第121回
寿永2年(1183年)7月25日。
平氏一門は京都を去った。
一門が奉じたのは、数え6歳の安徳天皇である。
内侍所(神鏡)・宝剣・神璽の三種の神器も、ともに京都を離れた。
平清盛が亡くなってから2年。安徳天皇の外戚である平氏は、なお朝廷の中枢にあった。
その平氏を京都から退かせることになる木曾義仲は、わずか2か月前まで北陸を転戦していた。
5月11日の倶利伽羅峠の戦いで平氏軍を破り、続く加賀国篠原でも追撃を続けた義仲は、越前から近江へ進む。
平氏が長く拠点としてきた京都へ、義仲の軍勢が迫っていた。
倶利伽羅・篠原から近江へ
寿永2年5月11日、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍は木曾義仲に敗れた。
加賀国篠原でも義仲軍の追撃を受け、北陸へ進んだ平氏軍は京都へ退いていく。
『玉葉』6月5日条には、北陸へ向かった平氏軍を「四万騎」とする情報が記されている。
その半数以上が死傷し、残った者も甲冑や弓矢を捨てて逃げたという。
義仲は加賀から越前へ進み、6月上旬には越前国府へ入った。
7月8日、北陸道から近江へ進出する。
京都へ迫っていたのは義仲だけではなかった。
源行家も大和方面から北上していた。
7月22日の『玉葉』には、多田行綱が平氏に背き、摂津・河内で行動しているという情報も記されている。
行綱は河尻の船を押さえたとも伝えられた。
北陸から義仲、大和方面から行家、摂津・河内では多田行綱が動く。
7月下旬、京都をめぐる軍事情勢は大きく動いていた。
比叡山をめぐる平氏と義仲
京都の北東には比叡山延暦寺がある。
『平家物語』では、7月5日、平氏が延暦寺へ願文を送り、協力を求めたと描かれている。
義仲側も山門へ働きかけた。
7月10日、義仲は以仁王の令旨を奉じて挙兵した経緯を訴え、平氏への協力を思いとどまるよう求める書状を送ったと伝えられる。
7月22日になると、『吉記』には義仲方が東坂本や東塔惣持院方面へ進出したという情報が記される。
比叡山の東麓まで義仲方の軍勢が迫っていた。
7月24日、後白河法皇が義仲へ使者を送る
寿永2年7月24日。
後白河法皇も動いた。
九条兼実の『玉葉』によれば、法皇は近江に推問使を送り、さらに院庁下文を木曾義仲に与えて和解を図った。
北陸から京都へ迫る義仲と、後白河法皇との間で接触が進んだ。
その夜から翌25日未明にかけて、法皇は京都を脱出する。
向かった先は比叡山だった。
後白河法皇、比叡山へ
『愚管抄』は、後白河法皇が比叡山東塔の円融房へ入ったことを伝えている。
7月25日早朝。
京都にいた九条兼実のもとにも、法皇が姿を消したという知らせが届いた。
『玉葉』7月25日条には、寅刻に「法皇御逐電」との知らせを受けたことが記されている。
後白河法皇は比叡山へ移った。
京都では、平氏一門も都を離れる準備を進めていた。
数え6歳の安徳天皇
平氏が奉じた安徳天皇は、治承2年(1178年)11月12日に生まれた。
父は高倉天皇。
母は平清盛の娘・徳子である。
治承4年(1180年)2月、数え3歳で即位した。
寿永2年7月の時点では数え6歳だった。
母の建礼門院徳子も、安徳天皇とともに京都を離れる。
さらに平氏は、内侍所・宝剣・神璽を伴った。
三種の神器も京都を離れる
内侍所(神鏡)・宝剣・神璽は、皇位継承にかかわる三種の神器である。
寿永2年7月25日。
平氏は安徳天皇を奉じ、三種の神器を伴って京都を離れた。
後白河法皇は比叡山にいる。
安徳天皇と神器は平氏一門とともに西へ向かう。
天皇と三種の神器が、そろって京都から姿を消した。
この状態は、翌8月に新たな天皇を立てる際にも大きな問題となっていく。
7月25日、平氏一門が京都を去る
『玉葉』7月25日条には、その日の京都で次々と入ってきた情報が記録されている。
早朝には後白河法皇逐電の知らせが届いた。
その後、安徳天皇を奉じた平氏が淀方面へ向かったという情報が入る。
前内大臣・平宗盛以下、平氏一門も京都を離れた。
一門は西国へ向かう。
そして京都では、平氏の邸宅から火の手が上がった。
六波羅・西八条が焼ける
六波羅は鴨川東岸にあり、平忠盛・清盛以来、平氏一門の邸宅が集まっていた。
西八条にも清盛ゆかりの大規模な邸宅があった。
7月25日。
『玉葉』には、六波羅・西八条などが焼け、灰燼に帰したことが記されている。
平氏が京都で築いてきた拠点が炎に包まれるなか、安徳天皇を奉じた一門は淀方面から西へ進んだ。
