【戦い・事件編】阿衡の紛議――藤原基経はなぜ宇多天皇の政務を止めたのか?

戦い・事件

第47回



――陽成天皇の退位から、宇多天皇と藤原基経の対立まで

元慶の乱が終わった。

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出羽で起きた大規模な反乱を朝廷が鎮めたのは、元慶2年(878)。

そこからわずか9年。

平安京では、今度は朝廷の内部で巨大な政治問題が起こる。

戦場はない。軍隊も出ない。

それでも朝廷の政務そのものが止まった。

原因となったのは、たった一つの言葉。

「阿衡」

この言葉をめぐって、天皇と朝廷最高の実力者・藤原基経が激突した。

藤原基経という人物そのものについては、こちらの記事で詳しく紹介しています。

文章を書いた学者は責任を追及され、天皇は自らの勅書を改めることになった。

そして、この事件を通して、藤原基経がどれほど強大な政治権力を握っていたのかが、朝廷全体にはっきりと示された。

これが、阿衡の紛議である。


1.元慶の乱の後、朝廷の主役になっていた男

元慶2年(878)、出羽国で元慶の乱が起きた。

朝廷は藤原保則や小野春風らを派遣し、反乱の鎮定にあたらせた。

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その一方、中央政界では別の人物が権力を強めていた。

藤原基経である。

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基経は藤原北家の出身。

叔父の藤原良房の養子となり、良房の後継者として朝廷の中心へ進んだ。

良房は清和天皇の外祖父として強大な権力を握り、臣下として初めて摂政となった人物である。

基経は、その政治的地位を引き継いだ。

貞観18年(876)、清和天皇が9歳の陽成天皇へ譲位すると、基経は幼い天皇を補佐する立場に就いた。

元慶4年(880)には太政大臣となる。

この時点で、基経は朝廷の最重要人物だった。

そして元慶8年(884)、朝廷を大きく揺るがす出来事が起こる。

陽成天皇が退位した。


2.陽成天皇の退位――17歳の天皇に何が起きたのか

陽成天皇は貞観10年(869)に生まれた。

清和天皇の皇子である。

貞観18年(876)、9歳で即位した。

幼帝だったため、政治の中心には藤原基経がいた。

ところが陽成天皇が成長すると、宮中では天皇の行動をめぐる問題が相次ぐ。

『日本三代実録』には、陽成天皇の宮中での行動について具体的な記事が残されている。

なかでも有名なのが、殿上人を殺害したとされる事件である。

元慶7年(883)には、陽成天皇をめぐる朝廷内の緊張が高まっていた。

そして元慶8年(884)、陽成天皇は退位する。

その後を継いだのが、光孝天皇である。

光孝天皇は仁明天皇の皇子。

即位した時点で55歳だった。

幼帝から、長年朝廷の政治を経験してきた高齢の皇族へ天皇が交代した。

この皇位交代によって、藤原基経の政治的地位もさらに強くなる。

基経は光孝天皇の政治を支える中心人物となった。


3.光孝天皇と藤原基経――「万機」を任された男

光孝天皇は即位すると、基経に朝廷の政務を大きく委ねた。

重要な政務については、まず基経に相談し、そのうえで天皇に奏上する。

この政治体制は、後の関白政治につながる重要な形だった。

ここで覚えておきたいのが、

「関白」という言葉が登場する前から、基経は実質的に天皇の政治を補佐していたという点である。

光孝朝で形成された基経の執政体制が、宇多天皇の即位後に改めて文章化され、その中で「関白」という語が使われた。

ここが阿衡の紛議を理解する重要なポイントになる。


4.光孝天皇の崩御――次の天皇は誰なのか

仁和3年(887)。

光孝天皇が病に倒れる。

ここで皇位継承問題が発生した。

光孝天皇は皇太子を立てていなかった。

さらに、光孝天皇の皇子たちは臣籍に降下していた。

その中にいたのが、源定省である。

後の宇多天皇だった。

光孝天皇の病状が悪化すると、定省は皇族へ復帰して親王となり、皇太子に立てられる。

そして光孝天皇が崩御した。

こうして、宇多天皇が即位する。

時に21歳。

ここから、阿衡の紛議へつながる。


5.宇多天皇即位――最初から基経と対立していたわけではない

ここは非常に重要である。

宇多天皇は即位した瞬間から、「藤原基経を排除しよう」と考えていたわけではない。

むしろ逆だった。

宇多天皇は、光孝天皇の時代と同じように、基経に政治を委ねようとした。

仁和3年(887)11月、宇多天皇は基経に対して、

「万機巨細、百官己にすべて太政大臣に関り白し、しかる後に奏下すること、一に旧事の如くせよ」

という趣旨の詔を出した。

つまり、朝廷の大小の政務は、まず基経に相談し、その後に天皇へ奏上せよ。という命令だった。

ここで重要なのが、「関白」という言葉である。

この詔は、後世の関白制度を考えるうえで非常に重要な史料となっている。

