第147回
第147回
元暦2年(1185年)3月24日、長門国壇ノ浦。
関門海峡に集まった源平両軍の船から、激しく矢が放たれていた。
平家の船には赤旗がひるがえり、源氏の船には白旗が並ぶ。
『吾妻鏡』によれば、源氏方は840余艘、平家方は500余艘の兵船を集めていた。
船同士が近づくと、武士たちは太刀や長刀を抜き、敵船へ乗り移って戦った。
やがて平家方の船は次々に源氏の武士に奪われ、船を動かす水主や舵取りも倒れていく。
その戦場に、安徳天皇を乗せた御座船があった。
天皇は数え八歳。
平清盛の孫として生まれ、わずか三歳で皇位に就いた子どもだった。
京都を離れてから一年八か月余り。平家は安徳天皇と三種の神器を奉じ、九州や瀬戸内海を移動しながら源氏と戦い続けてきた。
しかし、壇ノ浦では源氏方の船が御座船に迫っていた。
『平家物語』巻第十一「先帝身投」によれば、敗北を悟った平知盛は小舟で御座船へ向かった。
船上には安徳天皇の母・建礼門院徳子、祖母の二位尼時子らがいた。
知盛は敗戦を告げると、船首から船尾まで走り回り、自ら掃除を始めたという。
これから源氏の武士たちが乗り込んでくる。
女房たちが戦況を尋ねると、知盛は、珍しい東国の男たちを見ることになるだろうと答えて笑ったと伝わる。
その言葉を聞いた女房たちは、声を上げて泣き始めた。
やがて二位尼が安徳天皇を抱き上げ、船端へ進んだという。
幼い天皇は、祖母に尋ねた。
「尼ぜ、われをばいづちへ具して行かんとするぞ」
自分をどこへ連れていくのか。
二位尼は涙を抑え、伊勢大神宮へ別れを告げ、西方浄土を願って念仏を唱えるよう勧めたと伝わっている。
そして、天皇を抱き寄せた。
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
海の下にも都がある。
『平家物語』は、二位尼がそう言い聞かせ、安徳天皇とともに海へ沈んだと描いている。
『吾妻鏡』には別の記録がある。
安徳天皇を抱いて入水したのは按察局という女房で、二位尼は宝剣を持って海へ入ったという。
どちらの記録でも、安徳天皇は戻らなかった。
海に沈んだのは数え八歳の天皇だけではない。
平清盛の弟たち、孫たち、平家の軍勢を支えてきた武将たちも、次々に命を落とした。
平家の棟梁である宗盛は息子の清宗とともに生け捕られ、三種の神器の一つである宝剣も失われた。
治承4年(1180年)から続いた源平の戦いは、この壇ノ浦で決着する。
屋島を失った平家、最後の拠点は彦島
壇ノ浦の決戦から約1か月前。
平家は讃岐国屋島の拠点を失っていた。
元暦2年2月19日、源義経が阿波国から山道を越え、屋島を急襲した。
義経軍は牟礼と高松の民家に火を放ち、平家が安徳天皇のために設けた内裏を焼き払った。
宗盛らは安徳天皇を船へ移し、海上へ退いた。
平家方はその後も反撃し、佐藤継信を討ち取るなど抵抗したが、屋島を取り戻すことはできなかった。
義経はさらに志度方面へ追撃した。
その間、伊予国の河野通信が30艘の兵船を率いて源氏方に加わり、平家方の田内左衛門尉も降伏している。
四国の拠点を失った平家は、安徳天皇を奉じて西へ退いた。
最後に軍勢を集めたのが、長門国の彦島だった。
現在の山口県下関市にある島で、関門海峡の西側に位置する。
彦島では平知盛が軍事面の中心となっていた。
知盛は平清盛の四男で、宗盛の弟にあたる。
前年の一ノ谷では生田の森方面を守り、敗戦後も西国で軍勢を率いてきた。
一ノ谷では息子の知章が父を逃がすために戦い、討死している。
知盛はその後も平家の軍勢を支え、最後の決戦に備えていた。
彦島には一門の生き残った武将たちが集まっていた。
宗盛や知盛のほか、清盛の弟である教盛と経盛、平重盛の子である資盛や有盛らもいた。
一方、筑前国の山鹿氏や肥前国の松浦党など、九州の海上勢力も平家方に従っていた。
屋島を追われた後も、平家にはなお船を動員する力が残っていたのである。
九州から迫る範頼、本州側を進む義経
平家を追い詰めていたのは、義経の軍勢だけではなかった。
兄の源範頼も、西国で軍勢を率いて活動していた。
元暦元年(1184年)9月、範頼は頼朝の命を受けて西国へ向かった。
山陽道を進み、備前国藤戸で平家方を破ったものの、長門国へ近づくころには兵糧と船の不足に苦しんでいた。
九州へ渡る船が集まらず、遠征の長期化によって東国への帰還を望む武士まで現れていた。
そこで豊後国の臼杵惟隆や緒方惟栄らが兵船を提供した。
『吾妻鏡』によれば、その数は82艘。
範頼軍は九州への渡海を果たし、元暦2年2月1日には葦屋浦で平家方の原田種直らと戦った。
葦屋浦は現在の福岡県遠賀郡芦屋町付近にあたる。
範頼軍は北部九州で平家方の武士たちを攻撃し、九州からの援軍や退路に圧力をかけていた。
