第49回
平安時代の権力者といえば、藤原道長を思い浮かべる人が多い。
しかし、藤原氏が朝廷の政治を主導する仕組みを理解するなら、道長より100年以上前に目を向ける必要がある。
その人物が、藤原基経である。
承和3年(836)に生まれ、寛平3年(891)に56歳で死去。
その生涯は、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇という4代の天皇にまたがる。
基経は右大臣、太政大臣、摂政を歴任し、最終的には関白となった。
しかも、その権力は単に高い官職に就いたというだけではない。
陽成天皇の退位に関わり、光孝天皇を擁立し、宇多天皇の即位後には朝廷の政務を停止させるほどの政治的影響力を発揮した。
その象徴が、阿衡の紛議である。
阿衡の紛議そのものの経過は、こちらの記事で詳しく解説しています。

天皇が出した勅書をめぐって基経が出仕を停止し、朝廷の政務が長期間停滞した。
「天皇の命令に、最高実力者が従わない」
この異常な事態が起きるほど、基経の権力は巨大だった。
では、なぜ一人の貴族がそこまでの力を持つようになったのか。
その答えは、基経の生い立ちと、藤原北家が築いてきた政治基盤にある。
1.藤原基経の生い立ち
藤原基経は承和3年(836)、藤原長良の三男として生まれた。
父・長良は藤原北家の有力者だった。
そして基経の人生を決定的に変えた人物が、父の弟である、
藤原良房だった。

良房は基経を養子として迎えた。
これによって基経は、藤原長良の子であると同時に、藤原北家の政治的中心を担う良房の後継者となった。
この養子縁組は、基経の人生を大きく左右する。
良房は清和天皇の外祖父として権力を握り、さらに人臣として初めて摂政となった人物である。
基経は、その良房の政治的後継者として成長していった。
つまり基経は、若い頃からすでに、藤原氏の次代を担う候補として政治の中心へ入っていた。
2.16歳で元服、17歳で蔵人
仁寿元年(851)、基経は16歳で元服した。
翌仁寿2年(852)には蔵人となる。
蔵人は天皇の側近として機密文書や奏上を扱う重要な役職だった。
天皇の近くで政務に関わることができる。
基経はここから、
侍従、少納言、蔵人頭、参議、中納言、大納言と急速に昇進していく。
貞観6年(864)には参議となった。
28歳。
この時点ですでに、朝廷の政治を担う公卿の一人となっていた。
そして2年後、基経の政治人生を大きく飛躍させる事件が起きる。
3.応天門の変――基経が一気に政治の中心へ
貞観8年(866)。
平安京の朝廷を揺るがす大事件が発生した。
応天門の変である。

宮中の正門の一つだった応天門が焼失した。
事件の犯人として追及されたのが、大納言・伴善男だった。
伴善男は失脚し、流罪となった。
この事件によって、伴氏などの有力氏族が政治の中心から後退し、藤原北家の優位がさらに強まった。
基経もこの事件を経て大きく昇進する。
同年、中納言となった。翌年にはさらに官位を進める。
ここで重要なのは、基経が単に「良房の養子」だった段階から、
自ら朝廷の権力構造を動かす政治家へ成長していったことである。
4.良房の死――基経が藤原北家を背負う
貞観14年(872)、藤原良房が死去した。
このとき基経は36歳。
良房の後継者として、基経が藤原北家の政治的中心に立つ。
同年、基経は右大臣となった。
ここから基経は、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇という4代にわたって朝廷政治を主導する。
良房が築いた権力を受け継ぎ、さらに制度として発展させていく。
その最初の大きな舞台が、陽成天皇の即位だった。
5.陽成天皇の即位――基経は摂政になる
貞観18年(876)、清和天皇が譲位し、皇太子の貞明親王が即位した。
これが、陽成天皇である。
陽成天皇は幼少だった。
そこで清和天皇は基経を摂政とした。
ここで基経は、幼い天皇に代わって政務を担う立場に入る。
さらに基経は陽成天皇の外戚でもあった。
基経の妹・藤原高子は清和天皇の女御となり、陽成天皇を産んでいる。
つまり基経は、天皇の叔父であり、外戚であり、摂政でもあった。
藤原氏が天皇家との婚姻関係を利用して政治的地位を高める構造が、ここでさらに強くなる。
6.太政大臣になった基経
元慶4年(880)、基経は太政大臣となった。
太政大臣は律令官制における最高位の官職である。
ただし、この時代の基経の権力を理解する際には、官職名だけを見るべきではない。
重要なのは、基経が天皇の側近として政務を握っていたことである。
基経は官職や政治的権限の形式を非常に重視した。
後の阿衡の紛議でも、それがはっきり表れる。
基経は「自分が何を任されているのか」を曖昧なまま受け入れなかった。
この性格が、後に宇多天皇との激しい対立を生む。
7.元慶の乱――東北でも朝廷が揺れる
基経の時代には、中央だけでなく地方でも大きな問題が起きていた。
元慶2年(878)。
出羽国で、元慶の乱が発生する。

