【戦い・事件編】賤ヶ岳の戦い・後編――大勝利から一転、敗北へ。柴田勝家の命運を分けたものとは

戦い・事件

第42回

天正11年(1583)4月。

近江北部で羽柴秀吉と柴田勝家が対峙していた。

余呉湖周辺には両軍の陣城が並び、戦場は山々と街道を利用した広大な陣地戦となっていた。

この均衡を破ったのが、柴田勝家の重臣・佐久間盛政だった。

【戦い・事件編】賤ヶ岳の戦い(前編)――勝敗を分けたのは「冬」だった。秀吉が先に動いた理由
――清須会議から、佐久間盛政が大岩山を狙うまで天正10年(1582)6月2日。京都・本能寺。織田信長が明智光秀の軍勢に襲われた。信長は自害。嫡男・織田信忠も二条御所で命を絶った。天下統一を目前にしていた織田家は、わずか一日の間に当主と後継者…

1.秀吉が美濃へ向かった隙

4月16日、秀吉は近江を離れて美濃へ向かった。

岐阜城で織田信孝が再び挙兵したためである。

信孝を放置すれば、秀吉軍は背後を脅かされる。

秀吉は自ら兵を率いて美濃へ向かった。

この瞬間、賤ヶ岳周辺の秀吉軍は主力を欠いた。

勝家にとって大きな好機だった。

その機会を狙ったのが佐久間盛政である。


2.大岩山への急襲

4月20日未明。

佐久間盛政は兵を率いて大岩山へ向かった。

大岩山を守っていたのは、秀吉の家臣中川清秀だった。

盛政軍は大岩山を急襲する。

攻撃は成功した。

中川清秀は討死し、大岩山砦は陥落した。

秀吉軍の前線に大きな穴が開いた。

ここで盛政が得た戦果は大きい。

しかも秀吉はまだ美濃にいる。

柴田軍にとって、ここからさらに攻め込む好機が生まれた。


3.盛政はなぜ大岩山に留まったのか

ここは賤ヶ岳の戦いを理解する重要な場面である。

後世の軍記では、勝家が盛政に対して「大岩山を落としたらすぐに退け」と命じたにもかかわらず、盛政が命令を無視して戦果拡大を狙ったという物語が有名になった。

この話は一説として紹介できる。

一方、史料から見える戦況を考えると、盛政には前進する理由もあった。

秀吉は美濃にいる。

大岩山は落ちた。

秀吉軍の前線は揺らいでいる。

ここでさらに圧力をかければ、秀吉軍を大きく崩せる可能性があった。

盛政はその好機を掴もうとした。

しかし、最大の問題が一つあった。

秀吉がどれほど早く戻ってくるか。

盛政は、この判断を誤ることになる。


4.秀吉、近江へ引き返す

大岩山陥落の知らせは秀吉のもとへ届いた。

秀吉は美濃に留まらなかった。

ただちに近江へ引き返す。

後世、この急行は「美濃大返し」として有名になった。

大垣から木之本方面までの急速な移動は、賤ヶ岳の戦いを象徴する逸話になっている。

軍記では、秀吉が夜通し兵を走らせたことや、沿道に松明を用意させたことなど、劇的な場面が描かれる。

これらは後世の軍記による一説として楽しめる。

史実として重要なのは、

大岩山陥落を知った秀吉が、美濃から近江へ主力を急速に戻したことである。

ここから戦況は一気に変わる。


5.4月21日未明――追われる盛政

4月21日未明。

秀吉軍は盛政隊への攻撃を開始した。

前日まで秀吉軍を攻めていた盛政が、今度は追われる側になった。

わずか一日の出来事である。

盛政は撤退を始める。

しかし秀吉軍は追撃を続けた。

ここで賤ヶ岳の戦いは、大岩山の奪い合いから、柴田軍全体の命運を決める決戦へ変わっていく。


6.秀吉と勝家が直接槍を交えた

そして、今回の記事で最も面白い史料が登場する。

秀吉は戦後、小早川隆景へ賤ヶ岳の戦況を詳しく報告している。

この書状で秀吉は柴田勝家について、

「三度まで鑓を合わせ」たと記している。

