【人物編Vol.18】藤原良房――臣下初の摂政、藤原北家の権力を築いた男

人物

第34回

――「藤原氏の時代」は、この男から始まった

平安時代の政治史を語るとき、藤原道長の名前はあまりにも有名だ。

しかし、道長が権力の頂点に立つ約150年前。

すでに一人の藤原氏が、後世の摂関政治につながる政治の形を作り始めていた。

その人物が、

藤原良房(ふじわらのよしふさ)である。

良房は延暦23年(804)に生まれ、貞観14年(872)に亡くなった。

生きた時代は、平安京が成立してまだ80年ほど。

桓武天皇が始めた律令国家の再編が進み、嵯峨天皇・仁明天皇・文徳天皇・清和天皇へと皇位が受け継がれていく時代だった。

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この時代の朝廷では、皇族だけでなく、藤原氏、大伴氏、紀氏、橘氏、源氏など、多くの有力者が政治の主導権を争っていた。

その中で良房は、天皇の外戚となり、太政大臣となり、そして臣下として初めて正式に摂政となった。

さらに重要なのは、良房が単独で巨大な権力を奪ったわけではないことだ。

父・藤原冬嗣が築いた基盤。

嵯峨天皇との関係。皇室との婚姻。皇太子の交代。幼い天皇の即位。政争による有力氏族の失脚。

これらが一つずつ積み重なり、最後に「摂政」という政治的地位へ結びついた。

今回は、その過程を追っていく。


1.藤原良房の父は、嵯峨天皇の側近だった

藤原良房の父は、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)である。

冬嗣は、平安初期の藤原北家を代表する政治家だった。

特に重要なのが、薬子の変である。

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810年、平城上皇と嵯峨天皇の対立が表面化した。

平城上皇側には藤原薬子と兄の仲成がつき、嵯峨天皇側がこれに対抗した。

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この政変を経て、嵯峨天皇の側近として藤原北家が大きく台頭する。

冬嗣は嵯峨天皇から厚い信任を受け、蔵人頭として天皇の側近政治を支えた。

良房は、その冬嗣の次男として生まれた。

つまり良房の人生は、

嵯峨天皇の時代に力を伸ばした藤原北家の次世代

として始まった。

良房の成功を理解するには、まず父・冬嗣が築いた政治基盤を見る必要がある。


2.11歳で嵯峨天皇の皇女を妻に迎える

良房の人生で非常に重要な出来事がある。

嵯峨天皇の皇女・源潔姫との結婚だ。

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弘仁5年(814)、良房は11歳で潔姫を妻に迎えたと伝えられている。

