第29回
延暦24年(805)12月。
桓武天皇は、二人の参議に天下の政治について議論させた。
藤原緒嗣と菅野真道である。
緒嗣が問題として挙げたのは、「軍事」と「造作」だった。
東北で続けられてきた蝦夷征討。
そして平安宮・平安京の造営。
いずれも桓武天皇の治世を通じて進められてきた国家事業だった。
緒嗣は、これらが民衆を苦しめているとして停止を求める。
菅野真道はこれに反論したが、桓武天皇が採用したのは緒嗣の意見だった。
二十年以上にわたって続けられてきた征夷と造都は、ここで大きな転換点を迎える。
桓武天皇の在位は約25年。
その間に都は平城京から長岡京へ、さらに平安京へ移った。
東北では大規模な軍事行動が繰り返され、阿弖流為らの抵抗を経て、坂上田村麻呂が胆沢へ進出した。
軍制や地方行政も改められ、804年には遣唐使が派遣される。
その一行には最澄と空海も加わっていた。
奈良時代から平安時代へ。
桓武天皇の生涯は、その大きな転換期と重なっている。
1.737年――山部王として生まれる
天平9年(737)。
後の桓武天皇は、白壁王の子として生まれた。
名は山部。
父の白壁王は天智天皇の孫にあたり、後の光仁天皇である。
母は高野新笠。
百済系渡来氏族につながる家の出身とされる女性だった。
山部王は、生まれた時から皇位継承の中心にいたわけではない。
宝亀元年(770)に称徳天皇が亡くなると、父の白壁王が即位して光仁天皇となった。
翌771年、皇太子となったのは山部親王ではなく、異母弟の他戸親王だった。
他戸親王の母・井上内親王は聖武天皇の皇女である。
父方では天智天皇系、母方では聖武天皇につながる皇統を持つ皇子だった。
しかし、その立場は長く続かなかった。
2.772〜773年――他戸親王の廃太子と山部親王
宝亀3年(772)。
皇后・井上内親王が光仁天皇を呪詛したとされ、皇后を廃された。
その子である他戸親王も5月に皇太子を廃される。
翌773年1月。
山部親王が新たな皇太子となった。
井上内親王と他戸親王の失脚については、藤原百川らの政治的働きを重視する見方がある。
一方、事件の詳細をどこまで政治的策謀として説明できるかには慎重さが必要である。
確認できるのは、他戸親王が皇太子を退き、その後に山部親王が皇位継承者となったという流れである。
天応元年(781)4月。
光仁天皇の譲位を受け、山部親王は即位した。
桓武天皇である。
皇太子には、桓武天皇の弟・早良親王が立てられた。
3.782年――即位直後の氷上川継事件
桓武天皇の即位翌年。
延暦元年(782)、氷上川継事件が起こった。
氷上川継は、塩焼王と聖武天皇の皇女・不破内親王の子である。
川継の資人・大和乙人が武器を帯びて許可なく宮中へ入り、捕らえられた。
乙人は、川継が人々を集め、北門から朝廷を攻撃しようとしていると供述した。
川継は逃亡したものの大和国で捕らえられ、伊豆国三島へ流された。
藤原浜成や大伴家持など、川継との関係を問われた35人にも処分が及んだ。
ただし、川継が実際にどこまで具体的な反乱計画を進めていたのかは明確ではない。
この事件については、皇位継承をめぐる藤原式家の政治的策謀を重視する見方もある。
桓武天皇の即位直後から、皇位と政権を取り巻く情勢が安定していたわけではなかった。
その数年後、桓武天皇は平城京を離れる決断をする。
4.784年――平城京から長岡京へ
延暦3年(784)5月。
藤原小黒麻呂や藤原種継らが、山背国乙訓郡長岡村周辺を新都候補地として調査した。
6月10日には種継らが造長岡宮使に任じられ、都城・宮殿の建設が始まる。
そして11月11日。
桓武天皇は長岡京へ移った。
長岡京遷都については、奈良の大寺院勢力から距離を置くことが目的だったと説明されることがある。
南都仏教勢力との関係は無視できないが、それだけで遷都を説明することはできない。
長岡の地は淀川水系に近く、水上交通と陸上交通の両面で利便性が高かった。
787年には、水陸交通の便によって長岡に都を置いたという趣旨の詔も出されている。
新しい政治拠点を造る一方、大量の人員と物資が長岡京建設へ投入された。
しかし遷都の翌年、造都を揺るがす事件が起こる。
5.785年――藤原種継暗殺と早良親王
延暦4年(785)9月23日夜。
長岡京造営の中心人物だった藤原種継が、造営現場で矢を受けた。
種継は翌24日に死亡する。
捜査によって大伴継人らが処刑され、事件への関与を疑われた皇太子・早良親王にも処分が及んだ。