そのころ義経は、屋島を攻め落とした後、さらに長門国へ向かっていた。
『平家物語』には、義経が周防国へ渡り、範頼の軍勢と合流したと記されている。
合流の詳しい経過には不明な点があるが、源氏方は本州側と九州側の双方から平家の軍勢へ迫っていた。
彦島を拠点とする平家は、九州へ退くにも源氏方の軍勢を警戒しなければならなくなった。
熊野別当湛増、源氏方へ
義経のもとには、紀伊国の熊野勢も加わった。
『平家物語』では、熊野別当湛増が源氏と平家のどちらに味方するかを決める逸話が描かれている。
湛増は平家から長く恩を受けていた。
そのため、容易には源氏方へ加われなかったという。
湛増は田辺の新熊野で神楽を奏し、熊野権現へ祈願した。
すると、白旗に従うよう神託があったと伝わる。
それでも迷った湛増は、白い鶏七羽と赤い鶏七羽を用意し、神前で戦わせた。
白は源氏。
赤は平家。
『平家物語』によれば、赤い鶏は一羽も勝てず、すべて白い鶏に敗れたという。
湛増はその結果を見て、源氏方へ加わることを決めたとされる。
そして一族を集め、200余艘の船に2000余人を乗せて壇ノ浦へ向かったという。
もっとも、熊野勢には頼朝挙兵のころから反平家的な動きがあり、帰属の事情を闘鶏だけで説明することは難しい。
『平家物語』には、湛増が源氏方へ加わった経緯が熊野権現の神意と結びつけて語られている。
伊予国の河野通信についても、『平家物語』は150艘の船を率いて源氏方へ加わったと記している。
屋島の段階で『吾妻鏡』が記す河野通信の兵船は30艘であり、数字には違いがある。
それでも義経が熊野や伊予の海上勢力を味方に得たことは、壇ノ浦へ向かううえで大きな助けとなった。
平家の先陣を担った山鹿秀遠と松浦党
平家方の船団を支えていたのが、山鹿秀遠と松浦党だった。
山鹿秀遠は筑前国遠賀郡の山鹿を本拠とする武士である。
現在の福岡県遠賀郡芦屋町周辺にあたる。
山鹿氏は遠賀川河口から響灘にかけて活動し、北部九州の海上交通に関わってきた有力な武士団だった。
『吾妻鏡』には、秀遠が平家方の船団を指揮したことが記されている。
肥前国の松浦党も平家方に従っていた。
松浦党は現在の佐賀県北部から長崎県北部にかけて勢力を持った武士たちの集団で、海運や沿岸地域の支配に関わっていた。
平家が長門国まで退いても、こうした九州の海上勢力は戦いに参加していた。
『平家物語』では、山鹿秀遠が500余艘、松浦党が300余艘、さらに平家一門が200余艘を率いたと描かれている。
合計で1000余艘となる。
一方、『吾妻鏡』に記された平家方の船数は500余艘である。
実際にどれほどの船が集まっていたのか、正確な数はわからない。
ただ、山鹿氏や松浦党が平家の海上戦力を担っていたことは、複数の記録に伝わっている。
三月二十二日、義経の船団が動く
元暦2年3月22日。
『吾妻鏡』には、義経が数十艘の兵船を整え、壇ノ浦へ向けて出航したことが記されている。
このとき三浦介義澄が義経のもとへ参上した。
義澄は相模国三浦氏の当主で、頼朝に従う有力武士だった。
義経は義澄に、門司関の地形を知っているのであれば案内役として先に進むよう命じたという。
義澄は命を受け、平家の陣から三十余町ほど離れたところまで進んだ。
その動きを知った平家方も、彦島から船を出した。
赤間関を過ぎ、田之浦方面へ進んだと記されている。
三十町は約3.3キロメートルにあたる。
源平両軍はこの段階ですでに接近していた。
二日後の3月24日、長門国赤間関の壇ノ浦海上で、両軍は船を向かい合わせることになる。
源氏八百四十余艘、平家五百余艘
『吾妻鏡』元暦2年3月24日条によれば、源氏方の兵船は840余艘。
対する平家方は500余艘だった。
平家は船団を三手に分け、山鹿秀遠や松浦党らを先陣に立てた。
一方、『平家物語』覚一本では、源氏方3000余艘、平家方1000余艘とされている。
ほかの軍記にも異なる船数が伝わり、実際の規模を一つに定めることは難しい。
当時の軍船には、輸送に用いられていた船へ盾などを備え、武士を乗せたものもあった。
大きさも一定ではなく、乗船人数にも違いがあったと考えられる。
船には武士のほか、櫓を漕ぐ水主や舵取りが必要だった。
数百艘もの船団を動かすには、海上交通に関わる人々の協力が欠かせなかった。
『吾妻鏡』は、決戦当日、両軍が三町ほど隔てて船を向かい合わせたと記している。
三町は約330メートル。
一方、『平家物語』では両陣の間を三十余町と描いている。
開戦前に船団が展開した位置なのか、戦闘が始まったときの距離なのか。
記録の違いを含め、正確な配置は明らかでない。
関門海峡に集まった船団は、いよいよ決戦を迎えた。
関門海峡の潮