宇多天皇は若い天皇だった。

一方、基経はすでに長年にわたって朝廷を動かしてきた。

宇多天皇は、その政治力を利用して政権を安定させようとした。

ところが、基経への返答を書く段階で事件が起きる。


6.基経の辞表――朝廷では「一度断る」のが普通だった

基経は宇多天皇の詔を受けると、辞表を提出した。

これは当時の朝廷では珍しいことではない。

高位の人物が任命を受けたとき、「自分にはその資格がありません」と辞退する。

そして天皇が、「あなたに任せる」と改めて命じる。

こうしたやり取りは、政治儀礼として行われていた。

つまり、基経が最初に辞退したこと自体が事件だったわけではない。

問題は、その辞表に対する天皇側の返答だった。

この返答を起草した人物が、橘広相である。


7.橘広相――宇多天皇に近かった学者

橘広相は、平安前期を代表する学者・文人だった。

詔勅などの文章を作る能力を持ち、朝廷の文書行政を支える重要人物だった。

そして宇多天皇との関係も深かった。

広相の娘・義子は宇多天皇の女御となっている。

さらに、広相は宇多天皇の皇子たちの外祖父となる立場にもあった。

つまり、広相は、宇多天皇の政治的・血縁的な側近だった。

この広相が、基経の辞表に対する勅答を起草する。

そして、その文章に登場したのが、「阿衡」だった。


8.「阿衡」とは何だったのか

問題になった文章には、「宜しく阿衡の任を以て卿の任となすべし」という表現があった。

阿衡は、中国古代の故事に登場する語である。

伊尹という人物が殷の宰相として務めた官名として知られていた。

ところが、この言葉について、

「阿衡には具体的な職掌がない」という解釈が出された。

この解釈を示したのが、藤原佐世だった。

佐世は漢学に通じた学者であり、基経に近い人物だった。

基経はこの解釈を受け入れた。

すると、

「阿衡という地位を与えられても、政治を行う職務はない」ということになる。

宇多天皇が最初に出した詔では、

「万機を基経に関白させる」と命じている。

ところが、その後の勅答では、

「阿衡の任」と表現された。

この違いが、基経の政治権限そのものをめぐる問題になった。

阿衡の紛議の核心はここにある。


9.藤原基経、出仕を停止する

基経は、「阿衡では政務を行わない」という態度を取った。

そして政務から離れる。

朝廷の最高実力者が政務に参加しなくなった。

その影響は大きい。

朝廷の政務は停滞する。宇多天皇は基経を説得しようとする。

しかし基経は動かない。

ここで初めて、

宇多天皇と藤原基経の力関係が表面化した。

天皇は最高位にいる。

しかし、朝廷を実際に動かしているのは基経である。

基経が動かなければ、政務そのものが進まない。

この事実が、阿衡の紛議によってはっきりと示された。


10.宇多天皇、学者たちに「阿衡」を調べさせる

宇多天皇は問題を放置しなかった。

「阿衡」に職掌があるのか。その意味をどう理解すべきなのか。

朝廷の学者たちに検討させた。

仁和4年(888)6月1日には、天皇の前で学者たちによる議論が行われた。

しかし、その場で決着しなかった。

この点は重要である。

阿衡の紛議は、

「学者が辞書を引いて意味を調べたら終わった」

という話ではない。

学問上の語義をめぐる議論が、藤原基経の政治権限に直結していた。

だから、簡単には終わらなかった。


11.橘広相に責任が集中する

事件が長期化すると、問題は「阿衡」という言葉だけではなくなった。

その文章を書いた、橘広相の責任が追及される。

基経側にとって、勅答の文章を作った広相は重要な責任者だった。

一方、広相は宇多天皇の信任が厚い。

ここで事件は、基経 vs 広相という構図にもなった。

そして、その背後には、

基経 vs 宇多天皇という政治関係がある。

つまり阿衡の紛議は、一つの言葉から始まりながら、朝廷内の人間関係まで巻き込む大事件になった。


12.ここで菅原道真が登場する

この事件には、後に日本史を大きく動かす人物も関わっている。

菅原道真である。

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当時の道真は讃岐守。

道真は基経に対して書状を送り、事件の収拾を促した。

この書状が、「奉昭宣公書」である。

「昭宣公」は藤原基経のこと。

道真は基経に対し、政治の混乱を長引かせることの問題を説いた。

ここで重要なのは、道真が基経を倒そうとしたわけではないということだ。

むしろ基経の立場を踏まえたうえで、事態の収拾を促した。

この出来事は、後の宇多天皇と菅原道真の関係を考えるうえでも重要になる。

ただし、

「道真が基経を説得して阿衡の紛議を解決した」と単純に断定するのは避けるべきである。

阿衡事件の基本史料である『宇多天皇御記』の抄出から確認できるのは、事件の推移と、道真が基経に送った書状の存在である。


13.宇多天皇が勅書を改める

仁和4年(888)、宇多天皇は事件を収拾するため、問題となった勅書を改めた。