9月28日、早良親王は乙訓寺へ幽閉される。
その後、皇太子を廃され、淡路国へ移送される途中で死亡した。
早良親王が暗殺計画へ実際にどこまで関与していたのかは明確ではない。
その死後、桓武天皇の周囲では皇族の死や疫病、皇太子・安殿親王の病などが相次いだ。
延暦11年(792)。
安殿親王の病を占った結果、早良親王の祟りとされ、朝廷は淡路へ使者を送り、その霊を慰める措置を取った。
同じ年には、長岡京周辺で大雨と洪水も発生している。
後世、長岡京から平安京への遷都は「早良親王の怨霊を恐れたため」と語られるようになった。
当時の朝廷が早良親王の祟りを強く意識していたことは確認できる。
しかし平安京への遷都には、洪水、造営の負担、政治状況など複数の要素が関わっていたと考えられる。
長岡京も794年直前まで造営が続けられており、最初から短期間だけ使用する仮の都だったわけではない。
6.789年――蝦夷征討での敗北
桓武天皇が力を注いだ政策の一つが、東北への軍事進出だった。
陸奥では光仁天皇の時代から緊張が続き、宝亀11年(780)には伊治呰麻呂の反乱によって多賀城が攻撃されている。
桓武天皇は東北へ大規模な征討軍を送った。
延暦8年(789)。
征東将軍・紀古佐美の軍が胆沢方面へ進む。
しかし北上川流域の蝦夷は激しく抵抗した。
その中心人物の一人が阿弖流為だった。
政府軍は大きな損害を受け、征討は失敗に終わった。阿弖流為は、この戦いで朝廷軍に大きな打撃を与えた人物として記録されている。
史料には大規模な動員人数や損害数も記されている。
ただし、それらをそのまま実際の戦場参加人数として扱う際には注意が必要である。
重要なのは、桓武朝初期の軍事行動が簡単には成功せず、胆沢を中心とする蝦夷側の抵抗が強かったことである。
それでも桓武天皇は征討を続けた。
その後、前線で大きな役割を担う人物が坂上田村麻呂だった。
7.坂上田村麻呂――801年、胆沢へ
坂上田村麻呂は791年に征東副使として東北への軍事行動に加わり、797年には征夷大将軍となった。
延暦20年(801)。
田村麻呂は再び軍を率いて東北へ進み、政府側は胆沢方面への支配を前進させる。
翌802年。
阿弖流為と盤具公母礼ら500余人が田村麻呂に降伏した。
二人は都へ送られ、田村麻呂は助命を求めたとされる。
しかし認められず、同年8月、阿弖流為と母礼は河内国で処刑された。
同じ802年には胆沢城の造営が進められ、その後、東北経営の重要な政治・軍事拠点となった。
翌803年には、さらに北方で志波城の造営も始まる。
ただし、これによって東北での抵抗が完全に終わったわけではない。
桓武朝に、朝廷側の支配領域が北へ大きく広がったと見るのが適切である。
8.792年・797年――軍制と地方行政を改める
桓武天皇の政治は、遷都と蝦夷征討だけではなかった。
延暦11年(792)。
陸奥・出羽・佐渡・西海道などの辺要諸国を除き、従来の軍団・兵士制が廃止された。
その後、郡司の子弟などを中心に選ばれた健児が、国府や兵庫などの警備を担う仕組みへ移っていく。
律令制のもとで農民から広く兵士を徴発する軍事制度は、この時期に大きく組み替えられたのである。
延暦16年(797)には、勘解由使が置かれた。
国司が交代する際の引き継ぎを監督し、解由状を審査するための令外官である。9月4日に長官・判官が同時に任命されており、797年を創設時期とみるのが一般的である。
このほか、班田の実施を促し、出挙の利率や雑徭の負担を軽減する政策も行われた。
桓武朝では、従来の律令制度を維持するだけでなく、地方行政や軍制を現実に合わせて組み替える政策が進められていた。
一方、長岡京・平安京の造営と蝦夷征討には、大量の人員と物資が必要だった。
この二つの国家事業は、やがて805年の徳政相論につながっていく。
9.794年――平安京へ
延暦12年(793)正月。
大納言・藤原小黒麻呂らが山背国葛野郡宇太の地を実地調査した。
ここから新しい都の建設が本格的に始まる。
延暦13年(794)10月22日。
桓武天皇は長岡京から新京へ移った。
10月28日には遷都の詔が出され、11月8日、新しい都は「平安京」と名付けられた。
同時に「山背国」も「山城国」と改められた。
ただし、794年10月の時点で平安京のすべてが完成していたわけではない。
宮殿、道路、官衙などの建設はその後も続く。