壇ノ浦は現在の山口県下関市東部にあたる。
対岸は豊前国の門司。
現在の福岡県北九州市門司区である。
本州と九州の間にある関門海峡は、瀬戸内海と響灘を結んでいる。
とりわけ早鞆瀬戸と呼ばれる狭い海域では、潮の流れが速くなる。
潮は満ち引きによって東西へ流れ、船を操る者にとって、その向きと速さが重要だった。
ただし、海峡全体が同じ速さで流れるわけではない。
狭い早鞆瀬戸と、その東西に広がる海域とでは潮の状態が異なる。
『平家物語』は、平家方の船が潮に乗って進み、源氏方の船は潮に逆らって押し戻されたと描いている。
この記述から、後世には潮流の逆転が勝敗を決めたという説が広まった。
しかし、壇ノ浦で実際にどのような潮が流れ、戦闘にどれほど影響したのかについては、現在も研究が続いている。
先陣をめぐる義経と梶原景時の対立
『平家物語』には、開戦前、義経と梶原景時が激しく争ったという話が残されている。
景時は頼朝に仕える有力武士だった。
この日、景時は源氏方の先陣を務めたいと申し出た。
ところが義経は、自分が先陣に立つと答えたという。
景時は、大将が自ら先陣へ進むべきではないと諫めた。
それに対し義経は、源氏の大将は兄の頼朝であり、自分もその命を受けて戦う武士の一人だと答えたと伝わる。
景時は義経に、人の上に立つ器量がないと非難した。
義経も激しく言い返し、ついには互いに太刀の柄へ手をかけたという。
景時の息子たちは父のもとへ集まり、義経の家人たちも景時を囲んだ。
そこで三浦義澄や土肥実平らが割って入り、二人を制止したと『平家物語』は描いている。
敵を目の前にして味方同士が斬り合えば、平家方を喜ばせるばかりだった。
この口論の詳しい経過は軍記物語によるものだが、壇ノ浦の勝利後、景時は義経の行動を頼朝へ批判的に報告している。
二人の不和は、戦後の義経をめぐる動きにも関わっていく。
平知盛が最後に告げた言葉
平家方でも、武士たちが戦闘に備えていた。
『平家物語』によれば、知盛は船の屋形に立ち、大きな声で兵たちを励ました。
「軍は今日ぞ限る」
この戦いが最後になる。
知盛はそう告げたという。
どれほど名高い武将でも、運命が尽きれば勝つことはできない。
それでも武士の名を惜しみ、東国の者たちに弱い姿を見せるなと呼びかけた。
その言葉を聞いた平家方の武士たちは、いよいよ戦う覚悟を決めたと伝わる。
中には、東国の武士は馬上の戦いには強くても、船の戦いには慣れていないと語る者もいた。
陸の武士が海へ来れば、魚が木へ登ったようなものだ。
『平家物語』では、平家方の武士が源氏をそのようにあざけったという。
平家には、山鹿氏や松浦党など海上活動に慣れた武士たちが従っていた。
しかし、源氏方にも熊野勢や河野氏が加わっている。
双方の船団が近づき、鬨の声が関門海峡に響いた。
山鹿秀遠の五百本の矢
『平家物語』では、戦いの初めに山鹿秀遠が激しく攻撃したと描かれている。
秀遠は九州屈指の弓の名手だったという。
自分ほどではないものの、腕の立つ弓兵500人を選び、船首や船尾へ並べた。
そして一斉に矢を放たせたと伝わる。
五百本の矢が源氏方の船へ向かった。
源氏の武士たちは盾や鎧で防いだが、平家の射撃は激しかったという。
義経も先頭に立って戦ったと描かれている。
源氏方の船数は多かったものの、まとまって矢を放つ平家方に苦しめられた。
『平家物語』では、この段階で平家方が優勢となり、船上から勝利を喜ぶ鬨の声が上がったと伝えている。
しかし、源氏方も攻撃を続けた。
梶原景時は海岸近くで敵船へ熊手をかけ、息子や郎党たちとともに乗り移ったという。
船の上では太刀や長刀が使われ、敵味方が入り乱れて戦った。
弓による射撃から接近戦へ。
両軍の武士たちは、互いの船を奪い合うようになっていく。
和田義盛と仁井紀四郎親清
『平家物語』巻第十一「遠矢」には、両軍の武士たちが弓の腕前を競った場面がある。
源氏方の和田小太郎義盛は、海岸で馬に乗り、沖の平家方へ矢を放った。
和田義盛は相模国三浦氏の一族で、頼朝の挙兵以来、源氏方として戦ってきた武将だった。
『平家物語』では、義盛の矢は三町ほど先まで届いたという。
矢には自分の名前が記されていた。
平家方ではその矢を拾い、射返せる者を探した。
そこで呼ばれたのが、伊予国の仁井紀四郎親清だった。
親清は義盛の矢を受け取ると、源氏方へ射返した。
その矢は海岸まで届き、義盛の後ろにいた三浦氏の武士に命中したと伝わる。
これを見た源氏の武士たちは義盛をからかい、義盛は怒って小舟に乗り、平家方へ攻め寄せたという。
さらに平家方から義経の船へ大きな矢が射込まれた。
矢には仁井紀四郎親清の名が記されていた。
義経はその矢を射返せる者を探させた。
推薦されたのは甲斐源氏の浅利与一だった。