秋田城を中心とした地域で、蝦夷と呼ばれた人々を含む現地勢力が反乱を起こした。
背景には、出羽国司による現地支配や収奪、飢饉などの問題があった。
朝廷は鎮圧のために対応する。
このとき出羽権守として現地へ派遣された人物が、
藤原保則だった。

保則は武力だけに頼らず、現地勢力との関係を修復しながら反乱を収拾した。
基経の時代には、こうした地方支配の問題が朝廷にとって大きな課題になっていた。
8.元慶官田――基経は国家財政にも向き合った
基経の政治は、皇位継承や人事だけではない。
元慶3年(879)には、元慶官田が設置された。
五畿内に官田を設け、国家の財政基盤を補強する政策だった。
律令国家の財政は、この頃には大きな変化を迎えていた。
班田収授を中心とした制度は次第に揺らぎ、租税収入の確保も難しくなっていた。
基経の時代には、中央政府の財政をどう維持するかという問題も深刻になっていた。
基経は皇位継承だけを操作する政治家ではない。
国家の財政や地方支配を含め、朝廷全体の運営に関わる政治家だった。
9.陽成天皇との対立
ところが、基経と陽成天皇の関係は次第に悪化する。
陽成天皇が成長すると、基経は摂政として天皇を支える立場から、天皇自身の政治との調整を迫られるようになる。
そして元慶8年(884)、決定的な出来事が起きた。
陽成天皇が退位した。
その後、基経は時康親王を皇位につける。
これが、光孝天皇である。
光孝天皇は仁明天皇の皇子だった。
55歳で即位した高齢の天皇だった。
基経は幼帝を支える摂政から、成人した天皇のもとで政務を握る政治家へ移行する。
ここが基経の政治人生の大きな転換点となった。
10.光孝天皇――基経に政務を委ねる
光孝天皇は即位すると、基経に政務を大きく委ねた。
この段階で基経は、後世の意味での「関白」に近い立場に立った。
ここで重要なのは、884年に正式な関白職が成立したわけではないということだ。
基経が実質的に関白と同様の立場になったのは光孝天皇の時代。
そして正式に「関白」の詔が出るのは、宇多天皇の即位後である。
11.光孝天皇の死――次の天皇を誰にするのか
仁和3年(887)光孝天皇が病に倒れる。
皇位継承が問題となった。
次の天皇となったのが、宇多天皇である。
宇多天皇は光孝天皇の第七皇子だった。
しかし、宇多天皇は即位前に一度臣籍降下しており、源定省と名乗っていた。
その人物が皇族に復帰して即位する。
この皇位継承には、基経の政治的判断が大きく関わった。
そして宇多天皇が即位すると、基経に正式な関白の詔が出される。
ここで、関白・藤原基経が誕生する。
12.関白――天皇を補佐する最高実力者
関白とは何なのか。
簡単にいえば、天皇の政治に深く関与し、政務を補佐する最高位の臣下である。
宇多天皇の即位時、基経に出された詔には、「関白」という言葉が登場する。
これが歴史上、基経に対する正式な関白の詔として知られている。
後世の摂関政治を考えると、極めて重要な瞬間だ。
藤原良房が人臣として初めて摂政となり、基経が成人天皇のもとで関白という政治的立場を確立する。
そして、その権限をめぐって基経と宇多天皇が衝突する。
その事件が、阿衡の紛議だった。