潔姫は嵯峨天皇の皇女。

つまり良房は、まだ少年の段階で皇室と直接つながった。

ここには平安貴族社会の政治構造がよく表れている。

藤原氏にとって、天皇との血縁関係は政治的な意味を持つ。

そして後の良房は、この婚姻だけでなく、さらに複数の婚姻関係を通じて皇室との距離を縮めていく。

このとき築かれた縁が、後の藤原氏の外戚政策を考えるうえで重要になる。


3.父・冬嗣の死後、良房が藤原北家を背負う

826年、父・冬嗣が亡くなる。

良房は22歳だった。

この時点で良房はまだ若い。

しかし、その後の昇進は非常に速い。

仁明天皇の即位後、良房は蔵人頭となる。

蔵人頭は、天皇の命令伝達や機密文書を扱う蔵人所の中核を担う役職。

つまり良房は、天皇のすぐそばで政治情報を扱う立場に入った。

その後、

参議。権中納言。大納言。右大臣。太政大臣。

と昇進していく。

そして最終的には摂政となる。

良房の出世は、単なる官位の上昇ではない。

天皇の側近から朝廷の最高幹部へ進む過程そのものが、後の摂関政治の形を作っていった。


4.妹・藤原順子が仁明天皇の后になる

良房の政治力を大きく高めたのが、妹の存在だった。

妹は、藤原順子(ふじわらののぶこ)である。

順子は仁明天皇の后となった。

そして、仁明天皇との間に生まれた皇子が、

道康親王である。

後の、文徳天皇だ。

ここで良房と皇室との関係は一気に深くなる。

良房自身は嵯峨天皇の皇女を妻とする。

妹は仁明天皇の后。

その妹が生んだ皇子が、やがて天皇になる。

つまり良房は、

嵯峨天皇の皇女を妻とし、仁明天皇の皇子を甥に持つという位置にいた。

平安朝廷において、これは極めて強い政治的基盤だった。


5.842年――嵯峨上皇の死が政局を動かす

そして、良房の政治人生を決定的に変える事件が起こる。

承和9年(842)の承和の変。

当時の天皇は仁明天皇。

皇太子は、恒貞親王だった。

恒貞親王は淳和天皇の皇子である。

一方、仁明天皇には良房の甥・道康親王がいた。

ここには、皇位継承をめぐる二つの皇統が存在していた。

嵯峨天皇の系統。そして淳和天皇の系統。

この対立構造が、承和の変の背景にあった。

そして842年7月、嵯峨上皇が崩御する。

その直後、伴健岑や橘逸勢らが謀反を企てたとして処分される。

恒貞親王も皇太子を廃された。

8月には道康親王が皇太子となる。

後に道康親王は、文徳天皇として即位する。

承和の変によって、皇位継承の流れは大きく変わった。

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6.承和の変は「藤原良房の陰謀」なのか

ここは歴史好きなら絶対に押さえておきたい。

承和の変は、一般的な日本史では、

藤原良房が自分の甥である道康親王を皇太子にするために起こした政変

として説明されることが多い。

実際、事件の結果は良房にとって極めて有利だった。

恒貞親王は廃太子。

伴健岑・橘逸勢らは失脚。

そして良房の甥・道康親王が皇太子となった。

良房自身も大納言へ昇進した。

しかし、当時の史料が「良房がすべてを計画した」と明記しているわけではない。

『続日本後紀』が記すのは、伴健岑らの謀反が発覚し、その結果として恒貞親王が廃されたという経過である。

一方、後世の研究では、恒貞親王の廃太子に至る政治過程と良房の利害関係から、良房の関与を強く見る説が積み重ねられてきた。

だからこそ、この事件は面白い。

