【戦い・事件編】大蔵合戦――15歳の「悪源太」義平、叔父・義賢を討つ

戦い・事件

第92回



久寿2年(1155)8月16日、武蔵国で、河内源氏の叔父と甥が戦った。

叔父は、源為義の子・源義賢。

甥は、義賢の兄・源義朝の長男、源義平である。

義平は1141年生まれで、このとき数え15歳だった。

戦いは義平の勝利に終わり、義賢は死亡した。

これが、のちに大蔵合戦と呼ばれる戦いである。

同時代の記録には、兵数も、戦闘の細かな経過も残っていない。

それでも、この戦いは見過ごせない。

前年まで一族として存在していた河内源氏の内部で、15歳の甥が実の叔父を武力で排除した。そして、そのわずか11か月後には、京都で父・為義と子・義朝が敵味方に分かれて戦うことになる。

さらに大蔵で殺された義賢の幼い息子は生き残った。

のちに源頼朝と源氏の主導権を争う木曾義仲である。

大蔵合戦は、一日だけを切り取っても意味が分からない。

なぜ義朝の子が叔父を殺すところまで河内源氏は割れたのか。

その背景を見るには、46年前の1109年まで戻る必要がある。


1109年――14歳の為義が義綱を追討する

1109年、河内源氏を大きく揺らす事件が起きた。

源義家の子・源義忠が京都で殺害され、その嫌疑が義家の弟・源義綱の一族へ向けられたのである。

朝廷は義綱一族を追討した。

この追討に加わったのが、数え14歳の源為義だった。

為義は美濃源氏の源光国らとともに義綱を追い、近江国でその一族を追い詰める。義綱の子たちは次々に死亡し、義綱自身も降伏した。

為義はこの功によって左衛門尉に任じられた。

まだ少年だった為義が、京都の武力を担う河内源氏の有力者として表舞台へ出た瞬間だった。

しかし、義家の時代と比べると河内源氏を取り巻く状況は変わっていた。

義家は前九年の役・後三年の役を通して東国に大きな名声を残した。

一方、為義は京都で検非違使などを務めながら活動したものの、受領を歴任して中央政界で急速に地位を高めた平正盛・忠盛ら伊勢平氏ほど順調には出世できなかった。

1143年には藤原摂関家の実力者・藤原頼長の家人となっている。

ここで重要なのは、為義の立場が弱かったから直ちに一族が分裂した、という単純な話ではないことである。

為義の息子たちは、それぞれが京都や東国で独自の人脈と武力を持ちはじめた。

その中で最も大きな勢力を築いたのが、長男の源義朝だった。


義朝は東国で何をしていたのか

義朝は若いころ東国へ下り、相模国鎌倉を足場に活動した。

「東国で勢力を伸ばした」と一言で済ませると穏やかに聞こえるが、その過程はかなり荒々しい。

康治2年(1143)、下総国の相馬御厨をめぐる争いに義朝が介入した記録がある。

さらに天養元年(1144)には、相模国の伊勢神宮領大庭御厨へ義朝側の武士たちが侵入した。

当時の記録では、義朝は大庭御厨の一部を「鎌倉郡内」であると主張し、俣野川を越えて鵠沼郷へ入り、魚や大豆・小豆などを奪ったと訴えられている。その後も在地武士を巻き込みながら御厨への圧力を強めた。

