ磐井の墓
『筑後国風土記』逸文によれば、上妻県の南二里に磐井の墓があった。
墓の規模も記されている。
南北60丈。
東西40丈。
周囲には水田があり、墓の周囲には石人と石盾がそれぞれ60枚並べられていたという。
墓の東北には「別区」と呼ばれる場所があった。
現在の岩戸山古墳にも、墳丘北東側に一辺約43メートルの方形区画が残っている。
ここには石で作られた人物や動物が置かれていた。
『筑後国風土記』には、別区に裁判の様子を表した石像があったという話もある。
猪を盗んだ人物が裁かれ、盗んだ猪で罪を償おうとする場面だった。
現在まで残る岩戸山古墳の規模、場所、別区の存在が『筑後国風土記』の記事とよく合うため、この古墳は筑紫君磐井の墓と考えられている。
磐井が実際にこの墓へ葬られたかどうかは別として、6世紀前半の筑紫君が北部九州最大の前方後円墳を築けるだけの力を持っていたことは、考古資料から確認できる。
そして磐井が敗れても、筑紫君の一族は消えなかった。
息子・葛子が差し出した糟屋屯倉
磐井が敗れた翌月。
528年12月。
『日本書紀』に磐井の子・葛子が登場する。
葛子は父の罪によって自分も殺されることを恐れ、
糟屋屯倉
をヤマト王権へ差し出した。
それによって死罪を免れたいと願ったという。
糟屋は現在の福岡県糟屋郡から福岡市東部周辺につながる地域で、博多湾にも近い。
北部九州から朝鮮半島へ向かううえで重要な場所だった。
この地域にあった屯倉を王権へ差し出したことは、戦後処理のなかでも大きな意味を持った。
一方、葛子自身は殺されていない。
八女丘陵でも、岩戸山古墳の後に乗場古墳、善蔵塚古墳、鶴見山古墳など大型古墳の築造が続いた。
鶴見山古墳からは武装した石人も出土している。
さらに約150年後の『日本書紀』には「筑紫君薩野馬」という人物が登場する。
磐井が敗れたからといって、筑紫君の一族そのものが滅亡したわけではなかった。
『日本書紀』が「反乱」として残した戦争
磐井の乱を詳しく伝える中心史料は『日本書紀』である。
そこでは磐井が以前から反逆を企て、新羅から財物を受け取り、朝廷の軍勢を妨害した人物として描かれている。
約200年後にヤマト王権側で編纂された歴史書であることは頭に置いておきたい。
『古事記』の記述は短い。
筑紫君石井が天皇の命令に従わず無礼な行為を重ねたため、物部荒甲と大伴金村を派遣して殺したとするだけである。
『筑後国風土記』逸文になると、磐井の最期も『日本書紀』とは違っている。
残された史料だけから、磐井が何を目指して戦ったのかを本人の言葉として復元することはできない。
ただし、考古資料から見える筑紫君の力は大きい。
北部九州最大の前方後円墳。
八女丘陵に連なる大型古墳。
石人・石馬を用いた独特の墓制。
そして文献では、火・豊にまで及んだと記された勢力。
527年、朝鮮半島へ向かう近江毛野軍の前に立ったのは、それだけの基盤を持つ筑紫君だった。
翌528年11月、物部麁鹿火との御井郡の戦いに敗れ、磐井は史料から姿を消す。
その墓と考えられる岩戸山古墳は、約1500年後の現在も八女丘陵に残っている。
墳丘長約135メートル。
その大きさが、ヤマト王権と一年以上にわたって対峙した筑紫君磐井の勢力を今に伝えている。
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