史料が記録した「事件」と、政治的な結果から見えてくる「権力闘争」が完全には重ならない。

良房は承和の変によって、一気に皇位継承の中心へ近づいた。

この事実が、その後の良房を理解する鍵になる。


7.文徳天皇即位――良房の甥が天皇になる

850年。

仁明天皇が崩御する。

皇太子だった道康親王が即位した。

文徳天皇である。

良房にとっては、甥が天皇になった瞬間だった。

しかし、ここで良房の政治戦略は終わらない。

むしろ本番はここからだった。

良房は、自分の娘を文徳天皇の后とする。

その女性が、藤原明子である。

そして850年、明子が皇子を産む。

皇子の名は、惟仁親王。

後の清和天皇だ。


8.生後9か月の皇子が皇太子になる

この出来事は、平安時代の皇位継承を考えるうえで非常に重要だ。

惟仁親王は、生後9か月で皇太子となった。

現在の感覚からすると驚くほど早い。

しかし、この立太子には明確な政治的意味がある。

文徳天皇には第一皇子として、惟喬親王がいた。

母は紀静子。

一方、惟仁親王の母は藤原明子。父は文徳天皇。外祖父は藤原良房。

皇太子となったのは、年長の惟喬親王ではなく、良房の外孫である惟仁親王だった。

この皇太子決定が、後の藤原氏の政治的優位を決定づける。

研究上も、仁明→文徳→清和という父子継承の流れが形成されたことで、幼帝が続く条件が整い、その幼帝を外戚が支える政治構造へつながったと論じられている。


9.良房と文徳天皇の間にあった緊張

ここから良房の人物像がさらに複雑になる。

文徳天皇には惟喬親王がいた。

惟喬親王の母・紀静子は、紀氏の出身だった。

一方、惟仁親王の母は藤原明子。

その父は良房。

つまり皇太子をめぐって、

紀氏を母方に持つ皇子と藤原氏を母方に持つ皇子

が存在した。

後世の史料や研究では、文徳天皇が惟喬親王を皇太子にしようとし、良房との間に緊張があったとする見方がある。

しかし、この政治過程の詳細は同時代史料だけでは十分に復元できない。

確実に確認できるのは、

惟仁親王が生後9か月で皇太子となり、後に清和天皇となったという結果である。

そして、この結果によって良房は天皇の外祖父になる道を得た。


10.857年――人臣として初めて太政大臣になる

天安元年(857)。

良房は、太政大臣に任じられる。

ここにも重要なポイントがある。

良房は、皇族ではない人臣として、生前に太政大臣となった最初の人物とされる。

太政大臣は律令官制の最高位。

良房は、朝廷の最高位に到達した。

翌858年、文徳天皇が崩御する。

皇太子だった惟仁親王が即位。

清和天皇である。年齢は、9歳。

ここで日本の政治史に大きな変化が起こる。


11.9歳の清和天皇と外祖父・藤原良房

清和天皇の母は藤原明子。その父が藤原良房。

つまり良房は、天皇の外祖父となった。

しかも良房は太政大臣。

ここで、

幼い天皇を外祖父が支えるという政治構造が現実のものとなった。

ただし、ここは用語を正確にしておきたい。

858年の清和天皇即位時から良房が政治を主導したことは確かだが、後世の制度としての「摂政」と同じ意味で整理するには注意が必要である。

史料上、人臣として初めて「天下の政を摂行せよ」と明確に命じられたのは、

866年、応天門の変の最中だった。

この区別は、藤原良房を詳しく知るうえで非常に重要だ。


12.幼帝を支える「外祖父」という新しい政治

良房の時代に起こった最大の変化は、

天皇と藤原氏の関係が変わったことである。

