第28回
延暦4年(785)9月23日夜。
新都・長岡京の造営を担っていた藤原種継が、何者かに矢で射られた。
種継は桓武天皇の信任を受け、遷都後も続く宮都建設を指揮していた朝廷の中心人物だった。
翌24日、種継は死亡する。山川日本史小辞典なども没日を9月24日としている。
暗殺後、捜査と処分は急速に進んだ。
大伴継人ら多数の官人が断罪され、追及は桓武天皇の弟で皇太子だった早良親王にまで及ぶ。
早良親王は乙訓寺へ幽閉され、皇太子を廃された。その後、淡路国へ移送される途中で死亡した。
事件の約1か月前にすでに亡くなっていた大伴家持も、暗殺への関与を問われて官籍から除名された。
しかし、藤原種継が殺されたからといって、長岡京が直ちに放棄されたわけではない。
事件後も長岡京の建設は続き、786年には太政官院が完成し、791年には平城宮の諸門まで長岡宮へ移された。
その一方、早良親王の死は後年まで朝廷に影響を残した。
やがて皇太子の病が「早良親王の祟り」と判断され、朝廷はその霊を鎮めようとする。
そして793年、葛野で新しい都の建設が始まった。
藤原種継暗殺事件は、平安京遷都の直接原因だったのか。
785年9月の暗殺から、長岡京と早良親王をめぐるその後の経過を追っていく。
1.784年――始まった長岡京造営
延暦3年(784)。
桓武天皇は、平城京から新しい都へ移る計画を進めた。
候補地となったのは、山背国乙訓郡長岡村周辺である。
5月16日、中納言・藤原小黒麻呂らが長岡村を視察した。
6月10日には藤原種継らが造長岡宮使に任じられ、都城と宮殿の建設が始まる。
そして11月11日、桓武天皇は長岡京へ移った。
長岡京遷都については、奈良の大寺院勢力から距離を置くことが目的だったと説明されることがある。
南都仏教勢力との関係は無視できないが、それだけで遷都理由を説明することはできない。
長岡の地は淀川水系に近く、水上交通と陸上交通の双方に利点があった。
787年には、水陸交通の便によって長岡へ遷都したという趣旨の詔も出されている。
長岡京は、短期間だけ使うことを前提とした仮の都ではなかった。
宮殿、官衙、道路、市などを整備し、本格的な都を造る事業が進められていた。
その中心にいた官人の一人が藤原種継だった。
2.藤原種継――桓武天皇に信任された造都官人
藤原種継は天平9年(737)生まれ。
藤原式家の祖・藤原宇合の孫で、父は藤原清成、母は秦朝元の娘とされる。
光仁天皇の時代から官位を上げ、桓武天皇即位後にはさらに昇進した。
延暦元年(782)に参議となり、延暦3年(784)1月には中納言へ進む。
同年、藤原小黒麻呂らと長岡村を視察し、6月に造長岡宮使となった。
種継は桓武天皇の信任を受け、長岡京造営の実務を担う中心人物となっていった。
母方では、山背国周辺にも勢力を持っていた秦氏につながる。
こうした人的関係は長岡京造営の背景を考える材料になるが、それだけで長岡遷都の理由を説明することはできない。
遷都は桓武天皇を中心に、多くの公卿・官人によって進められた国家事業だった。
種継は、その中で重要な役割を担った人物だったのである。
3.785年9月23日夜――種継が射られる
延暦4年(785)9月。
桓武天皇は平城方面へ行幸していた。
長岡宮には藤原是公や藤原種継らが留守官として残り、早良親王も皇太子として長岡にいた。
奈良文化財研究所がまとめた関連史料では、9月23日亥時、種継が賊に矢で射られたことが確認できる。
『続日本紀』には「二本の矢が身体を貫いた」という記事が残る。種継は翌24日に死亡した。
長岡京市の年表では、襲撃場所を島坂付近としている。
長岡京への遷都から一年にも満たない時期に、造都の中心人物が暗殺された。
さらに異例なのは、その後の処分の速さだった。
4.9月23日・24日――急速に進んだ処分
襲撃が起きた9月23日。
種継を襲った一人とされた多治比浜人が、大枝山で処刑された。
翌24日には大伴継人・竹良ら数十人が断罪され、種継を射たとされた伯耆桴麻呂・牡鹿木積麻呂も山崎橋南方で処刑されている。
種継が射られた当日から処分が始まり、翌日には多数の官人へ追及が広がったことになる。
大伴継人は、後の人物辞典でも種継暗殺事件の中心人物として記される。
ただし、取り調べが具体的にどのように進められ、得られた供述がどこまで事件の実態を反映していたのかは別に考える必要がある。