屋島で扇を射落とした那須与一とは別の武士である。
浅利与一は弓を取り、平家方へ向かって矢を放ったと伝わる。
こうした遠矢の競い合いは『平家物語』に残された逸話であり、射程や個々の戦果を正確に確かめることは難しい。
ただ、海上の戦いでは船同士が接近するまで、弓による攻撃が続けられていた。
潮の逆転で平家は敗れたのか
壇ノ浦の戦いでは、潮の流れが途中で逆転し、源氏方が勝利したという説明が広く知られている。
初めは西から東へ流れる潮に乗って平家方が優勢となり、源氏方の船は押し戻された。
ところが午後になると潮が逆転し、源氏方が一気に反撃したという。
この説を広めたのは、歴史学者の黒板勝美だった。
黒板は当時の潮流を推定し、午前には平家方が潮に乗って有利に戦い、午後に流れが変わると源氏方が優勢になったと考えた。
しかし、その後の研究では異なる見解が示されている。
歴史学者の菱沼一憲は、中本静暁による潮流の推定を踏まえ、戦いが本格化したころの潮流は一ノットほどの緩やかな東流だった可能性を指摘している。
午後4時ごろには一ノットほどの西流になっていたという。
一ノットは時速約1.85キロメートルである。
黒板の説で想定されたような激しい潮流の逆転とは、様子が異なる。
海洋史や船舶史の研究でも、潮流の変化だけで勝敗を説明することには疑問が示されている。
『平家物語』には平家の船が潮に乗り、源氏の船が潮に押し戻されたという描写がある。
しかし、潮の向きが変わった瞬間に源氏が勝利したという経過まで、詳しく記されているわけではない。
また、両軍が実際に戦った場所も、正確にはわかっていない。
潮流は船の動きに影響しただろう。
それでも、壇ノ浦の勝敗を考えるには、船数や海上戦力の差、平家方の武士たちの離反、戦闘中の船団の動きも見なければならない。
『玉葉』が伝える戦闘時間
合戦の時刻についても、史料の記述は一致していない。
『吾妻鏡』元暦2年3月24日条には、午の刻に至って平家が敗れたと記されている。
午の刻は現在のおおむね午前11時から午後1時ごろにあたる。
一方、九条兼実の日記『玉葉』には、戦闘が正午ごろから午後4時ごろまで続いたという情報が記されている。
この記述は、義経から後白河法皇へ伝えられた戦勝報告に基づくと考えられている。
菱沼一憲は、合戦の時刻を考えるうえで『玉葉』の記録を重視している。
その場合、戦闘はおよそ四時間続いたことになる。
しかし、『吾妻鏡』が記す平家敗北の時刻とは一致しない。
『平家物語』には卯の刻の矢合わせを記す箇所もあり、さらに早い時間帯からの戦闘を想定した描写となっている。
どの時間帯に、関門海峡のどの海域で両軍が戦ったのか。
そこが明らかにならなければ、潮流の影響も正確には求められない。
阿波民部重能の寝返り
『平家物語』では、平家方の敗北に関わった人物として阿波民部重能が登場する。
田口成良とも呼ばれる、阿波国の有力武士だった。
重能は長く平家に仕え、四国の武士たちを率いていた。
しかし壇ノ浦の開戦前、平知盛は重能の様子を疑ったという。
知盛は宗盛のもとへ行き、重能を斬るべきだと進言した。
宗盛は、それまで忠節を尽くしてきた者を、確かな証拠もなく斬ることはできないと答えたと伝わる。
重能は呼び出され、四国の武士たちへよく戦うよう命じることを求められた。
重能は従うと答えて退いた。
その姿を見送った知盛は、なお疑いを解かなかったという。
そして戦いが始まると、重能は源氏方へ寝返ったと『平家物語』は描いている。
『吾妻鏡』4月11日条の戦勝報告には、民部大夫成良が捕虜の一人として記されている。
重能が実際にどの段階で平家から離れたのか、詳しい事情は明らかでない。
しかし、屋島の敗北後には四国の武士たちの中から源氏方へ降伏する者が現れていた。
平家が最後まで従わせることのできた勢力は、次第に少なくなっていた。
唐船を使った平家の計略
『平家物語』では、重能の裏切りによって平家方の作戦が源氏へ知られたと伝えている。
平家は目立つ唐船に雑兵を乗せ、重要な人物を別の船へ移していたという。
唐船は、中国との交易などに使われた大型の船を指す。
平家は清盛の時代から日宋貿易に深く関わり、海上交通に力を入れてきた。
壇ノ浦でも、そのような船が軍船に含まれていたと『平家物語』は記している。
平家方の計画では、源氏が唐船を重要人物の乗る船だと考えて攻め寄せたところを、周囲から包囲するはずだった。
しかし、重能がその作戦を知らせたため、源氏方は唐船を避け、平家一門の乗る船へ攻め込んだという。
この策略の詳しい経過は、軍記物語の記述に頼るところが大きい。
ただ、安徳天皇と三種の神器を奉じる平家にとって、御座船を守ることは最も重要な役目の一つだった。