律令国家の政治では、天皇が国家の頂点に立ち、その下で太政官が政務を行う仕組みが基本だった。

しかし清和天皇は9歳。

幼い天皇を補佐する必要がある。

そこで天皇の外祖父であり、太政大臣でもある良房が政務を担う。

ここに、外戚による政治が強く現れる。

そして後の藤原氏は、この仕組みをさらに発展させる。

良房の時代は、その最初の大きな段階だった。


13.864年――清和天皇が元服する

貞観6年(864)、清和天皇が元服する。

ここで良房は、幼帝を後見する政治的立場から退いたと考えられている。

しかし2年後、再び大きな事件が起こる。

応天門の変である。

そして、この事件によって良房は再び「摂行」の立場へ入る。


14.866年――平安宮の正門が焼け落ちる

貞観8年(866)。

平安宮の朝堂院にあった、応天門が炎上する。

応天門は朝堂院の正門。

つまり朝廷の中心部にある重要施設だった。

この火災が、政治的大事件へ発展する。

最初に問題となったのが、左大臣・源信だった。

右大臣・藤原良相や大納言・伴善男らが、源信を放火の犯人として疑った。

しかし良房は源信を擁護する。

源信は処罰を免れた。

ところが、その後、大宅鷹取が伴善男・中庸父子を犯人として告発する。

事件の構図が一気に逆転した。

最終的に伴善男らは放火犯として処罰される。

この一連の事件が、応天門の変である。


15.伴善男は、なぜ失脚したのか

伴善男は、単なる地方官ではない。

大納言まで昇進した有力官人だった。

文筆・行政能力にも優れた人物として知られていた。

その伴善男が、応天門の変によって中央政界から消える。

さらに紀夏井らも連座して処分された。

結果として、伴氏や紀氏などの政治的勢力は大きく後退した。

一方で良房の地位は強化された。

ここに「応天門の変は藤原北家による他氏排斥の一環だった」という理解が生まれる。

ただし、事件の実際の放火犯については、現在でも議論が残る。

『日本三代実録』は伴善男父子らを犯人として記録している。

一方、後世の研究では、大宅鷹取による告発の経緯や事件後の政治状況から、真犯人を疑う見方も強い。

つまり、「伴善男が犯人として処罰された」

ことは史実として確認できる。

しかし、「良房が放火を命令した」というところまで証明する史料はない。

この線引きが重要だ。


16.事件のさなか、良房は摂政になる

応天門の変で最も重要なのがここだ。

貞観8年8月19日。

良房は、「天下の政を摂行せよ」という勅命を受ける。

これによって良房は、人臣として初めて正式に摂政となった。

これが後世の摂関政治につながる。

つまり応天門の変は、単なる放火事件ではない。

その政治的混乱の中で、

天皇の外祖父である藤原良房が、正式に天皇の政務を代行する地位を得たという点に歴史的意味がある。


17.なぜ「摂政」が必要になったのか

ここを理解すると、良房の政治的な意味が一気に見えてくる。

清和天皇は幼くして即位した。

その天皇を支える人物として、良房はすでに大きな権力を持っていた。

しかし、

太政大臣として政務を担うことと、摂政として天皇に代わって政務を執ることは同じではない。

866年の勅命によって、良房の政治的役割が明確に制度化された。

研究では、承和の変以後、嵯峨・仁明系の皇位継承が定着し、父子継承による幼帝の出現が続いたこと、そしてその幼帝を支える役割を良房が摂政という形で担ったことが、後の摂関政治の原型になったと評価されている。