『平家物語』は、この日の都落ちを、一門それぞれの別れとともに描いている。
平忠度、都へ引き返す
『平家物語』巻七「忠度都落」に、平忠度の逸話がある。
忠度は平清盛の異母弟で、武将であるとともに歌人としても知られていた。
一門とともに京都を離れた忠度は、途中から馬を返した。
向かった先は、和歌の師である藤原俊成の邸宅だった。
俊成は後白河法皇から勅撰和歌集の編纂を命じられていた。
『平家物語』では、忠度は自ら詠んだ歌のうち百余首を書き集めた巻物を俊成に託し、その中から一首でも勅撰集に入れてほしいと願ったという。
巻物を渡した忠度は再び馬に乗り、西へ向かった。
のちに成立した『千載和歌集』には、
「さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな」
という一首が「よみ人しらず」として収められた。
『平家物語』では、俊成が忠度の歌を採りながら、忠度が勅勘の身であったため、その名を記さなかったと語られている。
忠度は翌寿永3年(1184年)2月、一ノ谷の戦いで討死する。
平経正が仁和寺へ返した琵琶「青山」
同じ『平家物語』巻七には、平経正の都落ちも描かれている。
経正は平経盛の長男で、琵琶の名手として知られた。
幼少期から仁和寺の守覚法親王のもとに仕えた人物でもある。
平氏一門が都を離れるなか、経正は仁和寺を訪れた。
そこで、かつて守覚法親王から預かった琵琶の名器「青山」を返したと『平家物語』は伝える。
長い西国への旅に持ち出し、名器を失うことを憚ったためだった。
忠度は和歌を俊成に託し、経正は琵琶を仁和寺へ返した。
『平家物語』巻七は、平氏一門の都落ちを、こうした人々の別れとともに描いている。
経正も翌1184年2月、一ノ谷の戦いで討死した。
平氏は福原へ
京都を離れた平氏は、淀方面から西へ向かった。
『平家物語』では、一門が福原へ入った様子が描かれている。
福原は現在の神戸市兵庫区周辺。
治承4年(1180年)、平清盛が一時都を移した場所である。
一門は清盛ゆかりの福原に入り、一夜を過ごした。
翌朝、再び西へ向かう。
『平家物語』では福原の邸宅にも火を放ち、船に乗って海上へ出たと語られている。
京都を離れた平氏は、瀬戸内海から西国へ進み、そこで再び軍勢を整えていくことになる。
一方、平氏が去った直後の京都では混乱が続いていた。
7月26日、『吉記』が記した京都
平氏都落ちの翌日、7月26日。
京都にいた吉田経房は『吉記』に、都の様子を書き残した。
山僧らが京都へ下り、路上で狼藉が続いた。
平氏に関係する者の縁者だと称して放火する者、物を奪うために追捕と称して家々へ押し入る者もいたという。
経房は、その光景を、
「眼前に天下の滅亡を見る」と記した。
義仲と行家が正式に入京するのは、まだ2日後のことである。
7月27日、後白河法皇が京都へ戻る
7月27日。
比叡山では、後白河法皇のもとで公卿らによる協議が行われた。
『玉葉』には、義仲・行家らに兵士の狼藉を停止させたうえで入京させることなどが話し合われた様子が記されている。
同日、後白河法皇は比叡山を下り、京都へ戻った。
御所となったのは蓮華王院だった。
平氏一門はすでに西へ向かっている。
安徳天皇と三種の神器も京都にはなかった。
翌28日、北陸道を進んできた木曾義仲が都へ入る。
7月28日、木曾義仲・源行家入京
寿永2年7月28日。
木曾義仲と源行家が京都へ入った。
『玉葉』は、義仲が北から、行家が南から入京したと記している。
その日の夕方、二人は蓮華王院の後白河法皇のもとへ参上した。
平氏追討を命じられ、さらに京都での兵士の狼藉を停止するよう求められる。
『吉記』には、この日初めて義仲を目にした吉田経房の記録も残っている。
義仲は「年三十余」。
錦の直垂を着て、黒革威の甲を身につけ、矢を負っていたという。
倶利伽羅峠の戦いから約2か月半。
義仲は信濃から北陸へ進み、加賀、越前、近江を経て京都に到達した。
その3日前に、安徳天皇と三種の神器を奉じた平氏一門は、京都を去っていた。
平氏の都落ち、その後の戦いまで詳しく知りたい方へ
元木泰雄『治承・寿永の内乱と平氏』
倶利伽羅峠・篠原での敗北から、安徳天皇と三種の神器を伴った都落ち、そして一ノ谷・屋島・壇ノ浦へ。
平氏が京都を離れるまでの流れと、西国へ落ちた一門が再び戦いに挑んでいく過程を詳しく知りたい方におすすめの一冊です。


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