戦いが進むにつれ、源氏方の船は平家の船団へ深く入り込んでいった。
そして、一門の武士たちが乗る船にも敵が迫った。
水主と舵取りが倒れる
『平家物語』巻第十一「先帝身投」には、平家方の船が次々に動けなくなる様子が描かれている。
源氏の武士たちが平家の船へ乗り移った。
船では水主や舵取りが射られ、あるいは斬り倒されたという。
船を操る者を失い、方向を変えることもできなくなった。
船底には負傷者や死者が倒れていたと伝わる。
この場面から、義経が水主や舵取りを狙うよう命じたことが勝因になったという話が広まった。
船を動かす者が倒れれば、武士が残っていても自由に進めなくなる。
しかし、義経が開戦前から水主を集中的に攻撃する作戦を立てていたとする確かな記録はない。
海事史家の金指正三は、敵船の水主を攻撃することが当時の海戦で特別な禁じ手だったという説明に疑問を示している。
歴史学者の元木泰雄も、敵船へ乗り移った武士たちが接近戦の中で水主や舵取りを殺傷した可能性を指摘している。
『平家物語』が描くのは、源氏方の武士たちが敵船へ乗り込み、操船に携わる人々まで倒していく場面である。
平家方は動かせる船を失い、逃げ道も狭められていった。
源氏の武士たちは、安徳天皇の御座船にも迫っていた。
御座船へ向かった平知盛
敗北を悟った平知盛は、小舟で安徳天皇の御座船へ向かった。
『平家物語』によれば、船に乗り込んだ知盛は女房たちへ告げた。
「世の中は今はかうと見えて候」
もはや、これまでだという言葉だった。
さらに、見苦しい物は海へ捨てるよう促した。
そして知盛自身が、船首から船尾まで走り回って掃除を始めたという。
女房たちは戦いの様子を尋ねた。
知盛は、これから珍しい東国の男たちを見ることになるだろうと答え、声を上げて笑ったと伝わる。
女房たちはその言葉を聞き、泣き叫んだ。
知盛は平家の軍勢を率いてきた武将だった。
一ノ谷では息子の知章を失い、屋島でも義経の攻撃を受けて内裏を失った。
その知盛が、御座船で敗北を告げた。
安徳天皇の母・徳子と祖母・時子は、船上にいた。
数え八歳の安徳天皇
安徳天皇は、治承2年(1178年)に生まれた。
父は高倉天皇。
母は平清盛の娘・徳子である。
治承4年(1180年)、高倉天皇が譲位すると、言仁親王が即位した。
数え三歳だった。
その後、平家に対抗する戦いが各地で起こり、翌年には祖父の清盛も亡くなった。
寿永2年(1183年)、木曾義仲の軍勢が京都へ迫ると、平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を離れた。
同年8月、京都では後鳥羽天皇が即位している。
安徳天皇を奉じる平家と、後白河法皇・後鳥羽天皇を中心とする京都の朝廷が並び立つことになった。
平家は九州や瀬戸内海を移動しながら、安徳天皇を守り続けた。
屋島には内裏を設けたが、義経の急襲によって焼かれ、再び船上の生活へ戻っていた。
その安徳天皇が、壇ノ浦では逃げ場を失った。
二位尼、安徳天皇を抱く
『平家物語』は、二位尼が安徳天皇を抱き上げる場面を詳しく描いている。
二位尼は平時子。
清盛の妻で、徳子の母、安徳天皇の祖母だった。
時子は鈍色の衣を頭からかぶり、神璽を脇に挟み、宝剣を腰に差したという。
そして安徳天皇を抱き上げた。
「尼ぜ、われをばいづちへ具して行かんとするぞ」
天皇はそう尋ねたと伝わる。
時子は涙を抑え、まず東へ向かって伊勢大神宮へ別れを告げ、その後、西方浄土を願って念仏を唱えるよう勧めた。
安徳天皇は小さな手を合わせ、東を拝んだ。
続いて西へ向かい、念仏を唱えたという。
時子はその姿を抱き寄せた。
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
そして、海へ入ったと『平家物語』は伝えている。
『平家物語』に描かれた安徳天皇の最期は、平家滅亡を象徴する場面として後世に広く知られるようになった。
しかし、当時の出来事を伝える『吾妻鏡』には異なる記述が残されている。
安徳天皇を抱いていた按察局
『吾妻鏡』元暦2年3月24日条では、二位尼が宝剣を持って海へ入り、安徳天皇を抱いて入水したのは按察局だったと記されている。
按察局は安徳天皇に仕えていた女房である。
同書によれば、按察局は海から救い上げられ、生き残った。
しかし、安徳天皇は戻らなかった。
この記録は4月11日条にも現れる。
義経から頼朝へ送られた戦勝報告には、按察局について、安徳天皇を抱いて入水したものの生存したと記されている。
二位尼は入水した人々の中に挙げられていた。
一方、『平家物語』では二位尼が天皇を抱いたまま海へ沈んだと描かれている。
慈円の『愚管抄』にも、二位尼が天皇を抱いて入水したという趣旨の記述がある。
