第106回
治承4年(1180年)5月26日、宇治で平氏軍が勝利した。
源頼政は平等院で自害し、以仁王も奈良へ向かう途中の南山城で命を落とす。園城寺を巻き込んだ反乱は、ひとまず鎮圧された。
それから7日後の6月2日。
安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇が京都を出発し、摂津国福原へ向かった。
現在の神戸市兵庫区である。
前年11月の治承三年の政変で、平清盛は後白河法皇の院政を止めた。
翌1180年2月には娘・徳子が生んだ言仁親王を安徳天皇として即位させ、5月には以仁王・源頼政の挙兵も破っている。
清盛の政治力と軍事力が、最も強く見える時期だった。
ところが、その清盛が400年近く朝廷の中心だった京都から天皇を移した。
福原には完成した内裏がない。官庁街も整っていない。同行した公家たちの屋敷も足りなかった。
さらに驚くことに、新しい都をどこへ造るのかという問題さえ、天皇が福原へ移ったあとから本格的に検討されている。
清盛は何を急いでいたのか。
そして、なぜ福原だったのか。
清盛は1180年になって初めて福原へ来たわけではない
清盛と福原との関係は、遷都より10年以上前に始まっている。
仁安3年(1168年)2月、清盛は大病を患って出家した。翌年初めごろから摂津国福原に居を定め、京都で重大な問題が起きたときに上洛する生活へ移っていく。
福原は六甲山地の南側、現在の神戸市兵庫区平野周辺にあたる。
清盛一人の別荘地というわけではなかった。
弟の頼盛や教盛をはじめ平氏一門も周囲に邸宅を持ち、清盛に近い人々が集まるようになる。
京都とは別に、平氏一門の居住地が少しずつ形成されていた。神戸市の発掘調査では、祇園遺跡から12世紀後半の園池や京都産の瓦、中国製陶磁器などが出土している。
文献と考古資料の両方から、遷都以前の福原に有力者の邸宅群が存在した様子が見えてきた。
福原の南、約2.5キロには大輪田泊があった。
清盛がこの土地を選んだ理由を考えるとき、まずこの港は外せない。
福原の南にあった大輪田泊
大輪田泊は、平安時代になって突然開かれた港ではない。
瀬戸内海航路の重要港として古くから利用され、朝廷も平安時代初期から修築を行ってきた。
ただし、東南から吹く風や波を受けやすく、船を安全に停泊させるには港の改良が必要だった。
清盛は福原に住むようになると、大輪田泊の整備に力を入れる。
承安年間には私財を投じ、港の前面に風波を防ぐための築島を造ろうとした。後世「経ヶ島」と呼ばれた施設である。築造地点や工事の具体的な姿には分からない部分も残るが、清盛が大輪田泊を日宋貿易の拠点として重視したことは確認できる。
宋との交易で日本へ入ってきたのは、陶磁器、織物、薬品、香料、書籍、宋銭などだった。
祇園遺跡からも中国産陶磁器が見つかっており、その中には当時の日本では出土例の少ない吉州窯系の陶器も含まれる。福原で暮らした平氏やその周辺の人々が、海を通じて入ってきた品々に直接触れていたことがうかがえる。
ここまでは、清盛が福原を好んだ理由として分かりやすい。
1180年になると、港の整備が一段階進む。
安徳天皇即位の前日、清盛は港の修築を国家事業にした
治承4年2月、高倉天皇の譲位を目前にした時期、清盛は大輪田泊の修築について朝廷へ働きかけた。
それまで私財で進めてきた工事には限界があった。
清盛は諸国から労働力などを集め、国家事業として港を整備することを求める。
その要求が認められた翌日、高倉天皇は譲位し、言仁親王が皇位を継いだ。
安徳天皇である。数え3歳、満1歳。
母は清盛の娘・徳子であり、清盛は新天皇の外祖父となった。
この二つの出来事が連続していることを、高橋昌明氏は重く見ている。
清盛が以前から大輪田泊を軸とする新しい政治都市を構想し、安徳天皇の即位に合わせて準備を進めていた可能性である。
もっとも、この段階で後の福原遷都と同じ計画が完成していたと断定することはできない。
ただし、5月の以仁王挙兵を見て、清盛が初めて福原を思いついたという説明では時系列が合わない。
福原には10年以上前から清盛の邸宅があり、一門が住み、大輪田泊には多額の資金が投入されていた。そして安徳天皇の即位直前、港湾整備を国家事業へ切り替える動きまで始まっていた。