18.応天門の変の直後、良房はさらに動く

応天門の変が決着すると、良房の一族はさらに存在感を強める。

良房は自分の後継者として、藤原基経を育てていた。

基経は良房の実子ではない。

良房の兄・藤原長良の子であり、良房の養子となった人物だ。

この基経が、後に平安朝廷を動かす巨大な政治家になる。

そして良房の死後、その権力を受け継ぐ。良房の政治は一代限りではなかった。

次の世代へ権力を移す仕組みまで作っていた。

ここが重要だ。


19.良房は『続日本後紀』の編纂にも関わった

藤原良房には、政治家以外の顔もある。

それが、歴史を記録する人物としての顔だ。

良房は『続日本後紀』の編纂に関わった。

『続日本後紀』は、仁明天皇の時代を記録した勅撰国史である。

編纂は855年に始まり、869年に完成した。

ところが、この編纂事業の途中で、応天門の変が起こる。

撰者の一人だった伴善男が失脚する。

さらに良相も亡くなる。

結果として、当初の編纂体制は大きく崩れ、最終的には藤原良房と春澄善縄が中心となって完成させた。

これは非常に面白い。

良房は、自分が政治の中心にいた時代を記録する側でもあった。

平安前期の政治史を読むとき、史料がどのような政治環境で作られたのかを見る必要がある。

『続日本後紀』が貴重な史料であることと、その編纂に良房自身が関わっていたこと。

この二つを知るだけでも、史料の読み方が変わる。


20.良房の政治は「他氏排斥」だけでは説明できない

藤原良房を、「他の氏族を追い落として藤原氏の天下を作った人物」と説明すると分かりやすい。

実際、承和の変では伴健岑や橘逸勢らが失脚し、応天門の変では伴善男らが処罰された。

しかし、それだけでは良房の本質は見えない。

良房の政治的強さは、

排除する力より、皇室との関係を組み立てる力

にあった。

父・冬嗣。

妻・源潔姫。

妹・藤原順子。

娘・藤原明子。

甥・文徳天皇。

外孫・清和天皇。

養子・藤原基経。

こうした人間関係が、良房の政治基盤を作った。

平安時代の権力は、官職だけで決まらない。

誰と血縁を結び、誰の外戚となり、誰を後継者として支えるのか。そこが極めて重要だった。


21.良房が残した最大のもの

良房の最大の功績を一つ挙げるなら、

摂関政治につながる政治構造を作ったことになる。

ただし、良房の時代に後世の摂関政治が完成したわけではない。

良房が作ったのは、その原型だ。

天皇。

↓

幼い皇太子・幼帝。

↓

天皇の外祖父。

↓

太政大臣。

↓

摂政。

この構造が成立した。

そして、その仕組みを次世代の藤原基経が引き継ぐ。

基経は後に関白として政治の中心に立つ。

さらにその後、藤原時平。藤原忠平。藤原兼家。藤原道長。藤原頼通。と続いていく。

良房は、その長い系譜の最初に立つ。


22.872年――藤原良房、死去

貞観14年(872)。

藤原良房が亡くなる。69歳だった。

死後、正一位を贈られ、「忠仁公」の諡号を受ける。

そして、清和天皇の外祖父であったことから、墓も特別に扱われた。

良房が亡くなった後、その政治的基盤は養子・藤原基経へ引き継がれる。

ここで一人の政治家の人生が終わる。

しかし、良房が作った政治構造は終わらなかった。

むしろ、

ここから藤原氏の本格的な摂関政治が始まっていく。



23.「藤原氏の天下」は、道長から始まったのではない

藤原道長は、平安時代を代表する権力者だ。

しかし、道長の時代に突然、藤原氏が政治を支配したわけではない。

その前に、藤原冬嗣がいた。

そして、藤原良房がいた。

さらに、藤原基経がいた。

良房は、藤原北家が皇室との婚姻関係を利用して政治的地位を高める仕組みを大きく前進させた。

道長がその頂点に立つまでには、何世代もの積み重ねがあった。

だから平安時代の藤原氏を理解するなら、

道長から始めるのではなく、良房まで戻る。

これが重要になる。


まとめ

――藤原良房は、摂関政治の「完成者」ではなく「原型を作った男」だった

藤原良房は、804年に藤原冬嗣の子として生まれた。

父・冬嗣が嵯峨天皇の時代に築いた政治基盤を受け継ぎ、良房自身も皇室との結びつきを深めた。

嵯峨天皇の皇女・源潔姫を妻とし、妹の藤原順子は仁明天皇の后となった。

その子が文徳天皇。

さらに良房の娘・藤原明子が文徳天皇との間に惟仁親王を産む。

惟仁親王は生後9か月で皇太子となり、9歳で清和天皇として即位した。

良房はその外祖父となった。

そして866年。

応天門の変のさなか、良房は人臣として初めて正式に摂政となる。

ここに、「幼い天皇を、その外祖父である藤原氏が摂政として支える」という政治構造が成立した。

後世の摂関政治は、この仕組みをさらに発展させていく。

良房自身が道長のような摂関政治の最盛期を作ったわけではない。

しかし、

藤原氏が天皇の外戚となり、幼帝を後見し、摂政・関白として政治を担うという道を開いた。

だから藤原良房は、

「藤原氏の権力者の一人」というだけではない。

平安時代の政治そのものを変えた人物だった。

そして、その権力を受け継いだ藤原基経は、良房とはまた違う形で天皇との関係を変えていく。

次に待っているのは、

阿衡の紛議。宇多天皇の即位。

そして、藤原基経と菅原道真

へとつながる、新たな政治の時代である。

「なぜ藤原良房は最初の人臣摂政になったのか?」を、承和の変や応天門の変、天皇との関係から読み解く一冊。良房をもっと深く知りたい人にぴったりです。

 
藤原良房 天皇制を安定に導いた摂関政治[本/雑誌] (日本史リブレット人) (単行本・ムック) / 今正秀/著

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