安徳天皇の最期については、早くから異なる情報が伝わっていた。
実際に誰が天皇を抱いて海へ入ったのかは、史料の間で一致しない。
ただ、数え八歳の天皇が壇ノ浦で命を落としたことは、いずれの記録にも残されている。
海に沈んだ宝剣
安徳天皇の入水とともに、三種の神器の一つである宝剣も失われた。
三種の神器は、鏡・剣・璽と呼ばれる。
皇位継承に深く関わる宝物で、平家は寿永2年の都落ちに際し、安徳天皇とともに西国へ運んでいた。
壇ノ浦では、二位尼が宝剣を持って海へ入ったと『吾妻鏡』に記されている。
一方、鏡と神璽は源氏方によって確保された。
『吾妻鏡』には、源氏の武士たちが御座船へ乗り込み、内侍所を納めた櫃を開けようとしたとき、突然目がくらんだという話が残されている。
その場にいた平時忠が武士たちを制止したという。
時忠は清盛の妻・時子の弟で、安徳天皇の外戚にあたる人物だった。
平家に従って西国へ下り、壇ノ浦では捕虜となっている。
内侍所の櫃をめぐる逸話には、神器に対する当時の人々の畏れが描かれている。
戦いが終わった後も宝剣は見つからず、義経は捜索を続けることになった。
海へ身を投げた建礼門院徳子
安徳天皇の母・建礼門院徳子も、壇ノ浦で海へ身を投げた。
徳子は清盛と時子の娘として生まれ、高倉天皇の中宮となった女性だった。
安徳天皇を産み、平家が都を離れた後も息子とともに西国を移動してきた。
その安徳天皇が海へ沈んだ。
『平家物語』によれば、徳子は焼石と硯を懐に入れ、自ら海へ飛び込んだという。
身体を重くし、深く沈むためだったと伝わる。
しかし、徳子は救い上げられた。
『吾妻鏡』には、渡辺党の源五馬允が熊手を使って徳子を引き上げたことが記されている。
徳子は生き残った。
母の時子と息子の安徳天皇は、同じ海で命を落としている。
平家の一門の武将たちも、次々に入水していた。
その中で徳子は捕虜となり、京都へ戻ることになる。
平教盛、経盛、資盛らの入水
安徳天皇の入水と前後して、平家一門の武将たちも次々に海へ身を投げた。
『吾妻鏡』4月11日条の戦勝報告には、教盛、知盛、経盛、資盛、有盛、行盛らの名が挙げられている。
経盛も清盛の弟で、一ノ谷で討死した平経正や平敦盛の父にあたる。
『吾妻鏡』によれば、経盛は一度陸へ上がって出家した後、再び海へ戻って入水したという。
一方、『平家物語』では、教盛と経盛が重い碇を身に着け、二人で海へ入ったと描かれている。
平重盛の子である資盛と有盛らも、手を取り合って海へ沈んだと伝わる。
資盛は一門の中でも高い官位を得ていた武将で、都落ち後も平家に従ってきた。
弟の有盛も最後まで一門と行動をともにしている。
一ノ谷では清盛の子や孫、弟たちの家から多くの戦死者が出た。
それでも残された人々は西国で戦い続けた。
その多くが、今度は壇ノ浦で命を落とした。
義経を追う平教経
『平家物語』では、敗北が決まった後も激しく戦い続けた武将として、能登守平教経が登場する。
教経は平清盛の弟・教盛の子だった。
屋島では佐藤継信を射た武将として描かれ、壇ノ浦でも強弓をもって源氏方を苦しめたという。
『平家物語』によれば、教経は矢を射尽くすと、太刀と長刀を手にして源氏方の船へ乗り移った。
そして源義経を探し始めた。
その姿を見た知盛は、これ以上敵兵を討っても仕方がないと告げ、義経を狙うよう促したという。
教経は義経を探して船から船へ移り、武具の立派な武士を見つけるたびに義経かと問いかけたと伝わる。
義経も教経の動きを警戒し、容易には近づかなかった。
しかし、ついに教経は義経の船へ乗り移ったという。
教経が飛びかかろうとすると、義経は長刀を脇に挟み、近くの味方の船へ飛び移った。
『平家物語』では、その距離を二丈ほどと記している。
約6メートルにあたる。
この場面は、後世に「義経の八艘飛び」として広く知られるようになった。
ただし、『平家物語』覚一本に描かれているのは、義経が別の船へ飛び移ったという場面である。
八艘の船を連続して飛び越えたという姿は、後世の伝承や芸能によって広まった。
能登守教経の最期
義経に逃れられた教経は、もはやこれまでだと考えたという。
『平家物語』では、教経が太刀と長刀を海へ投げ捨て、兜も脱いだと描いている。
鎧の草摺をかなぐり捨て、腕を広げて立った。
そして、源氏方の武士たちへ組みつくよう挑発したと伝わる。
そこへ安芸太郎実光と弟の次郎が進み出た。
教経は二人を両脇に抱え、そのまま海へ飛び込んだという。
その最期は、敵兵を道連れにした猛将の死として語り継がれてきた。
しかし、教経の生死については史料の間に違いがある。
『吾妻鏡』には、教経が前年の一ノ谷の戦いで討たれたとする記事がある。