そこへ、以仁王の挙兵が起こった。
5月26日、宇治で勝った清盛に残された問題
以仁王は後白河法皇の皇子である。
1180年5月、源頼政と結び、平氏追討を掲げて園城寺へ入った。興福寺にも協力を求め、延暦寺にも働きかけている。
平氏軍は5月26日に宇治で頼政を破り、以仁王も同日中に死亡した。
戦闘には勝った。
その一方で、清盛の前には新しい問題が現れていた。
反乱に加わったのは一人の皇子や源氏の老将だけではなく、園城寺という巨大寺院が以仁王を受け入れ、奈良の興福寺にも平氏に反発する動きがある。延暦寺まで完全に敵へ回れば、京都を取り巻く有力寺院との関係はさらに難しくなる。
従来、福原遷都については、以仁王の背後にいる寺院勢力、とくに南都興福寺から距離を取るため清盛が急に決断したと説明されることが多かった。
寺社問題が遷都を急がせた可能性は十分にある。
ただ、福原と大輪田泊に十年以上かけて築いてきた基盤まで考えると、それだけで清盛の行動を説明するのは難しい。
宇治の戦いは、すでにあった構想を急速に動かす契機になったと見る方が、1180年以前からの流れをつなぎやすい。
そして宇治での勝利から4日後、公家たちは突然その計画を知らされる。
5月30日、公家たちは「3日後に福原へ」と知らされた
九条兼実は治承4年5月30日の日記『玉葉』に、6月3日に安徳天皇が福原へ行幸すると聞いたことを書き残している。
突然の知らせだった。
しかも予定はさらに早まった。
6月3日ではなく、2日に出発すると決まる。
兼実はこの変更にも強く驚いている。
6月2日、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇らは京都を離れ、福原へ向かった。
後白河法皇は前年11月から清盛によって政治活動を制限されている。
安徳天皇はまだ幼児で、自分の意思で行幸を決められる年齢でもない。
移動の主導権を握っていたのは当然清盛だった。
こうして朝廷の中心人物が一斉に福原へ移る。
ところが到着後、すぐに問題が起こった。
天皇を迎える都が、まだそこになかったのである。
天皇が着いたのに、内裏がない
福原へ着いた安徳天皇が最初に入ったのは、清盛の異母弟・平頼盛の邸宅だった。
高倉上皇は清盛の別荘、後白河法皇は平教盛の邸へ入る。
その他の随行者について、高橋昌明氏が紹介する史料には「道路に座すがごとし」という表現が残る。
公家や官人たちの宿所すら十分に整っていなかった。
6月4日夜になると安徳天皇は清盛の別荘へ移り、高倉上皇が頼盛邸へ入った。
荒田八幡神社の一帯は、頼盛の山荘があった場所と伝えられている。現在も安徳天皇の行在所跡として知られる。
ここで「福原遷都」という言葉には少し注意がいる。
完成した新都へ天皇が移ったのではなく、天皇・上皇・法皇をまず福原へ運び、そのあとから都を造ろうとしている。
そして6月中旬、ようやく具体的な新都計画が始まった。
最初に造ろうとした都は「福原京」ではなく和田京だった
新しい都の候補地として選ばれたのは、清盛が暮らしていた福原の山側ではなかった。
現在の神戸市兵庫区南部から長田区にかけての和田・輪田周辺である。
大輪田泊に近く、港を都市の中へ取り込める場所だった。
研究では、この最初の計画を「和田京」と呼ぶ。
平安京に似た都城を造り、そのすぐそばに国際港を置く。
実現していれば、京都とはかなり性格の違う都になっただろう。
しかし神戸の地形が問題になった。
北には山地が迫り、南には海が広がる。
歴史地理学による復元では、平安京のような大規模な条坊を置こうとしても、左京は南へ十分に伸ばせず、右京側にも小山や狭い平地が立ちはだかる。
和田京案は短期間で放棄された。
天皇を移したあとで、新都の最初の案が崩れたことになる。
それでも清盛たちは場所探しを続けた。
昆陽野、印南野――都の場所が一か月決まらない
次に候補へ挙がったのが昆陽野である。
現在の伊丹市周辺。
さらに印南野、現在の明石市から加古川市方面の台地も候補となった。
清盛は福原へ天皇を移してから、約1か月にわたって新都の場所を探すことになった。
7月半ば、ようやく方針が落ち着く。
遠くへ本格的な新都を造る案をいったん退け、