平安京造営を担当した造宮職が廃止されるのは、805年12月である。
桓武天皇は在位中に二度、都を移した。
平城京から長岡京へ。
長岡京から平安京へ。
後世の京都へとつながる都が、ここに始まった。
10.804年――最澄と空海が唐へ
延暦23年(804)。
遣唐使が唐へ向かった。
その一行には、二人の僧が加わっていた。
最澄と空海である。
最澄は比叡山で修行を続けており、入唐を許されると天台教学や密教などを学んだ。
804年7月に出発し、805年に日本へ帰国した。
一方、空海は唐に残って密教を学び、帰国するのは806年だった。
桓武天皇は、その帰国を見ることなく亡くなる。
この遣唐使によって得られた仏教知識は、桓武天皇の死後、日本の仏教に大きな影響を与えていく。
桓武朝は政治、軍事、都市だけでなく、宗教の面でも次の時代につながる時期だった。
11.805年――「軍事」と「造作」の見直し
延暦24年(805)12月。
桓武天皇は参議・藤原緒嗣と菅野真道に、天下の徳政について議論させた。
後に徳政相論と呼ばれる議論である。
緒嗣は、民衆を苦しめるものとして「軍事」と「造作」を挙げ、その停止を求めた。
軍事は蝦夷征討。
造作は平安宮・平安京の造営である。
一方、長く造宮に携わってきた菅野真道は緒嗣に反論した。
桓武天皇は、緒嗣の意見を採用した。
桓武朝では、長年にわたって造都と征夷が進められてきた。
その二つの国家事業について、緒嗣が民衆への負担を理由に停止を求め、桓武天皇がその主張を受け入れたのである。
平安京造営と蝦夷征討は、桓武天皇の治世を代表する政策だった。
しかし、その実現には多くの人員と国家財政の支出が必要だった。
805年の決定は、長く続けられてきた二つの国家事業が、桓武朝の最晩年に見直されたことを示している。
12.806年――桓武天皇の死
延暦25年(806)3月17日。
桓武天皇は亡くなった。
70歳とされる。
現在の京都市伏見区にある柏原陵が、その陵墓として治定されている。
737年に山部王として生まれたとき、皇位への道が最初から約束されていたわけではなかった。
他戸親王の廃太子を経て皇太子となり、781年に即位する。
その後の約25年間で、平城京から長岡京へ、さらに平安京へ都を移した。
東北では紀古佐美軍の敗北を経験しながら軍事行動を続け、坂上田村麻呂のもとで胆沢方面まで朝廷側の支配を広げた。
軍団・兵士制を改め、勘解由使を置いて地方行政の監督を強め、804年には遣唐使を送り出した。
そして最晩年の805年。
藤原緒嗣が「軍事」と「造作」の停止を求めると、その意見を採用した。
桓武天皇の政治は、一つの方針を最後まで変えずに押し通したものではない。
造都と軍事行動を大規模に進める一方で、軍制や地方行政を改め、治世の最後には長年続けてきた国家事業そのものを見直している。
桓武天皇の死後、その皇子・皇孫の一部には平姓が与えられた。
その中でも葛原親王の系統から高望王が現れ、後の桓武平氏へつながっていく。
しかし、それは桓武天皇自身が生きた時代より後の歴史である。
806年に終わった桓武天皇の生涯で大きかったのは、奈良時代から続く律令国家を引き継ぎながら、都、軍制、地方行政、東北政策、対外交流を次々と組み替えたことだった。
その治世の途中で造られた平安京は、その後長く日本の都として歴史を重ねていく。
📚 もっと桓武天皇を知りたい方へ
今回の記事では、桓武天皇の生涯を平安京・蝦夷征討・軍制改革・桓武平氏という視点から追いました。
さらに深く知りたい方には、『桓武天皇――造都と征夷を宿命づけられた帝王』がおすすめです。
「平安京を造った天皇」というイメージの裏側にあった、造都と征夷という二つの巨大事業をより深く知ることができます。
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桓武天皇 造都と征夷を宿命づけられた帝王 (日本史リブレット) [ 西本昌弘 ]
🍡 歴史を知った後に、京都のお菓子を
桓武天皇が794年に築いた平安京。
その名前を受け継ぐような、京都の和菓子詰め合わせ「平安」もあります。
八ッ橋やわらび餅、ようかんなど、京都らしいお菓子を楽しみながら、「平安京」という名前が生まれた時代に思いを馳せてみるのも面白いかもしれません。


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