朝廷がこの暗殺を一人の犯行としてではなく、複数の官人による政治事件として処理したことは確認できる。
そして、その事件像の中に皇太子の名まで組み込まれていった。
5.朝廷が描いた暗殺事件の構図
種継暗殺事件については、『続日本紀』や『日本紀略』などに事件関係者の供述や処分が伝えられている。
そこでは、大伴氏・佐伯氏などの官人が種継暗殺を共謀したとされ、大伴家持との謀議や早良親王との関係も事件の中に位置づけられた。
しかし、奈良文化財研究所の史料整理では、藤原種継暗殺事件に関する『続日本紀』の記事には複数回の筆削が加えられたことも指摘されている。
したがって、朝廷の捜査記録に残る供述を、そのまま事件の全貌とみなすことはできない。
なぜ種継が狙われたのかについても、一つの理由だけでは説明しにくい。
桓武天皇の信任を背景に急速に昇進した藤原種継と、大伴氏・佐伯氏など旧来の有力氏族との政治的関係。
長岡京遷都・造営をめぐる利害。
桓武朝初期の政権内部の勢力関係。
複数の背景が指摘されてきた。
史料から確実に追えるのは、種継暗殺後の捜査が多くの官人へ広がり、その先で皇太子・早良親王まで処分されたことである。
6.9月28日――早良親王、乙訓寺へ
早良親王は光仁天皇の皇子で、桓武天皇の弟だった。
もともと僧として活動していたが、781年に桓武天皇が即位すると皇太子となった。
ところが、藤原種継暗殺事件の捜査の中で、早良親王にも関与の疑いが向けられる。
9月28日。
早良親王は内裏から東宮へ戻され、その日のうちに乙訓寺へ幽閉された。
事件関係者の供述によって、早良親王の名が暗殺事件へ結びつけられたとされる。
しかし、早良親王自身が種継暗殺を命じたことを、独立した証拠から確認できるわけではない。
早良親王が事件に実際どこまで関与していたのかは、断定できない部分として残る。
やがて早良親王は皇太子を廃された。
そして淡路国への配流が決まる。
7.無実を訴えた早良親王の死
乙訓寺に幽閉された早良親王は、自らの潔白を訴えた。
その抗議として飲食を断ったと伝えられている。
その後、淡路国へ送られることになったが、親王は目的地まで到着しなかった。
幽閉から十余日後、淡路への移送途中、高瀬橋付近で死亡した。
長岡京市の年表にも、9月28日の幽閉から十余日後、移送途中に死去したことが記されている。
遺骸はそのまま淡路へ送られたとされる。
11月25日には、桓武天皇の皇子・安殿親王が新しい皇太子となった。
藤原種継暗殺事件は、造都責任者が死亡した事件だけではなかった。
結果として皇太子まで交代し、皇位継承にも大きな変化が生じた。
8.死後の大伴家持まで処分される
『万葉集』で知られる大伴家持も、藤原種継暗殺事件への関与を問われた。
しかし家持は、事件が起こった時点ですでに亡くなっていた。
延暦4年(785)8月28日。
種継暗殺の約1か月前である。
それでも事件への関与を理由として官籍から除名され、家族にも処分が及んだ。
家持が暗殺計画へ実際にどこまで関係していたのかは、残された供述だけから確定することはできない。
一方、すでに亡くなった人物まで処分対象となったことは、朝廷が種継暗殺事件を広範な政治事件として処理したことを示している。
家持は大同元年(806)に復位した。
9.暗殺後も続いた長岡京造営
藤原種継が殺されたからといって、長岡京の建設が中止されたわけではない。
延暦5年(786)7月19日。
太政官院が完成し、百官が初めて朝座についた。
延暦6年(787)には、桓武天皇が水陸交通の利便性を理由として長岡に都を置いたという趣旨の詔を出している。
さらに延暦10年(791)には、平城宮の諸門を解体して長岡宮へ移建する事業まで進められた。
種継暗殺から6年が経過しても、朝廷は長岡京を整備し続けていたことになる。
この事実は、藤原種継暗殺事件と平安京遷都の関係を考えるうえで重要である。
「種継が暗殺されたため、桓武天皇がすぐに長岡京を捨てた」
という経過ではなかった。
785年の事件後も長岡京は都として整備され続けた。
大きな変化が見えるのは、790年代に入ってからである。
10.792年――早良親王の「祟り」と洪水
延暦11年(792)。
種継暗殺事件から7年が経っていた。
このころ皇太子・安殿親王が病となり、占いによって早良親王の祟りが原因と判断された。
朝廷は淡路へ使者を送り、早良親王の霊を慰める措置を取った。