「福原しばらく皇居たるべし」として、現在いる福原周辺を都市として整える方向へ進んだ。
道路を開き、公家たちへ宅地を与え、天皇の御所を中心として政治都市を造る。
ここから、福原そのものの工事が本格化する。
発掘調査でも、福原周辺から12世紀末の都市整備と関係する可能性のある遺構が見つかっている。
楠・荒田町遺跡では大規模な掘立柱建物や壕、区画に関わる遺構が検出され、後の調査では建物の方向から福原京の都市計画との関係も指摘された。
清盛の計画は、計画だけで終わったわけでもなかったが、
その一方で、公家社会から強い抵抗を受けた。
争点となったのが、安徳天皇の大嘗会だった。
「福原で大嘗会をするのか」が都の運命を左右した
安徳天皇は2月に即位したばかりである。
新天皇にとって重要な儀式の一つが大嘗会だった。
当時、大嘗会は平安宮の八省院で行うのが原則だった。
ところが八省院と大極殿は1177年の大火で焼失している。
そこで問題になった。
安徳天皇の大嘗会を、福原で行うのか。
京都へ戻って行うのか。あるいは延期するのか。
九条兼実は高倉上皇から意見を求められ、旧都へ戻って行うことを主張した。無理なら翌年へ延期する案を出す。
福原の現在の御所に建物を少し足して大嘗会を行う案にも反対した。
福原を「離宮」と考えれば、そこで天皇の重要儀礼を行う前例がない。
逆に清盛側から見れば、安徳天皇の大嘗会を福原で実施できれば、この土地を正式な都として定着させる大きな一歩になる。
ここで公家たちが争っていたのは、儀式の会場だけではなかった。
福原を本当に都として認めるのか。
その問題が大嘗会の場所という議題に集約されたのである。
高倉上皇は清盛の意向を受け、夏の初めまでは福原での実施を進めようとしていた。
しかし8月12日、大嘗会は翌年へ延期すると決まる。
清盛は福原を「都」として固め切れなかった。
そして、わずか5日後。
東国で一人の武士が動く。
8月17日、伊豆で源頼朝が兵を挙げる
8月17日、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵した。
山木兼隆を襲い、23日には石橋山で大庭景親らと戦う。
頼朝は石橋山で敗れた。
それでも安房へ渡ったあと、東国の武士を集めて勢力を急速に拡大していく。
9月には信濃でも木曾義仲が動き、10月には頼朝方と平氏軍が富士川で対峙する。
5月の以仁王・頼政の反乱は京都周辺で終わったが、その夏から戦場は東国へ広がった。
それでも清盛は福原の工事を止めていない。
むしろこの時期、新しい内裏の造営が進んでいく。
再来年には八省院を築き、必要な官庁も設けるという計画まで浮上した。
清盛は反乱鎮圧と都造りを同時に進めようとしていた。
京都で建物を造り、船で福原まで運んだ
福原では公家たちの邸宅建設も始まった。
興味深いのが中山忠親の邸である。
建物の部材を京都で加工し、堀川や淀川などの水運を使って福原方面へ運んだ。
現地では組み立てる形になるため、工事開始から約2週間で邸宅が完成したという。
京都から人だけが移ったのではない。
家そのものまで分解し、川と海を使って新しい都へ運んでいた。
鴨長明の『方丈記』にも、福原遷都に伴って京都の家々が壊され、資材が運び出される様子が後年描かれている。
1180年夏から秋にかけて、清盛は本気で政治の中心を福原へ移そうとしていたことが、この工事の規模からも伝わってくる。
その間にも東国の情勢は悪化した。
10月、平維盛を大将とする追討軍は富士川から退却する。
頼朝を早期に押さえ込むことはできなかった。
福原の新都建設と全国の反乱鎮圧を同時に続ける状況は、しだいに苦しくなっていった。
11月11日、ようやく新しい内裏が完成する
11月11日。
安徳天皇が福原の新造内裏へ入った。
6月2日に京都を離れてから、5か月以上が過ぎている。
新しい内裏は平安京の内裏を模しながら、少し規模を縮めたものだったという。
新嘗祭に伴う五節舞も福原で行われた。
清盛が6月から進めてきた都造りは、ここでようやく目に見える形を整えた。
ただし、安徳天皇が新内裏へ入った11月11日には、すでに福原を離れる方向へ政治が動き始めていた。