ここは後世の軍記ではない。

秀吉自身が戦後に残した戦勝報告に出てくる記述である。

さらに秀吉は、勝家について、

織田家にいた若い頃から何度も戦ってきた武辺者という趣旨を記している。

勝家を単なる敗将としてではなく、長年戦場で知る強敵として評価していた。

この一文だけでも、賤ヶ岳が秀吉にとってどれほど重要な戦いだったのかが分かる。


7.秀吉軍は三手に分かれて攻撃した

同じ書状には、さらに具体的な戦闘の様子が記されている。

秀吉は、柴田勝家の軍勢がいるところへ自軍の馬廻衆を三手に分けて攻撃させたと報告している。

そして、卯の刻から未の刻まで戦闘が続いた。

現在の時間感覚に置き換えると、早朝から午後まで長時間にわたって戦ったことになる。

両軍は激しく戦い、一度は腰を落として休息する場面まであったという。

つまり、賤ヶ岳本戦は「秀吉が大返しをして、一気に柴田軍を蹴散らした」という単純な戦闘ではない。

長時間にわたる激戦だった。

そして、その均衡を最後に破ったのが秀吉だった。


8.小姓衆が柴田勝家の旗本へ突入

秀吉は戦況を見極めた。

そして、今度は小姓を中心とする部隊を柴田勝家の旗本へ向けて攻撃させた。

小姓とは、主君の身近に仕える若い武士たちである。

戦国時代の小姓は身辺の世話だけをする存在ではない。

主君の側近として伝令や護衛を務め、戦場では武士として戦う者もいた。

秀吉はその小姓たちを勝家の旗本へ突入させた。

この攻撃によって柴田軍の陣形が崩れた。

秀吉は戦勝報告の中で、五千余りを討ち取ったと記している。

この数字は秀吉自身の報告に出てくる。

戦勝報告という性格を考えれば、数字をそのまま確定戦死者数とは扱わない。

記事では、

「秀吉は五千余りを討ち取ったと戦勝報告している」

とするのが最も正確である。


9.柴田軍の戦線が崩れ始める

秀吉軍の攻撃で柴田軍は大きく揺らいだ。

さらに戦況を決定的にしたのが、柴田軍内部の離脱だった。

前線にいた前田利家・利長父子が戦場を離れた。

続いて、金森長近や不破勝光も離脱する。

ここは「利家が裏切った」という一言だけでは説明できない。

後世の軍記では、秀吉と利家が事前に密約していたという劇的な物語が描かれる。

これは一説として紹介できる。

史実として確認できるのは、

前田利家らが戦場を離れ、その後、柴田軍の崩壊が進んだことである。

戦場では、一部隊の離脱が隣の部隊へ影響する。

さらに敵の攻撃を受けている状況なら、その影響は一気に広がる。

賤ヶ岳では、それが実際に起きた。


10.毛受勝照、勝家の馬標を掲げる

柴田軍の総崩れが始まる。

勝家の周囲にも危険が迫った。

そこで登場するのが毛受勝照である。

勝家は自らの馬標を勝照に渡した。

勝照はそれを掲げ、勝家の身代わりとなって戦ったと伝わる。

この場面は賤ヶ岳を代表する忠義の逸話だ。

毛受勝照は敵を引きつけ、その間に勝家は退却した。

後世の軍記が描く劇的な部分を含んでいるが、毛受氏が勝家の退却を支え、戦場で討死したことは賤ヶ岳を語る重要な伝承として残っている。


11.勝家、北庄へ退却

賤ヶ岳で勝敗が決した。

勝家は越前へ退却する。向かう先は北庄城。

北庄は勝家が越前支配の拠点として築いた城だった。

ここへ戻れば、まだ立て直せる可能性がある。

しかし、秀吉は勝家を逃がさなかった。

賤ヶ岳で勝った秀吉軍は、そのまま越前へ進む。

勝家の本拠地へ向かう。戦いの舞台は近江から越前へ移った。


12.北庄城を目指す秀吉

4月23日。

秀吉軍は北庄城へ迫った。

北庄城への攻撃が始まる。

勝家は籠城して抵抗する。