早良親王は、死後も朝廷が無視できない存在となっていた。
同じ792年には、長岡京周辺で大雨と洪水も起こっている。
こうした出来事から、後世には早良親王の怨霊や洪水を理由として桓武天皇が長岡京を捨てたという説明も広まった。早良親王の祟りを当時の朝廷が現実の問題として認識していたこと自体は確認できる。
ただし、平安京遷都を怨霊や洪水だけで説明することもできない。
長岡京造営の負担、都市環境、政治状況など、複数の要素を考える必要がある。
そして翌793年、朝廷は新しい都の建設へ具体的に動き始める。
11.793年――葛野で新京建設が始まる
延暦12年(793)正月。
大納言・藤原小黒麻呂らが、山背国葛野郡宇太の地を新京候補地として実地調査した。
これを受け、新しい都の建設が始まる。
その直後、長岡京では内裏の解体が始まり、桓武天皇も別の場所へ移った。
朝廷は、長岡京の整備を続けながら突然一夜で都を放棄したわけではない。
785年の種継暗殺から数年にわたり長岡京の建設を継続したのち、792年から793年にかけて新たな都へ移る動きが具体化したのである。
そして翌794年、都は再び移る。
12.794年――長岡京から平安京へ
延暦13年(794)10月22日。
桓武天皇は長岡京から新京へ移った。
10月28日には遷都の詔が出される。
そして11月8日。
新しい都は「平安京」と名付けられ、「山背国」も「山城国」と改められた。
長岡京への遷都から約10年。
藤原種継暗殺事件からは9年が経過していた。
その間、朝廷は長岡京の造営を続けている。
一方、暗殺事件によって皇太子・早良親王が失脚して死亡し、後にはその祟りが皇太子の病因と判断された。
洪水も発生し、793年になると葛野で新しい都の建設が始まった。
こうした経過から見ると、藤原種継暗殺事件を「平安京遷都の直接の引き金」とだけ説明することはできない。
事件が長岡京政権に与えた影響は、それより広い。
長岡京造営の中心人物だった藤原種継が死亡した。
大伴氏・佐伯氏など多くの官人が処分された。
皇太子・早良親王が廃され、配流途中で死亡した。
新たに安殿親王が皇太子となり、その後も早良親王の死は「祟り」という形で朝廷に意識され続けた。
その一方、長岡京そのものは暗殺後も数年間にわたって造営された。
藤原種継暗殺事件は、平安京遷都だけから意味を決める事件ではない。
新都・長岡京の建設中に政権中枢で起こり、造都、官人社会、そして皇位継承を同時に揺るがした、桓武朝初期の大きな政治事件だったのである。
📚 『藤原種継――都を長岡に遷さむとす』
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今回の記事では触れきれなかった、桓武天皇との関係や当時の政治情勢まで掘り下げて読むと、「なぜ種継が狙われたのか?」という事件の背景がさらに見えてきます。
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藤原種継 都を長岡に遷さむとす (ミネルヴァ日本評伝選) [ 木本好信 ]
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📜 藤原種継暗殺事件・重要年表
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 784年6月10日 | 藤原種継らを造長岡宮使に任命 |
| 784年11月11日 | 桓武天皇、長岡京へ遷る |
| 785年1月1日 | 長岡宮大極殿で元旦朝賀 |
| 785年7月 | 長岡宮造営のため諸国から31万4,000人を和雇 |
| 785年9月23日 | 藤原種継が襲撃される |
| 785年9月24日 | 種継死亡。大伴継人・竹良らを処断 |
| 785年9月28日 | 早良親王を乙訓寺へ幽閉 |
| 785年10月頃 | 早良親王、淡路へ移送中に死去 |
| 785年11月25日 | 安殿親王が皇太子となる |
| 792年 | 早良親王の怨霊が安殿親王の病の原因とされる |
| 792年 | 長岡京で大洪水 |
| 793年 | 桓武天皇、葛野を視察。新都建設へ |
| 794年10月22日 | 平安京へ遷都 |


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