これは単なる略奪事件ではない。

荘園や御厨の権利関係へ介入し、その土地の武士たちを自分の側へ組み込んでいくことが、当時の武士が地域に勢力を築く一つの方法だった。

義朝は三浦氏、大庭氏など相模の武士たちと関係を結び、南関東に独自の基盤を形成していった。

そして仁平3年(1153)、義朝は従五位下・下野守に任じられる。

受領への任官である。

父・為義が得られなかった受領の地位に、息子の義朝が先に到達した。

河内源氏の中で、義朝の存在感は明らかに大きくなっていた。

ただし、この時点ですでに「為義と義朝が完全に敵対していた」と断定することはできない。

後世から保元の乱を知っていると、為義と義朝、義賢と義平が最初から二つの陣営に分かれていたように見える。しかし1155年以前の関係は、それほど単純ではなかった。

大蔵合戦を生んだ直接の緊張は、むしろ東国で義朝の勢力圏と重なる場所へ進出してきた、もう一人の源氏にあった。

義朝の弟、源義賢である。


「帯刀先生」源義賢

義賢も、最初から東国にいたわけではない。

若いころは京都で活動していた。

保延5年(1139)、のちの近衛天皇となる体仁親王が皇太子になると、義賢はその警護を担当する帯刀長に任じられた。

ここから義賢は「帯刀先生」と呼ばれる。

「先生」は学校の教師という意味ではなく、「せんじょう」と読み、帯刀長を指す呼称である。

ところが翌1140年、義賢は職を失った。

後世の説話集『古今著聞集』によれば、滝口武者の源備が殺された事件に義賢も関与したことが問題となり、帯刀長を解任されたという。

その後の義賢は父・為義と同じく藤原頼長の周辺で活動した。

『台記』には、1143年に頼長が義賢へ能登国の荘園管理を任せた記録があり、義賢が単なる地方武士ではなく、摂関家と直接つながる立場にいたことが分かる。

その義賢が1150年代に東国へ下った。

上野国多胡郡を足場とし、さらに武蔵国へ進出したとみられている。

そこで義賢と強く結びついたのが、武蔵国の有力武士秩父重隆だった。

後世の系譜や地域史では、義賢は重隆の娘婿、あるいは重隆が義賢を「養君」として迎えたと説明される。

細かな縁戚関係には史料上の問題が残るが、義賢と重隆が政治・軍事的に結びついていたことは、大蔵合戦を考えるうえで重要である。

義賢はやがて武蔵国比企郡の大蔵へ拠点を移した。

現在の埼玉県比企郡嵐山町大蔵である。

大蔵は都幾川に近く、武蔵から上野方面へ通じる交通上の要地だった。後世に鎌倉街道上道と呼ばれる道筋にも近い。

つまり義賢は、義朝が長年勢力を築いてきた東国のすぐ北側に、別の河内源氏勢力を作りつつあったのである。


兄・義朝と弟・義賢――争点は「武蔵」だった

大蔵合戦を、単なる兄弟喧嘩として見ると本質を外す。

義朝と義賢の背後には、それぞれと結びついた東国武士がいた。

義朝は相模を中心に南関東へ勢力を広げていた。

義賢は上野国多胡郡から武蔵へ入り、秩父重隆と結んだ。

両者の勢力が重なる場所が、武蔵国だった。

当時の武士にとって、土地の支配は自分一人で完結するものではない。

地域の有力者と姻戚・主従関係を結び、荘園や公領の権益に介入し、軍事力を持つ在地武士を味方につける。その積み重ねによって勢力圏ができる。

だから義賢が秩父重隆と結んで武蔵へ進出したことは、義朝側にとって無視できる動きではなかった。

北本市史は、大蔵合戦を「武蔵国の支配権」をめぐる争いであると同時に、義朝・義賢兄弟による坂東武士の主導権争いとして位置づけている。

義朝本人はこのころ京都で官人としての地位を高めていた。

その東国側を担ったのが、長男の源義平だった。


15歳の「悪源太」

源義平は1141年生まれ。

義朝の長男であり、源頼朝・範頼・義経らの異母兄にあたる。

1155年の大蔵合戦では数え15歳だった。

後世、義平は鎌倉悪源太と呼ばれた。

「悪」は悪人という意味ではない。

この時代の「悪」には、常識の枠に収まらないほど強い、荒々しい、勇猛である、といった意味合いがある。

「源太」は源氏の長男を意味する呼び名だった。

つまり「悪源太」は、義平の荒々しい武勇を象徴する名である。

ただし、この異名から大蔵合戦の姿を逆算してはいけない。

戦いの細部を伝える同時代史料は残っていない。

分かっているのは、久寿2年8月16日、義平と義賢が武蔵国で戦ったという事実である。


1155年8月16日――叔父と甥が激突する

大蔵合戦について最も重要なのが、同時代人の記録である。

藤原頼長の日記『台記』久寿2年8月27日条には、義賢が

「其の兄下野守義朝の子のために、武蔵国において殺さる」という知らせが届いたことが記されている。

頼長にとって義賢は、自分のもとで働いたことのある身近な武士だった。

さらに『百錬抄』は、同年8月16日に

前帯刀長・源義賢と、兄の子・源義平が武蔵国で合戦したという風聞を記している。

この二つの記録から、少なくとも、

1155年8月16日に武蔵国で義平と義賢が戦ったこと。

その結果、義賢が死亡したこと。