13.阿衡の紛議――一つの言葉が朝廷を止めた
仁和3年(887)。
宇多天皇は基経に関白として政務を任せる詔を出した。
この詔を起草したのが、橘広相だった。
ところが詔書には、
「阿衡の任をもって卿の任となすべし」という表現が使われた。
ここで問題となったのが、阿衡という言葉だった。
藤原佐世が「阿衡には職掌がない」と解釈した。
基経はこの解釈を受け入れ、政務を行わなくなった。
朝廷の政務が止まる。
天皇が命令を出している。それでも基経は出仕しない。
この時点で、基経の権力の大きさがはっきりと見える。
14.なぜ基経は、ここまで強く出たのか
阿衡の紛議を、
「基経が阿衡という言葉の意味を勘違いした事件」として終わらせると、本質を見失う。
基経が問題にしたのは、
自分が関白としてどこまで政治に関与できるのかという問題だった。
光孝天皇の時代、基経には政務全般について大きな権限が与えられていた。
ところが宇多天皇の即位後、詔書の表現がその権限を明確に示していなかった。
そこで基経は抗議した。
つまり阿衡の紛議は、「関白とは何をする役職なのか」をめぐる政治闘争だった。
基経は自分の権限を曖昧なまま受け入れなかった。
そして、出仕を停止するという極めて強い手段に出た。
15.橘広相が巻き込まれる
事件はさらに拡大した。
問題の詔書を書いた橘広相が責任を問われた。
広相は宇多天皇から厚い信任を受けていた。
そのため宇多天皇は広相を守ろうとした。
しかし基経は広相の処分を求める。
ここで、宇多天皇と基経の対立が鮮明になる。
宇多天皇は若い。
一方、基経は朝廷政治を20年以上にわたって主導してきた。
経験も人脈も圧倒的だった。
基経が政務を止めれば、朝廷は動かない。
宇多天皇は追い詰められていく。
16.半年以上続いた政治的混乱
阿衡の紛議は短期間では終わらなかった。
宇多天皇は学者たちに阿衡の意味を調べさせた。
しかし問題は簡単に決着しない。
最終的に宇多天皇は詔書を改める方向へ進み、基経との関係修復を図った。
それでも基経は広相の処分を求めた。
最終的には888年に事件が収束する。
この事件によって、基経の政治的権限が朝廷に強く認識されることになった。
そして、その後の基経は死去まで関白として政治を主導する。
17.ここで菅原道真が登場する
阿衡の紛議を考えるとき、忘れてはいけない人物がいる。
菅原道真である。

この時、道真は讃岐守だった。
道真は基経に意見を述べ、事件を収拾するよう働きかけた。
この出来事は、後の歴史を考えるうえで非常に重要だ。
なぜなら基経の死後、宇多天皇が菅原道真を重用するからである。
そして道真は急速に出世し、右大臣にまで昇進する。
一方、基経の子、藤原時平も左大臣となる。
こうして、藤原時平と菅原道真が朝廷の政治の頂点に並ぶ。
そして901年。昌泰の変が起きる。