しかし、賤ヶ岳で主力を失った柴田軍に、再び秀吉軍と正面から戦う力は残されていなかった。

城の外郭が次々に攻略される。

そして翌日。

北庄城は最後の日を迎える。


13.勝家、最後まで戦う

4月24日。

北庄城への攻撃が続いた。

ここで興味深い史料がある。

毛利家に伝わる文書には、勝家が七度まで門を開いて敵へ切って出たと記されている。

つまり勝家は、最後まで城内に閉じこもっていたわけではない。

何度も自ら敵中へ斬り込んだ。

賤ヶ岳で敗れた後も、武将として戦う姿勢を捨てなかった。

そして最終的に城へ戻る。

勝家の最期は近づいていた。


14.勝家の最期

勝家は天守へ上がった。

そして自害する。

勝家の最期についても、後世の軍記には非常に劇的な描写がある。

その中には、秀吉軍に向かって自らの切腹を見せ、「後学のために見ておけ」という趣旨の言葉を発したという逸話がある。

この場面は後世の軍記で有名になった。

一方、同時代に近い毛利家文書にも、勝家の最期について具体的な記述が残っている。

したがって、

勝家が北庄城で自害したことは史実として押さえられる。

一方、最期の言葉や細かな場面は、史料の種類を分けて紹介する。

これが最も正確な書き方になる。


15.お市の方も北庄城で最期を迎える

勝家とともに北庄城にいたのが、お市の方だった。

織田信長の妹。

浅井長政の妻。

そして柴田勝家の妻。

お市はかつて小谷城の落城を経験した。

そして今度は北庄城の落城を迎えた。

勝家とお市はこの城で最期を迎える。

一方、三人の娘は生き残った。

茶々。初。江。

この三姉妹は、ここからさらに日本史の中心へ進んでいく。

茶々は豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼の母となる。

初は京極高次の正室。

江は徳川秀忠の正室となり、徳川家光の母となった。

北庄城の落城は、織田家重臣・柴田勝家の死だけでなく、次の時代を担う三姉妹が生き残る場面でもあった。


16.大岩山を落とした盛政の最期

そして、賤ヶ岳の戦いを始めた男、佐久間盛政も敗北した。

4月20日。

大岩山を急襲。

中川清秀を討つ。

砦を奪う。

ところが翌日には秀吉軍の猛攻を受け、撤退。

その後、盛政は逃亡した。

しかし捕らえられる。

そして処刑された。

わずか数日の間に、

勝利する側から、追われる側へ。

そして、敗軍の将へ。

立場が完全に逆転した。

これが賤ヶ岳という戦場の恐ろしさである。


17.「七本槍」は後世に巨大な物語となった

賤ヶ岳といえば、賤ヶ岳七本槍が有名である。

一般には、

  • 福島正則
  • 加藤清正
  • 加藤嘉明
  • 脇坂安治
  • 片桐且元
  • 平野長泰
  • 糟屋武則

の七人を指す。

彼らは後に豊臣政権を支える武将へ成長した。

そのため賤ヶ岳は、「七本槍が大活躍した戦い」として知られるようになった。

ただし、七人が当時から一つの固定された「七本槍」という組織だったわけではない。

後世の顕彰によって七人の武功が一つの物語としてまとめられた。

ここにも、戦国史の面白さがある。

戦場での武功が、後世に人物像を作り上げていく。


18.賤ヶ岳の勝敗を決めたもの

賤ヶ岳の戦いを一つの出来事だけで説明することはできない。

4月20日。

盛政の奇襲が成功した。

中川清秀が討死。大岩山が陥落した。柴田軍が優勢に立つ。

しかし秀吉が美濃から戻った。

4月21日。

秀吉軍が反撃。盛政隊が撤退。

柴田勝政らの部隊も戦闘に巻き込まれる。

秀吉と勝家が直接槍を交える。