基経の政治的立場を明確にし、政務へ復帰させる方向へ進んだ。

しかし、基経側の要求はそれだけではなかった。

橘広相への責任追及が続いた。

宇多天皇にとって、広相は重要な側近だった。

それでも、基経の政治力を無視して朝廷を運営することはできない。

最終的に事件は収束へ向かう。

そして同年10月、基経の娘、藤原温子が宇多天皇の女御となる。

これも基経と宇多天皇の関係を修復する政治的な動きとして重要である。


14.「一つの言葉」で、なぜここまで揉めたのか

ここが阿衡の紛議で一番面白いところだ。

現代の感覚なら、「言葉の選び方を間違えただけでは?」と思う。

しかし、平安時代の朝廷では、官職名や詔勅の文言そのものが政治権力を意味した。

基経にどのような職務を与えるのか。その権限をどの文章で表現するのか。

天皇が基経をどこまで政治に関与させるのか。

これらはすべて、朝廷を誰が動かすのかという問題につながっていた。

だから基経は、「阿衡」という言葉を放置しなかった。

言葉を曖昧にしたまま政務へ戻れば、自分の政治的権限が弱くなる。

基経はそこを徹底的に追及した。


15.藤原基経のすごさ――天皇の詔を止める力

阿衡の紛議で最も驚くべきことは、

基経が天皇の命令に抵抗できたことである。

宇多天皇は天皇である。

基経は臣下である。

それでも基経が出仕を停止すると、朝廷政治が動かなくなった。

これは、当時の政治権力の現実を象徴している。

基経は、単なる「天皇の部下」ではない。

朝廷の人事、政務、太政官政治を掌握する巨大な政治勢力だった。

しかも基経は、陽成天皇の退位、光孝天皇の即位、宇多天皇の即位という三つの皇位継承に深く関わる位置にいた。

天皇が代わっても、基経は政治の中心に残った。

この事実こそ、基経の権力の大きさを示している。


16.阿衡の紛議が終わった後

阿衡の紛議は、仁和4年(888)に収束した。

しかし、宇多天皇にとって、この事件は大きな経験になった。

自分が天皇になっても、藤原基経の政治力を無視して朝廷を運営できない。

この現実を、宇多天皇は身をもって知った。

その後、基経は宇多天皇の政治を支え続ける。

そして寛平2年(890)、基経は病を理由に辞表を提出する。

翌寛平3年(891)正月、基経は死去した。

ここから宇多天皇の政治は大きく変わっていく。

そして、その中心に登場するのが、菅原道真である。


17.阿衡の紛議から寛平の治へ

基経の死後、宇多天皇は自らの政治を強めていく。

その際に重用されたのが菅原道真だった。

宇多天皇は、藤原氏だけに依存しない政治を目指す。

道真は学者出身でありながら、朝廷政治の中心へ急速に進んでいく。

やがて道真は右大臣にまで昇進する。

しかし、その先には、昌泰の変が待っている。

道真は大宰府へ左遷される。

そして、その背景には再び、天皇と藤原氏の権力関係が存在する。

つまり、阿衡の紛議は単独の事件ではない。

平安時代の摂関政治が形成されていく過程の中にある。


まとめ

阿衡の紛議は、仁和3年(887)に宇多天皇が即位した後、藤原基経に与える政治的権限をめぐって起きた。

宇多天皇は即位直後、光孝天皇の時代と同じように基経に政務を委ね、「関白」という言葉を用いてその役割を示した。

基経は慣例に従って辞表を提出した。

その返答を橘広相が起草し、そこに「阿衡」という言葉が使われた。

藤原佐世が阿衡には職掌がないと解釈したことで、基経は自分の政治権限が否定されたと判断した。

そして出仕を停止する。

その結果、朝廷の政務が停滞し、問題は橘広相の処分問題へ発展した。

宇多天皇は学者たちに阿衡の意味を検討させ、勅書を改めることで事態の収拾を図った。

菅原道真も基経に書状を送り、事件の収拾を促した。

最終的に基経の政治的地位が維持され、事件は収束した。

この事件の最大の意味は、

天皇が命令を出せば、そのまま政治が動くわけではなかったという平安前期の政治の現実が、はっきり表れたことにある。

藤原基経は、天皇の臣下でありながら、政務への参加を拒否することで朝廷そのものを停滞させる力を持っていた。

陽成天皇が退位し、光孝天皇、宇多天皇と天皇が代わっても、基経は政治の中心に居続けた。

そして宇多天皇は、この阿衡の紛議を経験した。

その後、基経が死去すると、宇多天皇は菅原道真を重用して藤原氏の政治的影響力を抑えながら自らの政治を進めていく。

こうして、

陽成天皇の退位
↓
光孝天皇即位
↓
藤原基経の執政
↓
宇多天皇即位
↓
阿衡の紛議
↓
宇多天皇と菅原道真の政治

という一本の流れが生まれる。

阿衡の紛議とは、「阿衡」という一つの言葉をめぐる言葉遊びではない。

天皇と藤原氏のどちらが朝廷政治を主導するのか、その権力関係が正面からぶつかった事件だった。

そして、この事件を乗り越えた宇多天皇が、後に菅原道真を抜擢する。

平安時代の政治は、ここからさらに大きく動いていく。

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