各地の反乱が拡大し、京都へ戻ることを求める声も強くなる。
新内裏に入った安徳天皇が福原を出るまで、わずか12日だった。
11月23日、安徳天皇は福原を離れた
11月23日、安徳天皇と高倉上皇らが京都への帰還を始めた。
26日には京都へ戻る。
清盛も29日に福原を離れた。
6月2日から数えて約170日。
福原を政治の中心とした期間は半年にも満たなかった。
このため「福原遷都」という呼び方自体についても研究上の注意がある。
都城は完成しなかった。
和田京案は消え、福原の都市整備も途中で終わり、正式な都として定着させるうえで大きな意味を持つ大嘗会も行われていない。
それでも安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇が福原へ移り、皇居を造り、公家に宅地を与え、八省院建設まで構想した。
単なる避暑や一時的な旅行とするには規模が大きすぎる。
未完成に終わった「遷都計画」と見るのが実態に近い。
清盛はなぜ福原へ都を移そうとしたのか
福原遷都の理由を一つに定めようとすると、この事件はかえって分かりにくくなる。
日宋貿易は大きな要素だった。
清盛は福原に十年以上住み、その南にある大輪田泊へ資金を投入してきた。安徳天皇即位の前日には港の修築を国家事業へ切り替える動きまで進めている。
以仁王の挙兵も無視できない。
園城寺が王を受け入れ、興福寺にも平氏への反発があり、京都周辺の寺社勢力との緊張が一気に高まった。
さらに政治体制そのものが1179年から変わっていた。
清盛は後白河法皇の院政を停止し、翌年には外孫の安徳天皇を即位させた。高倉上皇と安徳天皇を中心に、平氏との血縁が非常に濃い皇統が政治の表に立っている。
桓武天皇が平城京から長岡京、さらに平安京へ移ったように、王朝の転換を新しい都によって示す構想である。
これは史料に「清盛は平氏系新王朝を作るため福原へ遷都する」と明記された計画ではなく、政治状況と清盛の行動から導かれた研究上の見方として扱う必要がある。
しかし、港の国家的整備、和田京構想、大嘗会を福原で行おうとした動き、八省院建設計画まで合わせると、清盛が福原を単なる避難先として考えていなかったことは分かる。
1180年の清盛は、逃げたのではなく二つの大事業を同時に始めた
5月26日、清盛は宇治で頼政に勝利した。
6月2日、福原へ天皇を移した。
6月中旬には和田京の計画を検討し、7月から福原の都市整備を進める。
8月17日には頼朝が挙兵した。
それでも内裏を造り続け、11月11日に安徳天皇を入れた。
そして11月23日、京都への帰還が始まる。
この半年を見ると、福原遷都の失敗が清盛の「思いつき」だけから生まれたとは言いにくい。
清盛には福原で10年以上かけて築いた基盤があり、大輪田泊という港があった。新しい内裏まで完成させている。
問題は、都を造っている最中に全国規模の内乱が始まったことである。
頼朝が東国で勢力を伸ばし、義仲も動く。寺社との対立も消えず、京都を離れたまま政権を運営する負担が増していった。
福原に新しい政治の中心を築く時間を、戦乱が与えてくれなかった。
翌治承5年(1181年)閏2月、清盛は京都で死去する。
数え64歳。
福原へ戻ることはなかった。
さらに寿永2年(1183年)、木曾義仲の進撃を受けて京都を離れた平氏一門は福原に立ち寄る。翌日、西国へ向かう際、宗盛らは福原の内裏などに火を放ったと『平家物語』は伝えている。
清盛が1180年に造ろうとした都は、完成しなかった。
それでも発掘された園池や建物跡、区画溝、中国産の陶磁器は、平氏がこの場所で実際に暮らし、都市を造ろうとしていた痕跡を今に残している。
福原遷都の舞台をもっと深く知りたい方へ
『歴史のなかの神戸と平家』では、清盛時代の福原京や大輪田泊、日宋貿易まで詳しく紹介されています。清盛がなぜ福原にこだわったのかを知るうえでもおすすめの一冊です。
![]()
歴史のなかの神戸と平家 地域再生へのメッセージ [ 歴史資料ネットワーク ]
福原遷都の舞台となった現在の神戸。記事を読んで神戸に興味を持った方には、神戸土産の定番「神戸プリン」もおすすめです。港町・神戸を代表するスイーツの一つで、自宅用にも贈り物にも選びやすい商品です。


コメント