一方、九条兼実の日記『玉葉』には、一ノ谷の後も教経が生存していたとの情報が伝えられている。
『醍醐寺雑事記』にも、教経が壇ノ浦で自害したという記録が残る。
教経が実際にどこで命を落としたのか、なお検討を要する。
義経を追い詰め、敵兵を抱えて海へ沈んだ場面は、『平家物語』が描いた教経の最期である。
「見るべきほどの事は見つ」
平知盛も最後の時を迎えた。
『平家物語』によれば、知盛は家人の伊賀平内左衛門家長を呼んだ。
家長は知盛の乳母子だった。
二人は、最期まで運命をともにする約束をしていたという。
知盛は、その約束を忘れていないかと尋ねた。
家長は忘れていないと答えたと伝わる。
知盛は言った。
「見るべきほどの事は見つ」
そして、自らも海へ入る覚悟を決めた。
家長は知盛に鎧を二領着せ、自分も二領の鎧を身に着けたという。
重い鎧を着け、海へ沈むためだった。
二人は手を取り合い、そのまま入水したと『平家物語』は描いている。
その姿を見た二十余人の武士たちも、後を追って海へ沈んだという。
知盛は清盛のもとで栄えた平家の時代を知り、都落ち後も軍勢を率いてきた武将だった。
一ノ谷では息子の知章を失い、屋島では源氏の急襲を受けた。
最後は壇ノ浦で一門の敗北を見届けた。
その知盛に、『平家物語』は「見るべきほどの事は見つ」という言葉を残させている。
後世、知盛は大きな碇を担いで海へ沈む姿でも描かれるようになった。
しかし、『平家物語』覚一本では、二領の鎧を着け、家長と手を取り合って入水したと記されている。
宗盛と清宗、生け捕りとなる
平家一門の棟梁・平宗盛は、壇ノ浦で生き残った。
宗盛は清盛の三男で、兄の重盛が亡くなった後、一門の中心となった人物だった。
清盛の死後は平家の政治的な指導者として活動し、安徳天皇を奉じて西国へ下っている。
しかし、壇ノ浦では源氏方の捕虜となった。
『平家物語』によれば、宗盛は海へ身を投げたものの、泳ぎが達者だったため沈まなかったという。
息子の清宗も父を追って海へ入った。
二人は互いに様子を見ながら泳いでいたが、やがて源氏方の伊勢三郎義盛らに引き上げられたと伝わる。
『吾妻鏡』にも、宗盛と清宗が伊勢三郎能盛によって生け捕りにされたと記されている。
細かな経過には違いがあるが、宗盛父子が捕虜となったことは確かである。
『平家物語』では、宗盛が捕らえられた後、乳母子の飛騨三郎左衛門景経が主君を救おうとして源氏方の船へ乗り込んだ。
景経は伊勢三郎義盛へ斬りかかったが、源氏方の武士たちに囲まれ、討死したという。
宗盛は捕らえられたまま、その様子を見ていたと伝わる。
安徳天皇を失い、多くの一門も海へ沈んだ。
その中で宗盛と清宗は生き残り、京都へ送られることになる。
源義経の戦勝報告
壇ノ浦の戦いが終わると、義経は捕虜を集め、失われた神器の捜索を進めた。
4月11日、戦勝報告が鎌倉へ届いた。
『吾妻鏡』によれば、頼朝はその日、南御堂の建築に関わる儀式に出席していた。
そこへ西国からの使者が到着した。
義経の報告書は、中原信泰が作成したと記されている。
報告には、源氏840余艘と平家500余艘が戦ったこと、安徳天皇が海へ沈んだこと、平家一門の多くが入水したことが書かれていた。
捕虜となった人々の名前も記されている。
宗盛、清宗、平時忠、民部大夫成良、源季貞、摂津盛澄らである。
また、建礼門院徳子や按察局などの女性たちも、生存者として報告されていた。
鏡と神璽は確保された。
しかし、宝剣は失われたままだった。
義経は、引き続き捜索すると報告している。
この報告を聞いた頼朝は、自ら書状を巻き直し、鶴岡八幡宮の方角へ向かって座ったという。
『吾妻鏡』は、頼朝が言葉を発することができなかったと記している。
その後、頼朝は使者を呼び、合戦の経過を詳しく尋ねた。
捕虜として都へ戻った平家一門
壇ノ浦で捕らえられた宗盛らは、源氏方に護送され、京都へ戻った。
寿永2年に平家が都を離れてから、一年八か月余りが過ぎていた。
かつて宗盛らは安徳天皇と三種の神器を奉じ、西国へ向かった。
その後、九州や瀬戸内海を転々とし、屋島を経て彦島へ退いている。
京都へ戻った宗盛は、今度は源氏方の捕虜だった。
『平家物語』には、宗盛や時忠らが都大路を通る様子が描かれている。
かつて平家の人々が高い官職を占め、朝廷で大きな権力を持っていたころから、まだわずかな年月しか過ぎていなかった。
しかし、平家の屋敷は失われ、多くの一門も帰らなかった。
宗盛はその後、息子の清宗とともに鎌倉へ送られた。
頼朝との対面を終えた父子は再び京都方面へ向かうことになったが、同年6月、近江国篠原で処刑された。
一ノ谷で生け捕りにされていた平重衡も、同じ年に処刑されている。
重衡は治承4年の南都焼き討ちで軍勢を率いた人物だった。