道真は大宰府へ左遷される。
基経の死から、わずか10年後の出来事だった。
18.基経は文化人でもあった
藤原基経は政治だけの人物ではない。
学問や芸術にも関心を持っていた。
特に、笙の名手として知られている。
さらに、清和天皇の時代を記録する歴史書、
『日本文徳天皇実録』
の編纂にも関わった。
『日本文徳天皇実録』は、六国史の一つである。
朝廷の最高実力者として政治を動かしながら、歴史編纂や芸術にも関わった。
基経は、武力によって権力を得た人物ではない。
官職、人脈、婚姻、儀礼、文書、制度を駆使して権力を形成した政治家だった。
19.基経の家族――藤原氏の未来を作る
基経の子で最も重要なのが、藤原時平である。
時平は基経の死後、朝廷の中心へ進み、左大臣となる。
そして基経の娘、藤原温子は宇多天皇の女御となった。
基経は生前、天皇家との婚姻関係を強化していた。
この婚姻関係は、後の藤原氏の政治基盤をさらに強固にする。
基経自身が作った政治的基盤は、彼の死後も子孫へ受け継がれていく。
そしてその先に、藤原道長の時代がやってくる。
20.晩年――関白を辞め、そして死ぬ
寛平2年(890)。基経は病を理由に関白を辞した。
翌寛平3年(891)1月13日。
藤原基経は死去した。
56歳だった。
死後、正一位を贈られ、昭宣公の諡号を受けた。
また越前国を封じられた。
その生涯は、わずか56年だった。
しかし、その56年間で基経は平安朝廷の政治構造を大きく変えた。
21.藤原基経の人生を一本につなぐ
承和3年(836)。
藤原長良の三男として生まれる。
↓
叔父・藤原良房の養子となる。
↓
16歳で元服。
↓
17歳で蔵人。
↓
若くして朝廷の中枢へ進む。
↓
貞観8年(866)。
応天門の変。
↓
良房の後継者として政治の中心へ。
↓
872年。
良房死去。
基経が藤原北家の中心となる。
↓
876年。
陽成天皇即位。
基経が摂政となる。
↓
880年。
太政大臣となる。
↓
884年。
陽成天皇退位。
光孝天皇即位。
↓
基経が光孝天皇から政務を委ねられ、実質的な関白の立場となる。
↓
887年。
光孝天皇崩御。
宇多天皇即位。
↓
基経に正式な関白の詔。
↓
阿衡の紛議。
↓
888年。
事件収束。
↓
890年。
病を理由に関白を辞任。
↓
891年。
藤原基経死去。
↓
基経の死後、菅原道真が宇多天皇の側近として台頭。
↓
901年。
昌泰の変。菅原道真、大宰府へ左遷。
この流れを見ると、基経の人生が単独で完結していないことが分かる。
基経の政治は、次の世代の藤原時平と菅原道真へつながっていく。
まとめ
藤原基経は、承和3年(836)に藤原長良の三男として生まれ、叔父・藤原良房の養子となった。
良房の後継者として育てられた基経は、若くして朝廷へ入り、蔵人、参議、中納言、大納言、右大臣と急速に昇進した。
866年の応天門の変を経て政治的地位をさらに高め、872年に良房が死去すると、藤原北家を代表する政治家となった。
876年には陽成天皇の摂政となり、880年には太政大臣となる。
884年、陽成天皇が退位すると、基経は光孝天皇を擁立した。
光孝天皇は基経に政務を委ね、基経は実質的に関白と同様の立場で朝廷政治を主導した。
887年、光孝天皇が崩御すると宇多天皇が即位する。
そして基経には正式に関白の詔が出された。
ところが、この詔書の表現をめぐって、
阿衡の紛議が起こる。
基経は「阿衡」の語を問題にして出仕を停止し、朝廷の政務を止めた。
事件は橘広相の処分問題にまで発展し、宇多天皇と基経の対立を生んだ。
ここで基経が守ろうとしたのは、単なる言葉の解釈ではない。
関白として自分がどこまで政治に関与できるのかという権限そのものだった。
基経は自らの政治的権限を明確にするため、天皇に対して強硬な態度を取った。
その結果、宇多天皇は詔書を改め、事件は収束した。
この出来事は、天皇の権威と藤原氏の政治的実権が別々に存在していた平安前期の政治構造を象徴している。
基経は政治だけでなく、元慶官田の設置や元慶の乱への対応など、国家財政や地方支配にも関わった。
さらに『日本文徳天皇実録』の編纂にも携わり、笙の名手としても知られた。
寛平3年(891)、56歳で死去。
しかし基経の死によって、彼の政治が終わったわけではない。
息子の藤原時平が朝廷の中心へ進み、基経の死後に宇多天皇の信任を受けた菅原道真も急速に昇進する。
そして901年、昌泰の変が起こる。道真は大宰府へ左遷される。

つまり藤原基経の人生は、
藤原良房が築いた藤原北家の権力を受け継ぎ、摂政から関白へと天皇を支える政治的地位を発展させ、その後の摂関政治につながる巨大な権力構造を作った人生だった。
藤原道長が摂関政治の頂点に立つ約100年前。
すでに基経は、天皇の命令に対して「自分の権限を認めなければ政務を行わない」と主張できるほどの力を持っていた。
天皇と藤原氏の権力関係を大きく変え、平安時代の政治構造そのものを形作った人物である。
そして基経の死後、その政治構造の中で菅原道真が台頭する。
基経から時平へ。そして道真へ。
平安朝廷の権力闘争は、次の時代へ動き始める。
藤原基経が、どうやって朝廷の頂点まで上り詰めたのか――。
本書では、藤原良房から藤原基経へと受け継がれた藤原氏の権力、摂政・関白の成立、そして阿衡の紛議までを詳しく知ることができます。
「基経をもっと深く知りたい」という人におすすめの一冊です。


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