この二点はかなり確実に押さえられる。

一方、「大蔵館」が戦場だったという具体的な場所は、鎌倉時代に編纂された『吾妻鏡』など後世の史料によって確認できる。

『吾妻鏡』は、義賢が久寿2年8月に「武蔵国大倉館」で鎌倉悪源太義平に討たれたと記している。

現在の嵐山町大蔵には、大蔵館跡として県指定史跡になっている場所が残る。

後世の史料では、義賢と結んでいた秩父重隆もこの戦いで命を落としたとされる。

だが、戦闘を物語のように再現できる史料はない。

「義平軍が館を包囲した」「火を放った」「何騎対何騎で戦った」といった描写を、確実な史実として書くことはできない。

確かなのは一つ。

15歳の義平が叔父・義賢を倒し、武蔵へ進出してきた義賢の勢力を一気に崩した。

それだけでも十分に激しい事件である。


なぜ義平は叔父を討ったのか

では、義平はなぜ実の叔父を討ったのか。

同時代史料は、義平本人の動機を語っていない。

「義朝が義平に命じた」という形も、同時代史料から直接確認できるわけではない。

だから、ここは結果から逆算して物語を作るべきではない。

ただし、戦いが起きた政治的・軍事的な状況は見える。

義朝は相模を中心に東国武士との関係を築き、1153年には下野守となっていた。

そこへ義賢が上野から武蔵へ入り、秩父重隆と結んで勢力を形成した。

義平は義朝の長男として東国に残り、その基盤を守る立場にあった。

つまり義賢は義平にとって、単なる「父の弟」ではない。

父が築いた東国の勢力圏へ入り込んできた、河内源氏のもう一人の有力者だった。

大蔵合戦を理解する鍵はここにある。

源氏同士だから争ったのではない。

同じ源氏だからこそ、どちらも東国武士を束ねる旗印になれた。

その二人が同じ地域へ勢力を伸ばせば、衝突する可能性は高くなる。

1155年8月16日、その競合が武力によって決着したのである。


義賢の死後、今度は「仇討ち」が始まった

大蔵合戦は、義賢の死で終わらなかった。

ここには、前稿以上に重要な後日談がある。

義賢の弟に源頼賢がいた。

『台記』久寿2年10月13日条によれば、義賢と頼賢は「父子の約」を結んでいたという。

そして義賢が義朝の子に殺されると、頼賢はその仇を報いるために京都を離れ、信濃国へ入った。

しかし頼賢は信濃で院領を侵したため、朝廷は追討を決定する。

その追討を命じられた人物が、なんと源義朝だった。

叔父・義賢を義朝の子・義平が殺す。

義賢と父子の約を結んでいた頼賢が仇討ちに動く。

その頼賢を、今度は義朝が追討するよう命じられる。

大蔵合戦からわずか2か月ほどで、河内源氏内部の対立は武蔵から信濃へまで広がっていた。

この一件は、翌年の保元の乱で河内源氏が突然二つに割れたわけではないことをよく示している。

亀裂はすでに、1155年の段階で血を流すところまで深くなっていた。


大蔵で生き残った幼児――木曾義仲

さらに、大蔵合戦は約30年後の源平争乱にもつながる。

義賢には幼い息子がいた。

のちの源義仲――木曾義仲である。

鎌倉時代に編纂された『吾妻鏡』は、義賢が大蔵で討たれたとき義仲は「三歳の嬰児」だったと記し、乳母の夫・中原兼遠が義仲を抱えて信濃国へ逃れ、木曾で育てたとしている。

斎藤実盛や畠山重能が幼い義仲を救ったという有名な物語も、主に『源平盛衰記』など後世の軍記・伝承による。

ここは同時代史料と分けて見る必要がある。

それでも、義賢の幼い子が生き残り、信濃で成長したことの歴史的意味は大きい。

1183年、義仲は北陸道を進撃し、平氏を京都から退去させるほどの勢力へ成長した。

そして京都をめぐる争いの中で、義朝の子・源頼朝と対立する。

1155年に義平が義賢を討った争いは、一世代後、義賢の子・義仲と義朝の子・頼朝の対立という別の形で再び現れることになる。


大蔵合戦から11か月――河内源氏はさらに割れる

久寿2年8月16日の大蔵合戦から、まだ1年も経っていなかった。

保元元年(1156)7月、京都で保元の乱が起こる。

この戦いで、河内源氏はさらに深く分裂する。

父・源為義は、崇徳上皇・藤原頼長側。

長男・源義朝は、後白河天皇側。

為義の子たちの多くは父に従い、義朝は父や弟たちと敵味方に分かれた。

1109年、14歳の為義は、義綱追討で河内源氏の有力者として表舞台へ出た。

それから46年後の1155年。

今度は為義の孫、15歳の義平が、為義の子・義賢を討った。

さらにその翌年、為義自身が長男・義朝と敵になる。

河内源氏を弱らせたのは、外敵との戦争だけではなかった。

京都での主従関係、東国の土地をめぐる権益、在地武士との結びつきが複雑に絡み、一族の中に複数の勢力が生まれていた。

大蔵合戦は、その亀裂が武力衝突として表面に現れた戦いだった。

そして次に待っていたのは、東国の一族争いではない。

天皇と上皇、摂関家、平氏、源氏までを巻き込む京都の政変――

保元の乱である。

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