秀吉軍が柴田軍の旗本へ攻撃。

そして前田利家らが戦場を離れる。

柴田軍の戦線が崩壊する。

勝家は北庄へ退却。

秀吉は追撃。

北庄城が落ちる。

勝家が死ぬ。

一連の出来事が連鎖して、柴田家は滅亡した。


19.勝家はなぜ敗れたのか

勝家の敗因を「盛政が命令違反をしたから」とだけ説明するのは簡単だ。

しかし、実際の戦場はもっと複雑だった。

柴田軍は大岩山で大きな戦果を挙げた。

その時点では勝家側に勝機があった。

問題は、その優勢を維持する前に秀吉が戻ったことだった。

そして翌日の戦闘で、秀吉軍が柴田軍へ集中攻撃を加えた。

そこへ前田利家らの離脱が重なる。

戦線は維持できなくなった。

つまり賤ヶ岳の敗北は、「盛政の判断ミス一つ」で決まったのではない。

秀吉の迅速な対応。

柴田軍の部隊配置。

盛政の攻撃。

翌日の追撃。

前田利家らの離脱。

これらが連鎖した結果だった。


20.秀吉は何を手に入れたのか

賤ヶ岳で秀吉が倒したのは、単なる一人の武将ではない。

柴田勝家は、織田信長の家臣団の中でも最大級の軍事力を持っていた。

北陸方面を支配し、前田利家、佐々成政、不破勝光、金森長近、佐久間一族ら有力武将を抱えていた。

その勝家が滅んだ。

これによって秀吉は、織田家中における最大の対抗勢力の一つを排除した。

そして信長死後の権力争いは、大きく秀吉優位へ傾く。

しかし、秀吉の前にはまだ敵がいた。

織田信孝。滝川一益。

そして、徳川家康。

賤ヶ岳の戦いは、秀吉の天下統一の終着点ではない。

むしろ、天下取りが本格的に始まる転換点だった。


まとめ

――大岩山の勝利から、北庄城の炎上へ

4月20日未明、佐久間盛政は大岩山を急襲し、中川清秀を討った。

柴田軍は大きな戦果を挙げた。

しかし、秀吉は美濃から近江へ急速に引き返した。

翌4月21日、戦況は一変する。

盛政隊は追われ、秀吉軍と柴田軍の本戦が始まった。

秀吉自身の戦勝報告には、勝家と三度まで槍を合わせたこと、馬廻衆を三手に分けて攻撃したこと、長時間の激戦の後に小姓衆を勝家の旗本へ突入させたことが記されている。

そして前田利家らが戦場を離れ、柴田軍の戦線が崩れた。

毛受勝照は勝家の退却を助けるため戦い、勝家は北庄へ逃れた。

秀吉は追撃した。

北庄城は包囲され、4月24日、勝家は自害した。

大岩山を落とした佐久間盛政も、その後捕らえられて処刑された。

こうして、織田信長亡き後の権力争いは大きく動いた。

賤ヶ岳の戦いは、秀吉が「信長の後継者争い」に勝利した戦いであると同時に、柴田勝家という織田家最大級の軍事勢力を消滅させた戦いだった。

そして次に秀吉の前へ立ちはだかるのが、徳川家康である。

舞台は尾張。

秀吉と家康が初めて本格的に激突する。

小牧・長久手の戦いへ続く。

柴田勝家が最後を迎えた越前。
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賤ヶ岳の戦いで敗れ、北庄城で最期を迎えた柴田勝家。

今回の記事では描ききれなかった、織田信長のもとで勝家がどのように頭角を現し、なぜ「織田軍の総司令官」と呼ばれる存在になったのかを、さらに深く知りたい方におすすめの一冊です。

賤ヶ岳の戦いを勝家側から読み直すと、あの敗北がまた違った角度から見えてきます。

賤ヶ岳の戦いをもっと深く知りたい方は、ぜひ読んでみてください。

 賤ヶ岳の戦い「兵站線の確保と機動力」

 
柴田勝家 織田軍の「総司令官」 (中公新書 2758) [ 和田裕弘 ]

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