そのため、興福寺や東大寺など南都の寺院側から厳しい処分を求める声が上がっていた。
壇ノ浦で生き残った平家の武将たちにも、厳しい運命が待っていた。
三種の神器が残した問題
壇ノ浦で失われた宝剣は、その後も見つからなかった。
平家は寿永2年の都落ちに際し、安徳天皇とともに三種の神器を持ち去っていた。
一方、京都では後鳥羽天皇が即位している。
その即位は、三種の神器がそろわない状態で行われていた。
源氏方が壇ノ浦で勝利したことにより、鏡と神璽は京都へ戻ることになった。
しかし、宝剣だけは海中に失われたままだった。
そのため朝廷では、剣を欠いた状態で皇位継承に関わる儀式をどう行うかが問題となった。
『平家物語』巻第十一「剣」には、宝剣の喪失をめぐる朝廷の議論が伝えられている。
宝剣を取り戻すための捜索も行われたが、壇ノ浦で失われた剣は発見されなかった。
清盛の一門が都落ちの際に持ち出した神器のうち、一つは海の底に残された。
その問題は、平家滅亡後の朝廷へ引き継がれることになった。
壇ノ浦から始まった義経の苦難
平家を滅ぼした義経にも、戦後は新たな問題が待っていた。
兄の頼朝との関係が悪化していったのである。
『吾妻鏡』には、壇ノ浦の戦いの後、梶原景時が義経の行動について頼朝へ批判的な報告を送ったことが記されている。
景時は、義経が軍功を自分一人のものと考え、ほかの武士たちの意見を聞かないと訴えたという。
さらに義経が頼朝の許可なく朝廷から官職を受けた問題なども、両者の関係に影響していた。
義経は宗盛らを連れて鎌倉へ向かった。
しかし、鎌倉へ入ることを許されず、相模国腰越にとどめ置かれた。
義経が大江広元へ宛てたと伝わる書状は、「腰越状」として知られている。
その成立や伝来には議論があるものの、義経が頼朝の不興を買い、鎌倉への入府を許されなかったことは記録に残されている。
その後、義経は京都へ戻ったが、頼朝との対立はさらに深まっていった。
やがて義経は追討される立場となり、逃亡生活へ入っていく。
壇ノ浦で平家を滅ぼしてから、わずか数か月後のことだった。
大原へ入った建礼門院徳子
壇ノ浦で海から救い上げられた建礼門院徳子は、京都へ戻った後、出家した。
そして大原の寂光院へ入ることになる。
寂光院は現在の京都市左京区大原にある寺院である。
徳子はそこで安徳天皇と平家一門の菩提を弔いながら暮らした。
『平家物語』の灌頂巻には、後白河法皇が大原を訪れ、徳子と対面する「大原御幸」が描かれている。
徳子は、かつて宮中で過ごした日々から平家の没落、そして壇ノ浦までの出来事を語ったという。
その詳しい会話は軍記物語による描写である。
徳子は清盛の娘として生まれ、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだ。
都落ち後も一門に従い、最後は壇ノ浦で海へ身を投げた。
しかし徳子自身は救われ、京都へ戻った。
息子も母も、多くの一門の武将たちも帰らなかった。
徳子はその後、大原の山里で亡くなった人々の菩提を弔い続けた。
赤間神宮と安徳天皇陵
現在の山口県下関市阿弥陀寺町には、赤間神宮がある。
壇ノ浦で亡くなった安徳天皇を祭る神社である。
この場所には、かつて阿弥陀寺という寺院があった。
安徳天皇を弔う寺院として長く信仰を集め、明治時代の神仏分離を経て神社となった。
昭和15年(1940年)、赤間神宮へ改称されている。
神宮に隣接して、安徳天皇の陵とされる阿弥陀寺陵がある。
現在は宮内庁が陵墓として管理している。
また、赤間神宮の境内には、平家一門の墓と伝わる七盛塚も残されている。
平家の滅亡を伝える場所として知られ、後世には怪談「耳なし芳一」の舞台とも結びつけられた。
安徳天皇の遺体については、海から戻らなかったとする『吾妻鏡』の記述がある一方、後世には漁師の網で引き上げられたという伝承も残る。
現在の陵墓は、長い供養の歴史の中で守られてきた場所である。
赤間神宮から海峡沿いを東へ進むと、壇ノ浦古戦場を望むみもすそ川公園がある。
義経は船から船へ飛び移る姿。
知盛は大きな碇を担ぎ、海へ沈もうとする姿で表現されている。
いずれも『平家物語』や後世の伝承によって広く知られる場面である。
公園の前には関門海峡が広がり、対岸には北九州市門司区が見える。
現在は関門橋が両岸を結び、海峡には大型船が行き交っている。
元暦2年3月24日、この海域で源平両軍が最後の決戦を行った。
戦いの後、安徳天皇と平家一門の多くが海から戻ることはなかった。
赤間神宮では今も安徳天皇を祭り、毎年5月には壇ノ浦で亡くなった人々をしのぶ先帝祭が行われている。
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